第1章 蛯名いずほ ④
「あれ?なんで蛯名さんがいるの?」
あれはたしか、小学5年生のころ。蝉の微かな鳴き声が遠くの山でこだまするように轟いている。西陽に照らされた教室は、オレンジ色と灰色のコントラストに彩られ、壁はひんやりと冷たくもう夏が終わろうとしている。
私は36人分の机と椅子に囲まれる形で、真ん中の前から三番目の自分の席で、職員会議を終えて戻って来る担任教師を待っていた。あまりにも暇なので、いつも自発的にしない宿題に取り掛かり、漢字練習帳に今日習った熟語を手の運動とばかりに量産していた時、教室の前の扉がガラッと開き、運動着姿のクラスメイト伊達遊一が立っていた。片手にはリコーダーを持っている。
私の視線に気づいた彼は照れくさそうに鼻をかく。
「いや〜実はさ〜、居残りになっちゃって。ほらこの前、音楽の時間さ、リコーダーのテストだったじゃん?だから、前の日に家に帰って練習したわけ。そしたらテスト当日に忘れちゃうっていう。馬鹿だよね〜俺」
知ってる。そのテスト、私もリコーダー忘れてテスト受けられなかったから。
「それ私も」
「えー!!!蛯名さんも???」
彼はわざとらしい素振りもなく、初めて知りましたとばかりに大きく口を開けて驚いた。
いや、嘘でしょ。私とあんた、忘れた2人だけ席を立たされて忘れた理由答えたじゃん。私が「昨日、練習のためにお家に持って帰ったら、今日忘れました」って言ったら、「俺も、蛯名さんと一緒で、家で練習してて持って来るの忘れました」って言ったよね?
なに、それはボケ?それとも本当に知らなかった?
後者だとしたら、私相当クラスメイトの視界に入っていないってことじゃん。存在が薄いってこと?
「じゃあ、蛯名さんも一緒に居残りなんだ!ってか、先生遅くない?」
時計は17時10分、職員会議は17時には終わると言っていたのに、まだ終わっていないみたいだ。
「会議終わってないみたい」
「え〜まじ〜?」
「だってほら、窓から職員室見えるんだけど、佐藤先生と相田先生が見えるじゃん」
私が窓に立ち、向かいの職員室の窓を指さすと、彼も隣に来て視線の先を見る。
「本当だ!佐藤と相田が見える!うわ、川場寝てんじゃん」
「え?どこどこ?」
彼が指さす右側に体を寄せる。私のところからだと柱が邪魔して、川場先生の顔が見切れて見える。あと少しで見えそうなのに、と身体ごと右側にそれると彼の肩とぴったりくっつく形になった。
彼の体温とトクトクと流れる心臓の音、微かに土と石鹸の混じった匂いが右側からやってきた。その刹那、耳からほっぺ、ほっぺから指先、指先から足にとだんだん熱くなってきた。ドクドクドクと乱暴な血液が身体中をものすごい勢いで駆け巡る。
「ほらほら!見えた?」
彼は私の異変に気づいていないようで、職員会議中に居眠りをする川場先生の姿しか視界にうつっていない。
「……あ。見えたよ、見えた!」
私は、ごくっと唾液を胃の中に押し込んで、絞るように返事をした。
なんだろう、夏ってこんなに暑かったっけ?
私はほっぺたを両手に当てると、手が汗で濡れていることに気づいた。
これは一体なんなんだ?どうした?
「なに2人で外、見てるの?」
背後から担任教師の声がした。
「あ!先生遅いですよ!職員会議終わったんですか?」
彼は振り返り先生の方に歩いていく。
「じゃあ、蛯名さん、伊達さん。リコーダーの再テストしましょうか?」
先生の声で、そうだ、再テストだったと我に帰り、手の汗をハンカチで拭いてランドセルの中からリコーダーを取り出す。もうこの時には熱が消え、いつもどおりだった。
はずだったというのに。無事テストに合格した私は、翌日の朝、教室に登校すると一つの異変に気づいた。まず、教室に入った時、昨日まで気にも止めなかった左後ろの視線が妙に気になった。見られてる、というわけではなく、もう一人の私が私をみているみたいな変な感覚。
なんだろう、と思い振り返るとそこには彼がいた。
友達と自作のカードゲームで遊んでいる。
彼の俯いた顔にふと目がいった。
ドドドドドドドド……。
鼓動の音が早く、そしてからだ中を熱が駆け巡る。
なんだろう、この違和感は。
一度、深呼吸をしてまた彼を見る。彼のふわふわした栗色の髪が風でなびくと、ほんのり石鹸のにおいが私の鼻に届いた。
まだ身体中の熱がさめない。