救済者
人生に価値を見出せなかった。
生まれたことの意味が分からなかった。
生きていく理由が見つけられなかった。
けれど、そんなものは生きていれば見つかるものだと思っていた。
生きて行けば出会えるものだと信じていた。
だから続けてきた。
こんなつまらない人生を、25年も。
何かに熱中することが出来なかった。
何一つとして、打ち込めるものが無かった。
子供の頃からずっとそうだ。
色々な習い事をさせてもらっていた。
将棋にそろばん、水泳に空手。その一つとして物にはならなかった。
水泳には数年通っていたにも関わらず、人並みに泳げるというレベルから上達することは無かった。
そろばん教室にも2,3年は行っていたはずなのに2桁同士の掛け算すら暗算では出来ない。
将棋に至っては、「駒の動かし方がわかる」以上の何物でもない。
小学校の高学年くらいから高校を卒業するまで、今までの習い事の中で一番長くやっていたであろう空手は一応、初段まで昇格して黒帯を取るまではやったが、大会なんかで入賞した経験は一度もない。
かと言って勉強や部活に心血を注いだのかと言えばそうでもない。
課題も試験勉強もそこそこにしかやらなかったし、徹夜で勉強をしたことなんか一度もない。
中学で入った部活は殆ど幽霊部員だったし、高校以降は帰宅部だった。
小学校時代に多くの習い事をしていたせいであまり友達と遊んだ経験が無かったというのは言い訳にしかならないが、放課後にどこかに遊びに行くような事もなく、早々に家に帰ってはグダグダと時間を潰していた。
体育祭や文化祭などのイベント事でも周りの雰囲気に乗り切れず、教室の端の方で成り行きを見守っているタイプだった。
高校受験も大学受験も、就活も同じだった。
それなりに勉強して、適当に進路を選んで。
もっと真面目に勉強すれば良かった。自分で考えて進路を決めるべきだった。そう自らの過ちを悔やんだはずなのに、何度も同じ後悔と失敗を繰り返した。
その結果が、この現状だ。
いつもどこか冷めていて。
自分のことなのにどこか他人事で。
結局どこかで手を抜いて、全力を出し切れない。
こんな人生に何の意味がある?
自分の人生にすら本気になれない人間の人生なんかに、何の意味があるって言うんだよ?
もう、いい加減疲れたんだよ。
もう、飽き飽きなんだよ。
もう――
――もう、良いだろ?
俺はゆっくりと、足を一歩前に進める。
カツ、と革靴がコンクリートを叩く音が響いた。
社会人になって早数年、やっと通い慣れてきた地下鉄のプラットホーム。
今日は残業に巻き込まれて帰りが終電間近になってしまったため人気は少ない。
足を踏み出した先の暗闇から鈍く光る線路が覗く。
見計らったようなタイミングで、静寂の支配するホームに列車の接近を報せるアナウンスが流れる。
追って、トンネルの向こうから現れた鉄の塊が放つ光が、右側面から俺の目を刺す。
もう一歩。
ここからもう一歩踏み出せばそれで終わる。
それなのに、どうしても俺の足は動いてくれなかった。
動けないでいる俺の鼻先を、温度を持たない車体が掠めていく。
ゆっくりと速度を落としながら滑り込んできたそれは動きを止めると、扉を開いた。
終電の近付くこんな時間に、近くに何も無いこんな駅で降りる人間はいない。
駅にいた数人が乗り込むが、ここにいる急行の電車は俺の目的の駅には停まらない。
暫し呆けていたが、車両から離れて乗る意志が無いことを表明する。
そんな俺を待っていたという事も無いだろうが、列車は扉を閉めると駅を後にして行った。
やりたいことなんか無いのに。
生きていく理由なんか無いのに。
こんな人生に未練なんか無いはずなのに。
それなのに。
たった一歩が踏み出せなかった。
死ぬのが、怖かった。
夢も希望も無い。
生きていても楽しくないし面白くない。
人生は、辛くて苦しい。
生きていたくなんかない。
死んでしまいたい。
それでも、死ぬのが怖い。
当たり前だ。命がある以上、そう簡単には死ねない。
大体、それが出来ているならこんな歳までのうのうと生きちゃいない。
本能に刷り込まれた命への執着が、体中に絡みついて離れない。
俺の意志と無関係に、俺は生かされている。
これはきっと罰なんだと思う。
俺みたいな奴がこの世に生まれてきてしまった事自体が間違いだったんだ。
だからその罪を、生きていくという罰で贖わされている。
命の鎖に繋がれて、人生の牢獄に囚われている。
生まれてきたことにそもそも意味なんか無かった。
そして生きていく理由も与えられず、死ぬことすら許されない。
なぁ、俺はいつになったら許される?
いつになったら解放される?
一体いつまで、こんな風に死んだように生きていかなきゃいけない?
ごうん、と人のいない地下鉄のホームを一迅の風が吹き抜け、
「もう、充分です」
声が、聞こえた。
突然すぐ後ろから聞こえた声に驚いた俺は、足を絡ませながらも殆ど脊髄反射で振り返る。
「私があなたを解放しましょう」
相手の姿が目に入る前にそう声が続いて、遅れて振り向いた俺の胸の真ん中あたりに冷たい金属が押し当てられる。
バランスを崩しかけていた俺はいとも簡単に線路側に押し出された。
ガダンッ!
尻餅をついた俺の背後を、空気を震わせながら通過電車が掠める。
不意に距離を詰めてきた死の影に心拍が跳ね上がる。全身から嫌な汗が吹き出す。
ぎこちなく見上げた俺の視線の先には、一つの人影があった。
構内を駆る風に舞い上げられた長い金髪が空気を纏って柔らかに煌めいている。逆光のせいで表情は伺えないが、顔を覆う影の奥から光を反射して淡く輝く金色の瞳が覗いていた。
そして透き通るような透明感の細い体躯を白い衣に包んだ少女のような『それ』は、頭の上に光り輝く輪を浮かべ、背には純白の翼を携えている。それだけでも目を疑ったが、その違和感を中和するように対象的な黒く鈍い光を放つ、死神の鎌のような金属の塊をこちらに向けていた。
轟音を撒き散らしながら電車が遠ざかっているのを聞き届けて、ホームに再び静寂が降り立ってなお、俺は発するべき言葉を見つけられていなかった。
代わりに口を開いたのは俺を突き飛ばした『何か』だった。
「申し訳ありません。私が話しかけたりしたばかりに」
その声があって、ようやく声らしきものを絞り出すことが出来た。
「お……お前、は……?」
会話が成り立つ事など期待していなかったが、『少女のようなもの』は質問に答えを返す。
「私は、あなたの願いを叶える者」
「願い……?」
「あなたを、苦しみから解放する者。私は――」
淡々と言葉を続け、自らの正体をこう名乗った。
「――天使」