第102話 カネウラ
水面に複雑に反射した太陽の光が宝石のようにきらきらと輝き、目に飛び込んでくる。
メティンとの打ち合わせから程なくして、セルハンとドゥシュナンの姿は海を北東に進む船の甲板に在った。
エコー大陸とハレ大陸を700キロから900キロに亙り隔てる、この銀の海は、どういう訳か細かい波が多く、その名の通り、夜になると月光を受けてより静かに輝くそうだ。それは、大きな波が稀ということでもあり、とても穏やかな表情を海の男たちに見せてくれる。
ところでセルハンとドゥシュナンの二人がなぜ外洋に出ているかと言えば、先日、メティンから意見を求められた際に提案した魔石なるものを仕入れるためであった。正確には魔石が目的ではないのだが、今はどうでも良い話だ。
而して二人はマチェイ商会会頭の協力を取り付け、デニズヨルから密かに交易船に乗り込み、ハレ大陸へと向かっていた。たまたま北町に会頭のマチェイが来ていたことはまさしく渡りに船の幸運であった。
「……いやいや、それにしてもドゥシュナン君にセルハン殿も、実に物知りなことだ。特に、セルハンさん」
「いいえ、それほどでも」
「そんなことはないよ。イヌイのルッツ商会なんぞ、エコー大陸と商いをしていない上に、もう名前も変わって久しいんだから。それにしても、一体どこで知ったんだい?」
「俺が子供の頃に、たまたまオルマヌアーズ、……あ、オルマヌアーズというのはオルマンドベル族が治める大きい町なんですけどね、そこでイヌイから巡礼で来たっていう人とたまたま話をしてたんですよ。それで質の良さそうな直剣を身に着けていたものですから、どこで手に入れたのか聞いたら、イヌイのルッツ商会だと言っていたんです」
「ほほう。なるほど、そう云う宣伝方法もあるか。ところでセルハン殿がお探しの魔石だが、生憎と私も名前くらいしか聞いたことしかないな」
「マチェイ殿ほど顔が広い御方でも、手に入らない情報があるんですね」
「あれはイヌイのオダ家だけが集めている状態だからな。オダ家の者しかその真意も使い道も分かるまい」
「そういうことでしたか。ところでオダ家のご当主は今はどなたが?」
「今はランプレヒト様じゃな」
「ランプレヒト様は昔のご当主では?」
「おう、流石に詳しいの。現当主のランプレヒト様はハインツ様の家系なのだよ。先代のマインラート様が伯父のランプレヒト様にあやかって名付けたと、もっぱらの噂だよ。ところが、年配の領民からしたら紛らわしいみたいでな、3代前は大ランプレヒト様、当代は小ランプレヒト様と分けているらしい」
セルハンとマチェイ会頭がイヌイの話で盛り上がっている中、会話に加わっていないドゥシュナンだったが、蚊帳の外と言う事はなく、ここまで実に興味深そうに二人の話に耳を傾けていた。だが、オダ家当主を巡るセルハンの発言に思うところがあったらしく、我慢できずに口を開いてしまった。
「あの、セルハンさん。もしかして、これから交渉するかも知れない人のことを全く調べてこなかったんですか?」
「え? あ、ああ。……マチェイ殿に聞けば教えてくれるだろうし、どうにかなるかと思ってな」
ドゥシュナンの口調は平穏そのものだったが、セルハンの返事はとてもぎこちなく、それが全てを物語っていると言って良かった。お陰でセルハンは大きな体を窄め、一回り小さく見える。
「はっはっは! 南部の英雄も島の賢者の前では形無しですなあ。まま、お二人とも安心なさい。念のためにメティン様と打ち合わせて貢物を用意しております。アシハラ王国のご領主様なら間違いなく飛びつく逸品ですぞ」
「流石、実に手回しがいい。ところでマチェイ殿はイヌイまで同行されませんが、俺とドゥシュナンで持ち運べる物でしょうか?」
マチェイの助け舟にセルハンが反応し、みるみる肩幅が元通りになっていけば、ドゥシュナンは半ば冷めた目でそれを観察していた。
「そちらも心配無用。カネウラからイヌイへ向かう馬車は商会が用意するのでな」
「それは、何から何までありがとうございます」
「あの、マチェイさん。その貢物の中身を教えて頂けませんか?」
セルハンのやり取りに煮え切らなかったのか。ドゥシュナンがやはり口を出してきたが、マチェイは待ってましたとばかりに、その深い皺の刻まれた顔を崩して得意満面に一声。
「紙だよ」
*
ドゥシュナン、セルハン、そしてマチェイ会頭を始めとしたマチェイ商会の面々を乗せた交易船は、デニズヨルを出発して6日後の夕方にカネウラに到着。
そして下船後すぐに、ドゥシュナンとセルハンの二人は商人街にある食堂に来ていた。もちろん、明朝の予定をマチェイと打ち合わせた後であるが。
食堂の中は船乗りや商人などで賑わい、料理と酒、それから男たちのニオイが充満していたが、何とか空いていた壁際の丸テーブルの席を確保する。少し足の長い椅子に腰を掛けて改めて店内を見渡せば、色違いの赤いレンガと至る所からぶら下げられているオイルランタンが、エコー大陸とは異なる情緒を醸し出し、ドゥシュナンの好奇心を十二分に満たしそうだ。
程なく二人に近寄ってきた恰幅の良い男の給仕にビールと水、それからニシンの塩オイル漬けを玉ねぎと一緒にパンに挟んだもの、最後にうなぎのスープをそれぞれ二人分注文。混雑具合からは想像できないほどに早く、注文した異国の料理がテーブルに並ぶ様に、この食堂の人気の秘訣が垣間見えた気がした。
「やあ、こんばんは。お二人さんはエコー大陸から来たんでしょ?」
二人が始めて食べる料理に舌鼓を打っていると、不意に陽気な声が聞こえてきた。
「はい、その通りです。お兄さんもエコー大陸の出のようですね」
ドゥシュナンが答えながら陽気な声のした方向を見ると、男が笑顔で佇んでいる。
「……お前、何者だ?」
セルハンの剣呑な雰囲気に、声の主は一瞬たじろいだように見えるも、その表情に変化はない。
――作り物の笑顔。ふいにそんな単語がドゥシュナンの頭に浮かび、改めて男の顔を観察すれば、その感覚は強ち間違いではなかったと思われた。愛想が良さそうに見えるも、どこか空虚な笑顔。それでいて、男には全くと言っていいほど特徴がない。印象に残るものが無い。見た目の年齢も20代か、或いは40代と言われても納得しそうである。平凡よりも異質という言葉が似合うだろう。
セルハンに釣られてドゥシュナンも怪訝な表情を向ければ、男は相変わらずの作り物の笑顔で応えた。
「これは失礼。私の名前はイルカイと言います」
「なるほど。イルカイさんは僕たちと同じエコー大陸から来たんですね」
「ええ、その通りです。同郷の方を見つけて思わず声を掛けてしまいました」
ドゥシュナンの表情は和らいだが、セルハンの表情は未だ厳しいままだ。
「それで、もう一度聞くがお前は何者だ?」
「ですから、イルカイと……」
「それはさっき聞いた。俺はお前が何者なのかと聞いているんだ。思わず声を掛けたと言っていたが、この食堂の中には俺達の他にエコー大陸風の人間が少なくとも6人はいる。そのなかで敢えて俺達に声を掛けてきた理由はなんだ?」
イルカイが答えるよりも早くセルハンが問い質す。ドゥシュナンはその様子をハラハラしながら眺めていたが、じきに男は口を開いた。やはり笑顔を崩さずに。
「いやあ、参ったなあ。そんなに警戒しないで下さいよ、セルハンさん。あなたはすっかり死んだものだと思っていたんですが、こんな異邦の地で会えるとは幸運です。それとそちらの君はドゥシュナン君、だったかな?」
「貴様!」
思わず立ち上がったセルハンが大声で相手を威嚇するも、威嚇された当の本人は表情も変えずに宥める仕草。
「ま、ま、落ち着いてください。あなた方を害する気持ちなんて微塵もないんですから。私はあなた方とお話をしたいだけなんです」
「……分かった。一先ず信用しよう」
「ご理解頂けたようで何よりです。そうそう、申し遅れておりましたが、私、内地公安局の者です。一般の方にはアミガサと言った方が分かりやすいでしょうがね」