#16 Love Story from there②
前回から回想ですが、それも今回で終わりです。
*
「──高多くん、用事ある? 無かったら一緒に帰らない?」
「暇だし、良いよ」
俺と坂穂さんが付き合い始めた翌日、水曜日の放課後のこと。
何か特別な事が起こるでもなく平凡という安寧を与えてくれた一日の学校生活が終令にて終わってすぐ、坂穂さんは俺の所へやって来た。昨日彼女によって提案された『特別な用事が無い日は一緒に帰る』約束を履行するためだ。
同じクラスなんだからそれほど急がなくてもいいのでは、と思ってしまうが、勿論口にはしない。
その代わりでもないが、俺の口から出ていたのは別の言葉だった。
「ところで、坂穂さんにちょっと訊きたいことがあるんだけど、訊いても良いかな?」
「訊きたいこと? ん、別に良いよ。このまま教室で話す? それとも歩きながらにする?」
「歩きながらの方が良い……かな。教室じゃ出来ない話って訳でもないけど」
ここだと落ち着いて話せないかもしれないし。
──クラスメイトだとは言え、今まで言葉を交わしているところを誰も見たことがないような組合せの男女が、今日は朝から二人で話してばかりいるのだ。
別に嫌な気はしないけれど、休み時間の度に彼女から話し掛けてくれば、仲の良い男子からは何かあったのかと訊かれもする。と言うか、した。はぐらかしはしたけれど、勘繰りはされるだろう。
そしてとうとう一緒に帰るなんて話していれば、次は誤魔化しきれなくなるかもしれない。今も少し感じている視線は、決して自意識過剰だけではないはずだ。
表に立とうとはしない性格故にクラスで目立つ存在でこそないものの、坂穂さんの容姿は普通以上に可愛いし、それも原因の一つかもしれない。
こんな子が俺を好きだと言ってくれたことが、昨日の出来事なのに夢のようだ。
「──小途、一緒に帰れるー?」
なんて俺の思考を、突然現れたよく響く声が一瞬にして唐突に掻き乱す。
当然ながら、その声の主は坂穂さんではない。
「……って、あれ。何か取り込み中?」
現れた少女が、はにかんで首を傾げる。聞き慣れた声と見慣れた顔は、俺にはまさか間違えようがない相手。
「──綾」「絢峰さん──」
俺と坂穂さんが同時にその闖入者の名前を呼ぶ。
綾は、理由は分からないが何だか満足そうに微笑んだ。
「はろー、小途。そっちの子は小途の知り合い? たぶん初めましてだと思うんだけど、私のこと知ってるの?」
「は、はい。絢峰さん、何かと有名ですし……あ、私は坂穂瑕納佳です」
応える坂穂さんの声が、普段通りに限りなく近い響きながらもどこか震えていた気がした。
いや、それはむしろ起こった変化の中では最も些細なものでしかなかった。
教室にいた連中の変化は劇的で、場の空気とでも言えばいいのか、肌で感じられるほどの変容を見せていた。こちらに向けられる視線の量は倍近くに増えて、一体こいつは入学から一ヶ月でどんな風評を産み出したのやら、と嘆息することしかできなくなる。
「よろしくー」
しかし返す綾の態度は、向けられる無数の視線を意識していないどころか、或いは気付いてさえいないのではと思うくらいに軽い。
人の視線が気になる年頃の男子としては理解できない、大物の器だ。それともただの馬鹿なのか、判断が難しい所だ。
たぶん両方が正解なのだと思う。
「それで小途、今から帰り?」
「ああ、そう……って」
俺はついいつもの癖で普通に答えかけて、しかしすぐに思い止まる。
「実は昨日恋人ができて、だから彼女と一緒に帰る話ってをしていたんだ」と正直に語るのを躊躇う理由は、たぶん無い、はずだ。
だが、果たしてそれをそのまま話して良いのか?
有体に言って、すごく面倒な事態を引き起こしはしないか?
もっとも、逡巡や躊躇をしている時間的な余裕はなどあるはずがない。
台詞が途中で途切れて続かなければ、誰であっても何かがあると勘付く。ましてや相手は、こういう場面では妙に鋭い綾だ。
だが、頭の中をどんなに必死に探したところで、続く言葉など見付からない。
沈黙のまま時間だけが過ぎて綾の表情が怪訝そうに変わっても、その結果は変わらなかった。
とうとう痺れを切らした綾が何事かを言いかけた刹那──それより数瞬だけ早く、他の少女が静寂を切り裂いた。
言うまでもなく、坂穂さんだ。
「絢峰さん。実は、高多くんとかのかで一緒に帰ろうって、さっきまで話してまして……」
遠慮がちな物言いは、綾に対して彼女も気まずさを感じているからか。溜息を堪えているような表情は、誰に対するどんな呆れか考えるまでもない。
この発言に綾がどんな反応を見せるか戦々恐々としていた俺の内心とは裏腹に、綾は「なんだ、そうだったの? だったら小途も早く言えば良いのに」と、見た目は普段通りの笑顔で口にした。
「まあ高多くんも『今日は他の女の子と帰るから』とは言いづらいですよね……」
ちょっと苦々しい顔で俺に視線を向けながら、坂穂さんがフォローなのか判然としない台詞を零す。
フォローと非難が半々くらいかな。
「あはは、確かにそうかも。まあだとしても、小途ってば、女の子に恥かかせちゃ駄目でしょうがー」
坂穂さんの物言いに同意を示しながら、綾が楽しそうに笑う。
場の空気だけなら、坂穂さんと綾は相性の良い友人のように見えた。険悪で殺伐としたムードになる心配は取り敢えず無さそうで、表情には出さずにこっそりと安堵。
あと、自覚はあるけど凹むからこれ以上は言わないでください。
昨日の坂穂さんに言わせれば、これも「優しさ由来」なのかもしれないが、それで坂穂さんに迷惑かけてたら世話無いよな……。軽く自己嫌悪。
「──それにしても、二人きりで帰ろうなんて、ひょっとして付き合ってたりするのかなー?」
なんて思考に溺れていたせいだろう。
綾が次に口にした台詞に、俺の反応は遅れてしまった。
たぶん、場を和ませる冗談のつもりで言ったのだと思う。「そんなんじゃねぇよ」とか「俺とお前も二人きりで帰ることあるだろ」とか、そんな突っ込みを期待した発言。
普段の俺ならそんな風に流すことのできた、他愛なく何気ない一言。
だけど、ただでさえ反応が遅れたうえに、その台詞に小さくはない衝撃を受けてしまった俺には、とても即座に応答などできず。
見れば、坂穂さんも俯いて黙り込んで、何も答えない。だけど紅く染まっている頬は、図星だと書いてあるも同然だった。
綾も事情は察したのだろう。
三者の間に落ちた沈黙の気まずさは、先程とは比較にもならない。
「え……本当に?」
ようやく世界が取り戻した音も、普段のよく通る声とは違って聴こえた。
「そっかー……えっと、おめでとう」
戸惑いを顕にしながらも、それでも祝いの言葉を述べてくれる幼馴染の優しさが胸に痛くて、坂穂さんも俺も、まだ言葉を発せずにいた。
「うん……じゃ、じゃあ、私はお邪魔だよね。か、帰るね。ばいばい」
「お……おう」「あ……さようなら」
俺たちに気を使ったのか、或いは気まずさに耐えきれなくなったのか、綾が足早にその場を去ろうとする。二人は、本当に辛うじて、別れの挨拶を口にすることだけできた。
そして次の刹那、停まっていた思考が動き出すとともに気付く──恋人が出来た翌日に、俺たち二人の関係性が教室内で周知の事実となってしまったことに。
綾がいなくなった途端、教室内の視線が今度は俺たち二人に集中した気がした。
自意識過剰かもしれない。だが、そんなことを考える余裕もなく、ただ逃げるように足早に教室を出る。
──明日は学校に来たくない。心の底からそう思った。
取り敢えずは学校の敷地を出て、二人揃って足を止める。
もう良いだろうと安堵した俺は、そこでようやく、教室を出るときに咄嗟に坂穂さんの手を掴んで引いていたことに気付いた。
生憎さっきまでは味わう余裕なんて無かった、手の柔らかい感触や近くで感じる髪の香りが、今更ながらに俺の意識を掻き乱す。
記憶にある限りは今まで女子の手になんて触れたことのなかった(幼い頃は綾と手を繋ぐこともよくあったけれど)俺は慌てて手を放そうとして、坂穂さんの強くはないが強固な抵抗にあって断念。なし崩し的に、二人で手を繋いで帰る感じになる。
「まさか、付き合った翌日でこんなことになるとは……」
「そうだね……」
坂穂さんの相槌は、けれどどこか心ここにあらずで。不審がって訊ねようと口を開く直前に、坂穂さんは決心したように言った。
「──ねえ。高多くんの『訊きたいこと』に答えるのに、ちょっとした条件を付けてもいいかな?」
「ああ、そういえば確かにそんな話もしてたか」
その後のドタバタで、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたが。
「うん、別に良いよ」
特に何も考えずに俺は答えた。
例えば相手が綾やこづちだったら、何を言い出すか分からないのでこんな条件は絶対に呑まないのだけれど、昨日からの短い付き合いながらに、坂穂さんなら滅多なことは言わないはずだと信じられた。
「ありがとう。じゃあ、お願いなんだけど──」
嬉々として礼を言って、坂穂さんが『交換条件』を口にする。
何を言われるのか気になりながら、何なら少し楽しみなくらいに思いながら、俺は続く言葉を待った。
「──かのかのこと、これからは名前で呼んでくれる?」
──そして、余りにも乙女チックな『交換条件』に俺は一瞬言葉を失った。なんだこの可愛い生物。
能天気にそんなことを考えて、だけどすぐに思い至る。
何故、坂穂さんがこのタイミングでこんな条件を付け足したのか。
──疑問の解答は、絢峰綾だ。
幼馴染の距離感とでも言えばいいのか、俺も綾(あと打出)も、互いに下の名前で呼び合う。いつからそうなったのかも思い出せないくらいに、それは俺たちにとって余りにも自然だった。
坂穂さんの前で先程話していたときも、意識はしていなかったがそうだった。
俺と綾の関係性を危ぶむような素振りを昨日も見せていた坂穂さんのことだ。その様子を見て不安になったとしても不思議はない。
そもそも、自分に対しては『名字+さん』呼びの彼氏が他の異性に対して『名前で呼び捨て』なら、距離感を不安がるのは当然なのかもしれない。
そう考えれば、坂穂さんの『条件』──いや、これは『お願い』と呼ぶべきだろう──は頷けるものどころか、男として頷かなきゃ駄目なものだ。
だから、俺の決断は早かった。
「分かったよ──瑕納佳」
少しの照れ臭さはあったが、ちゃんと言えた。
しかし、それに対して坂穂さん──瑕納佳が見せた反応は、俺の予想を裏切るものだった。
喜ぶとか照れるとか恥ずかしがるとかではなく、いや、それらも半分強は占めているものの、少しだけ悲しむような、怒っているような。
だが、俺が戸惑ったのに気付いたのか、すぐに表情を冗談めかせた笑顔に作り替える。
「できれば、『かのか』って呼んで?」
「……いまいち、違いが分からないんだけど」
発音が何となく柔らかく聴こえた気もするが、ほぼ一緒じゃないか? と思うも、瑕納佳は主張を曲げない。
「『瑕納佳』って名前が嫌いってわけじゃ別にないんだけど、何だかね……堅いっていうか。気にしすぎかもだけど、近寄りにくい感じが出ちゃってる気がするって言うか?
勿論、書類とかテストとかには名前は漢字で書いてるんだけど……友達とかには渾名として、『かのか』って呼んでってお願いしてるの」
「……ふうん」
俺は曖昧に頷いた。
何だか、分かるような分からないような話だ。分からなくはない話、と言うのが一番近いかもしれない。
まあ拘りというのは人それぞれだし、それが瑕納佳の譲りたくない一線だと言うのなら、ちゃんと受け止めてやるべきだろう。
それに、端的に言えば要はただの渾名だし。
「分かったよ──かのか」
「うん、ありがとう──小途」
こちらから言い出すまでもなく、かのかの俺に対する呼称も自然と変わっていた。
うん、悪くない気分。不思議とゾクッとして気持ちいい感じ。何気無い風を装って言おうとしてはいるが、その実、頬を真っ赤に染めている辺りが俺の高揚を煽る。
「それで、小途の訊きたいことって何だったの?」
照れ隠しみたいに、かのかが話題を元に戻す。
けれど正直その疑問は期せずして解決してしまったので、何だか今更訊きづらいのだが。
「ああいや、みんなが『かのか』って平仮名っぽく呼ぶのは何でなんだろう、ってだけだったんだよ。あれは謂わば渾名だったんだな」
「──うん、そうだね。ただの渾名、それ以上の意味は、全然無いよ」
──このときのかのかの返答に、ほんの僅かな間があったことに、俺は気付けなかった。
*
人生で初めてできた愛しい恋人と過ごした日々の欠片を、彼女と別れてしまった今でも鮮明に思い出せるのは、きっと未練なのだろう。
日々が永久に続くなんて夢見がちなことは、二人とも考えてはいなかったと思う。無邪気に永遠を願うには、十数年の人生の中で俺も彼女も現実を知り過ぎていた──だからこそ、永久には届かずとも、少しでも長く物語が続けば良いと祈っていた。
面白い本を読んでいるときに抱く感情に、それはきっと似ている。
早く読み進めたいとページを捲りながら、しかし読み終えてしまいたくないと願うような、相反する気持ち。
俺たちは、正しくはなかったのかもしれない。
だけど、間違ってもいなかったと思う。
彼女を喪って胸に空いた大穴は、張り詰めた痛みと切なさに姿を変えて、今なお、こんなにも強くその存在を主張しているのだから。