#21 僕たちなりの成長
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「あ、小途先輩。どうもおはようございますっす。こんな風に二日も続けて朝から会うなんて、珍しいこともあるもんっすね」
「……なんだ、こづちか」
──俺と瑕納佳が再び恋仲となり、綾の告白から始まった一連のいざこざもようやく収束してから既に一つの夜が明けた。
少なくとも俺が思い当たる範囲においては、大体全ての問題に何かしらの決着が付いたように思う。
ありふれた、だけど以前とは少しだけ異なって見える日常の光景が訪れるだろう、と踏み出した朝の通学路。今日は誰とも待ち合わせをしていなかったので、一人で学校へと歩みを進めていた。
もはや惰性のように、気は進まないながらに足を動かす。学生という身分を持つ以上、これは義務ではあるのだが、やはりどうしたところで気は進まない。
そんなふうに軽く鬱屈していた最中に背後から送られた挨拶に、俺は胡乱気な態度で応答する。
どうやら後輩はそんな態度が気に入らなかったようで、歩みを止めて振り返った俺の元へと小走りで向かいながら、頬を膨らませつつ抗議してくる。
「なんだとは失礼っすね。偶然にも朝から大好きな先輩を見付けて、これはついてるな、今日も良いことありそうだなー、とか考えて声を掛けようと思って、先輩はまだ気付いてないみたいだから驚かせようかとも迷って、だけどやっぱり面倒くさいし無視で良いかとも思って──それにも関わらず、最終的にきちんと挨拶した後輩に対して、そんな態度はいただけないっすよ」
「生憎だが、そんな奴に向ける礼儀の持ち合わせはねぇよ」
長々と語ったその台詞を聞く限り、礼を失ってるのはどう考えても俺じゃなくてお前の方だろうが。
あと、俺は「偶然」の部分から疑っている。
「あのさあ……あんまりこういうことは言いたくないんだけど、でも何か不安になってきたから訊くよ。お前って、本当に俺のこと好きなのか?」
ジト目で怪訝な表情を作る俺に対して、こづちは「心外っすねぇ」と言って肩を竦める。
「老婆心で忠告しておくっすが、人が自分に向けて持っている、ましてや言葉にされた恋心を疑ってたら本当に祿なことないっすよ?
誰のこととは言わないっすが、相手が自分を好きだってことを信じることができなかった結果、祿なことにならなかった少女を、小途先輩は身近な所で知ってるっすよね?」
「それは誰と言ってるようなもんだ、って突っ込みは入れておくとして……やっぱり盗聴してたんだな」
喫茶『提琴』で話していた以上、どうせこいつは聴いているのだろうとは思っていたが。
かと言って他に丁度良い場所も知らないから、仕方がないのだけれど。
こづちか俺の隣に並んで、それからは二人で足並みを揃えて歩き出す。
「いやー、やっぱりこづちも心配だったんっすよ。小途先輩がどんな風に立ち振る舞うのか。子どもの授業参観を見守る親の気分っす」
「老婆心だったり親心だったり、お前は一体俺の何なんだよ……それに、仮にそれが本当だったとしても、別に盗聴していい理由にはならないからな?」
「小途先輩がどんな風に格好つけるのか、興味があったんっすよ」
「仮にそれが本当だったとしたら、今から俺がお前をぶん殴る理由になるぞ?」
「冗談の通じない先輩っすねぇ」
「盗聴って犯罪は冗談じゃ済まないだろうが」
想像通りといえばその通りだが、こづちは悪びれもせずにそう言い放つ。いっそ清々しいくらいの態度だ。
と、急に後輩が足を止めてその場に立ち止まる。
何事かと思い同じく足を止めた俺に向かって、こづちは嗜虐的な、性格の悪い笑みを浮かべた。
こいつが口を開く前に黙らせねばならない、と俺の直感が警鐘を響かせながら告げるが、生憎とそれを行動に移したところで手遅れでしかなく、こづちが喋り出す方が早い。
「『──俺の恋人になってくれ──俺を、そして『自分』を、愛してくれ。
──俺がまだ知らない『瑕納佳』のことを、もっと知りたい』」
たった二言の台詞が、どんな兵器よりも確実に俺の胸を貫いて多大なダメージを与えた。
強い羞恥に襲われ、俺は為す術なくその場に崩れ落ちる。両手で顔を覆い隠して、蹲るように小さくなった。顔から火が出そうを通り越して、まだ火が出ていないのが不思議なくらいだった。
ほとんど勢いで紡いだ台詞を、昨日の俺は「我ながら、俺もやるときはなかなかやるじゃんか」みたいに思ってたのに、こうして客観的に突き付けられてみると──ヤバい、何で昨日の俺は平気な顔でこんなこと言えたの?
そしてこの後輩には人の心が無いの?
今だって、羞恥に襲われて立ち尽くす先輩を置き去りにしたまま歩みを再開してるし。自由すぎるだろうが。
「いやあ、良い台詞っすよね。こづちの目から見ても、昨日の先輩は格好良かったすよ」
「説得力が微塵もねぇよ!」
からかってるだけだろ、お前は。
まだそれほど小さくはなっていない背中を(流石に歩くペースは落としていたらしい)追い掛けながら、俺は声を荒げる。
「全く……頼むから少しは素直に感謝させてくれよ」
周囲の状況がより悪化しないように取り計らったり俺の背中を押して勇気を出させてくれたりと、陰に日向に活躍を見せていた後輩に対して、それは正直な感想だった。
やってくれたことを思えば感謝しかないのに、素直にそう感じることを難しく感じるこの気持ちは何なのだろうか。
という内心を思わず溢してしまったが、当然ながらこれは軽率な行いだった。こんな台詞、この後輩が揶揄しないわけがないのだから──と軽く狼狽えた俺に向けて、しかし後輩が浮かべた笑みは意地悪なそれではなく。
「感謝なんて必要ないっすよ。どれもこれも、こづちがやりたいようにしただけなんっすから」
「そう言うわけに行くかよ。お前のお陰で、俺は……たぶん結果的に瑕納佳も、助かったんだ」
優しい笑顔で紡がれた言葉に、俺はその否定と感謝を告げる。
「もう、小途先輩は変な所でだけ義理堅くて頭が堅いっすねぇ。本当に、頑固って言うか」
「この分だと、頑固なのはお前もだろ」
「なら結局は似た者同士ってことなのかもしれないっすね。こづちたち」
しかし、こづちは変わらぬ調子で、軽薄な態度は崩さないまま茶化す。
「人が自分に持っている、ましてや言葉にされた感謝を受け取らない奴も、祿なことにはならないんじゃないか? さっきのお前の台詞を借りるとさ」
「お、小途先輩の癖に言うっすね」
「誰かさんのお陰で、屁理屈は聞き慣れてるからな」
誰かって言うか、普段から屁理屈で俺を言い負かしてくる相手なんかこづちしかいないけど。
かのかと綾は、頭は回るくせにどちらかと言えば直球勝負だし。瑕納佳は、どちらだろう。
「ふむ。ところで、感謝してるって言う以上は、小途先輩はこづちのお願いを聞いてくれたりするっすよね? その感謝を受け取ってあげたら」
「ん……まあ、俺にできる範囲なら」
後輩の急な掌返しに、俺は少し面食らいながら答える。
俺と似た者同士なのが嫌だったとか、或いは俺に『お願い』があったとかだろうか? 前者なら拒絶されたみたいで地味に傷付く。
「それで良いんっすね? 言質はちゃんと録ったっすよ?」
「俺は『できる範囲なら』とも言ったからな? そっちも頭の隅に置いといてくれるか」
「言質をとる」の「とる」の漢字が録音・録画の「録」だった気がしたことはスルーだ。
どうせ文字通りの意味だし、指摘したところで何かが変わるわけでもなく、俺が疲れるだけだ。
反応が返って来なかったので、果たしてこづちに俺の反駁を聞き入れる気があったのかは残念ながら分からない。ともあれこづちは、普段と一切変わらない軽い口調で『お願い』を告げた。
「──こづちと付き合ってください、っす」
──余りにも何気無い調子で紡がれた言葉はさながら日常会話の延長線上で、不自然なその自然さに戸惑った俺は、すぐ反応することさえできなくて。
数瞬遅れてようやく訪れた驚きと衝撃に、声も出せずに呆然と立ち尽くす他なかった。
こづちは足を止めて、緩慢な動作で俺の方を振り向く。
「いやいや、そんなに驚くようなことっすか? こづちが小途先輩をどう思ってるかについては、昨日から何度となく言ってきたはずっすよ」
声を緊張に震わせることも、顔を羞恥に赤らめることも一切なく、生意気な後輩はどこまでも平常運転。いっそ、こんなに動転している俺がおかしいのかと錯覚してしまいそうなほどだ。
──だけどその声も表情も、普段の冗談めかせたそれとは確かに異なる、幾分か真剣みを帯びたものだった。
彼女の眼に見える全てが、聴こえる全てが、この後輩は疑いの余地なく本気なのだと、この告白が皆琴こづちの本音なのだと教えてくれていた。
真摯で純粋な、儚くも美しい『恋』の感情が、痛いくらいに伝わってくる──この告白に真剣に向き合わねばならないのだと、否応なく理解させられる。
俺はまず最初に、息を一つ大きく吸った。
突然の展開に暴れる鼓動を鎮めて、漣さえ立たない静かな凪を、表面だけでも装う。
そして、心からの素直な答えを口にするのだ。
──明白な拒絶を、はっきりと。
「お前が俺を好きって言ってくれるのは、すごく嬉しい。こんな俺でもお前に好かれるだけの価値が俺にあるんだって思うと、勝手だけど誇らしくさえ感じる。瑕納佳にも言ったことだけど。
お前には今回の一件だけじゃなく色々と世話になったし助けられたし、さっきも言ったように感謝だってしてる──だけど、残念だけど俺はお前の気持ちには応えられない。それとこれとは話が別だ。
俺が恋愛的な意味で好きな相手は、世界に坂穂瑕納佳だけだ。それだけは揺るがずに決まってる。
だから俺には、その『お願い』だけは聞けない」
──一思いに言い切ってから、気付く。
「俺は坂穂瑕納佳が好きだ」──そんな、言葉にしてしまえば単純なことを、羞恥も躊躇も罪悪感もなく言葉にする。それだけのことのために、俺はどれほどの時間を要したのだろう。
自分が誰をどんなに好きか、きっと最初から分かっていた。この胸にはずっと、確かな答えが宿っていた。
だけど自分の中の劣等感が、臆病心が邪魔をするせいで、想いを直視できてすらいなかった。
「もう知ってるっす。その言葉が先輩の口からちゃんと聴けたので、こづちは満足っすよ──それは、昨日は聴けなかったっすからね」
どうやら似たようなことを感じていたらしい後輩は、一切の未練も毒気も感じさせずに、ただ柔らかに優しい笑みを浮かべていた。
「そうやってちゃんと言葉にしてもらえたら、諦める決心も、もう鈍らないっすから──こづちの本当の『お願い』は、先輩と付き合うことじゃなく、先輩が成長できたところを見ることと、こづちの恋を諦めさせてもらうことだったっすから」
早口にそう言い切って、こづちは足早に歩みを再開する──さながら、自分の表情を見せないためのように。
周囲に気を遣って、自分の願いも後回しにして。
こづちだって一人の少女でしかないのに、俺はこいつにどれだけの重荷を背負わせるのだろう。どんなに気丈に強がってみせたところで、最初から諦めていたのだとしても、当然ながら胸を抉るような失恋の痛みを感じないわけではない。
このときの俺が、こづちの声の震えや瞳に溜まった滴に気付いていない振りをしたのは、頑固で強情な後輩の為などではなく、ただ自分の心をこれ以上傷付けないためだったのだと思う。これ以上、自分の手で彼女を傷付けてしまわないためだったのだと思う。
──だけど、今の自分の行動に、口にした瑕納佳への愛情に、後悔などあるはずもない。
坂穂瑕納佳を選んだことを悔やむ日など、永遠に訪れない。
この痛みを胸に刻んで、それでも前を向いて生きると決めたから。
俺は、こづちの隣に並ぶことのないようなゆったりした歩みで小さな背中を追いかけた。
すすり泣く音はたったの十秒程で止み、まだ眦に涙の跡が残る後輩が振り返る。
「何もたもたしてんっすか。さっさと行かないと遅れるっすよ」
もう震えなどどこにも残っていないその声に、俺は歩みを早める。すぐに追い付いて、いつも通りの俺たちらしく他愛無い話が始まった。
怒らせてみては怒って、ふざけてみては突っ込んで、そして最後には笑い合う──仲の良い友達みたいな、心地好くて楽しい時間。ありきたりでありふれた、かけがえのない幸せな時間。
「──さて、そろそろお別れっすね」
そんな時間も、やがて終わりの刻を迎える。こづちの通う中学校と俺たちの高校とが左右に見える大きな交差点が見えてきた辺りで、こづちはそれまでの雑談を打ち切った。昨日と同じで、二人で歩く道はそこまでで終了だ。
足の動きは止めず黙ったままで、こづちは俺に、試すように挑戦的な視線を向けてくる。
その意図を捉えられない疑問符を孕んだ俺の視線と互いに交錯して、音の届かない世界で見詰め合う時間が数秒だけ続いた。
耐え兼ねた俺が「何だ」と言うより先に、後輩がその口を開く。
「さよならの前に一つ、小途先輩に訊いておきたいことがあるっす」
告白のときに近い、普段とは決定的に異なる神妙な面持ちと声音。
俺は気圧されるように、ただ無言で次に紡がれる言葉を待つ。
「──先輩は今、誰の味方っすか?」
──その言葉を告げられた瞬間に、俺はこづちが先程見せた挑戦的な笑みの意味を悟る。
それは、昨日のこの場所で、皆琴こづちから投げ掛けられたものと全く同じ質問で──昨日の俺が、答えることのできなかった質問だった。
こづちの表情を見れば、ついさっきまで見せていたはずの神妙な様子は影も形も残っていない。浮かべていたのは、意地悪くにやついた、ふてぶてしくも可愛らしい笑み。
──今はまだ答えなくて、答えられなくて、良いっすよ。
──それを本当に理解したときに、こづちに聞かせてほしいっす。
俺の、成長。昨日の朝と、ついさっきにこづちから言われた言葉が脳裏に蘇る。
──思えばこいつには随分と格好悪い所を見られてきたけれど、確かに最後くらいはしっかりと、俺も成長したんだって所を見せないと駄目だよな。
だから俺もこづちに倣って、出来る限り意地の悪い笑顔を浮かべてみた。
様になっているとは到底思えないし、なんなら不恰好なくらいだろうが。
俺は、一切の躊躇い無く答える。
──俺の、成長の証を。
「俺は俺の味方だ。
俺は、俺がやりたいことをやりたいようにするだけ──心の底から愛してる一人の女の子を、心の底から抱き締めるだけだよ」
後輩は俺の答えを聞いて、目を閉じて噛み締めるように頷き、それから満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、さよならっすね──坂穂先輩によろしくっす」
「ああ、それじゃあ」
ちょうどそのとき、まるでタイミングを揃えたかのように、それぞれの学校へと分岐する交差点へと辿り着く。
こづちは別れと意趣返しのような言葉を口にして、そそくさと自分の通う中学校へと歩みを始めた。
俺も高校へ向かおうと、こづちが歩いていった反対側へと足を向ける──が、一歩目を踏み出そうとした刹那、背後から呼び止められた。
「──やあ、おはよう」
もう聞き慣れたともまだ聞き慣れないとも、どちらとも言うことのできない声音に振り向くと──
そこにいたのは坂穂瑕納佳だった。