第137話 脆弱
「……カシム殿の言う通り、お主は本当にどうしようもないガキだのう」
「は?」
つい声を荒げてしまったが、彼女の怜悧な瞳に見据えられたアルテンジュは、すぐに表情を取り繕う。
「カシム殿らはお主の臣下ではない。協力してくれているのだ。それに向かって無謀な命令をするなど、心得違いも甚だしいとは思わぬか? 思うだろう? うん?」
アルテンジュは返すべき言葉も見当たらず、ただその場に立ち竦むことしか出来なかった。キズミットはそれを想定していたのか、重々しくも透明感のある声音は続いた。
「仮にも王にならんとする者が、ヒト一人を御せずして、この先いったいどうして国を治めていくのか。お主にはその心構えが全くできておらん」
「で、では……、俺はいったいどうすれば良かったというのですか?」
「それくらい自分の頭で考えよ。ともかく考えるのだ。自分の立場と、置かれている環境と、そして相手の立場と環境を。できなければ王にはなれぬと思え。妾は答えを教えぬからな」
「せ、せめて何か手がかりだけでも」
「くどい」
頼りにしていたキズミットにそう言われては何も言えず、アルテンジュは悄然と白壁の館から立ち去った。
考える?
何を?
アルテンジュは大きな石が乗っかったような頭で考える。
相手の立場と環境を?
王族に従うのは当たり前のことではないのか?
だが、これはキズミット殿の言う考えろ、とはきっと違うのだ。何を考えなければならないのか考えねばならない。
立場と環境。
臣下ではなく協力しているのだ……。
……南部氏族は王国の家臣ではないのか? いや、それは俺が王ではないから、とも考えられる。
しかし、キズミット殿はカシムに頭を下げた。どういうことだ?
英雄王マリクが南部氏族に恩を受けたから?
訳が分からない。
もう寝よう。
そして明日の朝、カシム殿と話をしよう。謝罪しよう。
明日になればきっと全てが上手くいくようになっているんだ。
今日はもう、何も考えられない。考えたくもない。寝よう。
――けれど、彼の望んだ朝は来なかった。
「王子、起きて下さい! 大変です!」
アトパズル郊外。寝ていたアルテンジュの天幕に二人の男が駆け込み、その一方が声を張り上げた。
一人はブラーク、もう一人はデミル。
ただならない気配を前に惰眠を貪れるほど、アルテンジュは愚かではなかった。すぐにベッドから立ち上がり「何事だ」と問えば、
「アトパズル周辺の駐留兵が、たた、た、退去を始めました!」
「なに!? どれくらいだ!?」
「500から1000の間。半数に満たないくらいです」
慌てふためくブラークを見かねたのか、質問にはデミルが答えた。
「そうか……。カシム殿は?」
はたしてアルテンジュが知りたいのは、カシムがどうしているかなのか、カシムが退去を主導していないのかなのか。
「いつも通り、朝の鍛練に励んでいます」
「引き留めていないのか?」
「昨日の今日ですからねえ。難しいと思っているんでしょう」
昨日の今日。
それを聞いてアルテンジュは眩暈がした。
あのようなことがあれば、誰知れず、話が漏れ出てしまうものだ。そして、王子が無謀な作戦を南部の英雄カシムに命令したとでも広まれば、元々意欲の低かった者やカシムを崇拝する者から去っていく。そういうことなのだろう。
「デミル殿も難しいと思うか?」
「ええ、難しいと。俺も退去しようかどうしようかと迷っているところですよ」
「本当か!?」
「俺の場合は族長からの命令ですからね、ウムト様からの指示でもなければ退去はしませんよ。それで、どうするんです?」
アルテンジュは現状確認とともに、水平感覚を懸命に取り戻そうとしていた。しかし、目の前の男も、族長命令で縛られていなければ去っていってしまうのかと思えば、世界が傾く力はより力強くなる。
「ブラークさん、俺、どうしたらいいんですか?」
どうにか作り上げた王子としての立ち居振る舞いも、傾いた世界ではあっさりと剥落し、そこにいたのは、ただ図体ばかりが立派な子供だった。
「……カシム殿に相談に行きましょう」
「そ、そうですね。それがいい」
「大丈夫です。私も一緒に行きますから」
「ありがとうございます」
「ただ、その前に水を1杯、飲まれてはいかがでしょうか」
「あ、ああ、そうですね。そうします」
そして二人はカシムを探して歩き、デミルは現状把握に戻る。
道すがら、ブラークはあえてゆっくりと歩を進め、アルテンジュに話しかけた。
「兵士が退去した原因については、私でも凡そ承知しておりますが、王子は心当たりはございますか?」
「……俺がカシム殿と喧嘩をしたからではないですか?」
「半分正解で、半分外れですよ」
「その、半分外れというのは……」
刹那、脳裏にキズミットの声がして、アルテンジュは目を見開き、口を噤む。
それくらい自分の頭で考えよと、相手のことを考えよと。
ほぼ同時に頭の中の声が自身のものに切り替わる。
それくらい自分で考えろよと。
いつから森の民、丘の民を臣下と思うようになったのかと。
いつから彼らを支配しているつもりになっていたのかと。
――いつから俺はそんなに偉くなったのかと。
何も成していない癖に、随分と思い上がったものだ。
自分で考えよ。相手の立場と環境も考えよ。
そういうことだったのだ。
思考は終わり、彼の視界の端に映っていたカシムの姿が中央に移動する。
そして王子は声を放った。
「昨日は申し訳なかった」
アルテンジュの声が届いたカシムは彼の顔を睨めつけるように見遣り、嬉しそうに眼を細めた。
「この一晩で随分と違う顔になったじゃねえですか」
歩み寄りながら返事と呼べない言葉を返せば、その次にはこう言ったのだ。
「それで、使者には誰を送るので?」
「俺とブラークです」
「妥当なところでしょうが、デミルも連れて行った方がいいでしょうな。向こうの軍の責任者に顔が効く」
「うん。そうします。作戦の立案は大丈夫ですか?」
「一両日中には書面にまとめておきますよ」
「分かりました。よろしくお願いします」
用事が済んだ二人の戻りしな、カシムがブラークに声を掛けた。
「ブラーク先生」
「はい」
「良かったですな」
「ええ」
それだけで終わった短いやり取り。アルテンジュは気恥ずかしくなり、やや駆け足で自分の天幕に戻っていった。