2.金木犀の散る頃に
『金木犀の散る頃に』
とは、今まさに私が存在するこの世界自体の名称と言える。その意味を問われれば、前世で遊んでいた乙女ゲームなる娯楽創作物のタイトルと私は答えるだろう。
自分でも信じ難い話だとは思う。
前世や転生なんて話自体胡散臭く聞こえるかもしれないが、しかし私はある日突然、脈絡も前触れもなく、まったく別の人間として生きていた記憶を思い出してしまったのだ。
きっかけは――そう、一年程前。
私がこの学園に赴任したときだった。
私はそもそも貴族の出で、学園の卒業生である。
王都にある学園は将来国を担う人材として貴族の子弟を集めており、十二歳から十六歳まで高等教育を受けられる。就学は強制ではないが、健康上の理由でもない限り貴族家の子どもは例外なく学園に入学した。
卒業後、学業優秀であれば隣接する大学でさらに学ぶこともできる。男子生徒の進学率は高いが、女子生徒はだいたい卒業してすぐに結婚する。
たまたま私は結婚相手(当時の婚約者)側の事情でしばらく自由な時間を得られたため、三年間大学にも通った。
そして、適齢期を過ぎた十九歳になってすぐ、後れ馳せながら私も一応は結婚することになった。
もちろん家同士の兼ね合いだけで、恋愛感情などは欠片もない。昔からの許嫁であっても交流は少なかった。相手が身体的に虚弱だったせいもある。結婚時期が延びたのもそのためだ。
だから半ば予想して然るべきだったのかもしれない。不幸にも、夫となった男性は結婚して一年も経たないうちに亡くなってしまった。
子供もいなかったので、私は実家に帰された。実家はすでに年の離れた長兄が継いでおり、ずるずると居座るのは気が引けた。
喪が明けたら再婚という話もあったけれど、どうも気乗りしないでいたら、たまたま母校の教員募集を知ったのだ。身分と学歴が丁度良かったのか採用され、就職したのが一年くらい前の話である。
戻って来るとは思ってもいなかった。
なのに、どういう運命の皮肉だろう。
教師として学園の敷地に入ったあの日、母校に再び足を踏み入れたその瞬間――私は前触れもなく唐突に、あり得ない記憶を蘇らせた。
日本という国で生きていた前世を。
学園と酷似した創作物の舞台を。
信じてくれなくとも良い。前世の私は日本という国に生まれ、女子高生という身分で平和に暮らしていたのに、不慮の事故で儚く消えた。さらに死後、乙女ゲーム――つまり物語の中の世界に転生を果たしたのだと自覚した。
◆ ◆ ◆
学園は基本的に全寮制だ。
中でも特別寮は一般寮と違い、特に身分の高い貴族家の子どもたちが住んでいる。教師だろうと生徒だろうと入寮者(および予め許可された使用人)以外が勝手に立ち入ることはできない。
「ギル君、入寮者がお客さんを入れるのは、本当に大丈夫なんだ……よね?」
「うん、そう。でも……よく女の子連れて来る奴も、いる。本当は禁止らしい……けど」
「治外法権?」
「かな」
気にしている風でもなく、ギル君は淡々と肯く。
お偉いさんの子どもだからって勝手が許されるのかぁ。風紀の乱れが心配だわ。
特別男子寮の入り口付近までやって来ると、私はさすがに緊張で足を止めた。
だって見るからに豪華絢爛で迫力ある建物なんだよ? 私も貴族出身だけど、レベルが違う。王家の離宮がこんな感じだったかもしれない。
うわぁ、ヤッバいわ。
ギル君もこんなところで生活してるんだ。
「先生?」
一歩前を歩いていたギル君が振り返り、不思議そうに首を傾げる。
そりゃあ立場の違いに躊躇する一教師の気持ちなんて、若い子には意味不明だろうさ。どうせ私は小心者ですよ。
これは仕事。
一応仕事。
ぶつぶつと自分に言い聞かせてみる。
「先生」
「何でもないよ。行こっか、ギル君」
「……じゃなくて」
「?」
ギル君は何やら怪訝な表情を浮かべていた。
その視線は私の肩越しに向けられている。
――何だろう?
つられて私も身体を捻る。
「アニー先生!」
振り向くと同時に名を呼ばれた。少し甲高い、でも可愛らしい声だった。
「アニー先生……! 待って。ギル君も」
声の主である女子生徒は、私たちを追って走って来たのか息が上がっていた。
「オ、オリーブ……さん?」
「はい!」
動揺しながら女子生徒の名を口にすると、勢いよく返事が返ってきた。
あー……そうくるのか。
ここで関わっちゃうんだな。
私は内心で冷や汗を掻いた。
彼女は授業以外では殆ど交流もない生徒なんだけど、私からは一方的によく知っている。
小柄な黒髪の、清純そうな美少女。
隣国の王子様をギル君と気安く呼べてしまう立ち位置の、特別な女の子。
この世界の主人公――。
「オリーブ……どうしたの?」
ギル君が彼女に尋ねる。
どことなく気安い感じがする。
やっぱり親しい……のかな。
もちろん生徒同士だし確か学年も一緒だから、普段から仲良くしていてもおかしくはない。
ただオリーブ嬢は――学園が乙女ゲーム『金木犀の散る頃に』の世界だと知っている私からしたら、無視できない存在だった。
前世で言うところの乙女ゲームというものを、今の世界の人間に説明するのは少し難しい。
何しろ文明レベル的に、当然にまだスマホもパソコンもなく、家庭用ゲーム機どころかテレビすらない。せいぜい蒸気機関車ができたくらいで、前世生きていた時代からすると何世代か古い設定らしい。
限りなく単純化すれば、絵と音声の付いた恋愛小説みたいな感じだろうか。主人公の女の子視点で進んで、同じ舞台の中で恋人役を変更できるのが特徴だ。読者は主人公に自身を投影して、幾通りも違う恋物語を愉しめる。
乙女ゲームにおいて主人公の恋人候補の男性を攻略対象者という。基本的に複数人いて、自分で好みの相手を選んで、話し掛けたりデートしたりして好感度を上げて、相手に好きになってもらうのを目的とするゲームなんだよね。だから攻略。
憶えている限りでは、『金木犀の散る頃に』の攻略対象者は五人だった。そのうちのひとりにギル君がいた。
主人公の女の子は――彼女、オリーブ嬢。
ちなみに私はゲーム内では名前も顔も出てこないくらいの脇役未満で、モブですらないという……何だよ、この存在感格差。
ギル君に彼女と並べて見られるの嫌だなー。ヒロインちゃんとモブ以下って……すでに容姿からして全然違うし。
まあね、片や十五歳のうら若き乙女、片や二十歳を超えた地味教師だもん。
オリーブ嬢は制服姿が超似合っていて、雰囲気もふんわり愛くるしい。長い黒髪はこれでもかというくらいサラッサラでキラッキラしている。私も同じ黒髪だけれども、まったく比較にならんわ。
魅力的すぎて対抗するのも馬鹿馬鹿しい。
年頃男子としては、乙女ゲームの主人公と相手役候補という前提を置いても、異性として惹かれるものがあるんじゃないのかな。
私は気になってギル君をちらりと見遣る。
「オリーブ、何しに来たの? 女子が男子寮に来るの……駄目でしょ」
「それはわかってるけど……でもね、どうしてもギル君にお願いがあって、あの」
「急に……言われても、困る。僕、用事あるから」
ギル君は普段通りに訥々と話している。
あれ? 別にいつもと変わらない……かも?
ヒロインちゃんとは面識がある以上の付き合いっぽいとはいえ、お友達レベルと推定していいんだろうか。
「待って、用事ってアニー先生でしょう? お二人は今から特別男子寮に行くんですよね?」
「え? あ、うーん……」
いや、先生に振らないでほしいなー。
特別男子寮は女子生徒どころか一般教職員だって出入り不自由なんだし、ギル君経由でズルするのをあまり大っぴらにはしたくない。
「先生は、仕事……なんだよ」
「そうそう。オリーブさん、最近は校内も物騒だから、暗くならないうちに女子寮に戻りなさい」
「聞いてください、先生」
わざとらしく先生ぶって注意してみても、オリーブ嬢は真っ直ぐな眼差しを逸らさなかった。
むむむ……やっぱりこの子、可愛いだけじゃなくて、性格面倒臭い系か。
「お願いです、先生」
「私も連れて行ってください。シオン君……シオン殿下に、会わないと」
「え?」
意外に思って私は訊き返した。
「第二王子に?」
待てよ、別に発言自体は意外じゃあないか。
第二王子シオン殿下――我々がこれから会いに行く事件の第一発見者にして被害者の婚約者――は、件の乙女ゲームの攻略対象者のひとりだ。
つまりオリーブ嬢と恋仲という可能性は充分あり得る。
だとしたら……事件の犯人は特定できたも同然だから、彼女の話はちゃんと聞いておいた方がいい。
「オリーブさんは、その……第二王子とは以前から結構仲が良いの?」
「……友人です」
「友人?」
「はい」
「ただの?」
「友人、です」
オリーブ嬢は何かを憚るように答えた。
拍子抜けだけど、まあ婚約者のいる(いた)異性と友人以上に親しいなんて、普通の感覚では肯定できないよね。ゲームだからいじらしく思えても、実際には不貞行為とか略奪愛とかの類いだし、仮にも教師である私に告げるはずがない。
うーん、どうしよう。はっきりと関係性を問い詰めたいところだけど、あんまりド直球だと名誉棄損で訴えられてしまう。私と同じくらい下っ端貴族階級のオリーブ嬢だけならまだしも、第二王子にまで及ぶからねぇ。
「友人……なら、心配だよねぇ」
「先生?」
「ね、お気の毒じゃない、ギル君。きっとシオン王子もお友達がいた方が心が軽くなって、事件と向き合えるかもしれないわ」
「じゃあ、いいんですか!?」
「うん、私はいいと思うよ」
「え……」
まだ腑に落ちない面持ちのギル君に、私は目で合図を送る。これは作戦なのだっていう含みを込めてみた。
「う……まあ、先生が、そう言うなら……」
「ありがとう! ギル君!! アニー先生!!」
「まあこちらの都合もあるので、気にしないで」
「?」
簡単に要求が受け入れられて、オリーブ嬢は深読みもせず単純に喜んでいた。
私の思惑と言っても複雑なものじゃない。
ヒロインである彼女がいれば、攻略対象者たちも対応が甘くなったり隙を見せたりしてくれるんじゃないか。とまあ、その程度だ。
「じゃあ、行きましょうか」
改めて、今度は三人で目的地へ足を踏み入れる。
高貴な身分の生徒たちが住まう特別寮は、門構えだけで下々を寄せ付けない荘厳さを感じさせる。重厚な扉は謎めいた伏魔殿の入り口のように見えた。