#8 君といたい理由
第二幕(ミステリ風パート)開幕です
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例えどんなに最悪の気分であっても生きていれば当然のように明日は来るし、朝になれば極力学校に行かねばならん身分が学生というものだ。
気分的には正直に言って欠席したいくらいなのだが、生憎と俺の両親はサボりを容認する性格ではないし、サボると教室で遭遇するはずのかのかにどう思われることやらと、別れた恋人に格好悪いところを見せたくない俺がいた。
格好悪いところなんてこれまでに何度も見せているというのに、見栄ばっかり達者な奴だ。
だから俺は、渋々ながらも身支度を整えて家を出る。気持ちの良い晴れやかな空は皮肉にしか感じなかった。
もしかしたら、そんな気分でいたことこそが、大きな災い──やっばりこういう言い方はマズいんだろうが、気分的にはその通りなのだから仕方あるまい──の予兆だったのかもしれない。
この世界では往々にして、気分が悪い時にはより気分が悪くなることが起こるものだ。
例えば、今は一番会いたくない相手にばったり遭遇するとか。
「……あ」
今の俺が「会いたくない相手」が誰かと考えるなら、きっと一人に定まらないだろう。
絢峰綾にも皆琴こづちにも、決して会いたくはない。けれどそれでも一人を選ぶなら、悲しいかな、その答えは決まっている。
──坂穂かのか。
昨日別れたばかりの彼女に、俺は遭遇したのだった。
「んー……因果応報って奴じゃないかな?」
出会い頭にいきなり結構辛辣な突っ込みを受けた。痛いところを突かれたというか、心当たりが多くて言い返せない。
と言うか俺、モノローグ声に出してたの? 流石にそれは恥ずかしいんだけど。
「いや、そんなことにはなってなかったよ。ただ、一月も付き合ってたわけだからね。かのか、少途の考えてることもちょっとくらいは分かるよ」
その「ちょっと」が実際はどの程度なのか、気になるけど知りたくはないな。
何だよその一方通行な以心伝心。俺もかのかの思考や行動が読めることはあるが、そこまでじゃないし。
と、そこでようやく俺は、最初に気付いておくべきことに気が付いた。
この遭遇が偶然じゃないことに。
俺とかのかが付き合っていた頃(と言うほど過去の話でもないけれど)は、たまに一緒に登校もしていた。けれど一緒じゃない日は、登校する時間はかなりバラバラだった。
割と余裕を持って登校する俺に対して、かのかは意外とギリギリに駆け込むタイプなのだ。しっかりしてそうなのに。
俺とかのかの双方がいつもと変わらない時間に家を出た場合、こんな風に朝に遭遇することなどあり得ない。
それが起こったということは、かのかはわざわざ早く家を出て、俺が毎朝通る道の端で俺を待っていたのだ。
そのことに気付くと同時に、俺の胸に一つの大きな疑問が浮かび上がる。それは俺の意識が追い付く前に、既に言葉として俺の口から紡がれていた。
「かのか──良いのか?」
「え、何が?」
俺がぶつけた疑問は、しかし要領を得なかっただろう。考える前に飛び出た言葉は、余りにも拙く不足していたからだ。
だからかのかは、何を言っているのか分からない、とばかりに首を傾げた。
俺は躊躇いがちに、足りない言葉を後から補おうと、恐る恐る口を開く。
「いや、ほら……俺とかのかは……」
「──ああ、そんなこと」
一方的な以心伝心疑惑に真実味が増すほどに、かのかは俺の拙い言葉を汲み取って理解したらしい。
けれど、その示された反応は俺が怪訝な顔を見せるのに充分だった。
──ああ、そんなこと、気にしてたの? と、優しさと呆れが同居した表情。
自然と俺の態度も、かのかに対しての呆れを孕んでしまう。
「そんなことって、お前な……」
「いやいや、確かに小途の言いたいことも分かるよ? 昨日かのかと小途は別れて、恋人って関係を解消した。だから、そんな自分と話しても良いのかってことでしょ?」
──そうだ。それはかのかの言う通りで、狂いも間違いもない。
一方的な以心伝心は疑惑から確信に変わった、恐ろしいことに。
かのかも俺も、互いに互いから距離を置くべきだというのが、昨日の結論ではなかったのか。
それを分かっていながら「そんなこと」と割り切るかのかは、一体何を考えているのか──
「単純な話だよ。
かのかから別れ話を切り出したのに自分勝手、って思うかもだけど──恋人じゃなくなっても、友達に関係を変えてでも少途といたいって、かのかは思ってる……ダメ?」
かのかの訴えに、俺の脳内を支配していた思考が僅かに解けて晴れたのを感じた。
けれど、すぐにその余白は再び黒に塗り潰される。俺は結局、辿々しく口を動かして意味を成さない言葉を吐くことしかできない。
「……それは」
「かのかは、小途といたい。そう思ったし、今も思ってる。だからかのかは、その為に今こうしてる。──少途は、どう思ってるの?」
脳に直接響くような、甘く優しいながらも覚悟に満ちた声。俺の思考は先程よりもずっと強く眩しい光で照らされた。
正直に言おう。俺はかのかの申し出を、とても嬉しく思っているのだ。一緒にいたいと思ってくれたこと自体も嬉しいし、恥じらいながらもそれを告げてくれたことも嬉しい。
かのかのことがどうしようもなく好きなのだと、そんなことを改めて思った。
けれど。いや、だからこそ。
胸の中を再び、黒が染め上げた。
「──本当に、良いのか?」
その優しさを、かのかの想いを、福音を俺が受け取ったとして。こんな俺が、一番ではなくとも坂穂かのかの傍にいて、本当にそれで──
「それは訊くことじゃないでしょ」
──短く告げられたその声が確かに聴こえたとき、胸を占めていた黒のノイズが全て吹き飛ばされた気がした。
かのかは、もう呆れを既に通り越して少し怒ったように続ける。
「小途の一番隣に、かのかはいられない。でも、それでも小途の近くにいたいの。それが、今のかのかの素直な気持ち──少途はどう?」
「俺は……」
俺は。高多小途は、かのかの傍にいたい──かのかに、傍にいてほしい。
かのかが好きだ。
別れた時、引き裂かれるような痛みがあった。どうしようもなく辛かった。
そして今朝、この胸はかつてないほど高鳴っている。これが恋でないなら、何が恋なのか。
だから、かのかと共にいたい。素直にそう思えて──もし許されるのなら……。
──けれどそれは、甘えではないのか? 俺は、また同じ過ちを──
「──素直にそう思えるのならそれで十分じゃないかって、不肖こづちは思うわけなんっすけど。少途先輩は相変わらず、面倒なことばっか考える面倒な人っすねぇ」
──とぼけたような軽い調子の声が俺の思考に、或いは俺たちの会話に唐突に割り込む。
誰、なんてもはや脳の一部を思考に割く必要もないだろう。
それでもその闖入者に、俺もかのかも、驚きを隠すことはできなかった。
「……昨日の」「何でお前が」
「おはようっす、先輩方」
絞り出すように呟く俺たちに対してその少女──皆琴こづちは、特別なことなど何も無かったかのように普段通りの挨拶を向けてくる。
いや、そこに現れたのが皆琴こづちただ一人だったなら、俺たちの驚きはこれだけで済んでいた。
こづちの後ろから駆け寄ってきた、続いて現れた人物。その姿を視界の端に捉えただけで、俺とかのかの衝撃と驚愕は一瞬の内に閾値を越える。
──絢峰綾が、そこにいた。
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「いや同じ学校なんだし、そんなに驚くことでもないでしょ? 朝通学路で会うなんて珍しくもないじゃない」
「そうっすよ。同じ学校に通ってたらこのくらい、よくある偶然っす」
「いやお前は違うだろ、中学生」
そんな俺たちの反応を見て、綾が心外だとばかりに首を横に振る。
……確かに、それはその通りだが。実際、以前にもこんなことはあったし。
かのかと付き合う前なんて、綾と俺の二人で登校することもあったくらいなのだから。
ただ今日は本当に間が悪い。相変わらず、俺が一番してほしくないことは絶対にやらかす幼馴染……いや、このタイミングでの闖入は、ある意味良かったのか?
「ところで、かのか。急で悪いんだけど訊きたいことがあるんだよね。今、ちょっと時間貰って良いかな?」
そんな風にただでさえ平常心を失っていたうえに、綾があまりにも自然にそう言ったものだから、俺はこのときその意図を全く掴めなかった。
だから思わず綾を見やった俺の顔は、きっと怪訝そうなそれだっただろう。
けれど、幼馴染としてずっとこいつを見てきた俺にすら、綾のその表情からは特にこれといった感情は読み取れなかった。
「……え、私?」
かのかが、綾の登場による動転からまだ抜け出せていないような反応を示す。或いは俺同様に、綾の意図が分からないことに困惑しているのかもしれない。
「うん。かのかに、話があるの」
対する綾は堂々と応える──けれどその後に続く台詞を語る口調は、さながら言い澱むようなそれだった。
「で、なんだけど……できれば、二人きりの方が良いかな。悪いけど少途とこづちは、先に学校行っててくれる?」
「だからこづちは学校違う……って、」
繰り返される小ネタを条件反射的に突っ込んでから、ふと不審に感じる。
絢峰綾が言い澱む、だと?
あまりに彼女らしくないその様子を、俺は思わず指摘しかけて、
「──良いじゃないっすか。降って湧いた少途先輩との朝デートに、こづちはかなりウキウキしてるっすよ」
思わず指摘しかけたその言葉は、後輩の茶化すような声に遮られた。
こづちを鋭く睨むと、返されたのは下手なウィンク。確信犯(誤用)確定だった。
俺は嘆息の後、かのかに言う。
「……じゃあ、俺はこづちと行くわ。悪いけど、さっきの話の続きはまたの機会……今日の放課後で良いか?」
「ん、まあそうだね。消化不良なのは確かだけど、まあ仕方ないかな」
かのかは特に気にした様子を見せることもなく、はにかんで答える。
自分が言いたいことはほとんど全て出し尽くしたから満足、くらいには思っているのかもしれない。
答えを貰えなかった不満が無いわけは、無いのだけれど。
「じゃあ二人とも、遅れるなよ」
「うん。また教室で」「悪いねー」
「ではまた、っす」
互いにしばしの別れを告げて、俺とこづちは歩き出す。こづちの中学校と俺たちの高校は近いので、道筋はほとんど変わらない。このまま十分くらいは、二人で歩く時間が続くはずだ。
つまり、訊くべきことを訊くのに、充分な時間はある。
「──さてと」
歩き始めてから最初の角を曲がった所で、俺は足を止めた。残してきた二人からこちらが見えないことを確認して、こづちに向き直る。
最初からそれを予想していたかのように、こづちは俺に何も訊かなかった。察しの良い後輩で助かる。
「こづち、訊きたいことがある」
「今穿いてるパンツは白っす」
「興味ないし、訊きたいのが下着の色じゃないことくらいは察してくれ」
察しの良い後輩で助かる、って言ったことを一瞬で後悔させないでくれ。
「食い付かれても引いてたっすが、興味無いって言われると、女子として傷付くっすね」
「俺にどうしろと」
あとたぶん、こづちの表情からして実際は白じゃない気がする。むしろ逆で黒、とかかな。
口にはしないけど。引かれたら男子として傷付くから。
「……で、幼馴染みと元カノから隠れて何の話っすか?」
「嫌な言い方すんなよ。確かに否定できないんだが……俺が訊きたいのはもっと単純なことだよ」
「ランジェリーの色よりもっすか?」
「俺が訊きたいのはだな──」
「無視っすか」
「──綾と何を話してたんだ?」