逃亡の果て
壁際を走り、身を隠すように観葉植物の背後に回る。
直後、『天使』が俺の隣に出現した。正確には翼を使って飛来したのだが、あまりの速さに視線で追うことすら敵わなかった。
悲鳴を上げるのも忘れて地面を転がる。
一見頑丈そうに見える植物の枝が豆腐のように切断され、床に落ちる。一瞬遅ければ俺の首がああなっているところだった。
手をついて立ち上がりながら肉体を前へ押し出す。
通路の反対側の壁を目指すようにしながら最初にいたホームの方へ向かう。
素早く姿勢を切り替えした『天使』が再び翔ぶ。俺は体に鞭を打って進行方向を通路に対して平行な方向に捻じ曲げる。獲物を見失った牙は通路の壁に突き立った。
振り返りもせずに更に前に。
数メートルも進めないうちに死の気配がすぐ背後に迫っているのを感じる。
思わず首を竦めるように姿勢を屈めるが、今度の攻撃は水平方向ではなく垂直方向。
刃は真上から振り下ろされる。
自らを押さえ付けるように無理矢理に体を右側に横転させる。
しかし、躱し切ることは出来ずに左の二の腕を切り裂かれる。
「が、あああああああああああッ!?」
制御を失った俺の体躯は無様に赤い液体を散らしながら地面を跳ねる。
傷は骨まで達してはいないのか、辛うじて腕は繋がってはいるが、想像を絶する激痛のせいで全身が言うことを聞かない。
「素直に殺されてくれれば――」
うつ伏せの俺に頭上から声が降る。
右腕で地面を突き飛ばし、横に転がる。降り落ちた刃が床のタイルを砕いた。
「――このような思いをさせずに済みましたのに」
変わらぬ声色で告げ、機械的に黒い鎌を振り上げる。
「る……ッせぇ!」
地面に爪を立て、千切れそうな四肢を引き摺り起こす。真っ直ぐ立つことも危うい身体を恐怖の感情で突き動かす。
「それほどまでに……あなたは命に囚われているのですね」
このまま突き当りを左に曲がれば『天使』と出くわしたホームに戻ることになるが、階段の手前を折れればトイレに入ることになる。
俺は飛んできた『天使』を既の所で回避して男性用トイレに転がり込む。あの大ぶりの鎌を扱うには、ホームように開けた場所よりも、こういう狭い場所の方がやりにくいはずだ。
洗面台と多目的トイレの間を抜けたあたりで、一度トイレの前を通過した『天使』が入り口に姿を現す。この狭さでは翼を広げることも出来ないのか、ゆっくりと歩み寄ってくる。
俺の正面には掃除用具入れ。左方向に入り、更に奥へ進む。
そう広くは無いトイレだ。ここから先に行ける場所もない。
「そろそろ、諦める気になりましたか?」
「ああ、そうだな。もう疲れたよ、色々と」
鎌を携えた『天使』と向き合って、小便器の設置されている左の壁際を一歩ずつ後ずさる。少しずつ追い詰められ、4つある便器のうち3つを通過した。
真横に4つ目の小便器が来た所で立ち止まる。もうこの後ろには壁があるだけだ。
「……それでは、あなたに赦しを」
左肩から大鎌を振りかぶる。
「お疲れ様です」
残像を伴う一閃が振るわれる。
――ガギンッ!!
金属の破裂する音が響く。
屈んだ俺の頭上を通過した漆黒の刃は、小便器に繋がれた水道管に喰らいついている。
一瞬の間があって、金属の管から水が噴き出す。
『天使』が怯んだのを機に横をすり抜け、トイレの入口へ辿り着くと、俺は入り口の壁にある照明のスイッチを切った。
空間を暗闇が支配する。光源は、扉のない入り口から差し込む光のみ。
ほんの少しでもこちらを見失ってくれれば、その隙に逃げ出すことができる。
鎌を壁から引き抜いた『天使』は対象を見失い、ただ事務的に言葉を発する。
「手間を掛けさせてくれますね」
そして、暗闇と同化しそうな得物を無造作に引き摺りながらその空間を後にした。
*
ギギギギ、と闇を引き摺る音と『天使』の足音が遠ざかるのを聞き届けて俺は深く息を吐き出す。
身を隠していた多目的トイレの扉を薄く開き、安全を確認してから外に出る。
俺がなるべく遠くへ行きたがると予想してくれることを期待しての行動だったが、上手く誤魔化せたようだ。しかし、どこを探しても俺が見つからないとなればここにも戻って来かねない。早いところ別の場所に移動したい。
洗面台の戸棚を漁って、見つけた雑巾を左腕の傷口に充てがう。適当な紐でそれを縛り、ひとまずの応急処置とする。素人仕事も良いところだが、気休めくらいにはなる。
ジッと耳を澄ませて周囲に『天使』の気配がしないことを確かめ、物音を立てないように細心の注意を払いながら通路へ。
問題は次の目的地だが、ここは地下空間だ。改札から出られないのならホームで次の電車が来るのを待ってそれに飛び乗るか、最悪線路を歩いていくしか無い。駅全体に『天使』が何かをしているならその方法も駄目かもしれないが、試してみないことには何も始まらない。
線路に出るなら、ここから最初にいたホームに戻るのが最短だ。
恐る恐る、階段を降りていく。
すると、微かに金属を擦る音が聞こえた。音は、ホームの方から。
どうやら、ハズレを引いた。『天使』はここにいるようだ。
静かに階段を引き返す。
ふと、響いていた金属音が止まる。
……まさか、気付かれた……!?
音を発生させないようにしながらも足を早め、階段を登りきった先のトイレに駆け込む。
飛翔して階段の上まで来たのだろう。コツン、と靴が地面を打つ音が耳に届いた。
そのまま、再び地面を削るようにしながら歩き出した。
「そこにいるのですか?」
男性用トイレに足を踏み入れたであろう『天使』。
照明のスイッチを切り替える音が響く。
金属の塊を牽引しながら内部へ進入する。
ガラガラ、と多目的トイレの引き戸を開く音。無人であることを確認した後に、戸が閉まる音が聞こえた。足音は更に奥へ。順番に個室の扉を開けては閉めていく音が、人のいない静かな駅を揺らす。
激しく脈打つ俺の鼓動が聞こえてしまわないか、と膨らむ不安を抑え込みながら小さくなって震える。
一通り個室を見て回り、誰も見つけられなかったらしい『天使』は鎌を引き摺りながらトイレを出る。
こちらに気付かれるのではないかと緊張が全身を包むが、金属音はそのまま徐々に遠ざかっていった。
いつの間にか止めてしまっていた呼吸を、静かに再開する。
俺が咄嗟に隠れたのは隣りにある女性用トイレの個室。
『天使』がこっちにやって来なかったのは幸運だった。
あの様子だと、俺がいることを確信しての行動では無かったのだろう。気のせいだと思って戻っていったか。
それなら、さっきのホームにもう一度戻っていったと考えるべきか。
とは言え反対側のホームに回り込んだ所で、向こうからこちらを見つけられてしまえばあの翼でひとっ飛びだ。やはり逃げ場などないか。
一応、様子を確認しに元いたのとは別の側のホームへ降りる階段まで来ては見たものの、降りる途中で反対側のホームから鎌を摺る音が聞こえて結局上まで引き返すことになってしまった。
どうしたものかと悩んでいると、階段を登ってきた先の突き当りを右に曲がった先にある階段が目に止まった。その先にも駅のホームのようなものが見える。
駅のこのあたりには来たことが無いからわからないが、あちら側のホームの対象的な作りになっているならここは行き止まりのはずだ。そもそも路線は上りと下りの2本しか無かったはず。
なら、ここは一体……?
ただでさえ『天使』の影響で様子のおかしな駅だ。得体の知れない場所に足を踏み入れるのは余計に危険を伴うが、他に行けそうな場所もない。
俺は、覚悟を決めてその階段を下った。