#17 detective phase
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「──お待たせ」
待ち人は、思っていたよりも早く喫茶『提琴』へと訪れた。
遅れて来るような奴でもないが、かと言ってそんなに早く来るタイプでもなかったのに、と思いながら慌てて手に巻いている腕時計を確認すると、約束の時間である五時は既に十分後まで迫っていた。
どうやら、単に俺がぼんやりしている内に結構な時間が過ぎていただけらしい。
「いや、そんなに待ってないよ。そっちこそ、待ち合わせよりは早く来てるわけだしさ」
そういえばデートのときも、こいつはいつも十分前くらいに到着していたっけ。
幼馴染とは大違いだと内心思っていた。比較対象として適切かどうかは分からないが。
「うーん」
少女は、しかし浮かない顔で椅子に腰掛ける。
テーブル席に比べてあまり混雑しないという理由でカウンター席を選んだが、よく考えたら話をするには向かないかもしれない。今更変えるのも変な話だけれど。
因みに、彼女が座ったのはこづちが座っていた椅子と逆側である。
「それはそうだけど、小途が凄く暇そうに見えたから。もう少し早く来れば良かったかなって」
そんなに暇そうだった? とは思うも、確かにその通りかもしれなくて反論できない。
どうしたものかと考えながら、ぼんやりと想い出に浸って、何ともなしに窓の外を眺めて人を待っている姿は、端から見れば「暇そう」以外の何物でもない。数分前の自分を客観視して、そう思う。
「実はついさっきまで、こづちとここで話し込んでてな……それが終わって、やっと一息ついたとこだったんだよ」
「皆琴さんと? 待ち合わせの時間が中途半端に遅かったのは、そういう理由だったの?」
誤魔化すつもりで言った発言は、我ながら迂闊な失言でしかなかった。
一息ついたと言う割には、精神に余裕が戻っていないのかもしれない。実際には一息付くどころか、暇を持て余すくらいにがっつり休んでいたのだけれど。
こづちとの話が想定よりかなり早く終わったので、待ち合わせ時間を今からでも前倒しにしようかと考えたくらいである。
たぶん三十分弱は暇だった。
「一度家に帰るにしても学校に留まるにしても微妙な時間だったから、どうやって時間を潰すかとか結構考えてたんだけどなあ……」
少女が恨みがましげに、射抜くような視線を向けてくる。経験からこれが半ば冗談であると知っていなければ、きっと辣んでいただろう。
案の定と言うか、少女はすぐに破顔して「まあ、そのくらい別に良いけどね」と溢す。
そして、彼女の席に予め置かれていた『それ』について、困り顔で言及した。
「ねぇ、さっきから気にはなってたんだけど……これって?」
彼女が指差した先に置かれているのは、ティラミスとミルクティ。
「てっきり、朝の話が中途半端に途切れちゃったから、その続きをするために呼んだんだろうなって思ってたんだけど……違った?」
因みに、俺のもとに置いてあるのはチーズケーキとブラックコーヒー。俺がこづちに頼んだ(あいつが持ってきたのは数分前だが。そういうところは如才ない後輩だ)、こづち曰く「悪趣味」の発露。
昨日ここで俺たちが交わした会話を知っている人間からすれば、それは当然の感想だった。
──坂穂『かのか』との別れ話。その内容と結論を否応なく想起させる、小道具みたいなものだ。
悪趣味と言われても仕方ないだろう。セッティングした張本人も、正直そう思っているからな。
「大した意味は無いよ。掴み、みたいな感じ?」
そんな俺の物言いに、彼女は呆れと驚きを混ぜたような表情で硬直。
それから大きく嘆息して、
「ちょっと悪趣味よね」
とだけ言った。やっぱり?
「で実際のところ、小途は今から何の話をするつもりなの?」
なんだかんだで最終的には不問に付してくれる寛大さを見せながら、少女は訊ねる。たぶんその台詞には、打算も謀略も一切含まれていなくて。
「そうだね……簡単に言ってしまえば、推察通りに今朝の続きだよ」
彼女の寛大さに甘えながら、対する俺は計算と策略に塗れた言葉を返す。
取り敢えずは、この場の主導権を握るために。『悪趣味』はこのための布石だった、とは流石に言わないけれど。
「ただ、その前に訊いておきたいことがある。良いか?」
少々軽い調子を作って、俺は言葉を紡ぐ。彼女は「別に良いけど、何?」とだけ訊いてきた。
──状況は整った。
俺は何気無い風を装って、隣に座る少女、坂穂瑕納佳に告げる。
「──昨日の朝のことだ」
「綾ちゃんが小途に告白したやつ?」
瑕納佳は首を傾げながら問い返す。黙って首肯。
「俺がそれを冷たくあしらったの、見てただろ?」
「そりゃあ、その場にいたからね。と言うか、見てたどころか……」
瑕納佳はそこで気まずそうに口籠り、俯いて黙り込む。彼女の心境と性格を思えば、あのときのことを申し訳なく感じているのだろう。
罪悪感を取り除くために、俺は何も気にしていないという態度を示して告げる。
綾に(実はこづちにも)言われた通り、あれは俺の責任なので、実際に瑕納佳が気に病むことでもないし。
「それは気にしなくて良いよ。それに友達を庇ったって行動は、恥じることじゃないだろ?」
「そうかもだけど、やっぱり小途には悪いよ。かのかが誤解したせいで、小途はみんなから……」
「もう解決したことだ──『瑕納佳』が、解決したことだろ?」
瞬間、瑕納佳は俯いていた顔を勢いよく上げた。
驚きに見開かれた眼にはうっすら涙の跡が見えて、俺はまたこの少女を傷付けたんだと再認識した。
けれど少女の関心はそんなところにはなく、瑕納佳は純粋な疑問符だけを口にする。
「──あれがかのかだって、知ってたの?」
「ああ。瑕納佳のおかげで俺への疎外は無くなったわけだし、もう本当に気に病まなくて良いからな」
「そっか……」
瑕納佳はそこで、ようやく笑顔を浮かべた。無邪気で愛らしい、坂穂『かのか』が見せる中でも一番可愛い表情。
きっと、ずっと罪悪感に押し潰されそうだったんだろう。そこから、やっと解放されて、安心できて。
と、そこで瑕納佳は思い出したように俺に問う。
「それで、小途がかのかに訊きたいことって?」
無邪気な問い掛けに、俺は淡々と答える。
「──その『真意』に気付いたのは、いつだ?」
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「俺が最初に違和感を覚えたのは、今日の昼休みのことだ。昨日や今朝は余裕が無くて、それどころじゃなかったから気付けなかった。
違和感、不自然。
それは、時間──タイムラグ。
紆余曲折はあったが、今日の昼休みに、この一件に関する謎めいたあれこれの、たぶん全てに一応の解決が付いた。
正確には、ほとんど綾の功績だが。
その『解決』が、後から何となく気になった──それが、俺の抱いた『違和感』。
因みに綾には言ってない。その時点ではまだ、曖昧な感じだったし。
──まずは先に、綾の『推理』を説明しておく。
昨日の昼休みに俺と打出が密談をしてたとき、瑕納佳は打出に呼び出されていて、陰で会話を聴いていた。瑕納佳はそこで俺の『思惑』を知って、教室に戻りクラスの連中に真相を伝えた──
筋も通ってるし、これで色々な疑問に説明が付くのも確か。
だから俺も綾も、これが正解なんだと思い込んだ。
実際、大半は合ってる──だが、不十分だった。
この推理では説明が付かないことが、一つある。
それが時間差、タイムラグ。
密談を終えてから、俺は教室に直帰した。そのとき既に、クラスの連中には真相が伝わっていた……これ、不自然だろ?
──もし瑕納佳が俺たちの会話を最後まで聴いていたなら、こんなことは起こりえない。どんなに急いでも、間に合うわけがない。
先回りして、皆に真相を伝えて、納得させる。その為には、圧倒的に時間が足りないんだ。
綾と俺の推理は間違ってない。打出は確かに、瑕納佳を呼び出していた。それは本人が認めた。
──だけどそれは、瑕納佳があの場にいたことと同義じゃない。
瑕納佳が本当に来ているか、ちゃんと隠れているかは、打出にも分からない。隠れて呼び出した意味が無くなるから、確認するわけにもいかないし。
だから実際は、瑕納佳は俺たちの密談なんて最初から聴いてなかったか、或いは途中までしか聴いていなかったか──この場合、時間は充分にある。
──けど、これで解決とも言えない。
この仮説だと、新たな矛盾が生じるからだ。
『瑕納佳は俺と打出の話を聴いて、初めて真相に気付いた』って前提が崩れて──それより前の段階で真相に辿り着いてた、としか考えられなくなる。
だったら、それはいつだ?
答えの候補は『朝』と『午前中』。
朝の一件の最中に既に気付いていたか、またはその後、落ち着いて考えた結果昼休みまでに気付いたか。
これを確実に判断する材料は無い──だけど俺は前者だと思う。
理由は単純で、昨日の瑕納佳に『落ち着いて考える』余裕なんて無かったと思うからだ。
瑕納佳は朝の一件で、俺に、以降は口も利かなくなるくらいに怒ってただろ?
そんな状態で『俺の行動には実は綾に対する思いやりが隠れていた』なんて考えるわけがない、と思う。
それに考えてみれば、俺の『優しさ』って奴を誰よりも過大評価してるのは綾でも打出でもなく、坂穂『かのか』だった。
だから思う──瑕納佳は全部、あの朝に既に見抜いてたんじゃないか?
そして、この新しい前提のもとで一件を振り返ると、見え方は劇的に変わる。
まず浮かぶ疑問は『どうして瑕納佳はそれを隠していたのか』、更に言えば『どうしてクラスの連中の前で俺を咎めたのか?』だ。
でも、これは簡単──俺が綾を守ろうとしたように、瑕納佳も俺を守ろうとしてくれたから。
瑕納佳の行動は、俺の行動と少し似ている。見かけ上は相手を傷付けて、本音ではその相手を庇っている辺りが。
綾に向けられかねない非難を俺が一身に背負ったのに対して、瑕納佳は同じ効果を上乗せして、更には状況を整備してくれた。
だろ? 恋人の瑕納佳が面立って俺に批判的な態度を取れば、クラスの連中が高多小途を見る目はより一層厳しいものになり──絢峰綾を見る目は、より同情的になる。
俺の思惑を見抜いた上でその効果を一段階強めて、背中を押してくれたわけだ。
それにあの状況だと、空気の読めない誰かが率先して俺を非難する可能性もあった。だけど当事者の瑕納佳が真っ先にそうすれば、部外者には何も口を挟めなくなる。
俺と綾の芝居に無粋な邪魔が入らないように、っていう目的も、瑕納佳にはあった。
たぶん綾も打出も、瑕納佳の演技には気付いてない。気付いてたら、何か言ってただろうし──だから二人は、瑕納佳が別れ話を切り出した理由も誤解したままだよ。
『小途の思惑に綾たちはすぐに気付いたのに、自分は見抜けなくて、強く責めさえした』罪悪感って。
前提が崩れた以上、この説が間違ってることは言うまでもない。
だがこれも見当違いってわけじゃない。他でもない瑕納佳の掌の上で、行われていたんだから。
俺たち──特に、俺と綾を納得させるために瑕納佳が用意して誘導した、偽りの真相なんだから。
坂穂瑕納佳が俺に別れ話を切り出した本当の理由は一つ。他の理屈は全部が後付けの言い訳。
──『かのか』でいることに疲れたから、だろ?」
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俺はそんな風に長々と、瑕納佳の反応も確認することなく捲し立てた。
相槌さえ打たせまい、くらいに思っていたかもしれない。勢いに任せていなければ、途中で躊躇いに負けてしまっただろうから。
言いたいことを全て伝えきってから、俺はようやく瑕納佳の表情を伺った。
もはや何度目になるのか数えたくもないけれど、「推理を述べて、相手の反応を待つ時間」には、一生かかっても慣れることはない気がした。
まあそもそも、必要が無ければ二度とやりたくないが。
どうでもいいことをつらつらと考えて現実逃避しながら少女が言葉を発するのを待つだけの時間は、体感では永遠のようだったけれど、実際には一分ほどにすぎなかったと思う。
「──小途は、気付いてたの?」
目的語が抜け落ちた疑問符。けれど、欠けた言葉を埋めることは、俺にとって難しくはなかった。
「ちゃんと答えて。ここに来てからずっと、『かのか』と『瑕納佳』を区別してるでしょ?」
さながら胸の底から絞り出すような響き。或いはそれは、質問ではなく詰問だったのかもしれない。
「自分で分かってることを、わざわざ訊く必要は無いだろ?」
「だったら、『かのか』と『瑕納佳』の違いを理解したうえで、この場で突き付ける必要も無いんじゃないの?」
突き放すような冷たさを孕んでしまった俺の台詞に対して、少女が返した言葉もまた鋭く。
だけど、皮肉と呼ぶには直接的で、弾劾と呼ぶには諦めを滲ませたその台詞、或いはそれを口にした少女自身を何と形容すれば良いのか、俺には分からなかった。
「──小途は何の為に、今ここで、そんな話を始めたの?」
告げられた言葉の静かさと少女の落ち着きが、そこに内包された激情をかえって際立たせる。
俺は返すべき答えを、ただじっと考えた。
──いや、返すべき、返したい答えは最初から此処にあるのだ。昨日の放課後と同じように。
──けれど、それを一度口にしてしまえば、もはや後には退けない。頭に響くのは、昨日も浮かんでいた陳腐な定型句。
囁くように小さいのに五月蝿く感じるそれは、確かな自分の声で。
この話をすると決めた時点から決意していた、はずだった。今更それを改めて胸に刻み付ける必要などない、はずだった。
──引き返すのなら、今を逃せば機会は無い。今このときに踏み留まらねば、後悔さえ追い付けなくなってしまう。
弱気な意識が生み出す幻影が耳元で囁く響きの甘美さに、脳はどろどろに溶かされ、誘惑に縋り付きたくなってしまう。
嘲笑いたい衝動に駆られた、どうしようもない自分という存在を。刻んだはずの覚悟も決意も投げ出して逃げ出そうとしている、愚かで矮小な自分を。
黙り込んだ俺にどんな瞳が向けられているかを知るのが怖くて、俺は横に視線を向けられないまま、ただ時間が過ぎていく様を眺める。
──躊躇うな。
罪悪感は無視して、言いたいことを言えばいい。思っていることを、全て曝け出してしまえばいい。
それだけの、とても簡単なことだ。
──昨日の朝も今日の昼も、ついさっきも俺はそうしてきた。
だろう? 同じことをすればいい。
大切なものを守るために、罪悪感を押さえ付けて大切なものを傷付ける──それが、高多小途が繰り返してきたことだ。
必要なのは、傷付ける覚悟。
そしてそれは、最初からこの胸にある。
ならば後は、一歩を踏み出す勇気だけ。
すぐ隣、腕と腕が触れる距離に佇む瑕納佳にさえ気付かれないように、一度だけ小さく深呼吸。
息を吸って吐く、たったそれだけで、切れそうだった息と逃げ出しかけた心が、少しは落ち着きを見せる。煩わしい動悸も、ほんの少しマシになった。
「──昨日の朝、瑕納佳が俺にしてくれたのと同じことを、したいんだよ」
ようやく俺は最初の──否、『最後の一歩』を踏み出す。
「瑕納佳が俺の思惑を見抜いて助けたように、俺は瑕納佳の願いを叶えたい。
瑕納佳がこれからは『坂穂瑕納佳』でいるために──『坂穂かのか』を殺して、『坂穂瑕納佳』と話がしたい。
俺は今、そのためにここにいるんだ」
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その宣告を聞いて。
かのかは黙ったまま、驚くでも怒るでもなく──そっとその表情に、笑顔を浮かべた。
それが坂穂かのかの最期だった。