#20 from there, not here
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「──その必要は無いよ、瑕納佳。
──お前はもう、自分を殺すな」
決意を胸に秘めて、俺は告げる。
瑕納佳は一瞬だけ戸惑う表情を見せたが、何を言われたのか分からないといった顔はすぐに、納得したようなそれに移り変わった。
「ああ、キミなら確かにそう言うだろうね。考えてみれば、キミにとってのボクは、もう謂わば他人みたいなものだし、これからもボクと関わる理由自体がない。これを機に縁を切ってしまうのも、正しい選択──」
「──瑕納佳、まず勘違いを正すよ」
放たれた台詞には、隠しきれない諦感が明らかに満ちていた。それゆえにこそ、少女の胸の深淵に潜む失望や悲しみを、聴いた者全てに否応なく伝える響きでもあり。
瑕納佳がそれを文末まで言い終わるのさえ待たずに、俺ははっきりとした口調で遮る──いや、「待てずに」と言った方が正確だった。聞いていられなかった、と言っていい。
それほどまでに、俺は一瞬で激昂したのだ。
口にした通り、少女のあまりに愚かしい勘違いに。
「まず一つ。俺から見れば坂穂瑕納佳がただの他人でしかないとか、今言いやがったか?」
「言ったよ、当然だ。キミがこれまで関係を築いてきたのは、キミがこれまで見て話して触れていた相手は、全てが虚構の『坂穂かのか』であって、決してボクこと『坂穂瑕納佳』ではないのだから。『ボク』とキミとは、今この瞬間が初対面じゃないか」
呆れたように大きな嘆息を一つ漏らしてから、聞き分けの悪い子どもを諭す口調で彼女は言う。
「次に二つ。さっきからずっと、『坂穂瑕納佳』には俺に好かれるような価値なんか微塵も無いみたいに言ってるだろ」
「それもさっきと同様、実際にその通りだとボクは思っているからね。ありのままの坂穂瑕納佳、『ボク』という存在は、キミに受け止め愛されるほどに美しいものではない。誰かに愛されようと冀うのであれば、仮初めでも何でも自分を殺して偽り続けるしか、ボクに道は無いんだ」
俺の台詞に内包される怒りの割合が、思わず多くなっていく。瑕納佳から返される答えも、淡々とした物言いとは裏腹に、次第に熱を帯びていった。
「それが馬鹿な勘違いだって言ってるんだよ。頭の回転速いんだから自分で気付けってんだ」
「キミこそ、自分が言っていることに筋が通っているかを再確認してみるべきじゃないかい? 客観的に見て、正しいのはボクの方だと思うよ」
「その『客観』はどこ視点だよ。完全に瑕納佳の主観じゃねえか。生憎、俺の主観で考えたら、間違ってるのは瑕納佳だよ」
「ボクはキミのことをずっと、現実そのものを冷静に正しく認識することのできる人間だと思っていたんだが、どうやらそれは間違いだったみたいだ。こんなに簡単な理屈も分からない──いや、分かろうとしないなんて」
「瑕納佳がさっきから言ってるごちゃごちゃした馬鹿みたいな理屈が仮に現実なら、正直に言って理解なんかしたくもないさ。むしろその評価で結構、何なら光栄なくらいだよ」
「ああそう。それは良かったね」
「それに、どの口が言ってんだよ。瑕納佳が言ったことの全部、そのまま自分に帰ってくるぜ?」
「キミがさっきから言っている、諦めと物分かりの悪い幼い子どもみたいな理屈こそ、ボクは理解したくないね」
──互いに平静を失っていって、論争は急激にヒートアップし、とうとうただの言い合いになる。
自分が正しくて相手が間違ってるのだと主張する、意地とプライドだけは立派な、子ども以下の低レベルな言い争い。
だけどその不毛な戦いは、始まりも唐突なら終わりも唐突に迎えた──俺も瑕納佳も、怒りを差し置いて込み上げてくる笑みを、ついに隠しきれなくなって、どちらからともなく、互いにしか聴こえないような大きさで笑い出す。端から見れば奇妙でしかない光景だろうが、聴こえていなければセーフ。
「思えば、キミと喧嘩するのは初めてだね」
「『かのか』は、相手と争ってまで自分の主張を通すタイプじゃなかったからな。俺も何か新鮮な気分だよ」
坂穂瑕納佳が仮面を脱ぎ捨て『自分』を晒け出した結果、見ることのできた景色だ。
匣を開けた先の景色に、俺が今までに見たことのない『瑕納佳』を知ることができた。
それは瑕納佳の方も同感なんじゃないかと思う。
演技を止めた『自分』で俺と接することで、見たことのなかった新しい景色を見られたのではないか。
──それに、確信も得られた。
俺は一つ深呼吸して、笑い疲れた心と息を整える。小声で笑うのは意外と体力を消耗するからな。瑕納佳はそれを見て、姿勢を正して向き直った。
「瑕納佳」
その少女の名前を、呼び慣れたそれとは異なる発音で、俺は呼ぶ。
いつもよりも硬いその響きは、字面だけが理由でもなさそうだった。
「さっきも言った通り、瑕納佳は決定的に間違ってる。これだけは譲れない」
「──聞こう。キミの考えとやらを」
先程までとは打って変わって、双方共に、やけに落ち着いている。笑いあったことで、張り詰めていた緊張が少しは和らいだからかもしれない。
穏やかに響くその声には、俺に言葉を紡がせるのに充分な力が込もっていた。
「──俺の、恋人になってくれ」
「付き合う切っ掛け自体は、確かに成り行きみたいなもんだった。けど、だけどいつからか──今もまだ、俺はお前のことが本気で好きなんだ。
俺は坂穂瑕納佳を愛してる。
お前の言うように、俺が惚れたのは仮面の『坂穂かのか』なのかもしれない。
だが、それだけじゃないのも確かだ──裏側に隠された『坂穂瑕納佳』の存在まで含めて、俺は瑕納佳が好きだ」
──それは、ずっと自覚していながら、今朝までは一度たりとも口にすることの出来なかった告白。坂穂瑕納佳に向ける、俺の素直な想い。
ようやく今、俺はこの気持ちを瑕納佳に告げることができた。
堂々と言い放った後の俺の胸には、やりきったような達成感と爽快感が、場違いにもただ溢れている。
だけど、対する瑕納佳の反応は俺の態度とは正反対と言って良い。予想していたことではあるし、まあ彼女からすれば当然の反応だろうと思うけれど。
少女は「つまらない、しかもタチの悪い冗談を聞かされた」みたいな苦々しい表情を隠そうともしないで、詰問するように言う。
「キミが『坂穂かのか』を愛するようになっていたというのはボクにとってすごく嬉しい話だし、そして理解できないでもない話だ。
そこに疑問を挟む積もりはない──だけど、そこまでだ」
言葉を一旦そこで区切って、鋭く尖った冷たい刃物のような視線を俺に向ける。
「キミが『かのか』に出会った一月前のあの日から今日までずっと、キミは『坂穂瑕納佳』なんて存在のことを認識さえしていなかった。『かのか』の中で隠れて眠っていたボクのことなんて、知らなかったはずだ。
それなのに、ボクも含めて『坂穂瑕納佳』が好きなどと、意地の悪い冗談にも程があるよ。
キミにとってのボクは、ついさっき初めて会ったばかりの何も知らない相手でしかない」
「──知らなくなんか、ない」
呆れと怒りと失望が同居した口調で糾弾を重ねる瑕納佳に対して、俺はその言葉を遮って主張する。
少女の、もう一つの勘違いを正すために。
「『かのか』も『瑕納佳』も、最初から区別する必要なんて無いんだよ。偽りだとか本性だとか言ったところで結局はどっちも一人の同じ人間、坂穂瑕納佳だろ?
俺がこれまで一緒にいたのは確かに『かのか』だろうが、だけどそれは坂穂瑕納佳の偽物でしかないのか? 一緒に過ごして重ねてきた記憶は、『かのか』の存在は紛い物でしかないか?
俺が惚れた『かのか』は、虚構か?
──断言できる。違う、そんなわけがない。
俺が一緒に過ごしてきた『かのか』も、今こうして話している『瑕納佳』も、俺にとっては恋しくて愛しい坂穂瑕納佳って一人の女の子だよ」
区別する必要はない。
どちらか一方を否定して切り捨てる必要もない。
『瑕納佳』と『かのか』とは何もかもが違っていて、かけ離れている。ならば、今でもなお高鳴っている俺の胸の鼓動は、一体何だと言うのか。
恋心の力強い主張、それ以外の解釈などあるはずがない。
理屈なんて、今はどうだっていい。
この強い気持ちの前では、それ以外の全ては霞んでしまうのだ。
「それに『坂穂かのか』っていう人格は、瑕納佳が自分の意思によって、つまりは意識的に生み出したものだ。
殊更強調することでもない話だが、自分の中に別の人格を、それも意識的に造り出すなんて、そんなのは簡単なことじゃないはずだよ。
だって意識して造った別人格なんか、『自分』から遠く離れた他人にはそうそうならないだろ?」
そんな俺の指摘に、瑕納佳が瞠目する。
珍しい表情が見られて、少し満足だった。
──専門的な知識があるわけではないので俺の想像で補っている部分も多いのだけれど、取り敢えずは聞いてほしい。
一人の人間の体に対して複数の人格が宿る例として、俗に「二重人格」と呼ばれる状況を考えてみたとしよう。大きなストレスなどによって起こると謂われるあれだ。
言うまでもなく、これは「無意識」によって産み出される人格の例だ。
この場合、各人格は同じ肉体を共有してはいても、精神的には割と対照的な、いっそ「もはや別人」というくらいのものになることが多いらしい。
なので、「元を辿れば一人の人間として存在していたんだから、どちらの人格も君なんだ」などと軽はずみに言うことは出来ないように思う。
だけど、無意識じゃない、確かな人為によって自己の内面に生み出された人格はどうだ?
少し例としては飛躍しているかもしれないが、絵画や小説、彫刻や映画といった「芸術作品」をイメージしてみよう。
どんなジャンルの作品であれ、作品にはその『作者』の存在が反映される。価値観、つまりは物事の捉え方や、普段なら他人には見せないかもしれないような深い心理が、少なからず混入する。
それこそ文芸を例に採れば、この界隈の歴史において、『作者』を抹消して微塵も感じさせない客観性こそを重視して持て囃した時代もあるのだ。
そのくらいに『作者』とは、意識しなければは消せない、或いは意識しても消せないものであるということだろう。
まあそれは流石に大袈裟だとしても、小説家が「『自分』の中に全く無いキャラを描くのは難しい」と言ったりしているのはよく聞く話だ。
──そう。坂穂瑕納佳が自らの中に『坂穂かのか』を造り出したのは疑いようのない純然たる事実だとしても、『自分』からかけ離れた人格なんて、本当に意識的に生み出せるものなのか?
そこには『作者』が存分に混じって──溶けて、重なりあっているのではないか?
「君がこれまで関係を築いてきた『かのか』の中にも『ボク』は色濃く反映されていた。だから決して他人ではないし、まるっきり知らない相手でもないと──無茶苦茶な理屈だね」
「理屈じゃないさ。道理も根拠も関係ない、実際は全くの的外れかもしれないような、あくまでも個人の感想ってやつ──でも俺にとっては、それだけで既に充分なんだよ」
それに、だ。
「かのかが俺に告白したあの日、俺の無意識下の企みを指摘して、何て言ったか覚えてるか?」
急に思える話題の転換に、瑕納佳が戸惑いを顕にする。
肯定や否定の合図が返ってくるのを待たずに、俺は言葉を続けた。
「瑕納佳が劣等感に苛まれて『かのか』を演じて、罪悪感に溺れそうだったのなら、俺はあの日言われた言葉をお前に返すよ。
──気に病む必要はない。
──その評価こそ、受け手次第だ」
あのとき俺が聴いた優しい響きを、果たして彼女が受け取ってくれるのか。温かな言葉を届けられているのかは分からない。
だが、それでも伝えたかった。
「瑕納佳は、俺の醜い打算を『優しさの現れ』だって言ってくれた。柔らかに肯定してくれた。
あの言葉に、俺はきっと救われたんだと思う──自分のことを、それまで以上に嫌わなくて済んだんだと思う。
瑕納佳が俺を好きだって言ってくれたから、こんな自分にも価値があるんだって、少しは自信が持てた」
素直な想いを胸に、瑕納佳へと精一杯の言葉を。
「俺の恋人になってくれ──俺を、そして『自分』を、愛してくれ」
少女は驚いたように硬直して、すぐには反応が返ってこない。
構わない、俺もいつまでだって待ってやるつもりだった。
「……ボクで、良いのかい?」
沈黙を破ったのは、弱々しく震えて辿々しく紡がれる、自分に自信を持てない少女の言葉。その瞳は潤んで、眦には大粒が溜まっていた。
「確かにお前の言う通りで、俺が知ってる『坂穂かのか』と今ここにいる『坂穂瑕納佳』じゃ何もかもが違うのかもしれない。
だけど、だからこそ──知りたいって、そう思ったんだよ。俺がまだ知らない『瑕納佳』のことを、もっと知りたいって」
二人で、新しい物語をこの場所から──いや、違う。
この物語は新しくもなければ、ここから始まるわけでもないのだから。
あの日に始まったこの物語は、今日までずっと絶えることなく続いてきたのだから。
──あの日から続くこの物語を、だからここで、改めて繋げよう。
俺はいつも、過去の自分という存在を嫌悪している。
知識も思慮も何もかもが足りていなくて、後悔とともに思い返しては羞恥が込み上げてきて、直視すらできない。ましてや賞賛など、今までにしたことがなかったと思う。
──そんな俺だけど、このときのことだけは、誇らしい気持ちで思い返すとともに、珍しく褒めてやっても良い。
きっと一生忘れることなんてできやしない、これまで見た中でもとびっきりに魅力的な、涙に濡れていても太陽のように輝く弾けるような笑顔を、ただ強くこの眼に焼き付けながら、俺はふと、そんなことを思った。
第三幕、これにて完結です。
次回からは第四幕(後日談、エピローグ)が始まります。
終幕までのカウントダウン、あと五節!