#1 修羅場への旅路
かなり読みにくくなっていたので、まだ読みやすいように修整しました。本文は全くいじっていません。
これから順次、修整していくつもりです。
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──少女の一言にその場の空気が一瞬にして凍り付いたことを、俺は肌でひしひしと感じていた。
直前までは響いていた、常日頃から煩わしいと思っていた喧騒さえ今は恋しい。
それほどに、果てのない息苦しさが胸中を支配している。
見れば、俺の正面に佇む少女──言うまでもなく、この状況を引き起こした原因だ──は、僅かではなく紅潮した表情で、しかし不安げに、ただ俺を見つめていた。その視界にはきっと、周りを取り囲む連中の存在など映り込んではいないのだろう。
さながら想い人に恋情を打ち明けた恋する乙女のような態度──という比喩は、残念ながら的確ではない。
それが比喩ではないから──この少女は本当に俺に対して告白をした直後だから、だ。紅く染まった頬は告白での興奮や羞恥の余韻、切なく揺れる潤んだ瞳は俺の返答への憂慮だ。
この場で起こった出来事を簡潔に述べると『少女が少年に告白をした』でしかない。
それだけのことで何故空気が凍るのか、きっと疑問に思われた方もいることだろう。
ちなみに注釈しておくと、俺が「異性から告白される」初の体験に戸惑っているわけでもない。
相手は幼馴染だし、彼女からは昨日も愛を告げられたばかりだ。それに自慢ではないが、告白されることは俺にとって「初の体験」でもない。
今からたった一ヶ月ほど前、ほとんど初対面のクラスメイトから告白されたことがあるのだった。それが「初の体験」だから、別にそういう経験が豊富というわけでもないし、そもそも誇るようなことでもないのだが。
空気が凍った理由、未だに俺たちが膠着状態に陥っている理由。その答えがもう見えた鋭い方もいるだろう。
一ヶ月前に受けた告白を、俺が受諾していたら?
付き合い初めて一月の時間が流れて、その関係がまだ続いていたら?
今朝も学校の教室で彼女と談笑しているところに、幼馴染がやって来たのだとしたら?
俺たちの関係が、クラスの連中や幼馴染にも周知の事実だったら?
その幼馴染がよく響く声で俺に愛を告げたなら?
──それが答えだ。
──時間を少し遡って話そう。
この物語が始まったのは、ひょっとしたら一ヶ月前、或いは幼少期のことだったのかもしれない。しかし、そこから語ると流石に冗長だ。
絢峰綾が教室を凍てつかせた、高校一年、五月中旬の月曜の朝。その前日の日曜日、俺こと高多少途が綾と二人で買い物に出掛けた。それを恋人の坂穂かのかに話した土曜日の夜から、物語を始めよう。
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「──どうしたの? 小途から電話掛けてくるとか、かなり珍しいよね」
掛けた電話に、かのかはワンコールで出た。
少し意外だ。普段ならこの時間、彼女は家で勉強をしているので、携帯を全く見なかったりするからだ。
「ああ、ちょっと話したいことがあって……今、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。じゃなかったら、そもそも電話に出てないから」
確かに、それもそうか。
「というか、むしろ丁度良いタイミングだったんだよ。実は今、久し振りに親戚の家に泊まりに来ててね。学校はどうだ彼氏はできたかとか、散々質問攻めって感じで参っちゃってたから。電話だからって逃げてきたとこ」
だから出るのが早かったのか。俺はそんな風に些細な点に納得した。
まあ可愛さと合理性を兼ね揃えたかのかのことだから、「少途からの電話だ、出なきゃ!」とかは思ってくれないんだろうな。別に良いけど。
俺は「なら良かった」とだけ告げてから、ふと気になったことを訊いてみる。
「因みに、彼氏できたかって訊かれたときは何て答えたんだ?」
「……え、それ訊いちゃうの?」
「答えたくなかったら別に良いよ。ただの興味」
「んー……」
電話の向こうで、かのかは悩む素振りを見せる。
答えが返ってきたのは、数秒の黙考の後だった。
「小途には悪いけど『できてない』って答えたよ。彼氏がいるなんて言ったら、質問が増えそうだったから」
こういうところが、合理的と言うかドライと言うか。そんな気に病むことでもないけど。
「ただ、」
しかし、かのかの悩ましげな声はそれだけで終わらない。
「着信表示を見られたせいで、この電話の相手が男だってことはバレたの」
「……」
結果的に、親戚からの質問攻めが威力を増す未来は避けられなかったわけだ。頭でも抱えていそうな声音に、いたたまれなさと申し訳無さが募る。
「──で、何か用事あるんだよね? そうでもないと小途は、こんな時間に電話掛けてこないでしょ?」
「ん……ああ、そうそう」
多少強引な話題変更だが、俺はすぐに乗っかる。お互い、そのままの話を続けても仕方が無かっただろうから。
「かのかとしては、『急に声が聴きたくなって。用事は無い』とか言われてみたいかなー、とは思うけど」
「期待に添えなくて悪いが、そんな恥ずかしい台詞を口にするメンタルは俺には無いな」
「うん、知ってる。少途がそんなこと言い出したら、何かあったのかって不安になるくらいだよ」
お前には甲斐性が無いのだと遠回しに詰られているような気もする。流石に被害妄想が強いか。
「病院に診てもらうか、真剣に考えるくらいだよ」
「それは明らかに悪口だよな、被害妄想じゃなく」
気付かないとでも思ったか。
「まあ理由が何であれ、小途から電話してきてくれたってこと自体を嬉しく感じてるあたり、我ながら小途のこと好きすぎるなーって思ったり」
「……」
「──って、やっぱり今の無し! 恥ずかしいから忘れて!」
生憎それは無理そうだった。寧ろ録音していなかったことを現在進行形で悔やんでいる。時間を遡る方法があるなら、即座に実行しているところだ。
かのかの言葉を借りて言うなら、俺も大概『我ながらかのかのこと好きすぎる』。可愛いんだから仕方無い。
「はいはい、忘れた忘れた」
とは言え、流石に怒られそうなので本題へ移行。怒り顔も可愛いのでわざと怒らせることもあるけれど、充分に満足したから今は良いだろう。
それに脱線しすぎだ。
「で、本題……だけど、実はもう意味が無くなっちゃっててさ」
「どういうこと?」
今度はかのかが、俺の雑な話題変更にそのまま乗る。とっとと話題を変えたかったのだろう。
「明日の予定が空いてるか、って訊くつもりだったんだよ。遊びに誘おうと思ってな。でも、泊まりなんだったら無理だろ?」
「あー、そうだね。明日の夜までは拘束されそう」
「拘束って、言い方……」
「じゃあ、尋問」
「改善されたのか分かんねぇ。さっきの話だと、間違ってはいないのかもしれないけどさ……まあ、そんな訳で、それじゃあ明日は綾と二人で出掛けることになるのかな」
「え?」
「……何?」
「あれ? デートのお誘いかと思いきや、急に変な感じになったよ。小途、順を追って話してくれる?」
語調にどことなく棘を感じる。電話の向こうに、瞳の笑っていない笑顔を幻視した。
「さっき綾から、明日暇なら買い物に付き合えって連絡が来て」
「うん」
「折角だからかのかも誘おうかと」
「なるほど」
「ただ、無理そうだったから、じゃあ二人で行く流れかなって」
「ふむふむ……へぇ」
かのかの声が纏う雰囲気が、鋭い刃物のような冷たさを帯びた気がした。かのかはこの場にいないにも関わらず、俺は身の危険を感じる。
彼女が機嫌を損ねた原因を考えて──
「──ああ、ひょっとして、彼氏が自分以外の異性と二人きりで出掛けるという状況に物申したいと?」
「気付くの遅いよ」
「そんなこと言われても。気持ちは分からなくもないが……でも取り敢えず、俺はかのか一筋だ。安心してくれ」
理由は単なる可愛い乙女心だった。だから俺は、かのかが抱いているであろう不安の材料を取り除こうと、そんなことを言ってみた。
羞恥を堪えて口にしたその言葉は、しかしかのかのお気に召さなかったらしい。返ってきたのは数秒の沈黙。今は見えないけれど、こういうとき、かのかは呆れたような顔をしていることが多い。案の定、マイクが拾った微かな溜息の音が、俺の鼓膜を震わせた。
「……心配なのはそっちじゃないよ」
「──え、何て言った? よく聴こえなかったんだけど」
「聴かせる積もりが無かったから。まあ、二人で楽しんできたら?」
言葉に含まれる毒々しさが、刃から棘くらいにはなっていた(傍目には分からない違いだろうが)。
仕方なく、俺はそれ以上の追及を諦める。「……あ、ああ。それじゃ」と流れで通話を切ろうとすると、かのかも穏やかないつも通りの態度で「うん。おやすみー」と返してきた。
そして、この土曜日はそんな風に終わったのだった。