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転生のおと  作者: 津多 時ロウ
第3章 鏡の向こうの花、水面に映ゆる月
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第125話 隠者の戦③

――8月上旬、アチク平野。


 昨晩、周辺一帯を覆っていた重い雲はすっかりと砦の向こうへ移動し、何も無い平野の一部は朝露(あさつゆ)で煌めいている。日常であれば、ごく少数の者が早朝だけに見られるこの景色を楽しむのであろうが、今、平野を行くのは殺伐とした者たちである。


 北部陣営は夜も明けきらぬうちから動き出した。陣地では狼煙(のろし)を焚き、兵士たちは急ごしらえの塹壕(ざんごう)をただ静かに列をなし、南へ南へと歩む。奥に見える望楼(ぼうろう)だけが昨日までの面影を残す砦を目指して。


 やがて()の光が堀の上端に触れ、東西に分かれた隊列の先頭が砦まであと100メートルほどと迫った頃、軽重(けいじゅう)混ざった砲声が聞こえてきた。遅れて平野に響くのは男たちの勇ましい(とき)の声。ついに戦闘が開始されたのだ。

 ドゥシュナンの持ち込んだ大きな遠見(とおみ)の先には、塹壕あるいはその南側に残土で築かれた土塁が見えた。そこから味方の兵士たちが上半身を乗り出して銃を放てば、敵も負けじと銃で応戦し、僅かに残った大砲で、土ごと味方の兵士たちを吹き飛ばす。

 昨晩の倒壊に巻き込まれたのか、ユズクの東側から進軍しているはずのカシシュ軍を察知して兵を()いたのか。敵の数は想定よりも少なく見え、しかし、それが為か守っている敵兵の士気は高い。


 だが、所詮は多勢に無勢。

 北部の軍勢は士気も練度も敵に劣りこそすれ、砦の一歩手前にほぼ無傷で次々と現れ、次第に攻撃の厚みを増していく。対する敵兵は銃撃でも近接戦闘でも数の圧力には(かな)わず、次第に押し込まれていった。


 やがて北部の兵士たちが僅かに再建されていた柵をなぎ倒し、砦の敷地に踏み込めば、倒壊を免れていた奥の望楼(ぼうろう)にたなびくは、白地に大きな藍色の丸の旗。

 交渉の用意があるとの意思表示であった。この状況であれば降伏にも等しい。

 その情報は、逸早(いちはや)く気付いた現場の指揮官や物見(ものみ)から、セルハンや前線の兵士に至るまで網の目のように広がり、北部の兵は再び塹壕(ざんごう)の中へ身を隠し、敵兵たちは幾人かを残して砦の奥へと消え去った。


「イーキン、頼んだ」


 セルハンに叩き起こされ、かつ、言葉少なに説明と指示を受けた優男(やさおとこ)は、文句の一つも言わない。敵の指揮官に礼を失しないよう、かつ、こちらの(ふところ)を見せられるよう、仕立ての良い絹の衣服で支度を(ととの)え、栗毛(くりげ)の馬に(またが)り、槍に付けた白に藍丸の旗を掲げながら、嘘のように静まり返った戦場を颯爽(さっそう)と駆ける。

 ドゥシュナンは物見櫓(ものみやぐら)の上から、セルハンとともにその様子を眺めていた。


「セルハンさん、やりましたね! 僕たち、敵兵を沢山殺して勝ちましたよ!」


 ドゥシュナンは実に晴れやかな笑顔で言うのだ。続けてこうも言いながら、自慢の遠見(とおみ)を覗き込む。


「だけど、ケレムさんはこっちには間に合わなかったみたいですね。あの人も沢山殺したかったでしょうに」


 ドゥシュナンとは思えない発言はともかくとして、東側からそれなりに大人数で移動してくるのだ。敵の妨害もなくすべてが順調に進むことなどない。大方(おおかた)、途中で妨害にでも()ったのだろうとセルハンは思っていたが、その思考はドゥシュナンの独り言(ひとりごと)によって中断された。


「あれ? 砦の向こう、遠くの方で煙が上がってる。敵の狼煙(のろし)かな?」

「確かに俺の目でも()っすら煙が見えるな。だが、狼煙(のろし)はもっとはっきりと見えるし、何よりもあんなに広がらない。だからあれは違う煙だ」

狼煙(のろし)でないとしたらいったい何の煙なんだろう」


 ドゥシュナンの呟きに乗せられてセルハンも考える。砦の向こう側、それはやはりユズクの方角である。ここからおよそ5キロ先にユズクはある。正確な距離は分からないが、あの煙の根本もそれくらいの距離ではありそうだ。ユズクから複数の煙が上がる可能性、燃える可能性と言えば、一つは火事、一つは住民の蜂起、或いは……。

 その考えに至ったとき、セルハンはすぐに幕屋に戻り、指示を出し始めた。


塹壕(ざんごう)に展開させている部隊は、500ずつを残してそのまま待機! それ以外は全てこっちに引き揚げさせろ! すぐにだ!」


 張り詰めた声に、北部軍の陣は(にわ)かに緊張感が漂い、兵士たちが慌ただしく動き始める。


「もう一人使者を立ててイーキンを追いかけさせろ! 砦に残っている敵兵は指揮官も含めてすべてこっちの陣地に連れてくるように伝えるんだ! 保護するんだよ!」

「ねえ、セルハンさん。どうしたんですか?」


 遅れて戻ってきたドゥシュナンがきょとんとした顔でセルハンに問うも、彼は眉間に皺を寄せた表情で腕を組み、何やら思案を続けている。そして、ドゥシュナンの姿に遅ればせながら気付いたかと思えば、急に口を開き、言ったのだ。


「やはり強引にでも帰らせるべきだった。……イーキンが戻り次第、撤退するぞ。準備しておけ」

「え? え?」


 勝ち(いくさ)からはほど遠い突然の撤退の二文字に、若い代表は目を丸くし、きょろきょろと辺りを見回すも、それで何かが変わるわけではなかった。


「待機させた前線の兵士もイーキンと投降兵を護衛しながら、こちらに戻せ!」


 その後もセルハンは実に総指揮官らしく、次々と伝令兵に指示を伝えてゆく。撤退を念頭に置いた指示を。幸いにして降伏の交渉は短時間で終わり、武装解除した敵兵たちを伴なったイーキンと追加で送った使者、そして、それを守るように取り囲みながら前線の兵士たちも戻ってきた。時刻は16時を少し過ぎたあたり。彼らは敵も味方もなく一様(いちよう)に安堵の表情を浮かべているが、ただ一人、イーキンの顔だけは強張(こわば)ったままである。原因があるとすれば、やはり味方の雰囲気だろう。勝ち戦(かちいくさ)とは到底思えないほどの緊迫感が漂えば、当然とも言える。


「セルハン、何かあったのか? (いくさ)は我々の勝利で終わったはずだが」


 本陣幕屋の大きな机の前で、椅子に座り仮眠を取っていたセルハンに問いかけると、総指揮官はゆっくりと疲れた顔を動かし反応した。


「ユズクの方角に、煙が上がっているのが見えた」

「ただの火事じゃないか?」

「……だと良いのだがな。俺が想定したのは、一つは住民の武装蜂起。これなら何も問題はない」

「つまり他の可能性に思い至ったと」


「その通りだ。ギョゼトリジュ側がユズクを焼き払い撤退する可能性。これも問題が無いとは言えるが一部の将兵が自棄(やけ)を起こすか、足止めにこちらに向かってくる可能性がある」

「ふむ。それだけでこの様相は説明しきれないように思う。もっと他に懸念していることがあるんじゃないか?」


 イーキンにそう言われ、セルハンは一度目を(つむ)り、息を吐く。大きく、長く、重く。


「――」


 セルハンが口を開き始めた、まさにそのとき、悲鳴とも怒声とも付かぬ声、そして銃声と金属の音が四方八方から聞こえてきたのだ。


「報告! ユケルバクの兵士が味方に攻撃!」

「ぬかったか! 各部隊合流しつつ各個撃破だ! 数で対応しろ!」

「は!」


「イーキン! お前は魔法兵と魔石をまとめてデニズヨルまで撤退しろ!」

「どうしてだ! 私も戦う!」

「駄目だ! 奴に秘密を奪われるわけにはいかない!」

「奴って誰なんだよ!」


 言い返したイーキンだったが、直後、ハッとしたように手を口に当て呟く。


「ケレム・カシシュ……」

「分かったら行け! ドゥシュナンも連れてな!」

「分かった! デニズヨルで会おう! 約束だ!」

「ああ!」


 努めて明るく振舞いながらも、イーキンの頭はどうすれば総指揮官殿の指示通りに魔法兵たちを引き連れて逃げおおせられるのかと、ぐるぐると思考を始める。我儘(わがまま)にも戦場についてきたデニズヨルの代表をも含めてだ。ところで当の彼はと幕屋の中を見渡せば、ドゥシュナンは隅の椅子に腰かけ、自らの体を抱くように虚ろな瞳で震えていた。


「逃げるぞ! ドゥシュナン君!」


 イーキンが溌溂(はつらつ)とした声で撤退を促すも、反応はない。


「逃げるぞ!」


 もう一度、先ほどよりも声を大きくして語りかけるも、虚ろな瞳の少年はなお虚ろなままで、反応はなかった。お気に入りの革の肩掛け鞄と腰袋を身につけていることから、撤退の準備までは済んでいるようなのだが。


「ドゥシュナン! しっかりするんだ!」


 幕屋に鈍い音が響く。その音は周囲の慌ただしさにすぐに吸収されたが、殴られた側には鈍く、そして重く響き続けた。


 長いようで短い空白。


 ごめんなさい、(うつむ)いたまま呟くように言い、ドゥシュナンはイーキンの足を追う。


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