僕はここの匂いが嫌いだ
楓は朝から自転車をこいでいた。今日は土曜日だから、学校に行くためではない。
彼が向かっていたのは墓場。今は亡き父親の墓場。
あれは確か三年ほど前の夏のこと。彼が中学三年生の頃の話だ。
楓の父親ができるだけ優しい口調で朝からゲームしている楓に言った。
「楓はゲームをしすぎじゃないか?そろそろ勉強をした方が良いんじゃないか?。楓のために言っているんだよ」
嘘だ。楓のためとか言って、それはただの押し付けになっている。
少なくとも今の楓のためにはなっていない。今のゲームに夢中になっている楓のためには。
勉強すれば将来成功するとも限らない。
「うるさいなぁ。わかってるよそんなこと」
「そんな言い方しなくても良いじゃない」
母親は大体父親の見方をする。弱い方につきたくなるのはやはり日本人だからだろう。
「ごめんごめん。わかってるなら良いんだ」
父が笑顔で謝る。
彼の父は優しい。特に我が子には強く言えない性分である。それに楓は彼らの唯一の子どもだから。それを良いことに楓は父の言うことをほとんど聞かない。
父は軽く朝食を食べながらテレビをつけて画面に集中している。
「バスの横転事故か。大丈夫か?」
楓とは違って父は正義感の強い男である。画面に映る自分とは関係のない人たちのことさえも心配するくらい。
ニュースがひと段落すると、歯磨きや身支度を整え玄関に向かった。
「じゃあ俺そろそろ行くから。ゲームはほどほどにね。じゃあね」
「行ってらっしゃい」
母は玄関まで見送りに行っていた、一方で楓はゲームをしたまま無視。
「……」
この歳の子はみんな反抗期なのだろうか。
一日中ゲームというのも飽きるため、楓は昼過ぎから少し机に向かった。もしかしたら父がやれと言ったからかもしれない。
「はぁ、わからねーしつまらねーしだるいし。やっぱりやめよう」
机に向かっていたのもたった一時間ほど。
すぐにまた漫画や小説を読み漁り始めた。
午後七時ごろ、母は買い物か知らないがどこかに行っていたようで、帰ってきた。
「あれ?まだお父さん帰ってきてないの?」
一階のリビングルームで読書していた楓に質問した。
「いや、まだ帰ってきてないよ。そんなのよくあることじゃん」
父は消防士で二十四時間体制であるため、一日帰らないことは稀ではなかった。
「でも連絡が入ってないわよ」
そういう日は総じて彼は母に帰れないというような連絡を入れてる。
しかしそれがないという。
忘れているだけだろう、とこの時の楓は楽観的に考えていた。それよりも本を読んでいる時に話しかけないでほしいとまで思った。
最低な人間である。
すると、家の電話から大きな音が鳴り出した。
連絡し忘れていて、いつもより遅い時間に電話してきたのだろうと楓は思った。
当然母が電話に出る。
「はい、葉山です。え?お父さん……が?」
何かいつもと様子が違うような気がしたのは気のせいではないだろう。明らかに母は動揺している。
「今すぐ……向かいます!」
ガチャ!
少し豪快に電話を元の位置に戻した母は
「楓、来なさい!」
楓は正直ゲームをしていたかったが、母の顔を見て改心した。怒っているような悲しんでいるような、なんとも言えない表情をしていた。
母は車の鍵を握りしめ、外に出た。楓もそれに続く。
母が運転席に座り、楓は助手席に座った。
母らしくない、スピードで車を走らせていく。
ここまでくるとさすがに何があったのか聞きたくなり、楓は母に問うた。
「どうしたの?らしくないよ」
言った後母の横顔を見て楓は失敗したと思った。
彼女の目にはいっぱいに溢れる涙があった。
こんなに流したら運転に支障が出てしまうのではないかと心配してしまうほどの量。
彼女はゆっくりと噛みしめるように言った。
「……お父さんが、春之さんが、火事に巻き込まれて亡くなったっ…………て」
瞬間、楓のはものすごい寒気を感じた。鳥も驚くような鳥肌が立つ。冷や汗が身体中から吹き出す。
その後二人は終始無言のまま県内一の大きさを誇る総合病院が持つ、どでかい駐車場のできるだけ救命センターが近い位置に車を止める。
「急ぐよ!」
言うが早いか、彼女は車を出て運動不足の足を躓かせながらも動かした。
楓もその少し後ろをついて走る。
自動ドアが開き、中は慌ただしい。
当たり前のことだが、命がかかった仕事をしているだけあって、医師は真剣な面持ちで彼ら二人を迎え入れた。
そして誘導された先には「手術中」と言う文字の点灯した部屋。つまり、手術室だったのだ。
その部屋の近くのソファに腰を下ろした二人はこの時もなんの会話も交えなかった。
そんな二人にも医師は必死に火災や、父の身体、手術の説明を丁寧に続けた。
最後に医師が誓った言葉は「必ずと成功させます」であった。
楓たちはその言葉を信じて待つことしかできなかった。
数時間に及ぶ大手術。
やっとの事で「手術中」の文字の明かりが消えた部屋から出て来たのは笑顔の彼ら、ではなかった。
どんよりとした重苦しい雰囲気の漂う医師たち。楓はその光景で既に察した。
まだ自分の目を信じきれていない母は、
「どうだったんですか?成功したんですよね……?」
そう言う彼女の目はもう赤く、少し腫れている。
多くの医師が二人に向かって深々と頭を下げて言った。
「……すみません………でした……」
その声はかすかだったものの、確かにその言葉には力のこもった、悔恨を感じさせるものがあった。
上げた顔の頬には涙が伝っていた。
なんで医師の方が泣くんだ、と楓は思った。
この時楓は諦めたていた。が、母は違った。愛するものをなくした気持ちなど、誰にもわかるわけがない。
「嘘つき……、嘘つき!あなたさっき必ず成功させるって言ったよね?なんで……なんで成功させなかったのよ。返してよ………………私の春之さんを。あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁぁ!返してよ!」
母は彼らに成功を誓った医師の白衣に捕まり、膝をついてもう一度力なく言った。
「ねぇ…………返して?」
楓は思った。
あぁ、病院は嫌いだ。遺族が泣けば、医師も泣く。涙ばかり貯まる場所。
僕はここの匂いが大嫌いだ。
ありがとうございました