善とは何か? 善を定義する
一般的に善は人それぞれであり絶対的な善はないと考えられています。私たちは善というものをあまりに高尚なものと考えすぎてはいないだろうか。そのように考えるから善をいつまでも理解できないのではないだろうか。そこで善を少しシンプルに考えてみました。
善を辞書で引けば「道徳的に正しい事、またはそのような行為」と書いてあります。つまり善とは(道徳的に)正しいと言うことです。
それでは善、正しいは何故、必要となるのでしょうか。それは何か問題が起きるからです。何も問題がないならそもそも正しい、正しくないなんて必要はありません。つまり善、正しいとは問題と密接な関係であることが分かります。つまり「善とは○○である」ということは「ある問題において善とは○○である」ということなのです。通常は「ある問題において」が省略されているのです。そのため善が分かりにくくなっているのです。
それでは問題とは何でしょうか。ここでいう問題とは科学的、数学的問題ではなく、人の行いや心に関する社会的、道徳的問題を言います。そして問題とは英語でトラブルというように困った問題を指します。ですから何か困った問題が起きた時、良い答えを出さなければ、みんなが大きな不利益を蒙ってしまいます。そうならないためにもみんなが知恵を出し合って良い答えを出さねばなりません。良い答えを出せば不利益も小さくなり、みんなの為になるのです。
つまり善、正しいとは、何か問題が起きた時「みんなの為になる答え」を出すことだと分かります。これを簡略して言えば「善、正しいとはみんなの為」ということになります。つまり善、正しいとは、何か問題が起きた時にみんなにとって良い答え、みんなの為になる答えという事なのです。
それでは「みんな」とは何を指すのでしょうか。それはその問題に関係し利害を共有している人たちを指します。つまり困った問題が起きて困っている人たちを指します。ここでは「みんな」を「公」という言葉で表すことにします。そうすれば「善とは公の為である」と表すことが出来ます。「公」とは辞書によれば「個人の立場を離れ全体に関わる事」と書いてあります。公園、公共の公であり、決して国家や政府のことではありません。そして「公」の範囲は問題により変わります。家族の問題なら家族みんなが公になり、日本の問題なら日本国民みんなが公になります。
社会的問題はいろいろとありますが、あらゆる社会的問題の答えは常に公の為になる答えこそが絶対的に正しいのです。そうでしょう?当たり前ですよね。公の為にならない答えなどそもそも答えとは言えません。つまり略して言えば善、正しいとは「公の為」となるのです。それではこれが正しいかどうか確かめてみましょう。例えば正しい政治とは何でしょうか。勿論、公(国民みんな)の為になる政治でしょう。それでは正しい教育とは何でしょうか。勿論、国民みんなの為になる教育です。では正しい人とは何でしょうか。勿論、私利私欲に固まった人ではなく、みんなの為に行える人です。このように善、正しいとは「公の為」という意味なのです。
分かり易く例えれば、国の財政が苦しくなり消費増税をやるかどうかという問題が起きたとします。この時、消費増税をやるべきであると言う人たちがいます。また逆に消費増税はやるべきではないと言う人たちもいます。それで正しいは人それぞれであると考えてしまいます。しかしどちらも公(国民)の為に増税すべき、増税すべきではないと言っているわけです。どちらの意見も正しいことは「公の為」であるということは一致しているのです。ですからどちらの意見が公の為に合致するのか議論をして「公の為」になると思う方をみんなで選択すればいいのです。
もう一つ例を挙げれば「何故、人を殺してはいけないのか?」という問題があります。これに対して皆さんなかなか答えが出せないようですが、善の定義「公の為」で考えれば「人を殺すことが公の為(正当防衛や死刑、戦争など)であれば善であり、公の為でない(一般的な殺人)ならば悪である」と難なく答えが出てきます。
このように善、正しいは人それぞれではなく「公の為」なのです。これは絶対的です。あらゆる社会的問題は公の為になる答えこそ正しいと言えるのです。ある問題が起きた時、絶対的善である「公の為」にどちらの意見が合致するのかとみんなで議論して公の為に合致すると思う方を選択すればいいのです。善とは哲学でいうような小難しいものではなく、諸問題に対してのただの処方箋なのです。善、正しいとは「公の為」これこそが真の善の定義なのです。実にシンプルなのです。