#18 Reverse Inside
タイトル回収回
27
──坂穂瑕納佳の話をしよう。
その少女のパーソナリティーは、全ての分野において良くも悪くも平凡なそれだった。
学業の成績も運動能力も平均よりは優れているにせよ、それでもやはり「常識的」の範疇を出ない。趣味や嗜好も平凡の枠内でしかない。
もっともその容姿については抜きん出ていたが、本人にその自覚はなかった。
誤解を招いてしまわないように強調しておくが、これは決して悪いことなどではない。
「普通であること」の難しさやありがたみなんて、殊更説明するまでもなく理解できることだろう。
彼女も、そのことは理解していた。
現実を鋭く正しく認識することと、無情な現状を諦めることについては、残酷だが彼女は悲しいほどに長けていたから。彼女は、自身が特殊でないことを自覚して、出処の分からない劣等感に苛まれながらも、それでもしっかり受け入れていた。
それがひょっとしたら、彼女に関してここで語るに足る唯一の事項かもしれない。
──認めて、受け入れて、諦める。
あらゆる方面において標準の域を出ない少女について、他には特記事項はほとんどない。
仮にあるとすれば、精々その胸に淡い恋心を抱いていたことくらいだろうか。
まあそれにしたって、「常識的」の範囲を逸脱はせず──それが報われることのない想いであったことも、あくまでも普通のことだった。
その理由も、同じく、凡庸で。
少女が心に想っていたその相手もまた、誰かに恋をしている人間だった。そして、その強い想いが向けられている先は彼女ではなく──
「結果から言えば、それはボクの勘違いに過ぎなかったようだがね。
告白したときにキミは綾に対して恋情を持っていないと言い張っていたが、正直に言って心の片隅では以降もずっと疑っていた。けれど恋人としてキミと付き合っていく中で、その疑惑は次第に薄れ、仕舞いには消えた」
けれど当時の瑕納佳には、それを知る由もない。
「だから、どうしたところで実るはずのない、こんなどうしようもない想いは棄ててしまおうと、何度も思った。諦めようと、何度も思った。
きっと、このときにそれができていたなら、物語がこうも歪むこともなかっただろう。
或いは結果としては、それこそが誰にとっても最良だったのかもしれないね。
諦めるのは得意な積もりだった。自分の足りなさを諦めて、上手くいかない現実を受け入れる。
それまでもずっと、そうやって生きてきたんだから。
──認めて、受け入れて、諦める。
だけど、あのとき知ってしまった。
どんなに希望が見えなくても、どんなに無理に思えても、どんなに諦めたくても──それでも諦めることのできないことが、この世界にはあると。
『諦めたくない』。
フィクションの世界ではありふれているそんな感情が、現実のこの自分の胸に溢れていたことに、ボクは気付いた」
恋は、諦められなかった。
そしてとうとう、胸に秘めていたその想いを、想い人である彼に伝える決意を固める。
「意外なことに、それは成就した」
実るはずがないと思っていた少女の想いに、彼は応えた。
「あのときは嬉しさよりも驚きが勝ってしまって、つい何か色々と口走ってしまったっけね。本当に心から喜びを噛み締められたのは、家に着いてからだった気がするよ」
──だけど。
だけどそれは、完璧な形での成功とは言い難いものだった。
想像してみてほしい。もしも、分の悪い賭けにどうしても挑まねばならない状況になったなら、どうする?
それが可能であれば、僅かしかない勝率を少しでも上昇させるため、多くの人間は策を講じるのではなかろうか。
──坂穂瑕納佳も、その例外ではなかった。
「実際には、そんな策の有無が成否を分けることなんてなかったみたいだけど……それは当時には分かるわけがないからね。過去を後から振り返って、初めて分かることだ」
少女が立てた策を端的に言い表すとすれば、『演技』以上にそぐう単語はこの世界に存在しない。
少女は、自身のことを決して嫌悪していた訳ではない。有るがままを、彼女は正しく理解し、受容していた。
──認めて、受け入れて、諦める。
けれど、彼女は同時に思っていた。
自分の身に染み付いた性格や所作が、一般的には異性から好まれにくいものであると。
その認識が果たして真実なのかどうかは、ここではどうでもいい。この場において重要なのは『彼女にとって』彼女自身がどう映っていたか、『彼女の瞳に映る彼女』がどうであったかなのだから。
ただでさえ、賭けの勝率は低い。
それなのに、他ならぬ『自分』の存在そのものが成就を妨げかねない、低い確率をさらに下げる一因となっている。ならば、成功はもはや不可能に限りなく近い。
彼女は絶望し、頭を抱え──そして長い思考の迷宮を潜り抜けた先で最終的に見出だした答えこそが『演技』。
──『自分』が邪魔になるなら、それを隠してしまえばいい。
代わりに、想い人の理想により近いはずの、異性から好意を抱いてもらいやすい姿を想像して、自分の中に創造する。自己を偽る『演技』をする。
短絡的で、いっそ暴力的なその結論を、人によっては愚かだと嘲るかもしれない。
けれど、少女はただ必死だった。彼女にとって恋の成就は、そんな多大なる代償を払ってでも成し遂げたいことになっていたのだ。
そのとき躊躇があったのか、俺は知らない。彼女自身にだって、ひょっとしたら分からないだろう。
また、それが良いことだったのか、はたまた悪いことだったのかは判然としないが、自分を偽る『演技』を出来うる環境も整っていたのだった。
「キミに恋をしたのは春休みで、入学式の少し前のことだ。キミが覚えているとは思わないし、恥ずかしいからここで説明もする積もりはないけれど。
ボクの中学校からあの高校に来たのはボク一人だけだったし、塾にも通っていなかったから、ボクの『演技』を指摘できる人間は学校にはいなかった。
そもそも、あまり交友関係の広い方ではなかったけれどね。
それに親の仕事の都合で中学生の頃から今に至るまでずっと一人暮らしだったから、身近な家族に指摘されることもない。
ちなみに、数日前にキミと電話したとき、親戚の家にいると言ったことは覚えているかな?
当然ながらボクの変化は久し振りに会った親戚たちには驚かれてしまった。だが高校デビューでイメチェンを図ったと言ったら、何も言われなくなったよ。
それが呆れなのか諦めなのかは判らないし、その両方かもしれないが。少なくとも納得ではないだろうね」
だから、というわけでもないが、最終的に坂穂瑕納佳は『自分』を殺した──彼女の些細な初恋は、『自分』との決別と引き換えに成就したのだった。
『坂穂瑕納佳』は恋のために殺され。
『坂穂かのか』が代わりに生まれた。
「けれど、ボクの中で、キミに『偽りの自分』で接していることへの罪悪感や、『本当の自分』を隠して生活する自分への嫌悪感が、日に日に膨れ上がっていくのも確かだった。見ない振りで誤魔化したところで、強い感情は消えてくれなかった。
──不安だった。
キミや綾、或いは他の誰かに、この姿が偽りだと見抜かれてしまうかもしれない。偽りの自分を演じているうちに、本当の自分を見失ってしまうかもしれない。
だけど、もしもそれを告白してしまえば、全てが終わってしまう。
そんな胸中を隠して、精一杯に無邪気な態度で、楽しそうな笑顔を浮かべる。
この愚かしい嘘吐きの少女は一体誰なんだろう、と鏡を見ながら疑問にすら思っていたくらいだよ。
けどね、ボクを支配していた数多の不安の中でも群を抜いて大きな不安というのは、別にあった。
とびっきり自分本位な、救いようのない不安が。
ボクがキミに告白したあの日から、ずっとキミが犯し続けていた壮絶な勘違いに関係する不安。
キミは無意識下で『坂穂かのかという恋人の存在が、綾がキミに告白することへの抑止力になる』と考えていたよね。
──だが、ボクは知っていた。
パートナーの有りや無しやなんて、恋に生きる一人の乙女の前ではどこまでも些細な問題でしかないのだと。そんなことは、熱く焦がれる想いを諦める理由たりえないのだと。
綾がキミに想いを告げるのは、その程度のことで避けられるような未来ではないのだと。
ボクはそれを、自分の経験から嫌というほどに知っていた。恋する乙女は何をしでかすか分からない存在だと、この身をもって知っていた。他ならぬ自分が、そうだったから。
だから、ボクは何よりも恐れていたんだ。
いずれ訪れるその瞬間、キミがどのように思って、どのように考えて、どのように動くのかを。
──キミが『坂穂かのか』よりも絢峰綾を選ぶのではないか?
そんな未来の訪れを想像するのは、ボクにとって苦痛でしかない。
だが、いずれ来たるその光景を、考えたくないのに意識してしまう。思いを馳せる度に、震えが止まらなかった。
ボクの勝率を上げるためにボクに出来ることは、より強く『坂穂かのか』を演じることだった。
あざとくない程度の可愛げ。
キミに気に入られるように、よりキミに愛されるように。
今よりも素敵な自分を目指して、演じた。
演じ続けた。
嘘を吐く罪悪感も、自分を見失う絶望感も、このままじゃ駄目だと叫ぶ危機感も、ボクの胸の中で警鐘のように響いて自己主張を強めていったよ。
だけど止まれない。
止まったら、全てが終わる。
キミの言った通りだ──ボクは、疲れた。
嘘を吐き続けることに。
心の叫びを無視して停滞を選ぶことに。
昨日の朝の一件は、つまりはただの切っ掛け。
──綾がキミに告白したとき、ボクに驚きはなかった。それがいずれは起こることだと知っていたのだから、当然と言えば当然だよね。
だからあのときボクの胸を占めていたのは、キミがどう動くのか、ただそのことへの憂慮だけだった。
キミの言うところの『キミを信じることに長けている』ボクは、キミの企みをすぐに見抜いたよ。キミが取った行動の目的が、綾を庇うことだと。
そこからはさっきキミが言ったままだ。
キミと綾が芝居を打ったように、ボクも芝居を打った。昼休みにはクラスの皆にキミの思惑を明かして誤解を解いた。
その日の放課後に別れ話を切り出したのは、ちょうどいい機会だと思ったからだよ。気取って言うなら天啓という奴だ。
綾の推測は、半分だけ正しかった。
キミとボクは互いの幸せのために別れるべきで、キミの隣に本当にいるべきなのは綾なんだと、あのときのボクは心から思っていたのだから。
──いつか来ると分かっていた状況だった。覚悟はできているはずだった。
──なのに、痛いほどの寂しさを覚えた。キミに不意打ちを仕掛けるみたいになった以上、ボクが哀しむのは筋違いだと分かっているのに、胸に穴が開きそうで涙を堪えるのに必死だった。
キミへの罪悪感のか、綾への敗北感か、キミと別れたそもそもの絶望感か──きっとその全てが原因だったんだろう。ただ、胸が痛かった。
キミをこの店に残したまま逃げ出すように家に帰って──家に辿り着くまでの短い時間さえ耐えきれずに、瞳には滴が溢れた。家に着いてからも、しばらくはずっと泣いていた。
──諦めるのは得意だったし、ボクはずっとそうやって生きてきた。
──認めて、受け入れて、諦める。
──だけど、いつからか苦手になっていたのかもしれない。
だからその翌朝、ボクは潔さとは対極の、実に意地汚い行動に出たわけだ。
自らの意思でキミと別れておきながら、舌の根も乾かぬうちに『別れてもずっと友達でいたい』などと、調子が良いにも程がある。
キミも戸惑っただろう?
しかし恐らくそれ以上に、ボク自身が驚いていたよ。よくもまあ恥ずかしげもなく堂々と、あんなことを言い出せたものだ。我ながら弱くて情けない。未練に負けるにしても、いくらなんでも早すぎる。
仮にキミがあの提案を呑んでいたら、一体どうするつもりだったんだろう?
『坂穂かのか』という大嘘を吐き続けて、またキミを欺いて、逃れようのない罪悪感と絶望感と危機感を再び胸に宿すことになる。
そんなことは分かりきっているのに、あのときのボクはきっと、そこまで考えを巡らしてさえなかったんだろうね。
キミを失った痛みを癒すためだけに動いて、結果背負うことになる他の痛みを見ようとしなかった。
──諦めるのは得意だったし、ボクはずっとそうやって生きてきた。
──認めて、受け入れて、諦める。
──だけど、少なくとも恋愛に関しては、いつからか苦手になっていた。
皆琴さんと綾の突然の登場は、キミの心をキミから守るためだった。
しかし正直に言うと、あのときはボクも内心では酷く安心していたよ。
結果的に、ボクも落ち着くための時間を貰えたからね。暴走して歯止めが効かなくなったボクは、それが無ければあれからどうしていたのか想像も付かないよ。
実を言うと、今だってボクはここに来たくはなかった。キミに会ったら、ボクが何をしでかすか分からなかったから。
呼び出されたとき、自分勝手だが断ろうかとも思ったよ。
綾を、『かのか』を、或いは他の誰かを、キミが選ぶところを──見たくなかった。
物語の結末なんて知らないまま、舞台から降りようと思った。
キミが『ボク』以外を選ぶところなんて見たら、立ち直れなくなるから。
想定しうる全ての結末が受け入れられない、なんて読者としては失格だよね。
そう思っていたのに、ボクはここに来てしまった。キミに会いに、来てしまった──キミに会いたい気持ちに、ボクは抗えずに負けてしまった」
「『坂穂かのか』をキミが殺してくれるなら、ボクにとってそれほど嬉しいことはない。ここに来て良かったと、心から思えるよ。
──ボクは『偽りの自分』『坂穂かのか』を、キミに殺してほしい」