#2 幼馴染の距離感
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かのかとの通話を終えてから一夜が明け、翌日の日曜日。現役の高校生らしく午前中の大半を勉強に費やして、家を出たのは太陽が空の中央を越えた後のことだ。
綾との待ち合わせは、最寄りの駅前に十三時。家からゆっくり歩いても十分と掛からない距離なので、時間にゆとりを持つ必要はほとんどない。
とは言え客観的に考えると、俺が約束の為に自分の家を出た時刻は、残念ながら常識の範疇ではないだろう。
十三時、二十分。約束の時刻の二十分後に家を出た俺が駅前に到着したのは、十三時半の二分前だった。
誤解しないでほしいが、時間を守ることの当然さと大切さは勿論理解している。ましてや女子との約束だ。男子として、集合時間の前に着いておくのがマナーだろうし、相手を待たせるなんて御法度だろう。
俺だって、約束の相手がかのかなら十五分前には到着する。かのかを待たせたままにしておくなど論外だ。
ただし、相手が絢峰綾の場合は別である。
俺の予想通り、幼馴染は集合時刻の三十分後きっかり、十三時三十分ちょうどに到着した。
付き合いの長さ故に慣れてしまっているが、絢峰綾は昔からこうだ。約束の時間に来ることなんて、まずない。エチケットを遵守していたら、果てしない待ちぼうけを喰らうこととなる。
三十分でも、実は早いくらいだ。
「お待たせ! じゃあ行こっか」
そして何事もなかったかのように振る舞う。ここまでが普段通り。思い返せば、こいつからまともに謝罪の言葉など聞いたことがないような気さえしてくるから不思議だ。
実際には二分しか待ってないから、構わないけれど。それに、指摘して直るものでもないし。綾と共に行動するときには諦めが肝要だ。
俺は黙って頷き、二人で連れ立って歩き始める。
「それにしても、かのかが来れなかったのは残念だね。私も一応は、彼女持ちを連れ回す罪悪感とかあるし」
気を遣わねばならない場面は、もっと他にあるのではなかろうか。
「なら、他の誰かを誘えば良かったんじゃないか? 友達多いだろ、お前」
綾は、学校ではかなりの有名人だ。違うクラスに在籍している俺が、幼馴染ということを差し引いても頻繁に名前を聴くほどに。
成績は学年で三位、運動能力も群を抜いている。周囲には分け隔てなく優しいし、容姿も人並み以上。女子からの信頼は厚いし、男子から告白されるのもしばしば(本人いわく「後腐れなく断るのが難しいから嫌」だとか。贅沢な悩みだ)。
そんな少女と連れ立って歩く俺は、しかし平凡や標準を体現したような平均的男子高校生だった。成績は中の上で、運動も人並み程度。交遊関係にしても、広くもなく狭くもなくといったところ。
幼馴染でなければ、綾と関わることなど無かったのかもしれない。
仮にそんな世界が有り得たら──
「中学までなら、それも簡単だったんだけどね。高校だと、やっぱり電車通学の子が多いから、休日に集まるのが難しいんだよね。住んでる場所が離れてると、どうしても。徒歩通学なんて私を入れても四人しか知らないや。探せば他にもいるだろうけど」
──俺と綾、そして打出。それから春に引っ越してきた、かのか。
話しているうちに、俺たち二人は駅の真横にある大型ショッピングモールに到着。自動ドアに招かれるままに入り、エスカレーターで上階へ。
「なら、打出は誘わなかったのか?」
派手でない程度に明るいワインレッドの大きなヘアピンで軽く纏めた前髪と、左右でゆるやかに束ねた肩まで届く黒髪は、先程までは綾の歩みと共にぴこぴこと揺れていたが、今は大人しく佇んでいる。
俺の二段上で運ばれる綾は、半身だけこちらに振り返りながら、不機嫌を隠そうともせずに答えた。
「誘うわけないじゃん。小途は知ってるでしょ? 私が打出嫌いだって」
「……いや、初耳だけど」
知ってるでしょ、と言われても全く覚えがない。よくよく思い返してみれば、確かに綾と打出が二人で話したりしているところはあまり見たことがない気もするけれど。
桜音打出。俺のもう一人の幼馴染、つまりは綾の幼馴染でもあるこの男は俺の親友でもあるのだが。
「何で嫌いかって、訊いていいか?」
「訊くだけならね。答えないから」
「それは訊いていいとは言わない」
三階で降りて、綾はそそくさと早足に歩いていく。ただし、すぐに追い付ける程度のペースで。俺が横に並ぶと、綾は溜息を一つこぼして呟いた。
「長い付き合いだと、お互いに色々と見えてくるものや分かることがあるでしょ?」
一瞬何の話か分からなかったが、しかし考えるまでもない。どうやら、質問に答えてくれるようだ。さっきの拒否は天邪鬼を発揮しただけらしい。
「私が打出と関わる中で知った彼の一面を、私がどうしても気に入らない。それだけの話よ」
とは言っても、紡がれる台詞は棘に満ちていた。
地雷を踏んだかと思いながらも、何も言葉を返さないのもどうかと思い、俺は応える。
「それは、誰でもそうじゃないか? 気に入らないところくらい、誰にだってあるだろ」
「全くもってその通りよ。だから、態度に示してはいなかったつもり。進んで話題に揚げるつもりも無かったわ」
間髪を入れないその返答に、俺は追及したことを後悔した。俺のせいか。
このままの重い空気で買い物を乗り切らねばならんのか、と憂鬱が胸に芽生える。
しかし、その必要は無かった。絢峰綾の機嫌は山の天気を早送りにしたくらい急速に変わる。前触れなく嵐が来るが、すぐに嵐が去って太陽が笑みを見せることも珍しくない。
結局、綾の機嫌と空気の重さの回復には一分すら掛からなかった。興奮に上擦った楽しそうにはしゃぐ声を俺に浴びせる少女が、本当にさっきまでと同じ人物なのか疑問に思うくらいだ。
「小途、これ! こんな可愛い服! しかも安い! 何これ! 試着してくるからここで少し待ってて!」
感嘆符を文末に常設し始めたハイテンションガールは、人目も憚らずに騒がしく嵐のようにブティックの試着室へと突入して行った。ぱっと見えた限り、腕に抱えていたのは五着ほど。眼を離した積もりはなかったのだが、一体いつの間に選んだのやら、皆目検討も付かない。
言うまでもなく、此度の『買い物』の目的はこれである。無類の服好きである綾いわく「安くて可愛い店ができたらしいから行かなきゃ」だそうで。俺は荷物持ち、兼感想係。かのかが来ていた場合は、綾の着せ替え人形、兼俺の眼の保養となっていただろう。
綾が試着室のカーテンを開く度に感想を求められる時間は、一時間ほど続いた。暇潰しに始めた「同じ言葉を使わずに褒める」という試みにも限界を感じ始めた辺りで、満足の行く服に巡り逢えたのか、ようやく綾は会計を済ませた。
結局、買ったのは最初の五着のうちの二つ。迷いに迷った末、最終的に第一印象に従うというのは、結構よくあることな気がする。
一つ言えるのは、髪型もそうだが、綾のファッションセンスは少女趣味だということ。試着室に持ち込んだ服の中に、薄いピンク基調でフリル過多のワンピースがいくつ含まれていたか。
因みにブティックを後にしたとき、綾の服装は変わった。買った中でもとびきり気に入った服に、早速着替えたらしい。
「いやー、楽しかった!」
「楽しそうだったな」
お前は。
俺も、楽しくなかったとは言わないけどさ。
楽しんでいる幼馴染を間近で見るのは不愉快、というほど狭量ではないつもりだ。少なくとも、購入した服と脱いだ服を入れた紙袋を持たされても文句を言わない程度の器なら備えている──これは、綾に対する諦めかもしれないが。
「一番の目的は果たした感じだけど、まだどこか寄るのか?」
「んー。まだ三時にもなってないし、このまま帰っちゃ勿体無いよねー」
モール内を歩きながらの俺の質問に綾は、ブティックでの興奮を引き摺って恍惚としたままに、少し考えるような素振りを見せつつ口を開く。
「でも、そうは言ってもノープランで歩き回るってのも疲れるし……」
「少途となら、それはそれで楽しそうだって思うけど。まあ確かに、時間を無駄にしちゃってる感はあるかも」
言って、綾は足を止める。
「じゃあ、具体的なプランは何か食べながら考える、ってのはどう? 私お腹空いちゃったし」
その場所は、大型ショッピングモールにありがちなフードコート。軽い腹拵えと話し合いにはこれ以上無く打ってつけと言っていい。
──服屋に入るまでも服屋を出てからも、二人が歩く道筋は全て綾の一存で決まっていた。俺はずっと、綾が足を向ける方向に従って歩いてきただけだった。そして今、綾がちょうど立ち止まった場所がここ。
そんな偶然が、この世にあるか?
或いは絢峰綾なら、こんな些細な偶然くらい起こしてしまいそうだが。
「良いけど、別に奢らないからな」
「ぶー。かのかには奢るくせに」
「彼女は別枠だろ」
さてはこいつ、最初からここに来るつもりだったな。
迷いの無い足取りでドーナツ屋へと歩いていく幼馴染の背中を見ながら、俺は溜息を溢しながら二人分の席を確保するのだった。
その後も、幼馴染との買い物ツアーは問題なく続いた。結局はゲームセンターで時間を潰すことになり、俺たち二人が対戦したり協力したりしている間に気づけば夕方になっていた。
このきっと親友以上の楽しさと心地好さは、幼馴染ならではのものかもしれない。いつの間にやら過ぎ去っていたそんな時間もとうとう終焉を迎え、二人で並んでモールから出る。
全ての元凶ともいえる事件──あまりそぐわない表現だが、そう呼ぶ他にないだろう──は、そこで起きた。
静かに暮れていく茜の空を背景に、帰路に着くその一歩を踏み出そうとしたそのときに、すぐ横にいた幼馴染がそっと俺の袖を引き、そのまま俺の身体を引き寄せた。
さほど強い力だったわけでもない。普段なら、そのまま引き寄せられることはなかっただろう。
それでも抵抗できなかったのは、あまりに予想外だったからか。
そして綾は俺の耳に口を近付ける。
少女の表情は、偶然か計算か、死角となっていて見えない。だがきっと、彼女の頬は夕陽よりも赤く染まっていたのだと思う。
ともすれば聴き逃してしまいそうなほどにか細い、だけど確かな意志を秘めた声で、綾は囁いた。
「────」