#3 例えばそれが私なら
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「……少途、起きて。そろそろ先生来る頃だよ?」
沈んだ意識の中で聴こえた優しいその声に、俺は目を覚ます。
甘さを湛えたその声はこの一ヶ月ですっかり聞き慣れたそれで、声を掛けたのが誰かは身を起こすまでもなく分かったが、一応はちゃんと身体を起き上がらせてから顔を見て応える。
「ん……かのか。おはよ」
周囲を見渡して状況を確認するに、どうやら俺は登校して早々に教室の机で眠っていたようだった。
はて、そんなに疲れるようなことが──と考えてすぐに昨日を思い出す。
残念なことに心当たりしか無かった。
「うん、おはよう。ちゃんと目は覚めた?二度寝しない?」
そんな内心を見抜かれているかはともかくとして、かのかは俺がちゃんと起きたことに満足したように笑みを浮かべた。
地毛のストレートな茶髪を後頭部でポニーテールにしただけのシンプルな髪型といい、全く着崩しもしない制服といい、なんとなく大人っぽい印象のシルエットだけれど、やはり笑顔の似合う奴だ。
この一ヶ月の間に見慣れたその表情に、何度目かは分からないが俺は見蕩れてしまう。泣き顔も怒り顔も、当然のように可愛いと思ってしまうのは、いささか盲目の自覚がありはするが。
──聞いてほしいことがあるの。
──私のワガママ、聞いてほしい。
覚醒しつつある意識の中で唐突に、昨日の記憶が脳内に溢れ出す。厳重に鍵を掛けたはずの箱からも、僅かな隙間から漏れ出てくる記憶という奴が俺は嫌いだ。
──私は、小途のことが『──』なの。
──勿論、小途がかのかを『──』ってことは知ってる。二人が付き合ってるのを応援もしてる。
──でも、
「大丈夫。彼女に起こされて即二度寝とか、男子として駄目だろうし」
俺の想いとは裏腹に、塞き止めても溢れ出す昨日の記憶を、俺は無視して平静を装い、かのかと話す。
「あはは、その時は揺すらずにひっぱたこうかな」
正直まだ眠たかったので二度寝もしかねなかったのだが、そう言った目が笑っていなかったため、情けないが少し怯え、自分の頬を数度叩く。
かのかは満足したように再び笑み、
「──で、何かあったの? 普段なら小途、こんな朝から寝ないでしょ」
と訊いてきた。
よく見てるなあと、俺はふとあの生意気な後輩を思い出した。
これは良くない、ああはなってほしくないものだ──と反射的に渦巻いた逃避から、不思議そうに小首を傾げる正面の少女の姿によって現実に回帰。
何も答えないと怪しまれるだろうが、さりとて正直に答えることもできず、俺は曖昧に言葉を濁した。
「まあ、色々と疲れとか溜まってるだけだよ。気にしなくていい……あ、でも昼も寝るから授業の代弁は頼む」
「嫌だし無理……」
茶化した俺の頼みに、かのかはげんなりした様子を見せる。
しかし当然ながらこれで誤魔化せたはずもなく、遠慮がちに「……綾ちゃんがらみ?」とだけ訊いてきた。
嘘を吐く理由『は』無いし、吐いたところですぐにバレるので、俺は渋々正直に、しかし極力感情を込めないで淡々と「正解」とだけ答える。
「……」
その答えに、かのかの表情が呆れと納得が混在したそれに変わる。
うん、立場が逆だったなら、きっと俺も似たような表情を浮かべていたことだろう。可愛い顔が台無しだよ、と茶化そうかとも少し悩んだが、羞恥心に負けた。
「一昨日、電話で言ってたよね。日曜は二人で買い物だって。本当によくもまあ、他の子とのデートの話を彼女にするよね。相手が幼馴染でも」
「でも、黙ってた方が怒るだろ?」
「それはそう。だけど、言えば怒らないわけでもないじゃん? かのかだってこんなザ・面倒臭い女みたいなこと言いたくはないけど、でも、思っちゃうんだもん」
──分かってる。でも、理屈じゃないんだよ。
──一ヶ月前からずっと、私の中のこんな『私』を押さえ付けてた。
──駄目、いちゃいけないんだ、いなくなれ、いなくなれ、消えちゃえ。
──でも。
記憶の蓋が再び開く。溢れ出す言葉は、目の前の少女のそれとまるで同一かのように胸に蘇った。
「……乙女心は複雑、って奴?」
「端的に言えば。それに、かのかから見れば不安でしかないの、少途が綾ちゃんと二人でデートなんて」
「乙女心は複雑って奴?」
「返しのレパートリーが少ないな……二人を見てると、やっぱりモヤモヤする。仲が悪くなってほしいとか関わるなとかは、まさか思わないけどさ」
かのかはそこで言葉を区切った。会話の脱線に気付いたか、あまり続けたい話ではないか、恐らくはその両方だろう。
そして結果、何事もなかった風を装って話題を元に戻す。いつものことだ。
「で、そのデートで何かあったの? ケンカして気まずくなったとか?」
戻ってきた話題は、俺としては帰らぬままで良いくらいの代物だったが。
「……半分は正解。俺と綾が気まずくなったっていうのは合ってるよ」
起こった事象を考えれば、いかに互いをよく知る幼馴染とは言っても気まずくなる未来は避けられまい。むしろ、故にこそだとも言える。
きっと綾も、それは当然のように分かっていただろうが。
「その結果への過程が違う、ってことね。やけに曖昧な口振りからして、話したくないようなことがあったと」
俺が白状するしないに関わらず、この恋人には全て見透かされそうな気がしてきた。油断ならない。
俺の周りはそんな奴ばっかりだ。
「ま、まあ、実際に事情が複雑というか、言いにくいというかだな……」
否、これは半分嘘だ。
複雑なことなど無いし、説明するだけなら至極簡単。
昨日、何が起こったか。綾が何を言い、俺が何を思ったか──それ自体は単純で、説明も別段難しくはない。
──難しい理屈じゃないんだよ。
──小途を『──』で、小途が『──』な相手は、今はかのか。
──だけど、例えばそれが私ならって考えて、そんなことを思う自分を少し嫌いになりながら、でもそんな想像が嬉しくなって。
──気付けば、私が小途を『──』っていう、隠してたはずの気持ちがどんどん大きくなっていって。
──もう、止められなくなってた。
俊巡して言葉に詰まる俺に対して、かのかの視線が少し険しくなる。
そんな気まずい沈黙が生まれてから数秒の時を経て、渋々ではあったが、俺はようやく一つの覚悟を決めた。
一切を打ち明ける覚悟を胸に、口を開く──その刹那を狙い澄ましたかのように、空気を読まない大声が教室に響いた。
「おっはよー! 少途、かのか!」
自分の教室でもない教室の扉を片手で開けて、他方の手を俺たちに振りながら、勢い良く少女が登場する。
自然と教室内の全員の注目を一身に集めたその少女が誰か、もはや言うまでもないだろう。
かのかの友達で、俺の幼馴染で、昨日のデート相手。
──絢峰綾だった。
「……朝から元気だな、綾」
「綾ちゃん……あ、うん。おはよう」
先程までの話題の中心人物が唐突に登場した衝撃から数秒も経たない内に冷静さを取り戻す胆力だけは、どうやら二人とも持ち合わせていたらしい。
それでもやはり、かのかが複雑な気まずさを孕んだ名状しがたい表情で綾を見やる。
対する綾は、それに気付いているのかいないのか、一切頓着する様子も見せずに振る舞う。と言うかたぶん気付いてはいないだろう。
「うん、おはよー。ところで二人は、朝からラブラブと何の話してたの?」
しかしながら、通常営業の平常運転で最初に飛び出す台詞が俺が今一番欲しくない言葉である辺り、無自覚とはいえ流石という他ない。
「らぶらぶっ……!」
そんな場合でもないだろうに、かのかは綾の表現に照れて恥ずかしがる。その可愛い様を普段の俺ならば散々からかって楽しむところだが、しかし今はそんな余裕がまるで無かった。
まずいことになった。昨日の夕方以降ずっと俺の脳内を浮かんでは消えてを繰り返していた定型句が、再び俺の意識を支配する。
言うまでもない。先程までかのかに話すことを散々躊躇っていた『昨日の話』について綾が言及することを、俺は危惧している。
そしてこの空気の読めない幼馴染には、それをしかねない危うさがあるのだ。
どうすればいい。綾がその話を切り出す前に会話の主導権を握れば良いのか。
他にも方策はあるのかもしれなかったが、混濁した頭では思い付かない。
とにかく先手を打つ。それだけを考えて早急に対策せねば。
「おい、綾? お前──」
「あ、そうそう。少途、昨日のことなんだけどさ」
──対策せねばという俺の浅はかな企みは恐ろしいくらいに無駄だった。こいつは俺が一番してほしくないことをやらかさないと気がすまないのか、とさえ思える。逆恨みでしかないけれど、そのくらい思う権利はありそうだ。
まさか、綾が登場した時点で既に詰んでいたとでも言うのだろうか?
そんな風に俺が幼馴染を恨めしげに思っていると(現実逃避が三割ほどだ)、恋人が追い打ちをかけてきた。
「そういえば昨日、二人で出掛けてたんだって? かのかも予定がなかったら行きたかったなあ」
何が「そういえば」だ、さっきまでずっとその話してただろ──普通ならそう指摘するこの台詞に、しかし俺は何も言えない。
指摘すれば、「俺たちがさっきまでずっとその話をしていた」ことが綾に伝わってしまう。そうなれば、昨日の話題から離れることは不可能になる。
かといって俺が何も言わなかったとしても、当然それは変わらない。
かのかの策略は完璧に俺から逃げ道を奪っていた。「何も知らない」と無知を騙ることで、綾から真実が語られるのを狙うオマケ付きだ。
率直に言ってタチが悪い。
かのかに言わせれば、はっきり言わない俺が悪いんだろうが。
かのかの策略のせいか、或いは悪戯な神の謀略か、絢峰綾が口を開く。
「うん。でね? 私昨日、小途に言ったんだ──」
真相が語られるのを止める術を、俺は潔さとは無縁に未練がましく考える。
だが綾が続く言葉を口にするのは、残念ながら俺の思考が実を結ぶより早い。時間が無限なら打開策を思い付いていたのか、自信も持てないけれど。
綾は告げた。空気を読まずに。
「──少途が『好き』、って」