#22 触れ合う答えの甘い味
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「──気持ちの良い朝だね」
背後から声を掛けてきた少女は、何食わぬ顔でそう宣う。
けれど俺の視線に疑念が色濃く含まれていたことに気付いたのか、誤魔化すのは諦めたようにやれやれと肩を竦めた。
逆に、誤魔化せるとでも思っていたのだろうか。
「まあ、そうだよね。ここで狙い澄ましたようにボクが登場するのは、キミの憂慮する通りに偶然じゃない──ボクはさっきからずっと、キミと皆琴さんの二人を尾行していた」
「……やっぱりか」
俺と瑕納佳は普段なら登校時間が大幅に違うし、そうでなくともこのタイミングで声を掛けられたら何かあると思うだろう。どうやら直感は的を射ていたわけだ。
「もともとは単に、登校前にキミに話しておきたいことがあったってだけなんだけどね。家を早く出たのはそのためだ。
それでキミを見付ける所までは上首尾と言ってよかったんだが、どうやら取り込み中のようだったからね。悪趣味だとは思いながらも、後を付けることにしたんだ」
そこでその結論を出すってのは、思考回路がこづちみたいで何か嫌だな。
「取り込み中ってのは、こづちと話してたことか」
確かに瑕納佳にとって、俺たちに話し掛けるのは難しいのかもしれない。瑕納佳とこづちは大した接点も無い訳だし。
まあ、瑕納佳がどの辺りから見ていたのかは分からないが──って。
「……ひょっとして、話の内容も聴いてたり?」
俺は気付いてしまった最悪の可能性に戦慄しながら、恐る恐る訊ねた。声は震えていただろう。
もしそうなら──あの発言を、よりにもよって坂穂瑕納佳本人に聴かれていたのなら。
どうか否定してくれ、と心からの祈りを捧げる。
普段は信心と無縁の俺だが、今だけは神に祈らせてもらう。綾とこづちと三人で初詣に行ったときに投げ入れた賽銭のご利益は、果たして五月中旬になっても残っているか──
瑕納佳は、悩ましげに答えた。
「肯定も否定も難しい、というのが正直な所だね。キミたちに気付かれないように付かず離れずを保っていたから、聴こえた部分と聴こえていない部分とがある感じだよ」
俺の焦燥を徒に助長する返答に、具体的にどの部分を聴いていたのかを知りたいような知りたくないような、と葛藤が産まれる。
そんな逡巡の間に、瑕納佳は見透かしたような苦笑いと共に口を開いた。
「たぶんそれは、知らない方が良いと思うよ。少なくともキミにとっては」
意味深な発言に俺は理解が遅れて──すぐに確信する。
同時に果てしない羞恥が込み上げてきて、今朝だけで二度目だが、俺はその場に崩れ落ちた。心なしか、さっきよりも小さく蹲っていた気がする。
──見られた、聴かれた。
瑕納佳も膝を折るようにして、俺に目線の高さを合わせて寄り添う。
けれど、恥ずかしさに支配された俺はその顔を見ることができない。
「……そんな企みはなかったとは言え、ボクも申し訳無くは思ってるよ。キミが恥じる気持ちも、痛いくらいによく分かるしね」
隣から掛けられる言葉は、俺への暖かな気遣いに満ちていて甘く優しい。それがかえって痛かった。
「──ところでそれはともかくとして、しかし自分がいないと思われているところで堂々と愛を告げられると、なかなかに嬉しいし、乙女としても安心できるものだね。流石に恥ずかしいが」
──なんて思っていたら、寄り添う少女は気遣いから一転、俺に止めを刺して来た。
「それはともかく」で片付けるなよ。
俺は顔を上げて、瑕納佳を睨み付ける。
ただ、頬の紅潮は収まらないままだったから、迫力が無いどころか照れ隠しにしか見えないかもしれない。
瑕納佳は大爆笑したいのを堪えているみたいな笑みを見せる。肩はプルプルと震えていた。
彼女の頬も俺に負けず劣らず紅に染まっていたが、羞恥のせいか笑いのせいか、区別は付かなかった。
「まあ、落ち込む必要はないよ」
「慰め方が雑過ぎじゃないか?」
「慰める気なんて、ボクには最初から少しも無いからね。キミをからかって楽しむのは、別に皆琴さんだけの特権じゃないだろう?」
「こづちにその特権を与えた覚えも、俺には無いんだが……」
「そうかい。なら、ボクも勝手に貰うとするよ」
「……」
もはや何を言ったところで無駄そうだった。
瑕納佳が『自分』を曝け出せるようになった結果、と思えば悪くはないのかもしれないが……というのは、いささか恋人贔屓が過ぎるか。
「さ、いつまでもここにいる訳にもいかないし、ボクたちも学校に向かうとしよう。蹲ってないで、そろそろ立って……手でも貸そうか?」
「いや、遠慮しとく……立場が逆ならともかく、女子の手を借りて立ち上がる男子ってのは絵面的に結構キツいものがあるから」
そしてようやく、俺は立ち上がる。
瑕納佳と手を繋ぐ折角の機会を逃したことに後から気が付いて、惜しいことをしたと敗北感。まだ少しにやにやしている瑕納佳への仕返しの積もりで、俺は彼女の手を拝借して学校へと歩き出した。
「それで、俺に話しておきたいことがあるって言ってたけど、何なんだ?」
「え、手を引いていることについて、何も言及しないのかい? ……そういう強引さは好きだが」
勢いでやっちゃったものの、やっぱり恥ずかしかったから、とは言えるはずもない。
その場の流れに任せて行動すれば痛い目を(恥ずかしい目を?)見ると分かっていても繰り返す俺には、ひょっとすると反省という機能が無いのかもしれない。まあ、その行動には後悔もないけど。
「言うなら早めに言っておけよ。始業までの時間も学校までの距離も、もうあんまり残ってないし」
「ん……そうだね。学校に着いたら、この話が出来ないどころか、意味も無くなってしまうし」
彼女の中でその話の優先度は相当以上に高いらしく、瑕納佳は意を決したように俺に向き直った。
その態度に、俺も自然と背筋が伸びる。
「──昨日、喫茶店から帰った後に、ボクなりにもう一度、色々と考え直してみたんだよ」
訥々《とつとつ》と、瑕納佳は言葉を紡ぐ。俺に伝えるシュミレートを既に幾度となく繰り返した後みたいな澱みや迷いのない語り口に、これから言われることの重大性が滲み出る。
「そして、あることを決意した。それを、キミには聞いておいてもらわないと困る──いや、ボクが、キミに聞いてほしいんだ」
「──聞くよ。瑕納佳が必死に考えて決めたことなら俺はちゃんと聞いてやるし、受け止めてやる」
その結論を肯定するか否定するかは、内容を実際に聞くまで分からない──だけど、最初から最後まで全部を余すことなく聞くし、受け止める。
「ありがとう」
瑕納佳が笑う。釣られて、俺も笑みが溢れた。
「とは言っても、もうどんなに急いだところで、学校に着く前に話を終えるのは不可能だろうね……あ、誤解しないでほしいが、皆琴さんと話していたことを責めているわけじゃないよ? 断片的に聴いた限り、二人には必要な儀式だったと思うし」
そこも聴いてたんだな。もう良いけど。
「なら、どうする? まだ少しだけなら、道端で話してから向かうくらいの余裕はありそうだけど」
「普段なら、それも構わないのだけれどね。キミはともかく、ボクは昨日も遅刻しているから。二日連続ともなると小言が煩そうな教師もいるし、今日はギリギリになるのは避けておきたいんだよ」
言われてみれば、昨日は綾と二人で喋ってたせいで遅くなってたっけ。
ん、話の流れ的に、今はあのとき二人が何を話していたのか訊く良い機会じゃないか? ……いや、瑕納佳の話の方が優先度は高いだろうから、またの機会があれば訊く。
だが、なんとなく訊ける未来は今後訪れない気がした。
「だから、ここから先の話をするのは『彼女』に任せるよ──じゃあね」
「へ?」
急に話に登場した『彼女』とやらの存在と、唐突に告げられた別れの挨拶に、俺は思わず頓狂な声を上げて──しかし、すぐに理解する。
瑕納佳がそっと瞳を閉じて、三秒ほどが経過してからゆっくりと開く。
それだけのことで、彼女が身に纏う空気は劇的に変化した。
先程までの理知的な雰囲気とはもはや対極と言っていい、あどけない子供のように無邪気で爛漫な笑顔。
さっきからずっと手は繋いだままだし、片時たりとも視線を外していないにも関わらず、ついさっきまでそこにいた、確かに言葉を交わしていた坂穂瑕納佳という少女の存在が全て消え去ってしまったような錯覚。
「小途とこうやって話すの、すっごく久し振りな気がするよ。実際は昨日振りなんだけど、二度と話すことはないと思ってたからかな」
口調も声音も、先程までとは決定的に違う。だけどそれは、俺にとってはむしろ馴染み深く聞き慣れていた響きで。
何より、俺と『こうして』話すのが昨日振りという発言。もはや疑う余地はない。
今ここに、俺の目の前にいる少女こそが、瑕納佳が「ここから先は任せる」と言い残した相手の『彼女』である。
『瑕納佳』とは何もかもが決定的に違う、けれどそれ故に誰よりも『坂穂瑕納佳』である少女──
──坂穂『かのか』。
だが、そう理解すると同時に新たな疑問符が浮かび上がる。
──何故、かのかが。
「分かってはいたけど、やっぱり驚いちゃうよね。かのかが急に出てきたら」
「ああ、急だったし、俺もてっきりもう二度と話すことはないもんだと……ひょっとして、それがさっき言ってた『決意したこと』なのか?」
かのかは俺の質問にすぐには答えず、止まっていた歩みを再開する。
今度は逆に、俺が手を引かれる側になった。うん、これはこれで……じゃなくて。
俺が足早に追い付いて隣に並んだのを見て、かのかが口を開く。
「うん──小途が昨日、『かのかだって瑕納佳だ』って言ってくれたでしょ?
だから、瑕納佳は考えたんだよ。
今までずっと自信が持てなかった自分を、小途は受け止めて、受け入れてくれた。その過程で、自分が被っていた仮面の『坂穂かのか』は死んでしまったけれど──それで本当に良かったのか、って。
昨日言ってたみたいな『瑕納佳を再び殺して、かのかを蘇らせる』って話じゃ、勿論なくてね。
今まで生きてきた、皆と関係を紡いできた『坂穂かのか』も瑕納佳の一部なら──それを完全に切り捨ててしまうのも間違いなんじゃないか、って。
小途が受け止めてくれた『坂穂瑕納佳』の中に『坂穂かのか』があるなら、全否定しちゃ駄目だ、って」
──彼女の語り口は、どこまでも穏やかだった。
俺たちはついに高校の敷地に入り、教室に向かって足を進め始める。
「だから瑕納佳とかのかは、この未来を選ぶことにしたの。
どっちも大切な『私』だから、『かのか』と『瑕納佳』のどっちも、切り捨てたりしない。片方だけでも、欠けちゃ駄目なんだと思う。
それに、『瑕納佳』を知らない学校の皆は、きっと驚いちゃうしね。
かのかだって、事情が事情だから説明するのは恥ずかしいし。身から出た錆って奴なんだろうけど。あははー。
だからそもそも、学校の皆の前ではこれからも、これまで通りに『坂穂かのか』を演じ続ける必要があって……いや、これだとちょっと正確じゃないね。
演技なんかじゃなくて、これも一つの『本当の私』なんだから。
じゃあ何て言えばいいのか、よく分からないけど。
で、小途と二人のときには、これからは『坂穂瑕納佳』でいる。
これが、『瑕納佳』と『かのか』を両立した、かのかたちなりの答え」
かのかが胸に宿した「決意」を語り終えるのと俺たち二人が教室の前に辿り着くのは、ほとんど同時だった。
ふとどちらからともなくその場に立ち止まり、俺たちは手を繋いだまま見詰め合う。
たとえ見慣れた顔でなかったとしても、正面にいるかのかの気持ちを読み取るのは難しくはなかっただろう。揺れる瞳が、繋いだ手の震えが、少女の中に宿る不安をこれ以上なく克明に物語っていた。
重大な覚悟と決心を言葉にして相手に伝えるということは、つまりはそういうことなのだ。
言葉を紡いでいる間はとにかく無我夢中、一種の麻痺状態だから、不安も緊張もあまり感じない。それらは語り終えた途端に、一気に襲い掛かってくる。それらに押し潰されそうな苦しさを感じながら、しかし不思議と、胸に後悔だけは存在しない。
その気持ちは、痛いほどに分かる──昨日の俺も、そうだった。
かのかは俯いて、黙ったままに俺の反応を待つ。
俺の答えなんて、聡い彼女なら分かりきっているだろうに。
いや、普段ならともかく、早鐘のように打ち付ける鼓動に冷静さを失っているなら、それも仕方無いのかもしれないが。
俺は、さっき自分が口にした言葉を思い出す。
喩えそれがどんなものでも、瑕納佳が考えて出した結論ならば受け止める。そう言った想いに嘘はない。
だから、俺がここで取るべき行動は決まっている──そこに欠片の躊躇も何も、有るはずがない。
俺はずっと繋いだままにしていた手を、勢いよく一気に引いた。相手が瑕納佳ということも考慮して加減した積もりだが、このときの俺にそんな余裕があったとも思えないから、実際は結構強い力だったかもしれない。
どちらにせよ、まさかそんなことをされるとは思っていなかったらしく、かのかの軽い身体はさしたる抵抗もなく引き寄せられた。
繋いでいた手を解く。
慣性で俺の胸へと飛び込んでくる彼女の両肩を優しく受け止めて、勢いに従ってそのままぐっと抱き寄せた。華奢で小さい彼女の身体は、俺の腕と胸にすっぽりと収まる。
「……!?」
少女が驚いて俺の顔を見上げた。突然の出来事に受けた衝撃があまりに大き過ぎたらしく、口をぱくぱくと動かすも声は出ない。
ただ、驚きに支配された様子の彼女は、自分でも驚くほどに大胆な俺の行動に対して、それでも決して抵抗しようとはしなかった。
朝の静けさがなかったとしても、互いの鼓動や息遣いさえ聴こえそうな距離感。視界も意識も、もはや互いの姿しか見えてはいなそうな感覚。
艶めく口と、眩しい朝陽を映した両の瞳を、かのかがそっと閉じる。桃色の唇が、心なしかさりげなく突き出された。
俺も鈍い方ではない。言葉なんて無くとも、その意図は察するに余りある。
「──ちゃんと言っただろ」
口から紡いだ言葉は、強い響きを心掛けはしたもののでは、緊張のせいでどこか固くぎこちない。
けれど俺もかのかも、互いの声しか届かない空間にいながら、そんなことは気にしていなかった。
「──お前が考えて出した結論なら、俺はちゃんと受け止めるって」
それに、嬉しかったんだ──瑕納佳が、俺が伝えた言葉を真剣に受け止めて、そんな風に真摯に考えてくれたことが。
この胸に宿る素直な想いを伝えるために、俺は自分の唇を、瑕納佳のそれにそっと重ねる。
瑕納佳は俺の背中に両腕を回して、さながら互いの温もりを味わいあうように、互いを愛おしみあうように、抱き合う形になった。
互いの存在以外の何も、時間の流れさえ感じないままで、永遠のような数秒が過ぎる。
やがてどちらからともなく唇を離して腕を解く。
そのまま再び、見詰め合う姿勢になった。
触れ合っていたかのかの唇の柔らかな感触の名残に、俺は羞恥で正面の少女から目を逸らした。
かのかの側も、同時に俺から目を逸らす。きっと似たような気持ちだったのだろう。
二人の顔がどちらも紅一色に染め上げられていることは、確認するまでもなく明らかだった。
「──ありがとう」
視線は戻せないまま、かのかが感謝の言葉を口にする。俺も視線を戻せないままではあったが、その想いに応えた。
「──どういたしまして」
──彼女を愛すると決めた誓いは、これからもこの胸に生き続ける。
だから『瑕納佳』と『かのか』と俺の三人は、その関係を幾度となく変えながらも、それでも確かに一歩一歩、前を向いて未来へと向かっていくのだ。
作者以外は知らぬ話ですが、この作品は当初のプロットから大幅にストーリーが変更されながら執筆され続けました(当初から変わっていない部分を探すのが大変なくらい、というのが大袈裟ではないことに我ながら恐怖してます……)。
その中でも最大の変更が為されたのが今回。元々は『瑕納佳』だけが生き残るはずだったのですが……愛着が湧いたのか、或いはこっちの方が面白いと思ったのか、私にも分かりません。
後悔はないですが。