12.混迷の靄から
「あの日私は、裏門から旧校舎の敷地に入った。時刻は五時丁度……鐘が、鳴っていた」
神妙に語り始めたシオン王子は、後ろめたさを一瞬だけ表面に出して私を見た。
この間は明らかな嘘を吐いたからだろう。とっくにわかっていたことだけどね。常識的に考えて、五時の鐘が鳴っていたのに気づかないはずがない。
「裏門……では裏庭をご覧になったのですね」
要するにルッツ君と同じだ。シオン王子の方が少しだけ遅かったようだけど。
ルッツ君は五時に美術室の隣の空き教室にいた。彼が露台からローゼ嬢の後ろ姿を確認したとき、シオン王子は裏門の傍にいたということか。
「そうだ。金木犀の樹の下には制服姿の男女がいた。即ちそれが」
「ギル殿下とオリーブさんだったと?」
「親密な様子だった。いや……言葉を飾るのは良くないな」
髪をかき分ける動作で迷いを退けると、シオン王子ははっきりと告げた。
「――二人は抱き合っていた」
「!」
私の目は反射的にギル君を捉える。
とんでもないところを見られていたにも拘わらず、彼の表情は全く変わっていない――誰にも気づかれない程度に、薄く微かに口端を上げた以外は。
「そんな……私は」
オリーブ嬢がハンカチで目頭を押さえる。嗚咽を堪えながらも、指先は震えていた。
「オリーブさん、殿下のお話に口を挟んではいけません。無礼ですよ。……どうぞ殿下、続きを」
「……っ。あ、ああ」
涙を溜めたオリーブ嬢の姿に、シオン王子はやや動揺したようだ。友人以上の好意を向けていたというユーハ君の証言はおそらく正しい。
「二人とも私には気づかなかった。私は……」
シオン王子の声には苦渋が含まれている。惚れている相手が他の男とイチャついてる光景なんて、いったいどれだけ衝撃的だったのだろう。正直、同情する。
「私は冷静ではいられなかった。直視できず、すぐにその場を離れた」
「裏口から校舎に入って四階に? いいえ、違いますね」
「何故そう思う?」
「裏階段から四階に向かったのならば、下りて来るルッツ様と行き違うはずですから。そうでしたね、ルッツ様」
「ああ……五時の鐘が鳴ってすぐ、俺は空き教室を出て階下に向かった。シオンとは会っていない」
ルッツ君の証言を聞いても、シオン王子は些かも狼狽えなかった。
「会うはずがない。私は裏階段を使ってはいない」
「どういう意味です?」
「私はすぐに校舎に入らず、校舎脇を抜けて正面入り口まで行った」
「校舎と……塀の隙間のところですか? 塀の外側の森とは違い、確かに通り抜けは可能でしょうが、いったい何故?」
「それは……いや、隠しても仕方あるまい」
シオン王子は自嘲気味に笑った。
「正直、打ちのめされていた。隠れるように校舎脇の途中で座り込んで、心を落ち着かせていた。少しの間だけだがな」
「――……!」
プライドを捨てたシオン王子の告白に、場が沈黙する。王子という身分を取り外し、恋に破れたひとりの少年だと思えば不思議な行動ではない。
……逆か。失恋のショックと同時に、友人たちに裏切られたかのような怒りもあっただろう。そのまま誰かに――ローゼ嬢に会えば、感情のコントロールが効かず八つ当たりをしてしまうかもしれない。王子としての対面を保つためにも、何とか独力で冷静さを取り戻さざるを得なかったのだ。
傲慢な俺様野郎だとばかり思っていたけれど、よくよく考えればかなり気の毒な立場と言える。
「そんな訳だ。気持ちを立て直した後も裏口側に戻るのは憚られたため、ぐるりと回って正面入り口まで移動し、正階段から美術室に向かった」
矛盾はなかった。僅かな時間差で、シオン王子とルッツ君は遭遇しなかっただけだ。それは別にいい。大した問題じゃあない。
「推測するに……私が旧校舎に赴く前に、すでにローゼは殺害されていた。犯人はギル、そしてオリーブは見張り役だった。犯行を終えて現場を離れ安心したところを、私が目撃したんだろう。違うか?」
「それは……ないでしょう」
私は即座にシオン王子の推理を否定した。
「ローゼ様は殿下が裏門を入った時刻、まだ生きておられました。殿下はルッツ様のお話をご存知なかったのですね。おそらくローゼ様の、最後の目撃情報です」
シオン王子が見た場面はルッツ君とほぼ同じだった。ただ偶然ギル君の逢引を盗み見たに過ぎず、直接犯行に結び付けるには弱い。
むしろ逆に、ギル君には明らかなアリバイがあることにならないだろうか。少なくとも五時の時点でローゼ嬢は存命していた。シオン王子が人事不省に陥っている僅かな時間で美術室に赴き、殺害をして見咎められずに去る――なんて、物理的に困難に思える。
「もちろん証言に偽りがなければ――ですが」
室内の視線がすべてルッツ君に集まる。
そもそも誰の話にも明確な証拠はないのだ。偽証の可能性は全員に等しくある。私にできるのは、できる限り多くの断片を集め、真偽を見定めることだけだった。
「ルッツ様は……空き教室の窓から裏門のシオン殿下に気づかれましたか?」
「いいや、全く」
「そして先程の仰りようからすると、殿下はローゼ様が美術室の露台にいらっしゃったこともお気づきではなかったのですよね」
「……そうなのか? 確かに上方には注意を向けていなかった。ローゼが……まだ生きて……」
自分が旧校舎に到着したときにはすでにローゼ嬢が殺害されたと思い込んでいたせいか、シオン王子の驚愕は大きかったようだ。
もし目撃情報がルッツ君の嘘だったとしても、ギル君犯人説は成り立たない。何しろユーハ君だってカイト君だって四時台にローゼ嬢に会っている。誰かが共謀して口裏合わせでもしていない限り、ギル君が犯行に及ぶのは時間的に不可能だと思う。
「あのう……水を差すようで申し訳ないのですが、よろしいでしょうか?」
「カイト……様?」
注目がルッツ君からカイト君に移る。
唯一の未成年であるカイト君は、上級生に遠慮しながら躊躇いがちに告げた。
「裏庭の金木犀のところにいたギル殿下とオリーブ先輩でしたら、僕も見ています。シオン殿下とは異なり、校舎の中からですが……」
「えっ」
私は完全に虚を突かれた。
「え? カイト様も、ですか?」
「はい。お話をしそびれていましたが……その、実は先日は話していいものか迷っていたんです」
「つまり、どなたともお顔を合わせていないというのは嘘、いえ誤りで」
「お会いしたのとは少し違います。一方的にお見掛けしただけで……ええ、二階の調理室の窓から」
「そうでしたか……」
言われてみれば、カイト君が例の探し物をしてたという家庭科調理室は、美術室の垂直位置にある。二階だったら裏庭は丸見えだったろう。
「確かカイト様が調理室にいらっしゃった時間も、五時前後でしたね。ギル殿下とオリーブさんに間違いありませんでしたか?」
「ええ」
「ずっと二人でしたか? どちらかが一時的にいなくなったりは?」
「多分、ないかと……いえ、ご存知の通り探し物をしている最中でしたから、途中見逃しているのかもしれませんが」
少し自信がない風に前置きをしつつも、カイト君ははっきりと断言した。
「しかし五時の鐘が鳴ったときは、間違いなくお二人とも揃っていました。偶然ですが、鐘の音が聞こえたから何となく外に目を遣ったので、よく憶えています」
「……抱き、えっと、抱擁していた様子は」
「どうでしょう。木陰なので、そこまでは」
「ふむ……」
とりあえず整理する。
五時の時点で、シオン王子は裏門、ルッツ君は四階空き教室、カイト君は二階調理室にいた。ギル君はそれ以前からずっと裏庭にいて、ユーハ君はすでに旧校舎の敷地内から立ち去った後だった。
ルッツ君によれば……ローゼ嬢はバルコニーに出ていたらしいけれど、タイミング的には殆ど鐘と同時に室内に入っている。
今までの証言を踏まえて犯行の流れを推測するとこうだ。
ローゼ嬢が美術室に戻ると――そこには犯人がいた。もともとあまり警戒されない立場か、或いはどうやってかローゼ嬢にも気づかれず隠れていたのだろう。そいつはほぼ不意討ちで殺害に及んだ。そしてシオン王子がやって来る前に速攻で現場を抜け出す。
うーん……無理あるよねぇ。時間的にかなりタイトだ。シオン王子が落ち込んでタイムロスしたから幸い(?)したものの、犯行時点に出くわす確率の方が高い。
おまけに隣室にはルッツ君がいた。たまたま諦めてすぐ帰ってくれたおかげで、逃亡を見咎められずに済んだだけだよね。これ、事実なら犯人は結構な綱渡りをやってのけてる。
そんな危険を犯したのは何故か。いや、そうじゃない。この場合やっぱり、最も無理なく犯行が可能な人物は――。
それとも……それとも?
そう思わせることこそが狙いなのか。
我々に疑いを抱かせ、彼に濡れ衣を着せようとしている?
……ちょっと待てよ。
そもそも何故ローゼ嬢は、美術室から外に姿を見せていたのだろう?
風にでも当たっていた?
裏庭の逢引現場を眺めていた?
いや違う。
おそらく誰かを待っていたんじゃないか? 誰ってもちろん、状況からしてシオン王子としか考えられない。
「シオン殿下……前にもお尋ねいたしましたが、今一度お答えください。殿下があの日、ローゼ嬢のところに赴いた理由は何なのです? お約束を……されていたのでしょう?」
あのとき言い淀んでいた以上、ローゼ嬢への用件は必ずあるはずだった。教師の私に話したくなかったのか、ギル君とオリーブ嬢を警戒したのか、その両方なのかは知らない。でも、ここに至っては今更隠す必要はないだろう。
シオン王子も同感だったらしく、ああ、と小さく頷いた。
「あの日はローゼに呼び出されたんだ。五時頃に美術室に来いと。オリーブの件で話があるから、と」
「それはローゼ様から直接ですか?」
「正確には手紙だ。朝一の教科の前に……机の引き出しにあったが、手紙もすぐに処分してしまったので手元にはない。確かにローゼの筆跡だと思ったが」
「席は教科ごと指定だから、誰でも殿下の机を特定するのは容易いです。迂闊にも証拠は破棄……と。あ、いえ失礼を」
「いい、今は許す」
何だかシオン王子は妙にしおらしくなってしまった。そんなに自分が勘違いしていたのが恥ずかしかったのか、失恋の告白なんぞをさせられて立ち直れないままなのか。まあどっちでもいい。
ローゼ嬢からの呼び出しが本当にあったのかどうか最早確かめるのは困難なのだろうけど、今のシオン王子を見る限りは嘘とも演技とも思えない。それにローゼ嬢の行動を振り返ってみると、あの日シオン王子を待っていたこと自体は間違いなさそうだし、辻褄は合う。
……どうにも釈然としない。
何かが巧く繋がらない気がしている。
金木犀の散る裏庭と、殺意を秘めた人物と、私の知る乙女ゲームと、いったいどの線が交差していたのか。
多分まだ足りないのだ。すべてを結ぶ糸のどれかを、私は絶対に見逃している。
「もうひとつだけ皆様におうかがいします。シオン殿下が呼び出されたと知っていた方は?」
シオン王子以外の者が首を左右に動かした。この回答は私にとって想定内だ。
「或いは……シオン殿下同様、ローゼ様に呼び出された方はいらっしゃいましたか?」
またしても同じ動作が返ってくる。これも予想を外れてはいなかった。
「では、ルッツ様、ユーハ様、カイト様。皆様があの日、揃って旧校舎に赴かれているのはただの偶然ですか? どなたも示し合わせ、いえ、お待ち合わせをされてなかったのですか?」
「いや」
「いいえ」
否の声が見事に重なる。
ルッツ君とカイト君だった。
「僕は……その、実は家の用事ではなく、オリーブ先輩の件で美術室に赴きました。先日申し上げたのは偽りです。あまり表沙汰にするのもどうかと思って……すみません。最初は皆で一緒に姉の愚行を問い質そうとしたのです」
カイト君が俯きがちに謝罪を口にする。その嘘はユーハ君からすでに聞いていたから、別段驚くには値しない。
「ああ、カイトの言う通りだ。朝からオリーブが腕輪を失くしたと騒いでいて、すぐにローゼの仕業だと察したからな。ユーハは乗り気ではなかったようだが」
「寄って集って女を吊し上げるのも胸糞悪ィだろ」
「だが、お前も結局はローゼを糾弾しに行ったのだろう?」
「……ちッ」
指摘されて、ユーハ君は不愉快そうにルッツ君から顔を背けた。
酒場で聞いたから、私とギル君は彼の本心は別にあったのを知っている。でも端から見ればユーハ君とローゼ嬢は険悪極まりない関係だった。
当人は誤解されたままでも構わないんだろうけどさ、ちょっと気の毒な気がしないでもない。
「ともあれ……迎合されなかったユーハ様以外のお三方は、最初は連れ立って行かれるおつもりだったと?」
「それが……」
曖昧に首を傾げながら、カイト君が答えた。
「結局、シオン殿下も反対されたんです。姉の呼び出しを受けたから……だったんですね」
「シオンは自分が収めるから我々には手を出すなと言った。だが……俺とカイトは結局、午後の授業の後に行くことにしたんだ」
ルッツ君が端的に補足する。
なるほど、手紙の方が後――ということか。
「シオンに任せるのは正直心許なかった」
ややばつが悪そうに、ルッツ君はシオン王子を見遣った。
「だからカイトと二人で計画した。協力してオリーブの腕輪を取り戻そうと」
「……勝手なことを」
ふん、とシオン王子が不愉快さを隠さずに鼻を鳴らした。
「悪かったな、シオン」
「まあいい。それで? しかしお前たちは別々に行ったのだろう? 何故だ?」
「ああ……俺たち最高学年よりも下級生は授業終わりが早い日なのは承知していたからな。カイトには俺を待たず先に行ってもいいと伝えてあった。弟のカイトなら穏便に済ませられるかもしれんとも思っていたんだ」
確かにカイト君は四時半くらい、ルッツ君は五時の少し前に、それぞれ美術室を尋ねている。タイミングが合わずバラバラの行動になってしまったようだけれど、示し合わせて行ったのには違いない。
「……では、ユーハ様は?」
最後に時間的にも少し早く単独行動を取っていたユーハ君に、改めて確認する。
「ローゼ様とお会いしていたという時刻、まだ授業中だったのでは?」
「サボった。調べればわかるだろうよ。ルッツやカイトよりも先に、ローゼと話しておきたかったんだよ。シオンとはかち合う可能性も考えてたが、結果としては杞憂だったな」
「ローゼ様の呼び出しの件はご存知なかったのに、殿下がいらっしゃると予想されていたのですか?」
「そういう雰囲気だったからな。シオンの性格からして、そんなに堪え性がある訳ねェ。むしろ授業が終わるのを待たずに、すぐローゼを捕まえて問い質しに行くと思っていた」
「つまり、……」
私は続けようとして、言い淀んでしまった。当て推量で言っていいものか迷ったのだ。
単なる憶測に過ぎないかもしれない。隠された札を一枚捲ったら、偶然の集大成でなく悪魔の采配が描かれていた――なんて、まったく笑えない。
ひとつ言えるのは、幼馴染であるところの彼らは、ローゼ嬢も含め互いの性格や行動パターンを概ね把握してるということだろう。もちろん、それだけで自分の都合のいいように誘導できるものでもないけどさ。
ただ、そう仮定してみれば、見えてくるものもあった。計算があったとして、加えて悪運や神の気紛れが手助けしたとして。
今ある情報から導き出される結論は――。
誤字修正しました
ご指摘ありがとうございます




