#9 ≠味方
12
「綾先輩と何を話してたか、っすか。ちょっとばかし世間話してた、くらいしか言えないっすね。とりとめのない雑談ばっかっすよ」
俺の質問に対しても、こづちはいつも通りの軽薄な態度を崩さないままで答えた。否、答えずはぐらかした、というべきだろう。
当然、俺もそんな解答とは程遠い返答に満足して追及を止められるわけもなく、さらなる質問を投げた。
「お前の言う世間話ってのは、一体どこの世間の話だ?」
「黙秘権」「却下」
「早いっすよ。これが小説なら改行すら挟まないくらいの即答じゃないっすか」
「良いから話せよ。やっぱり、何か俺に隠しておきたいことを話してたんだろ?」
そうでもなければ、こづちと綾の二人が朝から一緒にはいまい。
中学の頃に綾が俺の部活を見に来たときに知り合った二人は、確かに今でも仲が良いみたいだけれど、平日の朝から一緒にいるほどの間柄でもなかった。
「ガールズトークの内容は男子に対して隠しておくべき事に含まれると、こづちは素直に思うっすけどねぇ……」
こづちはそう言って、一人また歩みを再開する。追いかけないわけにもいかず、遅れて俺も仕方無く足を動かして前進する。
小走りの俺がこづちの隣に並んだとき、二人とも足は止めないままで、後輩が口を開いた。
それは、先程までの茶化すような態度を微塵も感じさせない、別人かと思うほどの真剣そのものの声だった。
「──そもそも、こんなことを訊いてくるのは、小途先輩なりに察しが付いてるからっすよね? よほどの確信が無いと行動に移さない、臆病な先輩」
「臆病云々はまあともかく……ああ。ただ、まだ確証が無い。だから、それが欲しくてお前に答えを訊いてるんだ」
「それ、たぶん合ってるっすよ」
「……は?」
噛み合っているのか噛み合っていないのか、或いは噛み合わされていないのか。
俺は後輩が当然のように口にした言葉の意味が分からず、思わず立ち止まって疑問符を浮かべる。
こづちはもう少しだけ前に進んでから足を止めた。
「──これ以上は、こづちの口からは言わないっすよ」
──最初、俺はそれがこづちの言葉だと分からなかった。
普段の軽々しい口調からは考えられないほどに、先程の真剣な雰囲気よりも隔絶された、風の音すら届かないような重々しい空気。目の前に見える後輩の背中を遠くに感じる錯覚。
いつもと違う空気を纏った後輩は、俺に背中だけを見せる姿勢のままに言う。
或いはそれは、今の自分の表情を見られたくないという思いからだったのかもしれない。
「勘違いしないでほしいっすけど、こづちは少なくとも、少途先輩と敵対するつもりはこれっぽっちも無いっす。先輩に嫌われるのは嫌っすからね」
響く声は、意図的に感情を捩じ伏せ押し殺したようなそれ。そのことがより一層、彼女の隠せないほどに強い想いを示しているように感じた。
痛みと悲しみ、怒りを孕んだような声は、悲痛な響きのままに続く。
「こづちは先輩の敵じゃないし、そうなりたくもないっす──ただそれは、無条件に味方って意味でもない。そのことだけは、分かっておいてほしいんっすよ。
この際だから白状するっすが、こづちは少途先輩のことが好きっす。中学の頃からずっと、恋愛的な意味で大好きだったっす。
こづちが先輩の味方になってあげたいと思う理由は、だからこの想いに依るものなんっすよ」
そこで後輩は、一度台詞を区切る。
「けど、だけど、こづちは決して──『都合の良い後輩』にはなりたくないんっすよ」
こづちの声は震えていた。俺から見えないその顔にはもしかしたら、目元に大きな雫でも浮かんでいたのかもしれない。
呆然と立ち尽くすだけしかできない俺には、痛みを堪えるように震える肩と、涙を払うように振った首だけが見えた。
そんな内心を必死に、強情なくらいに取り繕おうとしているこの可愛い後輩に、空気を読まずに指摘する気など、まさか起こるはずもない。
だから俺は、後輩が首を振った一瞬にちらりと視界に入った雫には気付いてない風を装って、言葉を投げる。
こづちの痛みを見ないようにすることが、彼女のために最善だとは到底思わないし、思えない。
けれど、その痛みを突き付けて傷口を抉るよりは良いはず──なんて偽善的な欺瞞に満ちた感傷を胸に。
「──言いたいことはよく分かった。俺は、お前の気持ちを何一つ考えてなかったんだろうな。同じようなことを昨日後悔して自己嫌悪したばっかりなのに、全く情けない話だよ」
少女は応えない。ただ何も言わずに佇むだけだ。見ようによっては、先を促されているような気がしなくもなかった。
俺はそうして、最後の問を投げる。こづちの告白と述懐を聴いて、この胸に産まれた疑問。
それだけは彼女に、どうしても訊いておきたかったから。
「──皆琴こづちは今、誰の味方なんだ?」
お前は誰の為に、そして何の為に、今こうして動いている?
お前が動く理由、意味、思惑はどこにあって、お前は何処を向いて進んでいる?
俺が投げたその問に対して、こづちは首だけで、ようやく振り返る。本人的に見せられる表情になった、ということなのだろう──眦に痕こそ残っていたものの、その澄んだ瞳はもう潤んでさえいなかった。どこまでも強情だ。
そして、小学生に足し算と引き算を教えるお姉さんみたいな佇まいで、こづちはさながら簡単な、何でもないことのように答えた。
「──皆琴こづちは、今までもこれからも『皆琴こづち』の味方っす。こづち自身が正しいと、或いはそうしたいと思ったことを、他でもないこづち自身の為にする。それだけっすよ」
強気に言い放って、こづちは得意気に笑みを作った。その顔がいつも通りの生意気な後輩を想起させるもので、朝日に映えるその笑顔がこいつには一番よく似合うと、柄にもなく思う。
そんな俺の、今思い返すと羞恥が込み上げるような感慨を知ってか知らでか、こづちはそれ以上何も言わずに前へと向き直って、止めていたままだった歩みを再開する。
気付けば俺たちは、それぞれの学校まで既にかなり近付いていた。それはつまり、こうして二人で並んで歩く時間も、そろそろ終わりだということを意味していて。
こづちの口にした答えに、このときの俺が満足できたと言えば嘘になる。本当は、もっと問い詰めたいこともあった。
けれど、あんな笑顔を見せられてしまっては、それをわざわざ訊くことが何だか無粋に思えてきて、憚られた。
結局、その答えは自分自身の頭で考えて見付け出すしかないのかもしれない。
とうとう、並んで歩く時間の終わりが訪れた。
こづちの通う中学校と俺たちの高校とが、それぞれ左手と右手に見える大きな交差点。
辿り着いたところで、こづちがふと足を止めて向き直る。俺も雑多な思考を打ち切り、後輩に向き直る。
「さよならを言う前に、」
けれど、後輩の口から紡がれたのは別れの挨拶などではなく。
「さよならの前に一つだけ、こづちからも訊かせてくださいっす。小途先輩の方からは一杯訊かれたのに、逆がないなんて不公平っすから。
──少途先輩は今、一体誰の味方なんっすか?
誰を思って信じて、誰の為に行動してるっすか?
綾先輩っすか? 坂穂先輩っすか?
──それとも少途先輩自身っすか?」
そう最後の問いかけを発した後輩の態度は、先程までの重々しいそれではなく、かといって普段通りに軽々しいそれでもなかった。
ただそれでも、その面持ちと開いた瞳から、少女が胸に秘めた真剣さは如実に伝わってくる。
そんな後輩に、俺は何も答えられなかった。
返答に詰まって、自分の中に答えを必死に探すけれど、結局何も見付からないままで、何も分からないままで、次の言葉は口から出てこない。
このときの俺は、果たしてどんな表情をしていただろう。きっと情けない顔をしていたと思う。
だが、そんな時間は存外すぐに終わった。終わらされた、後輩の温情で。
こづちは一瞬だけ不満そうに、或いは残念そうに俯いたけれど、すぐに顔を上げて笑顔を浮かべた。一見して普段と何も変わらない、冗談っぽく茶化すような弾ける笑顔。
「今はまだ答えなくても、答えられなくても、良いっすよ。きっと、今はまだそのときじゃないってことっすから」
──その笑顔がいつもより少しだけ儚く翳って見えたのは、気のせいではないのだろう。
俺はまたこうして後輩の──周りの誰かの優しさに甘えて、自分を傷付けずに生きている。
「ただまあ、できれば胸に留めておいてほしいと、たまに気が向いたときにでも考えてみてほしいと、こづちは思ってるっす。
たぶん、今の先輩に足りてないのはそれっすから。
いつか先輩がそれを本当に理解したときに、こづちに聞かせてほしいっす」
甘く優しく、後輩の声が脳に直接響くような錯覚。求められることに応えられない罪悪感と、果ての無い自己嫌悪に溺れる光景を幻視した。
こづちは、最後まで茶化した態度を崩さないままに、悪ふざけのようにようやく、別れの挨拶を口にする。
「まあ年頃の純情な乙女であるこづちとしては、こづちの本気の告白を小途先輩がさらっとスルーしたって事実の方が、正直なところ圧倒的に衝撃というか、ショックっすけどね。普通に傷付いたっす。いやはや、猛省してくださいって感じっすよ。
──じゃ、また放課後に、っす」
13
──こづちと別れてから数分が経った後、俺は一人で学校の教室にいた。というか自分の机に座っていた。たぶんこづちも、そろそろ中学校の教室に着いたくらいだろう。
敵対しないけど、無条件に味方でもない。味方でいたい理由。こづちはこづちの味方。正しいこと、したいこと。俺が誰の味方か。誰の為。
俺が机に突っ伏していると、後輩が口にした言葉の断片が脳内に浮かんでは螺旋を描いて、消え去ることなく漂い続ける。
或いは譫言のように口から漏れ出て、ぶつぶつと呟いていたかもしれない。だとしたら相当にヤバい絵面だが、朝の教室の喧騒の中では、こんな些細な呟きは俺自身にしか聴こえないだろうから安心していい、のだろうか。本当は俺自身にさえ届いていないのかもしれないが。
予鈴の音で、思考が打ち止められる。
「──俺が今、誰の味方か、か」
予鈴の音に掻き消されながら呟いて、
(そして──誰が今、俺の味方か)
思索の結びは、心の中だけで呟いた。
視界の端で、二人の少女の姿を捉える。ダッシュで教室に駆け込んだもののギリギリ間に合わなかったかのかと、廊下を駆け抜けていく、つまりは遅刻が決定した綾。
そして、俺は考える。
──果たして、俺がこれから対峙せねばならない相手は俺にとって敵か味方か、と。