ヒール
イスの上で出来る筋トレは無いのだろうか?
答えはもちろん、あります。身もふたもない話になってしまうが、身体さえ動かせる状況ならばそれは筋トレが可能という事なのだ。
イスの縁をもって身体を浮かせるトレーニングが特に効果的とライガーは考えるが、どうしてもそんな大仰な動きが出来ない時がある。
例えば貴族同士の会食で三人顔を合わせて座っている時なんかにそんな事をすれば切腹待ったなしである。
『これで……これでいいのよ……王子だって少しは悪いのだから……』
なので、今やるべきトレーニングは膝上げだ。
やり方は単純にして明快。膝を片方ずつ上げるだけだ。ぱっぱとスピーディに動かすのではなく、プランクトレーニングのように持ち上げた状態で静止する動作を交互に何セットか繰り返していくのが望ましい。
激しく持ち上げるのを繰り返しても良い事は良いのだが、今回は切腹を避けなければいけないので、隠密膝上げという名前をつけて静かに鍛錬を行っている。
「……ふっ……ふっ」
段々と汗ばんできたが、まだ少し続けられそうだ。
やはりコルセットを緩めてきたのは正解である。
そして、唐突にグラスの割れる音が鳴り、一瞬遅れて悲鳴が聞こえた。
「キャアアアアアアアア」
一体何が起こったのか。それは一部始終ライガーの視界に収まっていた。イアン王子がグラスの中身を飲み干したあと、それを落として倒れたのだ。
『え……? なぜそんなに強力なのっ!? あのメイドもしかして分量を!』
急いでイアン王子の元へ駆け寄る。彼は顔を苦悶に歪めながら転げ回り、苦しみ悶えている。
『ああ……! こんな! こんなはずでは……貴方、ヒールは出来まして!? このままでは王子が死んでしまいますわ!』
「ヒール……ヒールと言いましたか?」
人が集まりだす。側近達が呼んだのだろう。だが誰一人近寄ってこない。医者がいないのか、あるいは手遅れになった場合の責任を負いきれないのか。
『ええ! ヒールよ! 貴方、悪魔なら出来るでしょう! いいえ出来なくてもやってみせなさい!』
「かしこまりました。では、ヒールをやりましょう」
広角が釣り上がる。顔がにやける。笑みが溢れる。今のライガーにマスクは必要無かった。
全身に確信めいた力を感じる。
『貴方……? 何か雰囲気がおかしいですわ……!』
「悪魔ですから」
いまだ、生まれたばかりの子鹿のごとく哀れにのたうち回るイアン王子へと近づいていく。
「何をするつもりなんですかロザリーさん!」
「ククク……」
今、足元には王子がいる。苦しそうだ。早く楽にしてあげなければ。このヒールで。
「ふんっ」
かかとが王子の背中へと食い込む。痛烈な声があがる。
『なんてことをしますの!』
何度も何度も踏みつける。悲鳴が伝搬し、外野も沸き立つ。
「お前に助けはこない」
そう、このままでは助からない。医者もここにいなければ、心から通じ会えるような女性もここにはいない。
「ぐわぁ!ぐはぁ!」
更に苦悶の表情を強くする王子へフットスタンプを畳み掛ける。
場外のブーイングと悲鳴はこれまでに経験した事がないほどの最高潮。
「わかるかお嬢。これがヒールだ」
『あ、悪魔……!』
「ハハハハハ! 褒め言葉なんだよ!」
静かになりつつある王子へ最後の蹴りをお見舞いする。
「かはっ……」
王子はすっかり動かなくなった。
「ひっ、人殺しだ! 誰かそいつを捕まえるんだ!」
今さら外野がなだれ込んでくる。
だがもう遅い、決着はついたのだ。
ライガーはベテランだった。
相手に触れれば、どれくらいの力で叩いても平気なのかが瞬時に分かる。
叩く力が弱すぎれば説得力が無くなってしまうし、強すぎれば相手を壊してしまう。細心の注意を払い相手を気遣いながら、なお手は抜かない。それが彼の目指すところであった。
そして、彼はこの世に渡って得た新たな力を、他人を労る大きな力を確信していた。
「あ、あれ……すっかり良くなってる……?」
王子がケロっとした表情で起き上がるのと、ライガーが後ろから羽交い締めにされるのは殆ど同時だった。
ちなみに羽交い締めにされたままで筋トレをする事はできない。
動きを大きく制限されている上、暴れようものなら拳の嵐が飛んでくるからだ。
ライガーはこの少女の身体にそんな事は出来ない。
彼はあくまでも、ロザリーには健やかに育ってほしいと願っているのだから。
☆★☆★
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
次話から第一章になります。
文字数はもっとボリューミーな方が良いでしょうか?
気軽に感想下さいませ。
頂いた感想の数だけ筆者が毎日腹筋をする事をここに誓います。
ちなみに腹筋のやり方ですが、古来からある方法で足を何かで固定して上半身を持ち上げるやり方は、腰を痛める要因となるそうですのでオススメしません。
下半身と上半身を同時に持ち上げるようなやり方が良いそうですね。




