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#7 好き、だからこそ


 ──それは決して、予想できない展開ではなかった。


 クラスの連中に謝罪されたときとは完全に様相が異なっているのだ。実際に俺が、打出との会話の中でぼんやりと思っていたことでもある。

 まだかのかから別れ話を切り出されてはいないだけマシ、なんて俺は考えていたんじゃないのか。


 例えばかのかが、朝の一件での俺の目論見(しつこい注釈は、もう入れないことにしたんだっけ?)を知らないままだったなら?

 かのかが、今朝以来ずっと、綾を冷淡にあしらった俺に対して怒りを抱えたまま過ごしてきたのだとしたら?

 或いは、クラスの連中と同じようにそれを知らされたか、または自分でその発想に至るかしていたとしても、俺と綾の仲に気を揉んでいたかのかのことだ。俺が自分の外聞や立場を犠牲にしてまで幼馴染を庇ったと思ったら、愛想を尽かされることもあり得るのではないか?


(……理屈じゃ分かってるんだ。理不尽でも不条理でもなく、これは当然の結末なんだって)

(でも、それでも──それでもなかなか、思ってたよりもこたえるな)


 別れ話を切り出される可能性が高いことは、話があると書かれた手紙を発見したときから分かっていたし、かのかが言いよどむ姿を見たときに、それは既に確信に変わっていた。受け止めると、覚悟も決めていたつもりだった。

 なのに、実際にその状況が訪れてしまえば動揺して、この詰みを打開する方法を必死になって探している。

 俺はそれほどまでにかのかのことが好きだったのか──失ってから気付く大切さとは、陳腐でこそあれ馬鹿にできないフレーズだ。


 そう考えて、しかしすぐに、そんな美談は偽善的だと自嘲する。

 どんなに言葉で本心を虚飾したところで、実際のところはどうせ、坂穂かのかとの人間的な繋がりを失うことをただ恐れて喚いているだけだろう。

 我ながら情けない、臆病な話だ。


 高多少途、お前は今自分が何を言っているのか分かっているのか? 何をしているのか、自覚しているのか? 

 ──この期に及んでお前は、自分のことしか考えていないんだ。かのかのことを考えていない。

 自分が負う傷に怯えているだけで、自分の落ち度をあざけるだけで、自分がかのかに負わせた傷のことも、かのかがどんな想いでこの話を切り出したのかも、何一つ考えていない。考えようともしていない。

 自分で自分が嫌になってくる──そんな便利な自嘲に身を包んで、自分以外をシャットアウトする生き方は、さぞ生きるのが楽なことだろう。

 そんな人間を何と呼ぶか、お前もよく知っているはずだろう?

『クズ』『最低』──朝の一件で俺が得たそれらの称号は期せずして、どうやら俺という人間の浅はかな程度を、これ以上ない形で正しく形容していたらしい。


 成程という納得と共に俺は一つ溜息を溢して、かのかから告げられた言葉を頭の中で何度も反芻する。

 別れたほうが良い、別れたほうが良い、別れたほうが良い──結論はきっと、最初から出ていたのだと思う。

 臆病な俺が自分勝手にも眼を背けていただけで、この揺るぎない答えはずっとここにあったはずだ。


 俺はこのとき、心の底から確かに、素直に同感だと思ったのだった。


 俺は坂穂かのかという少女を、自分で思っていた以上に深く愛していた。それだけは疑う余地のないことだと、今はっきりと自覚している。

 成り行きのように付き合い始めて、成り行きまかせに付き合ってきた関係だったが、それでも俺はいつからか、この少女を愛しく想う気持ちをこんなにも抱えていたのだと、強く理解した。


 だからこそ、だ。

 俺がかのかを強く想うからこそ、こう思ってしまう──俺は、かのかの隣にいるべきではない。

 かのかには幸せになってほしいと、俺はがらにもなくそう想っている。

 そして──俺には、それを叶える力なんて無いのだと、分かっている。


「俺はかのかから離れたほうがいい」

 だから、その結論が俺の口からあまりにも自然に出てきたことにも、俺は全くと言っていいほど驚かなかった。

 その自然がかえって不自然で、俺は何度目になるか分からない自嘲をただ繰り返した。



 その先、残念ながら俺の記憶は曖昧にしか残っていない。

 ぼんやりとした意識しか残っていなかったからか、意図的に忘れようとしたか、或いはその両方といったところだろう。

 あやふやな記憶の中でただ一つだけ覚えているのは、恋人同士の別れ話にしてはとても円満に話が進んでいたということだ。それは当事者の俺自身ですら、いっそ恐怖さえ抱きかねない事実だった。


 ともあれ俺の意識が薄ぼんやりした白明はくめいから現実に回帰したときには、既にテーブルには俺一人だけだった。

 腕時計を確認してみれば、入店からは三十分程が過ぎていた。

 これが果たして長いのか短いのかは俺には判断しかねるけれど、ともかくこの場所に俺の恋人──元、恋人の坂穂かのかはもういない。

 よく磨かれたウッドテーブルの向かいの席側には、空の皿とカップだけが残されていた。

 俺の側には中途半端に残されたコーヒーだけがあって、チーズケーキは皿ごと無くなっていた。

 普段でも口にしたくないものを食べられるほど爽快な気分でもない。恐らく、こづちにでも譲ったのだと思う。結果的にあの後輩の言った通りの未来になってしまったわけだ。しゃくだが。


 いや、まあしかし、いつまでもこうやって時間を無為に費やしていても仕方が無い。冷たい言い方だが、これはもう既に終わってしまったことだ。

 他にもっと良い方法はあったのかもしれない。

 しかしそれは考えて分かることでもないし、仮に分かったところで今更何かが変わるわけでもない。

 俺の胸を覆う暗雲を掻き消す方法は今はないのだ。ならばせめて、精一杯の虚飾で、強く前を向いて生きている振りだけでも見せようではないか──と、俺はカップに残っていたコーヒーを勢いよく飲み干して席を立った。


 何ということもない。今もきしんで悲鳴を上げている心とは裏腹に、身体は羽のように軽かった。


 とそこで、テーブルの上に伝票が無いことに気付いた。まさか、と思いながらも俺は店員に確認を取ろうとして──店内のカウンター席に足を組んで座ったまま電話しているウェイトレスが視界に入った。

 言うまでもない。皆琴こづちだ。

 あの生意気なのに可愛げだけはある後輩が、携帯電話を耳に当てて、誰かと話している。


 青みがかった短い髪を、小さいながらも存在感を放つ利口そうな二つの三つ編みに束ねた髪型。

 黒と白のツートンカラーを基調としたウェイトレス衣装は、ロングスカートもカチューシャもさながら中世西洋の格調高い貴族屋敷でお嬢様に仕えるメイドといった佇まいだ。こづちの母親の趣味らしい。


「──ってお前、仕事中だろ。堂々とサボって電話すんなよ」

「へ?」

 思わず突っ込みを入れてしまった俺を、こづちが意外そうに振り返る。そして何度か目をぱちくりさせてから、電話の相手に向かって言った。

「……あー、こっちから掛けておいて申し訳ないっすが、ちょっと失礼するっす。はい、また後で、たぶん今夜にでもこづちの方からかけ直すっす。それじゃ──」

 相手には見えないお辞儀までして、こづちは電話を切った。ようやくウェイトレスとしての本分を思い出してくれたのだろうか。


 サボタージュの常習犯な後輩は、椅子に座ったまま俺の方に向き直り、首を傾げながら言ってきた。

「少途先輩、差し出がましいことを言わせてもらうっすが、人が電話してる最中に話しかけるってのはかなり非常識じゃないっすか?」

「確かにそれはその通りだし、俺も失礼なことをした自覚はあるけれど、しかしこの状況で、お前が俺にマナーを指摘するのか? 仕事をサボって電話してたお前こそ、それは接客業としてどうなんだよ」

 あと、こんな状況じゃなかったところで、お前にだけはマナーについてどうこう言われたくない。

 困ったことにこづちの趣味は、知り合いに盗撮カメラや盗聴機を仕掛けてひっそりと鑑賞することなのだ。中学時代から通算して、最大の被害者はたぶん俺だ。

「大丈夫っすよ。こづちが働いてないくらいのことで文句を言う客は、常連さんには一人もいないっすから」

「普段から働いてないお前を見てるから、今更指摘もしないってか? 何の自慢にならねぇよ……」

 後輩の馬鹿な発言に呆れて溜息を吐いてみて、ここ数日は何だか溜息の頻度が高い気がした。今の気分は、幸運を逃がし続けた結果だろうか?


 ……って、そうだった。俺はそもそもこづちに訊こうとしていたことがあったと思い出した。

「なあ、こづち。訊きたいんだが、俺たちの会計ってどうなってる?」

「会計? え、先輩、ひょっとして覚えてないんっすか?」

「ああ。まあ伝票が無い時点で何となくは察してるつもりだが」

「そうっすね。たぶんその想像で合ってるっすよ。あの人、確か名前はかのかさんっすよね? ミルクティとティラミス、あとコーヒーはあの人が払って行ったっす」

「そっか……ってお前、何であいつの名前知ってるんだ?」

「こづちの前で先輩がそう呼んでたっすもん。だから、先輩が呼んでない名字は知らないっすね」

「そうだっけ? ああ、いや、そう言われれば確かに呼んでたかな」

「まあ、あまりそれは関係ないことっすけどね。そもそも先輩たちの会話は何故か聴こえてきたっすから」

「……何故か、じゃねぇだろ。また俺に盗聴機仕掛けてたのか」

「何のことやらさっぱりっすね」

「はぁ。まあ言っても無駄か……」

 あの会話を聴かれていたのはかなり決まりが悪いけれど、かといってそれを掘り下げるのも嫌だ。こづちがその話題に触れないのも、こいつなりの優しさなのかもしれないし。

 そんな道徳をわきまえているなら、そもそも盗聴を止めろという話だが。


「あれ、チーズケーキは?」

「え、急に何っすか?」

「さっきお前が言った、かのかが払ったメニューだよ。チーズケーキはどうしたんだ?」

「ああ、そのことっすか。あれは結局こづちが食べたっすからねぇ。少途先輩ならともかく、初対面のかのかさんに奢らせるのは、こづちも流石に気が引けるっすよ。だから固辞して、ちゃんとこづちが払ったっす」

「あぁ……何か悪いな。今からでも俺が払おうか? 結果的には、こづちに押し付けちまったようなもんだし」

「それは別に良いっすよ」

 ……今の、そんな状態の先輩に優しくされても。

「まあ、気持ちだけはありがたく受け取っとくっす」

「今、台詞と台詞との間に何か言ったか? よく聴こえなかったんだが」

「聴かせるつもりがなかったっすよ」

 何だかどっかで聞いた言葉だ、と記憶を探って、すぐに思い至る。一昨日かのかと電話したときに、かのかが似たようなことを言っていた。


 いつから盗聴してたんだと問い詰めようとするも、ようやく席から立ち上がった後輩はそれを予期していたように口を開き、俺を黙らせた。

「ではでは小途先輩、今日はご来店ありがとうございました。またのご利用を、心からお待ちしてるっすよ」

 丁寧な口調と声でお辞儀をすると、この瞬間だけは完璧に、一人前のウェイトレスらしく見える。

 その完成された美しい仕草に、決して盗聴を許したわけではないと強調はしておくが、今ここで追及するのを止めてしまうくらいには、俺もこの後輩にいい加減毒されていた。


 だから俺はそのままこづちに背を向ける。振り向くことも別れを言うこともなく、片手をひらひら振るだけで後輩に応えて、扉まで歩いていく。

 それを何だか心地好い距離感に感じて、少し胸が軽くなったような気がした。


 扉を開いて店の外に出る。数歩だけ足を動かしてから、地面が濡れて水溜まりが点在していることに気付いた。

 思わず空を見上げる。どんよりとした灰色の空からは、未だ滴が舞い落ちていた。

「──雨なんて、朝の予報じゃ言ってなかった気がするけど」

 よく覚えてはいないが。

 当然ながら手元に傘もない。雨足はさして強くないし、帰るにしても走ればそんなに濡れずに済むだろうか。或いは店に戻れば、傘くらいこづちが貸してくれるだろうか。


 そこまで考えて、そして思い直す。わざわざ急ぐだけの理由も、身体が濡れるのをいとう理由も無いだろう。

 俺は雨に濡れながら、ただ歩いた。

 顔に付いた水滴が雨粒だけではないことを、強まる雨にかすんでいく世界の中で、俺だけが知っていた。

ここまでで『第一幕』です

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