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#19 between You and "You"

28


 『坂穂瑕納佳』の独白は重く深く、俺の胸を締め付けるように響く。

 彼女がこれまで隠して抱えてきた内心の全てを吐き出すまで、俺はただそれを黙って聴いていた。


「キミが覚悟を決めたというなら今更確認するまでもなく分かっているだろうが、『坂穂かのか』が死んだ以上、キミとここから言葉を交わす相手はボクということになる。

 きっとキミは、キミのよく知る『かのか』とこの『ボク』との間に存在する大きな隔絶に驚くだろうが──それで、構わないね?」

 ──全てを語り始めるより先に、坂穂瑕納佳は前置きとしてそう言っていた。

 彼女の真剣なその物言いに首肯したとき、俺も決して話半分に聞いていたわけではないけれど、それでも俺が受けた衝撃は計り知れないほどに強烈だった。

 俺の隣に座る少女に、眼に見える限りの変化は起こっていない。この一月で見慣れた、ついさっきまでそこに存在していた姿と何一つ変わっていない。言葉を紡ぐその声にしたって聞き慣れた音色に近くて──なのに、響きが決定的に違う。

 少女がその身に纏っている空気が、その体に内包された雰囲気が、『坂穂かのか』のそれと、間違えようがないほどに完全に異なっている。

 『坂穂瑕納佳』。


「……もはや別人だな」

 少女の語りを聞く中でより大きくなっていった感慨は、独白が終わりを迎えると同時に、思わず俺の口から溢れてしまっていた。

 失言だったと焦ったが、対する瑕納佳は何でもないように軽々しい口調で、少しだけきまり悪そうにしながらも頷く。

「まあ、そうだよね。言われると思っていたよ。それについてはボク自身も深く同意するところだ。気にしないでくれ」

 同じ口から紡がれるのを聴いたことのないような切ない響きが、胸を締め付ける。

 このときの瑕納佳が見せていた笑顔は、『かのか』と全く同一の顔ではありながら、今までに見慣れた爛漫らんまんな笑みとは決定的に異なる昏い自嘲的な笑みだった。

「我ながら、本当に自分からかけ離れた人格を産み出したものだ。キャラ作りも行き着く果てまで行き着いた、という感じかな──しかもその努力も犠牲も全てが、ただひたすらに一つの恋のためと言うのだから、笑えないよね」


 ──例えばこれが冗談だったとしても、笑えない話だな。

 ──本当に、笑えないよね。馬鹿なくらいのあの素直さは、笑えない。

 ──間とタチが悪かったよ。

 蘇るのは、昼休みに俺と綾が口にした言葉。


 俺がよほど悲痛な表情でも浮かべていたのか、鬱屈してすさんだ内心を見抜いたかのように、瑕納佳はすぐにその自嘲的な笑みを消して、俺にとっては見慣れた微笑みに表情を変えた。

 『坂穂かのか』がいつも浮かべていた、柔らかで優しい微笑み──それを視界に入れた瞬間に安心した自分がいたことは、はっきりと自覚した。

 瑕納佳は『かのか』の表情を浮かべたまま、口調は『瑕納佳』のままを保って続ける。

 それはさながら出来損ないの吹替映画のように、見ているこちらに膨大な違和感を押し付けるような光景で。

「『坂穂瑕納佳』の存在はキミにとって『パンドラのはこ』だったのではないか、と思ってしまうよ。知覚しなければそれが誰にとっても最善で、仮に存在を知ってしまっても、見なければ、蓋を開けなければ良かった」

 だから、と瑕納佳は告げる。

「だからボクは、キミに今一度問いたい。その場(しの)ぎの有耶無耶うやむやも曖昧な誤魔化しも抜きにして、ただキミの素直な本心だけで、肯定か否定かだけを答えてほしい。


 ──後悔、してはいないかい?


 『坂穂かのか』を殺して、匣を開いたことを。

 後悔などないと、言うことができるかい?」

 僅かな澱みもなく告げられた台詞に、微かな迷いもなく尋ねられた疑問に、俺は自分の中に、必死に答えるための言葉を探す。

 姑息な答えでは、坂穂瑕納佳は満足しない。

 かと言って、この状況を切り抜ける妙案や口車が、俺にあるわけでもない。

「──仮に俺が後悔してるって言ったら、瑕納佳はどうするつもりだ?」

 出来たのは、そんな弱気な疑問符を浮かべて考える時間を少し稼ぐだけの涙ぐましい小細工。

「キミに後悔があるのなら取り除きたい、ボクが願うのはそれだけだよ。そのために後悔の原因を断つ──キミが望むなら、ボクは再び過ちを繰り返す。

 ボクはもう一度『瑕納佳』を殺して、キミの望む『かのか』を生き返らせる。

 適度に頭が回って、庇護欲をそそり、可愛気もある、ボクとは大違いの器をキミに返そう」

 少女には、微塵の躊躇も感じられなかった。

 そして彼女は、まるで誇るような笑みを見せる。


 ──俺はこのとき坂穂瑕納佳に対して初めて、だがはっきりと、大きな『恐怖』を覚えた。

 彼女から向けられている想いの、あまりの重さと暴力性が素直に『恐い』と思った。

 好きな相手が望むなら躊躇なく自分を棄てられると豪語する彼女の瞳に、確かな『狂気』さえ感じた。


 ──けれど、すぐに気付く。

 ──違う、そうじゃないんだ。


 瑕納佳が『自分』を躊躇い無く棄てられる理由は決して、胸に抱く恋心の重さではない。

 想いの重さ故ではなく、軽さ故──瑕納佳にとって『自分』の存在の価値がどこまでも軽いからだ。

 本人に自覚があるかは分からない。

 だがこの少女は、明らかに『自分』の存在というものをとにかく軽視している。『自分』そのものに、全くと言っていい程に価値を見出だしていない。

 ──原因は恐らく、劣等感。どんな人間でも多かれ少なかれ持っているはずの、自信や自尊感情の欠如。彼女のそれはきっと、人一倍強く大きい。


『自分』に自信が無いから『自分』を大切にしないし、『自分』への執着が無いから『自分』を簡単に捨てられる。


 彼女は『自分が自分である』ことに、一切の拘りを抱いていない。

 無言のままじっと俺の返答を待っているこの少女は、俺が「じゃあ死んでくれ」とでも言ったなら、少しも躊躇うことなく死ぬのだろうか?

 きっとそれはその通りで、悟ったように達観した饒舌なボクっ子は白昼夢のように影も形も無く消え失せて、無邪気で幼くあどけない乙女が何事もなかったかのようにひょっこりと顔を出すのだろう。



 ──待てよ、高多小途。そもそもお前は、何で悩んでるんだ? どうして、そうも必死に答えを探そうとしている?

 少女の内面を暴いたのは、他でもない自分の意思と決意と覚悟によるものだ。

 なのに、その結果目にしたものに自らの行動を後悔して、全てをなかったことにしようなどと──そんな勝手が許されると、まさか本気で考えているのか?

 答えるべきことは決まっているはずだ。

 自己否定に沈んでいる目の前の儚く脆い少女に、優しく手を差し伸べて、優しく偽善的な言葉をかけてやればいい。簡単なことじゃないか。


 ──なんで、それが出来ない?


 理由は分かっている。さっき見せ付けられた『かのか』の笑顔に安堵した自分がいることに、確かに気付いたからだ。


 ──俺は、どうしたいんだ?

 ──俺は、後悔してるのか?


 それらはきっと、簡単なはずの問い掛け。

 だというのに、俺は答えることができない。

 思考が歪んで、澱んで、ねじれる。

 壊れた時計のように狂った方向を指し示す思考の迷路を、脱出できないまま彷徨さまよっている。

 『自分』には愛される価値など無いのだと劣等感に苛まれる少女の隣で、何も言えないまま──



 ──?

 何かが今、引っ掛かった。

 覚えた違和感の正体を突き止めようとして──すぐに思い至る。

『自分には愛される価値など無いという劣等感に苛まれる』少女。

 それはまるで──



 ──だから、永遠のような長考の末に俺の口を付いて出た結論に対して、俺に驚きは無かった。


「──その必要は無いよ、瑕納佳。

 ──お前はもう、自分を殺すな」


 この少女を救うのに、躊躇いなんて要らない。

 いや、俺がこの少女を助けなければならない。

 それがもし、誰かがやらなきゃいけないことなんだとしたら、それをするべき人間は──俺なんだ。


『自分には愛される価値など無いという劣等感に苛まれる』少女。

 それはまるで──いつかの俺、なのだから。


29


 打出と知り合ったのは小学校に入るか入らないかぐらいの時期だったが、綾との付き合いの始まりは、なんと産まれた頃までさかのぼることになる。

 俺の父親と綾の母親が、つまりは俺たちの親同士が、まず幼馴染だったのだそうだ。

 互いに違う相手と結婚してからもその関係はずっと続いていて、例えば自分たち夫婦に外せない用事があるときに、子供の面倒を相手に見てもらったりしていたらしい。

 だから、俺と綾の二人は物心付く前から、一緒にいることが多かった。綾の両親を除けば、あの頃の綾と一緒にいる時間が一番長かったのは俺だった。

 それからも、幼稚園で、小学校で、ずっと綾とは一緒だった。

 俺が部活動を始めた中学校では、それまでと比べれば多少は疎遠になったけれど、一般的に考えれば充分にべったりだった。


 ──綾のことを、ずっと見てきた。

 笑っているところも、泣いているところも、怒っているところも。


 ──綾のことなら、大体分かった。

 ちょっと体調を崩したときも、何かに悩んでいるときも。


 ──だから、そんな俺が一番、綾に劣等感を覚えていたのだと思う。

 容姿もさることながら、勉強だろうと運動だろうと何をやってもずば抜けていて、それでいて驕ることも自分を飾ることもない、絢峰綾の姿に。


 ──そんな少女が俺に好意を抱いているらしいと気付いたときが、一番決定的だった。

 自分でも薄々は気付いていた。こづちだけではなく、あらゆる知人から指摘された。

 最初は半信半疑だった。あまりにも自然に共にいるせいで、俺は綾のことを恋愛対象として意識したことなんてなかったから。綾もそれは同じじゃないかと、勝手に思っていた。


 だけど、そんな風に曖昧に誤魔化すことが次第に出来なくなっていく。

 綾と会うたびに、話すたびに、綾が笑うたびに、怒るたびに、他の誰かに指摘されるたびに、曖昧に曇らせたはずの現実が、容赦なく爪を尖らせて襲い掛かってくる。

 自分で言うのも何だが、俺だって別に、周囲と比べて格段に劣っているとかってわけじゃない。あらゆるステータスが平均・標準の域を越えないけれど、大きく下回ることだってない。

 ──だけど絢峰綾を前に、それが一体何だと言うのか?

 綾と会うたびに、話すたびに、綾が笑うたびに、怒るたびに、他の誰かに指摘されるたびに──見ない振りをしていた劣等感が、容赦なく爪を尖らせて襲い掛かってくる。



 ──坂穂瑕納佳にとっての『坂穂かのか』は、俺にとっての絢峰綾だ。



 だけど、俺はそんな劣等感を忘れられたんだ。

 苛まれることなく、昔のように綾と言葉を交わすことができるようになっていたんだ──いつからかじゃない、あの日から。

 ──坂穂かのかに告白された、あの日から。

 坂穂かのかが、俺に自信と小さな勇気をくれたのだと思う。こんな俺も誰かに想われるだけの価値があるのだと、教えてくれたのだと思う。

 俺は少しだけ、自分を好きになれたのだと思う。

 ──坂穂かのかが、俺を救ってくれた。


 ならば今度は、俺が坂穂瑕納佳に手を差し伸べてやる番だ。

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