8.苦酒に潜む
ルッツ君が言う通り、美術室の隣の空き教室で、バルコニーからローゼ嬢を目撃したとき、五時の鐘が鳴っていた――のだとしたら。
本当に僅かな時間でローゼ嬢は殺されている。この世界に死亡推定時刻を厳密に割り出す技術は多分まだない。
私だって、自分が見た彼女の遺体が死に立てかどうか判別するなんて無理だし。これがミステリ小説の類いなら、どこかの名探偵が死後硬直がどーのとか死斑がどーのとか、適当に語ってくれるんだろうけどさ。
「犯行時刻は五時以降、シオン殿下が美術室で遺体を発見なさるまでの間……か」
「アニー先生、シオンが美術室に行ったのはいつなんだ?」
「正確にはわかりませんが、五時半にもなっていなかったはず。五時十分か、二十分か」
「……じゃあ、ルッツの後に美術室に行った人間が犯人、になる?」
「でもギル君、五時の時点で美術室にいたのがローゼ様だけとは限らないのでは? 今のお話では、ルッツ先輩は中をご覧になってないのでしょう?」
「オリーブさんの言う通りだわ。誰か……そう、犯人じゃないにしても誰かいたのかもしれない。美術室には鍵が……」
四人で検証しているうちに、私はふと思い至って言葉を止めた。
そっか――鍵が掛かっていたのか。
そして当然、シオン王子が美術室に行ったときには鍵は開けられていた。
もちろん全然不思議ではない。現場はもともと密室なんかじゃあなかった。
「先生?」
「……そういえば、ルッツ様がローゼ様を尋ねたのは、何故ですか? どんなご用向きが?」
今更ながら私は基本的な質問を忘れていたことに気づく。
幼馴染とは言え、ルッツ君自身の気持ちはどうあれ、普段は距離を置いていたはずの相手だろう。
それが事件の日に限って、日課の鍛練をサボってまで訪れる用事ができた? 聞く限りアポもなかったようだし、どうも不穏な感じがする。
「尋ねた理由、か」
こちらの疑念を察したのか、ルッツ君は少し考えるような仕草をした。続いて視線を僅かに動かす。
私から――オリーブ嬢へと。
「ルッツ先輩……?」
「? 何? もしかして、オリーブさんと何か関わりが?」
「……」
返答はなかなか得られなかった。
明白だ。ルッツ君の当日の美術室訪問は、オリーブ嬢に深く関係している。この反応からして、むしろ原因なのかもしれない。それも本人の与り知らぬところで?
私たちはルッツ君を問い質すように視線を向けた。もちろん彼の口を割らせるのが難しいことはわかっていた。多分オリーブ嬢がいるこの場では、とても無理だろう。
仕方ない、と私は早々に諦める。今日会ったばかりの生徒の胸襟を簡単に開かせる方法なんかない。この手のタイプはわりと頑固っぽいから、しつこくするのは逆効果だ。
オリーブ嬢も追及の言葉を紡がないまま、不安気に眉を寄せた。
ただひとり――ギル君だけは何か怪訝そうに、深い思考に沈んだ表情でルッツ君と美術室の奥を交互に見つめていた。
◆ ◆ ◆
「うむ、わからん。聞き込んだのに結局わからんわー。まったく意味不明だわー。全員怪しいっちゃ怪しいし。真相解明なんて無理無理」
「白旗……早くない?」
「そもっそも私に頭脳労働をさせようというのが間違ってるのよぅ」
「教師なのに……?」
「教員だからって必ずしも知能指数が高いとは限らないの。そんな名探偵的頭脳あったら、今頃もっと別の職に就いてるわ。いやむしろ折角貴族に生まれたのに、何故にニートを極めず就職なんかしちゃったんだろう……あぅ」
「にーと?」
「遊んで暮らせる富裕階層に生まれ、外の仕事も家の仕事も社会貢献もせず、ただ穀だけ潰すロクデナシの意」
「その生き方、面白い?」
「知らんし。なったことないから」
「うーん……」
酒を飲みながらぐだぐだと意味不明な愚痴を垂れる私に、ギル君は突っ込み切れず苦笑した。
少量の蒸留酒を炭酸水で割った杯は、まだ半分以上残っている。ギル君の飲んでいた葡萄酒の瓶はすでに空だ。
「アニー先生が……ちょっと変わってるのは、とっくに知ってたけど」
「煩いよ」
「にしても、ね。まさか……生徒を酒場に誘うなんて、さすがに思わなかった」
「いーじゃん、別にぃ。ギル君は十五歳でもう成人してる訳だし? お酒強いみたいだし? 酒場に学生出入り禁止なんて法律、この国にはないのよ」
ぎくりと目を泳がせて、私は言い訳をする。
適当ほざいてるけど、本当は見つかったら大目玉だ。だからギル君は地味な私服に着替えさせ、目立つ銀髪も布を巻いて隠してもらっている。
「僕は……面白いから、いいけどね。街に出るの、あんまり機会ないし」
今日丸一日付き合わせて、さらに夜まで引っ張り回しているにも拘わらず、ギル君は寛大に受け入れてくれた。いい子やなぁ。
さて、私たちは今日の放課後の殆どを使って――カードゲームに興じていた時間を除く――複数の参考人から事件の日の事情聴取をした。
特別男子寮でシオン王子とカイト君から、旧校舎でルッツ君から。
それだけで結構な時間を費やした。金木犀が散った後の季節なんて、日が落ちるのも早い。暗くなる前に解散して、オリーブ嬢は女子寮に送った。ルッツ君にはまた後日に話をすると一応約束させたけども、まあ保証の限りではない。
私は夜を待たずに、ギル君を学園の外に連れ出した。もちろん教師としては、生徒であり外国の賓客でもあるギル君に、これ以上つき合わせるのはよろしくない。
おまけに行く場所が酒場ではね……一応、裕福な階層が行く店だから危険はないとは言え。まじでバレたらヤバイんだけどさ。
実はこれも必要な行動だ。
だから苦手な種類の酒を頼んで、飲み過ぎないようにしている。正直ウィスキーってあんま好みではないんだよ。私も赤ワイン飲みたかったなぁ。
「誰を、待ってる? 先生」
見透かしたようにギル君が訊いてくる。
この子はやっぱり賢いんだよね。ちょっと偏執的な性格も見受けられるけれど、基本は理性が勝つタイプだろう。
私は隠さずに、この店に頻繁に通っているらしい人物の名を挙げた。
「もちろん、待ってても今日は来ない可能性もあるよ。でもさぁ、学園でうだうだしてるよりマシかと思ってね」
「変なところ、前向きだね」
「……それよりもさぁ、ギル君」
チビりと酒を舐めながら、私は尋ね返した。
「さっき……美術室、何か気になることでもあったの? 不審な点とか」
「結局、室内には入らなかったけど、ちゃんと確認した方が良かったかなぁ。でもねぇ、あんまり長居すると忍び込んだのがバレるかもしれないし、日が暮れる前に退散したかったんだよね」
「そうだね……」
ギル君は上着の内ポケットからメモが取れる程度の小紙と鉛筆を取り出した。
「纏めてみる」
そう呟くと、ギル君はさらさらと筆を滑らす。綺麗で読みやすい字だった。
私はメモを覗き込んで、小声で読み上げていく。
「時系列だね。えっと、四時から?」
四時過ぎから五時、ギル裏庭
四時半前?、(不明)美術室
四時半、カイト美術室
五時前、ルッツ美術室前、カイト調理室
五時、ルッツ空き教室
五時過ぎ、ギル、カイト正門、シオン美術室
「わかってる限り、こんな感じ? 時間はまあ……ちょっと大雑把、だけど」
「なるほど……」
確かに空中でいくら考えても整理できるはずがない。勉強と同じで書き起こすのは大事だ。
「全員、分刻みで時間を確認していた訳じゃないだろうしねぇ。細かい部分はどうしようもないよ。大まかに流れが理解できて助かるわ。ありがとうね、ギル君」
「うん。あげる」
何でもないことのように、無造作に紙を手渡される。走り書きを睨みながら、私は思考を巡らせた。
とりあえず――どんなに怪しくてもこれまで全員が嘘は言っていないと仮定しよう。
気になるのはやはりこの「不明」の部分かなぁ。ただ五時の時点までローゼ嬢が生きていたのが真実なら、全然関係ない来客という線もあるだろう。
もうひとつ気になるのは、金木犀の下で目撃されたオリーブ嬢の姿だ。
ルッツ君は彼女がギル君と共にいたと明言している。それを美術室のバルコニー越しにローゼ嬢が見ていた……らしいけれど。
この事実はいったい何を示唆しているのか。
別に彼女自身を犯人だと疑ってる訳じゃあないけど、無関係と言い切っていいものか。
そもそものところ、彼女の本命は誰なんだろう。
攻略対象者に軒並み会っておきながら、未だ特定はおろか目星もついていない私は無能だよなぁ。
「で、ギル君は何が気になったの?」
少しでも進展が望めないかと、自分よりは観察眼に優れていそうなギル君を窺う。無理矢理つき合わせたのは、特別男子寮に入るためだけじゃない。偏見で濁り兼ねない自分のほかに、客観的な視点が欲しかったからだった。
「まあ……事件と関係あるかはわからない、けど。先生、カイトの言ってたこと、憶えてる?」
「カイト君?」
「言ってた……よね。自分の前の来客、卓上にお茶が残されてた、って。それって誰が、淹れたのかな」
「誰って……」
一般的には客人が淹れる訳がないし、傍に使用人がいなければ、ローゼ嬢本人に決まっている。何が疑問なのかわからず、私は首を傾げる。
「聞いたところによると、美術室は昔、教員室だった部屋だから、お茶くらいは淹れられるでしょ」
確かサモワールっぽい炭燃料の保温給湯器が備え付けられていたはずだ。そう告げると、ギル君は再び怪訝そうに考え込んだ。
「第二王子の婚約者で……大公家の姫君であるローゼが、手ずからお茶を淹れる相手。誰、かな?」
「え……」
言われてみれば不可解だった。
ローゼ嬢ほどの立場の者が自分より身分の低い相手に奉仕するだろうか。だとしたら行き着く結論はひとつだ。
「って、つまり……シオン王子?」
「かも……ね。可能性だけど」
ギル君の指摘は私の想像の埒外にあった。
第一発見者のシオン王子は、少なくとも五時前後に旧校舎に着いたものと想定していた。
でも、実はずっと前から旧校舎にいたとしたら。
カイト君やルッツ君をやり過ごして、ほんの僅かな隙にローゼ嬢に手を掛け……恰かも自分が遺体を発見したように装う。ミステリ小説なら定番中の定番かもしれない。
「予断は良くない、先生」
「わかってる」
不安を振り払うように、私は苦手な酒を一息に呷った。
何もまだ判じてはならない。
最初から、未だ乏しい材料を集めるのがここに来た理由だった。だってカードが出揃わないうちに、勝負はできないでしょう?
そんな私の想いが神にでも通じたのか、或いは悪運の類いか、単なる偶然かはわからない。
一向に進まない酒の杯を置いた途端、店の入り口で扉の開く音がした。