庶民の血を引く、元皇女の独り言
マリアージェは、某国の第一皇女である。
上には皇后腹の兄が一人。下は何人か弟妹がいる(確か、五、六人の筈)。
マリアージェの父と言えば、父皇帝が死ぬや否や、待ち構えていたように皇太子だった実兄を暗殺し、自らが皇帝の座に就いた極悪非道のクズ男である。
その上、無類の女好き。
クーデターを共に起こした宰相が、即位後三、四年で病没すると、皇帝は宰相の娘であった皇后には目もくれなくなり、気に入った女を寝所に連れ込むようになった。
その栄えある(?)第一号がマリアージェの母だった。
まあ、女の趣味は悪くないとは思う。
母は根っからの庶民で、性格はまあアレだが、外見は楚々とした美人さんであったからだ。
小さい頃から貴族の邸宅に奉公に出されていた母は、その可憐な容姿が女主人の目に留まって、下働きから引き抜かれ、下級侍女、上級侍女を経て、いつのまにか皇宮の下級侍女に推挙されたという経緯を持つ。
ここまでは、庶民に人気の出世小説【捨て野良の下克上】を地で行っていたが、その美貌が皇帝の目に留まったことから、母の人生計画はがらがらと崩れていった。
問答無用で皇帝に花を散らされて、あの時はお先真っ暗な気分だったとよく母が言っていた。
皇帝の寵など、全くもって母は欲しくなかった。
母の狙いは、自分の出自に見合った貧乏だが誠実な男……ではなく、それよりちょっとランクが上の、そこそこ金持ちで自分を幸せにしてくれる男性である。
皇宮内の権力争いに巻き込まれる気は毛頭なくて、第一、後ろ盾のない自分が皇帝の寵を授かったところで潰されるだけだということも、ちゃんとわかっていた。
幸か不幸か、母の腹が膨らみ始めるや、皇帝はすぐに母に飽きた。
が、母が身籠ったと知って激怒した女性がいた。
言わずと知れた皇后である。
皇帝の閨に呼ばれるようになった頃から細々とした嫌がらせを受けていたが、懐妊したと分かった辺りからそれが激しくなった。
女遊びの範囲内で済めばまだしも、子を生めば必然的に愛妾として離宮の一角を与えられるから、皇后の面目は丸つぶれである。
それが余程、皇后の気に障ったらしく、もうすでに皇帝の訪れは母にはないというのに、執拗に陰湿にその嫌がらせは継続された。
度重なるいじめに母はすっかり憔悴して、ものも食べられなくなり……などということは勿論なくて、母はひたすら怒りまくっていた。
可憐で愛らしい見た目とは裏腹に、母は大層、肝の据わった、負けん気の強い女性だった。
そんな母に育てられたせいで、マリアージェもまた非常にたくましく育った。
母はマリアージェに淑女教育を行ったが、か弱く優しいだけでの皇女ではだめだと、庶民の知恵と雑草のような図太さと、ついでに口の悪さを一緒に教え込んでくれた。
母曰く、マリアージェはいずれ近いうちに、政治の駒となってどこかに嫁がされる。
その時には、皇女という武器をしっかり使って賢くたくましく生き抜かなければ、自分で人生の幅を狭めてしまうのだそうだ。
母が危惧していた通り、マリアージェの結婚話は唐突に浮上した。
僅か八つで、セクルト連邦の公国の貴族に嫁ぐことが決まったのだ。
早すぎる婚姻の陰に皇后の力が働いていることをマリアージェは賢明にも嗅ぎ取ったが、それはそれで構わなかった。
マリアージェには一つ、どうしても叶えたい願いがあり、それを父皇帝に直訴するいい機会であったからだ。
初めて会う父は、噂に伝え聞く通りに若々しく、目を奪われるような美丈夫で、同時に、人を人とも思わない傲慢さをぷんぷん匂わせていた。
今は踊り子上がりの側妃に夢中らしく、その側妃が皇子を生んだ後も、手放さずに寵愛を傾けているらしい。
マリアージェはその父に、自分が嫁ぐのを機に母を自由にしてやって欲しいと、勇気を振り絞って奏上した。
激怒されるかもしれないと覚悟していたが、母への興味を失っていた父皇帝にはどうでもいい事だったらしい。
その場では「下らん」と一蹴されたが、その後気が変わったようで、表向きは死亡という形で母は皇宮を出してもらえる事になった。
ある程度の金子と共に放逐された母は、その後、裕福な商人の目に留まり、子にも恵まれて幸せな人生を送ることになるのだが、それはまた別の話である。
さて、マリアージェの嫁いだ相手は、一回り以上も年の離れたおっさんだった。
おっさんと言ってもまだ二十二歳なのだが、八つの自分から見たら二十二歳は立派なおっさんである。
顔はぶっちゃけ、ぶ細工だ。初めて見た時、何かに似ているとマリアージェは真剣に考え込んだ。
母方の血筋はぴか一なのに(遡れば、大公家の血を引いているらしい)、洗練された優美さとは程遠く、ついでに運動神経もなく、口下手なので女性とお付き合いしたこともなかった。
でも金はたんまり持っている。グッジョブ。
因みに自分は美少女だ。何せ、種馬は極上の顔立ちをしているし、母はその皇帝の目を引く美人さんだ。可愛くない訳がない。
で、この娘、父親の愛情を全く知らずに育ったので、誠実な男性の包容力に満ちた愛情を切望していた。
そこで、このおっさん夫イエルの登場である。
要領は悪いが、朴訥で、人を騙す事ができない優しい性格、そして女性慣れしていないところ(父親がああだったので、もてる男は大嫌いだった)、お膝の上でご本を読んでくれるところなど、どこをとってもマリアージェのドストライクだった。
マリアージェは懐いた。
そりゃあもう、懐かれた本人がなんで??と面食らうほどに。
だってさ、マリアージェ、母さまと離れて寂しかったんだもん。
そのイエルさま、ご家庭がちょっと複雑で、腹違いの弟と三人の妹がいらっしゃった。
イエルさまの父親のプランツォ卿は、中流と上流のちょうど中間あたりの立ち位置の貴族で、家の格はそれほど高くなかったのが、名家の娘を妻に迎えた事でようやく名を上げたしょぼ男である。
世間知らずの名家の姫君がのぼせ上がる程度には整った顔立ちの男性で、そこがまた、自分の父親を思い出させてマリアージェは胸クソ悪かった(淑女は、クソなどという言葉を使ってはいけない)。
そのプランツォ卿が、前妻が死ぬや否やすぐに妻に迎え入れたのが今のプランツォ夫人で、母親を亡くしたイエルのためにと前妻の実家には釈明したようだが、後になって、妻が生きている頃から愛人関係にあった女性だったと判明した。
どこぞの貧乏貴族の三女らしく、目のぱっちりした、明るい顔立ちの美人である。
多分プランツォ卿は、元々こういう女性と結婚したかったのだろうなぁとマリアージェは思う。
だって、イエルさまの顔立ちはちょっとヒキガエルっぽい。
目は細く、離れていて、鼻は大きく広がった感じで、全体的に丸顔だ。
父親があの顔でこういう顔の子が生まれるということは、きっとお母さまがこのような目鼻立ちだったのだろうとマリアージェは仮説をたてたが、自分の推測が正しかったと確信したのは、夫の母方のお祖父さまに初めてお会いした時だった。
……イエルさまはお祖父さまにそっくりだった。
お祖父さまを四十歳若くしたらこうなるなというお顔立ちで、むしろ父親の遺伝子はどこ行ったとマリアージェは密かに首を捻った。
さて、このお祖父さま、母親をなくした外孫のイエルさまを不憫がり、大層可愛がっていらした。
愛娘が病気で死んだ時、幼いイエルのためにと婿が後添えを迎えることを許してやったのに、どうやら娘が生きている頃からの愛人だったと後で知って、大激怒。
その夫人との間にはすぐに子も生まれ、その子どもをイエルさま以上にプランツォ卿が可愛がっていると知ったお祖父さまは、孫息子のためにすぐ手を打った。
信頼のおける侍女や騎士などを十数人手配して孫のイエルの側付きとし、その者たちの給料はイエルが母親から相続した領地収入から支払われるように手続きをしてやった。
なので、彼らの主はプランツォ卿夫妻ではなく、イエル個人である。
そしてお祖父さまの息もかかっている。
一方、現プランツォ夫人は、舞踏会で自分が夫君に見初められた日のことをよく自慢していた。
家の格が違うと辞退したのに、事あるごとに贈り物をされ、何度もくどかれたこと。
お互いに一目見た時から惹かれ合い、そのまま順当に結婚する筈であったのに、名家の一人娘が自分たちの間に割り込んできて、泣く泣くお別れしなければならなかったと、それはもう悲劇の主人公さながらに滔々と友人らに語っていた。
それを聞いたマリアージェは、けっと思った。
そんなに好きならば、二人で愛を貫けば良かったのに。
イエルさまの母君は、別に結婚を強要はしていない。
ダンスに誘われれば頬を染めて俯くとか、憧れていることを周囲に隠そうともしなかったという程度のたわいもない好意の示し方で、お祖父さまが結婚の打診をプランツォ家にしたのは事実だが、断ることも十分できたのだ。
プランツォ卿は、社交界への足掛かりが欲しく、潤沢な財力も必要としていた。だからイエルさまの母君を妻に迎え入れたのである。
その後の結婚生活がどうであったのかは、マリアージェの想像の域を出ない。
が、イエルさまが生まれた頃には、すでに元恋人とよりを戻していたと聞くから、妻にとっては手ひどい裏切りであろう。
だから基本的に、マリアージェは義父母が大っ嫌いだ。
お祖父さまは言わずもがなである。
という訳で、プランツォ卿夫妻が大嫌いなお祖父さまだが、イエルさえ大切にしてくれるなら、それ以上ことを荒立てる気はなかったらしい。
だが、二人はあからさまにイエルさまを冷遇し、このままではイエルさまが廃嫡されるかもしれないという恐れさえも出始めてきた。
貴族は長子相続が基本だが、継嗣について最終的な決定権を持つのはその家の当主だからである。
このままではイエルが廃嫡されるかもしれないと、お祖父さまは一計を案じた。
大国の第一皇女を娶らせれば、孫のイエルに箔が付くと考えたのだ。
庶子とはいえ、現皇帝の血を引く皇女だ。そのインパクトは半端ない。
お祖父さまは幅広い人脈を貴族社会に持っており、その上かなり強力な鼻薬を大公殿下らに利かせていた。
大貴族であれば金は腐るほどあり、それを惜しみなくあちこちの家にばらまいたのだ。
結果、マリアージェの故国と公国との間でとんとん拍子に話は進み、ある日プランツォ卿に、長男イエルの婚姻が伝えられた。
お祖父さまとしては、孫息子の地位を盤石にしてやると同時に、娘を蔑ろにした男とその浮気相手に一矢報いてやりたかったのだろう。
貧乏貴族の娘が生んだような息子には、こんな格上の姫との結婚は望めないだろう、やーいといった意地悪さが透けて見える。
(同類の臭いを嗅ぎ取って、マリアージェはお祖父さまが大いに気に入った)
初めてイエルさまと母方の御実家を訪ねた時、お祖父さまはいくぶんマリアージェを警戒していたようだ。
ここまで手間暇をかけて用意した孫の嫁が、万が一にも孫を気に入らず、顔だけはいい異母弟の方に心を移したら、せっかくのざまあ!が台無しである。
だからマリアージェが心底イエルさまを慕っているのだと知って、お祖父さまは狂喜した。
わしゃあ、もう死んでもいい! などと小躍りされたが、マリアージェとイエルさまが立場をより安定させるためにも、お祖父さまにはできるだけ長生きして欲しいものである。
話は少し前に戻るが、この婚姻を知らされた義父母の方は、当然ながら大反対したらしい。
お祖父さまが危惧していた通り、プランツォ卿は頃合いを見てイエルを別の家に養子に出し、次男を嫡子に据える気でいたからだ。
そのためのいじましい根回しも進めていた。
使用人たちにイエルさまのできの悪さを大仰に吹き込み、目立つ形で蔑ろにしたため、イエルさま付き以外の使用人たちは皆、長男のイエルさまを馬鹿にしていた。
また社交の場でもイエルさまのできの悪さを散々嘆いていたため、イエルさまのことを見下す貴族も出始めていたと聞く。
お祖父さまが必死で火消しに走っていらしたようだが、元々イエルさまは才気煥発といった類の方ではない。
だから評判を覆すにはかなり分が悪かったようだ。
そんなイエルさまに突然降ってわいた、大国の第一皇女との婚姻話。
大公家の使者から初めてそれを聞かされた時、プランツォ卿はその場に凍り付いた。
イエルさま付きの侍女アンネが言うには、口から魂が抜け出ていたという(マリアージェも見たかった……)。
ようやく気を取り直すや、この婚姻を覆そうとプランツォ卿は躍起になった。
いろいろな知り合いに声をかけ、イエルさまがどんなにできの悪い息子か、家を継げるような器では到底なく、家でも持て余しているのだということをなりふり構わず周囲に訴えかけたようだが、すでに時は遅い。
なんせ両国のトップが婚姻を許可しちゃったのだ。覆される訳がない。
プランツォ卿夫妻は、これを受け入れるしか道がなかった。
これ以上騒ぎ立てれば、公国から切り捨てられるのはプランツォ卿本人である。
さて、イエルさまが大国の皇女を妻に迎えると決まって以来、邸宅の空気は少しずつ変わり始めた。
こういう嫁が用意されたと言うことは、この家を継ぐのはイエルさまではないかと、使用人たちはようやく気付き始めたのである。
使用人たちのこの判断は正しい。
この婚姻話が持ち上がった時、故国の方は当然ながら、マリアージェの夫となる男がその家の跡取りであるか、公国に確認しており、公国側は是と答えていた。
何せイエルさまは、薄まったとはいえ大公家の血を引き、しかも長男である。
それを知った大公殿下は、イエルさまが家を継ぐのはごく当然だと思い込み、わざわざプランツォ家に確認は取らなかった。
やがて、見たことのないほど豪華な嫁入り道具を引っ提げて、マリアージェはプランツォ家に嫁いできた。
大反対していた父や義母たちは、プランツォ家に嫁いできたマリアージェを一応歓迎した。
二人で出した結論は、大国の皇女がこの家に嫁ぎたいと言うなら、それもいいだろうというものだ。
婚姻は家同士の取り決めなのだから、もし相手が長男を気にいらなければ、次男と娶わせばいい。
あんなもっさりと冴えない風貌のイエルを大国の皇女殿下が気に入る筈がないのだから、見目好いセガーシュにちょっとご機嫌取りさせれば、姫君はすぐにセガーシュの方に靡くだろうと思ったのである。
両親にそう吹き込まれた次男君のセガーシュは、実のところ余りその計画に気乗りがしなかった。
兄に悪いから……などという理由では勿論なく、当の相手がまだ八つの子どもであるからだ。
八つでは閨の相手にもなれないし、後々、セガーシュ好みの女性に育ってくれるかどうかもわからないではないか。
とはいえ、プランツォ家の家督を兄に持っていかれるのは業腹なので、一応相手をする気でいた。
子どもの相手は鬱陶しいが、妻の役割を果たせない間は他の女で発散すればいいわけだし、成長した後に反りが合わなければ、愛人を迎えればいいと思ったのだ。
ということで、マリアージェが館に嫁いできた当日より、セガーシュはやたらマリアージェに親切だった。
健康的な白い歯を見せて爽やかに笑いかけ、明るく気さくに話しかけてくる。
本人は精一杯、優しく格好いい大人を気取ったのだろうが、残念ながらマリアージェは子ども特有の勘の良さで、セガーシュのうさん臭さを嗅ぎ取ってしまった。
こういうところ、思春期の色眼鏡がかからない分、子どもの方が感覚が鋭いのである。
やだな、こいつキモい…とマリアージェは即行で思った。
まず、薄茶色の柔らかな髪を時折、思い出したように指でかきあげる仕草が鼻についた。
そこら辺の令嬢にはきゃーきゃー騒がれているのかもしれないが、その程度の顔で格好をつけるなとマリアージェは思う(自分と母の顔を見馴れているマリアージェにとっては、セガーシュの顔はせいぜい上の下だ)。
自分を売り込みたいのか、いかに自分が乗馬や剣技に優れているかを折に触れて自慢してくるが、面白くもない話を延々と聞かされる八歳児の身にもなって欲しい。
その上、あの勘違い男、ことあるごとにマリアージェの髪や手に触ってこようとするのだ(よろけたふりをして、ヒールのかかとで思いきり踏みつけてやった)。
鬱陶しいにもほどがある。
多分、マリアージェの後ろにプランツォ家の家督が見えているのだろうが、八つのマリアージェからすれば、セガーシュは童女にすり寄るキモイおっさんである(セガーシュは、イエルさまの一つ下の二十一歳)。
立ち居振る舞いも無様で話術も下手だと兄のことを散々鼻で嗤っていたが、何でそんなに自分に自信が持てるのかマリアージェには理解できなかった。
金も爵位もないくせに…。
そのくせ変にもてるから、朝帰りはざらだった。その身持ちの悪さもすごくいや(マリアージェにはバレていないと思っているようだが、侍女の情報網を侮ってはいけない)。
それに比べて、イエルさまの素敵なこと。朴訥で誠実なお人柄には、きゅんとする。
セガーシュは、マリアージェがほとんどイエルさまと関わりを持っていないと勘違いしているようだが、日中はイエルさまは仕事をされているからマリアージェは遠慮しているだけで、夕食が済んだ後の夜の時間は、自分たちはいつも一緒にいるのだ。
何と言っても、一応マリアージェはイエルさまの妻である。
寝室の続き扉は開かれているから、夜になるとマリアージェはいつもイエルさまのところに行き、お膝の上に乗せてもらって、好きなだけ甘やかしてもらっていた。
ある日、親族だけを集めた内輪の会がプランツォ家で開かれた。
とはいっても、お祖父さまたちは招待されなくて、やってきたのはイエルさまの父方の親族と義母の兄弟だけ。
何となく意地の悪い視線がイエルさまに集中する中、セガーシュがにやにやと笑いながらマリアージェに話しかけてきた。
「マリアージェさまは、兄上のどんなところがお好きなのかな」と。
マリアージェはそれを宣戦布告と受け取った。
セガーシュはイエルさまをとことん馬鹿にしきっている。どうせ、マリアージェが答えを用意できず、しどろもどろになると思っているのだろう。
だからマリアージェはセガーシュの目に視線を合わせ、高らかに言ってやった。
「全てが好きですわ」と。
「お優しいし、お顔も(ぶさかわいくて)素敵だし、(もてないから)私を放って朝帰りしないし、優しく頭を撫でて下さるところも、お話を真面目に聞いて下さるところも好き。
マリアージェはイエルさまの許に嫁げて毎日がとても幸せですわ」
思わぬ返答に鼻白んだセガーシュだが、このままでは済まされないと思ったらしい。
「マリアージェさまの好みは少々変わっておられるようだ」と揶揄してきて、父親や義母、義母の親族らがどっと笑った。
どうやら常日頃より、こんな風に集団でイエルさまを貶めて楽しんでいたようだ。
そう気付いた瞬間、マリアージュの中でぷちっと何かが切れた。
可憐な容姿をしているが、マリアージェの座右の銘は、目には目を! である。
皇女として嫁いできたので一応、猫を被っていたが、そろそろ我慢の限界だった。
これ以上、うざいだけの勘違い集団に付き合ってやる必要はない。
「わたくしの心配より、セガーシュさまはどうなさるおつもりですの?」
無邪気に首を傾げ、マリアージェは心底不思議そうに問いかけた。
問いの意味が分からなかったのか、セガーシュも周りの人間もぽかんとした目でマリアージェを見つめてくる。
「故国の貴族が不思議がっておりましたのよ。
嫁ぎ先の弟君は、二十一も過ぎて婿入り先もまだ決まっておらず、騎士団にも所属されずにふらふらしていらっしゃるようだと。
おそらくプランツォ家の管財佐になられるのだろうと故国の者から聞いておりますけど、管財佐とは一体何をされる方ですの?」
場の空気が凍り付いた。
一族らは食事の手が完全に止まり、給仕をする使用人らも思わずその場に立ち竦む。
管財佐とは、要は館の使用人のことだった。
次男以下の貴族は、別の家に婿入りするか、騎士として身を立てるかするものだが、それのどちらもできない者は、生家に養ってもらわざるを得なくなる。
そうした者に与えられるのが管財佐という役職だ。
つまりマリアージェは、セガーシュに自分たち夫婦の使用人になるのかと聞いた訳で、言われた当のセガーシュはしばらく口をパクパクとさせていたが、やがて顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。
「誰が管財佐などと!
私が他家に婿入りしなかったのは、いずれこの家を継ぐ予定だったからだ!」
本来なら公言できるような言葉ではないのだが、使用人と呼ばれて、なけなしの理性が吹っ飛んだようだ。
「まあ」
マリアージェはかわいらしく目を丸くして見せる。
「遡れば大公家の血筋を引く兄君を差し置いて、血筋の劣るご自分がプランツォ家を継がれると?
ふふふ、とても面白い冗談ですわね」
扇で口元を隠すようにして心底おかしそうに笑ってやると、セガーシュの顔色がどす黒くなった。
ついでに、イエルさまの父親も義母も親族も、射殺さんばかりの目でマリアージェを睨んでくる。
「お前、私を馬鹿にするのもいい加減に…」
ガタンと椅子を倒して立ちあがるセガーシュに、マリアージェは冷めた視線を向けた。
「あら、セガーシュさまのために、冗談にして差し上げましたのに」
吐息交じりにマリアージェは呟いた。その顔から先ほどまでの笑顔は消えている。
「わたくしは皇帝の娘。皇家や大公家が、どれほど血筋にプライドを持っているか知っておりますのよ。
大公家の血を引くイエルさまを差し置き、血筋の劣る者が家督を継ぐなどあり得ぬ事です。
万が一にもこのようなことが大公殿下のお耳に入れば、大公家の血を貶める気かと激怒なさることでしょう」
マリアージェはそこで言葉を切り、一族らの顔を見渡した。
「わたくしの父にしても、それは同じですわ。
イエルさまは娘の夫となられた方。その方の地位を脅かすような言葉を口になさるなど、どのような災いが降りかかるかわかりませんか?
どうぞ、お気をつけなさいませ。皇国は今も、何らかの形でわたくしの周囲に目を光らせている筈ですから」
脅すようにそう言えば、セガーシュや義母らの顔が面白いほどに青ざめた。
父がマリアージェを気にかけるなど、天と地がひっくり返ってもあり得ないことだったが、どうせ彼らが知る筈がないので、思いっきりはったりをかましてやった。
今まで一度もマリアージェに利をもたらさなかった父親だ。せめてこのくらい役に立ってもらっても、バチは当たらないだろう。
その後はまるで葬式のような晩餐会となり、すっかり食欲のなくなった親族らを尻目に、マリアージェは一人食事を楽しんだ。
たかが八つの小娘にけちょんけちょんにやり込められた義母たちは、その後しばらく荒れに荒れたが、表立っては喧嘩を吹っかけて来なかった。
マリアージェの背後に皇国がついているという脅しが利いたのだろう。
セガーシュの方は、あの日不貞腐れたまま家を飛び出して、そのまま愛人の未亡人のところに入り浸っていた。
いっそヒモになっちゃえばいいのにと、半ば本気でマリアージェは思っていたが、そのうち気も済んだのか、セガーシュはようやく館に帰ってきた。
で、マリアージェやイエルのことはさくっと無視して両親に言った言葉が、自分もそろそろ身を固めたい、だ。
一族の前で恥をかかされたセガーシュは、この性悪女との結婚だけはないと結論付けたらしい。
両親も、セガーシュを馬鹿にしたマリアージェを心底嫌っていたから、それも仕方ないと息子の言葉に賛同してやった。
こうなれば、途轍もないほどいい縁組を息子に引き寄せてやり、自分が逃した魚がどれほど大きいか、マリアージェに見せつけてやろうと思ったようだ。
かくして、二人はすぐに伝手を使って、様々な知り合いから茶会や夜会の招待状を手に入れ、上等な仕立ての服を何十着と用意してやり、セガーシュを社交の場へと送り出した。
……マリアージェに言わせれば、笑止である。
確かにセガーシュは男ぶりに優れているかも知れない。狩場では乗馬の姿も様になっていて、女性たちから黄色い声で騒がれているとも聞いた。
が、女というものは存外計算高い生き物だ。
恋人ならば見目の良さを一番に重視するが、いざ婿がねを探すとなれば財力や血筋がものを言う。
その上、セガーシュはもう二十一だ。
優良物件はほとんど他家の次男三男が押さえており、それを反故にさせるだけの婿がねとしての魅力がセガーシュにあるのかと問われれば、マリアージェは何ら思いつかなかった。
要領よく何でもこなし、立ち居振る舞いも申し分ないが、その分、自信過剰なところが鼻につき、何より女性関係が乱れている。
母方の親から引き継ぐ領地を持たない上に、騎士団にも所属していないから、自身の収入も皆無だった。
生家の領地収入でただ遊び暮らしているような男を、わざわざ婿に迎えたいと思う家はなかなかないだろう。
と言うことで、マリアージェが予想した通り、セガーシュの婚活は難航した。
これぞと思う家に打診しても理由をつけては遠回しに断られ、仕方なく同程度の貴族に声をかけても、思うような返事が得られない。
三人はだんだんと焦り始め、その表情は日に日に暗くなっていった。
そんな中、決定的な事件が起こった。
明らかに格下で、容姿もさほどでないが、家が裕福な令嬢をセガーシュが口説いてみたところ、「イエルさまなら喜んでお話をお受けしますけど、セガーシュさまではお金を頂いてもごめんですわね」と一刀両断されてしまったのだ。
自分には不釣り合いだと内心馬鹿にしていた女性から手ひどく振られた上、兄のイエルよりも劣ると断言されたセガーシュは、衝撃の余りその場で立ち眩みを起こした。
駆けつけた母親に支えられるようにしてようよう館に帰ってきたものの、セガーシュはその晩から熱を出して寝込んでしまった。
本当ならマリアージェはお腹を抱えて大笑いしてやるところだが、別の女性がイエルさまを狙っているのだと思うと、心穏やかにはなれなかった。
イエルさまの前では平気な顔をして過ごしたが、だんだんと不安が募ってきて、居ても立っても居られずに、お祖父さまのところに駆け込んだ。
聞くところによると、その女性は大層胸がふくよかな方であるらしい。
マリアージェは自分を美少女だと思っているが、如何せん、まだ胸は悲しいほど真っ平らだった。
イエルさまだって男である。たわわな胸を押し付けられたら、そっちの方を好きになっちゃうかもしれないではないか。
イエルさまをとられてしまうかも…とマリアージェはお祖父さまのお膝の上でわんわんと泣きじゃくったが、ことの次第を聞いたお祖父さまは、なるほどな…と訳知り顔で頷いた。
お祖父さま曰く、その女性は別にイエルのことは何とも思っていないだろうとのことだった。
遺恨があるのはセガーシュに対してで、要はセガーシュにダメージを与えるためにイエルの名を持ち出しただけの話だと。
その令嬢はある下級貴族の一人娘で、デビュタントの時にセガーシュと知り合っていた。
セガーシュの整った容姿にその娘は恋心を募らせたが、セガーシュの方はそののぼせようが滑稽であったらしい。
金を積まれたって、あのデブをダンスに誘う気にはなれないなと陰であざ笑い、それが娘の耳にも入ってしまった。
深く傷ついた娘はそれから二年近く、社交の場にも出て来られなくなったとのことだった。
今は見違えるように痩せて、夜会などによく顔を見せるようになったらしいが、潤沢な領地収入がある家なのですぐに婿が決まるだろうとお祖父さまは笑っていらした。
あの後、イエルさまが迎えに来てくれて、マリアージェは手を引かれるようにして迎えの馬車に乗り込んだ。
泣き腫らしたマリアージェの顔を見て、イエルさまは「いきなり家出されるから、何があったのかと思った」と小さな苦笑を零した。
家を飛び出した理由については、お祖父さまから話を聞いたようだ。
「……マリアージェは淑女になる予定ですが、まだ時々子どもです」
「そうだね」
「だからお膝に乗ってもいいですか?」
イエルさまが、おいで、と優しく手を広げてくれたので、マリアージェは遠慮なくお膝の上によじ登った。
「あのね、マリアージェはお祖父さまが大好きですが、イエルさまの方がもっと好きです」
そう告白したら、イエルさまは笑いながらマリアージェを抱きしめてくれた。
「うん。私もマリアージェが一番好きだ」
その後も平穏に日々は過ぎ、相変わらずイエルさまは優しかったが、イエルさまの好きがどういう意味での好きなのか、マリアージェにはずっとわからなった。
マリアージェはきちんとイエルさまに恋をしているが、イエルさまにとってマリアージェは、妻というより年の離れた妹に近い感覚のような気がする。
間違ったことをしたら本気で叱られるし、きちんとお勉強をしたら褒めてくれる。
たわいもないお話にも辛抱強く付き合ってくれて、マリアージェのわがままにも決して声を荒げることはなく、母から離されたマリアージェの寂しさもきちんとわかってくれていた。
この家に嫁いできてしばらく、母が恋しくてマリアージェはよくベッドの中で泣いていた。
それを知ったイエルさまは寝所の続き部屋の鍵を外してくれるようになり、寂しくなったらいつでもおいでと声をかけてくれたのだ。
だからマリアージェは、毎晩枕を抱いてイエルさまの部屋を訪れる。
眠る前はイエルさまの頬に口づけて、イエルさまはマリアージェの額に口づけを落としてくれて、そうして満たされてマリアージェは眠りにつくのだ。
九つの誕生日を迎える頃、イエルさまは母君から相続している領地ツープにマリアージェを初めて連れて行ってくれた。
この土地は、イエルさまが十七になるまではお祖父さまが代わりに管理して下さっていたが、今は秘書官の手を借りながら、イエルさまがご自身で統治されているものらしい。
ここでは何が採れるのですかと聞いたら、イエルさまは蜂蜜だと楽しそうに教えてくれた。
土地自体はたいして広くはないのだが、質の良い蜂蜜が採れ、蜜源の花ごとに味の異なる蜂蜜が採れるのだと言う。
ツープの館に着くと、棚にはいろんな種類の蜂蜜がガラス瓶に入って並べられていて、マリアージェは一匙ずつ蜂蜜を味見させてもらった。
その後、養蜂場にも連れて行ってもらえたが、だだっ広い野原に木箱がたくさん置いてあって、それはとても不思議な光景だった。
ふと、蜜を採った後の蜂の巣の残りはどうしているのと尋ねてみたら、肥料として畑に撒くか、質の悪い油代わりに使うかどちらかだと言われた。
それを聞いた時、マリアージェは何だかもったいないなあと思った。
あれは、温めて何度も濾せば食用にもなるし、確か肌にも良かった筈だ。母は巣蝋と呼んでいた気がする。
母と二人で離宮に暮らしていた頃、自分たち母娘は、皇帝の側妃と皇女であるとは思えないような生活をしていた。
金銭的に困窮していたという意味ではない。衣食住や教育には皇国から惜しみなく金が使われていた。
ただ時折、皇后付きの侍女たちから惰性のように嫌がらせを受けており、それが問題だった。
ある日、椀の中に竈馬が入っていたことがあって、げえげえと吐くマリアージェを見た母は、このままでは娘が体や心を壊してしまうと一大決心をした。
離宮に備え付けられていた小さな厨で自分で料理を作り始めることにしたのである。
元々、下働きをしていたから、料理など母にはお手のものだった。
そのうち、食材を分けてくれる下働きの女たちとも仲良くなったようだが、その女たちが使っていたのが巣蝋で作ったという手作りの塗り薬で、手持ちの品と引き換えに母はその塗り薬を女たちに分けてもらっていた。
マリアージェの話に静かに耳を傾けていたイエルさまは、蜜を搾った後の巣にそんな使い方があるのかと、本気で驚いていらした。
蜜自体は高額な値段で取引していたが、絞りかすの方に価値があるなどとは夢にも思っていなかったらしい。
その後、これは商売になるとふんだイエルさまは自領で巣蝋の開発研究をさせ始め、二年後にはそれを商品化するのだが、この時期、プランツォ家では次男のセガーシュが、婿入り先をようやく見つけて家を出ていった。
結局、思うような縁談はどこからも舞い込むことなく、格下のド貧乏貴族の入り婿となるか、裕福な商人の一人娘と結婚するかの二択となり、貧しさに耐えられなかったセガーシュは商家に入ることに決めたようだ。
セガーシュの女癖の悪さを伝え知る商家の主人は、代替わりしても商家の財産が婿にはいかぬよう、きちんと手を打ったらしい。
財産を引き継ぐのは一人娘と、娘の生む子どもだけで、万が一セガーシュが浮気でもしようものなら、身一つで追い出されることは必至だった。
これからセガーシュは、一生をかけて誠実という言葉を学んでいくことになるだろう。
一方イエルさまは、巣蝋を香りの高いオイルと混ぜ合わせることで、より高級感のある、手にも馴染みやすい手油クリームを作り上げた。
商品名にはマリアージェの名を冠し、伝手を使って売り込みをかけたところ、若い女性を中心に爆発的に売れ、イエルさまの懐は大いに潤ったとも聞いた。
やがてマリアージェの体も大人になり、初めての生理がマリアージェを訪れた時、もう添い寝はできないとイエルさまは寝所を遠ざけてしまわれた。
ようやく名実ともにイエルさまの妻になれると思っていたマリアージェはぽろぽろと涙を流したが、その日に初めて、イエルさまはマリアージェに大人の口づけをしてくれた。
本当に大事そうにマリアージェを抱きしめながら、急ぐことはないんだとイエルさまは言った。
マリアージェはようやく大人になったばかりの体で、まだ体が成熟していない。
夫婦の営みはまだマリアージェの体には負担だし、若すぎる妊娠でもしてしまえば命の危険もあるからと、イエルさまは真剣な顔でマリアージェを説得した。
今までのように添い寝してもらえないのは嫌だと言えば、私も男だからね…とイエルさまは苦笑された。
さすがに我慢がきかないと思うと言われ、思い通りにならないイエルさまにマリアージェは頬を膨らませた。
そんな風に少し距離を置いた二人だが、無邪気に戯れることがなくなった分、かえって互いを異性として意識するようになったのは不思議だった。
イエルさまは、日に日に美しくなっていくマリアージェを眩しそうに見つめ、二人は一緒に夜会に出掛けたり、観劇を楽しんだりして、初々しい恋人たちのようにデートを重ねるようになった。
たまに触れ合う指にマリアージェは心臓を高鳴らせ、イエルさまもまた木陰にマリアージェを誘い、恋人としての口づけを楽しんだ。
時々それ以上に行為が進みそうになったこともあったけど、イエルさまは頑張って我慢してくれた。
本当の意味でマリアージェがイエルさまの妻となれたのは、マリアージェが十六の時だ。
初めて妻になれた晩、嬉しくてマリアージェは泣けてしまった。
ずっとマリアージェだけを見つめていてねとお願いすると、イエルさまはあたふたして、一生大事にするとか、今だって好きすぎて頭が変になりそうなんだとか、真っ赤な顔で呟いていらした。
マリアージェはすぐに妊娠し、十七で子どもを産むことになったと知ったイエルさまは青ざめた。
医者が鬱陶しがるほどにマリアージェの体を心配し、翌年、跡取りの男の子が無事生まれた時も、子どもはそっちのけでマリアージェの傍にだけ張り付いていた。
曾孫を抱いたお祖父さまは大喜びで、早速、大公殿下にお願いして子どもの名付け親になってもらっていた。
その誕生祝いの宴が済むか済まないかといった頃に、マリアージェに二度目の妊娠が発覚した。
おっとりとどんくさいお方なのに子作りだけはお上手なのだなと、失礼極まりないことをマリアージェは内心考えた。
安定期に入った頃、イエルさまは一人の商人をマリアージェのところに連れてきた。
マリアージェの故国で大きな薬問屋を営む男で、マリアージェの名がついた例の手油クリームを商会で扱いたいと連絡を取ってきたらしい。
引き合わされたエリオというその商人は、どこか人好きのする優しそうな面立ちの男性で、年の頃は三十半ばといったところだった。
挨拶が済むや、実は私には七年前に娶った妻がおりまして…と徐にエリオは口火を切り、三人の子どもに恵まれたことや、今回の商談を妻がいかに喜んだかということなどを楽しそうにしゃべり始めた。
何故このような話をされるのかがわからず困惑気味に夫の顔を見仰げば、イエルさまは「奥方の名前はセルデフィアと言われるそうだよ」と、いたずらっぽい目でマリアージェの方を見つめてきた。
覚えのあるその名前に、マリアージェの心臓がとくりと跳ねた。
「君から話を聞いて以来、ずっと行方を捜させていてね。
なかなか足取りが辿れなかったんだが、今回、エリオの方から私に接触してくれた。
幼いお子たちがおいでだから、こちらに来ていただくことは無理だったけれど、君に手紙を託けて下さったそうだ」
「お母さま、が…?」
マリアージェは呆然とエリオを見た。
そのエリオは大きく頷いて、懐から一通の手紙を取り出し、丁寧にそれを手渡してくれた。
震える手でそれを開けば、そこには懐かしい母の手跡が広がっていた。
「母さま……」
読み進めるマリアージェの瞳から涙が溢れ出た。
もう二度と会えないと諦めていた母からの文だった。
皇帝からいくばくかの金を渡されたとは聞いていたが、帰る家を持たぬ身では、相当に苦労したことだろう。
手放した娘など、あのまま忘れてくれていいと思っていた。
ようやく皇家から解放されたのだ。
新しい人生を手に入れて、幸せに暮らしてくれればそれだけで良かったのに、母はマリアージェを忘れずにこうして連絡を取ってくれたのだ。
夫の肩に縋るようにしてマリアージェは泣き崩れた。身重の妻の体をそっと抱きしめて、イエルさまが宥めるようにその頭に頬を寄せる。
仲睦まじく寄り添う二人を、エリオは優しい目で静かに眺めていた。
秋口にマリアージェは元気な男の子を出産し、ようやく息子たちの相手もできるほどに回復した頃、気付けばマリアージェはまた次のやや子を身籠っていた。
イエルさまは大喜びされていたが、また悪阻からのやり直しかと思うと、ちょっと微妙な気分となったマリアージェである。
イエルさまは子煩悩な父親だったが、それ以上に年の離れた妻を溺愛し、おなかのふくらんだ不格好なマリアージェを抱き寄せては、可愛いを連発して甘やかす毎日だ。
妻が妊娠すると男の三人に一人は浮気をすると巷の噂で聞くが(誰が統計を取ったのだろうとマリアージェは心底疑問だ)、マリアージェの夫に限ってはその心配も要らない気がする。
故国の父皇帝が病没したと報せを受け取ったのは、ちょうどその頃だった。
一報を聞いた時のマリアージェの素直な感想は、あー、死んだんだというものだった。
はっきり言って、父親が死のうが生きようがマリアージェにはどっちでも良かったが、久しぶりに故国の報に触れたことで、幼い頃、この世で一番嫌いだったのはあの父親だったなと余計なことまで思い出した。
因みに、二番目に嫌いなのが皇后で(母に散々嫌がらせをしたのは許せん)、三番目がその二人の血を引いた皇后腹の兄である。
とは言っても、この兄から何か嫌がらせをされたとか、そういうことは一切ない。そもそもマリアージェはこの兄の視界にも入っていなかった。(名前を憶えてくれているかも怪しいものだ)
公国で社交デビューした辺りから、あの兄の噂は折に触れてマリアージェの耳にも入ってくるようになった。
何せ、顔良し、お頭良し、血筋良しと三拍子そろった皇子である。
公国でもキャーキャー騒がれていて、それがまたあの女好きの父親を彷彿とさせて、マリアージェは非常に不愉快だった。
その異母兄上、二十一になるや、あの父にしてこの子あり!と思わせるようなドン引きなことをやらかした。
自分の義妹を閨に連れ込んだのである。
この義妹、実は父皇帝の寵妃の連れ子であり、寵妃のご機嫌を取るために養女という形で皇室に迎え入れられたという経緯を持つ。
母親に似て大層美しく育ったらしく、一説によると、義父に当たる皇帝もこの皇女を欲しがったらしいが、それを横から掠め取る形で兄が自分の側妃に召し上げたのだと言う。
まさに、下種も極まれりといった感じだった。
その父が病死した途端、故国ではお約束のように皇位争いが勃発した。
皇后腹の兄と庶出の弟(零歳児)による、国を巻き込んでの大喧嘩である。
マリアージェは密かにまだ見ぬ弟を応援していたが、凡そ二か月で兄の方がこの争いに勝利した。
新皇帝となった兄には縁談話が降るように舞い込むようになったが、何故か兄はなかなか皇后を迎え入れようとしない。
とっかえひっかえ女遊びをしているのかと思いきや、側妃(例の義妹)は遠くの別邸に遠ざけて、一人身ぎれいな生活を送っているようだ。
その間、縁談を断られた姫君たちは数知れず、その辺りで恨みでも買ってしまったのか、一時期、新皇帝の不能説まで飛び出したというから、マリアージェとしては大笑いだった。
やがてほとぼりが冷めた頃、兄は別邸で療養させていた側妃を自分の元に呼び戻して皇后に立后させた。
政治的に見れば何の価値もない縁組で、周囲は大層驚いていたが、その時初めてマリアージェはこの兄のことを見直した。
その後、兄には立て続けに子どもが生まれて不能説は立ち消えとなり(めでたい事である)、続いて蟄居させていた弟(皇位争いに巻き込まれていた例の零歳児)を復権させ、手元に置いて可愛がるようになった。
続いて兄が手を差し伸べたのがシーズに嫁いでいた異母妹で、どうやら妹が他国で不当な環境に置かれていると知った兄が、側近と皇弟をシーズに遣わして異母妹を国元に保護したのだそうだ。
そして伝え聞く、皇帝一家の仲睦まじさ。
マリアージェが見も知らぬ弟妹らはすっかり新皇帝に懐いている様子で、その環から完全に弾かれたマリアージェは一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。
きちんと温かい家庭を与えられているのに、こんなことを思うなんて情けないと自分を叱咤していたら、ある日、故国の皇后陛下から突然お誘いの文が来た。
一度、里帰りなさいませんか、と。
異例ずくめのお誘いに、一瞬、目が点になった。
政治的な思惑で故国の地を踏む皇女はいるが、遊びに来ませんかみたいなノリで故国の皇后が里帰りを勧めてくるなど今まで聞いたこともない。
しかも文末には、思いもしないことが書き綴られていた。
マリアージェのために離宮の一角を整えるので、貴家と取引のある商人夫妻を招かれてはいかがでしょうと、文が続いていたのだ。
手紙を見たイエルさまは、皇后陛下はどうやら母君の事情をご存じのようだねと笑い出した。
文にもう一度目を落としながら、帰ってみたいなとマリアージェは心に呟く。
あの冷たい皇宮に帰りたいと思う日が来るなんて想像した事もなかったけれど、自分を待ってくれる家族がいるというならば話は別だ。
故国に帰れば、大好きな母や、まだ見ぬ弟妹たちにも会えるだろうか。
それに、一方的に毛嫌いしていた兄は、本当はどんな人間なのだろう。
同じセクルト連邦に嫁いだ異母妹のリリアセレナも、これを機に家族で里帰りをすると決めたようだ。
嫁いだ公国が違う上、マリアージェは妊娠出産を繰り返していたから、リリアセレナと会うのもこれが初めてとなる。
さて、マリアージェには、十人の兄妹がいる。
皇家には兄が一人に四人の妹(皇后を含む)と二人の弟、市井に異父弟妹が三人。
初めての里帰りは、きっと賑やかなものになるに違いない。
その日が今から楽しみである。
兄皇帝の長編小説がある事を、あとがき欄で紹介しては…とご感想をいただきました。
そう言えば、兄皇帝の人柄が知りたいと感想を下さった下さった方がいて、その時は全く思いつかなかったのですが、実は兄皇帝のお話はすでに書いています。
「仮初め寵妃のプライド ~皇宮に咲く花は未来を希う~ 」の第一皇子がそれです。
読んで下さった方、ブクマをつけて下さった方、評価をつけて下さった方、感想や誤字の指摘を下さった方、本当にありがとうございました。この場を借りて、お礼申し上げます。
尚、一番最後の方で、マリアージェの兄妹の数を間違えていました。
教えて下さった方にお礼を申し上げますとともに、訂正をさせていただきます。