幸福が輝く理由
次の日。火曜日。
この日も引き続きテストが実施された。
最後の教科は数学。
一応言っとくが、今日終わった教科の中でこれといってできたものがない。いつも通りといったところだ。
故に数学だけはせめて彼女に良い報告がしたかった。数学を特に教えてもらったという理由もある。
間も無くしてテストが始まった。
そしておよそ二時間後テストが終わった。
結果から言うと、割とできた。けれど、絶対の自信を持って言えるほどでもない。
だから「楓はできた?」という、とある友達からの質問には「まあまあかな」と返すので精一杯だった。
けどみんなも知っている通り、自信を持ってできたなんて言えるテストなんてそうそうない。あったとしても他人に「できたよ」なんて返す人の方が稀だ。
楓は病室の前で躊躇っていた。
彼女から発せられるであろう質問の返答をあらかじめ考えてから、そーっと顔をのぞかせたが彼女はすぐに彼の姿に気づいた。
「お、来た来た。今日のテストはいかがでしたか?」
楓は先ほど考えておいた返答をまるでいま考えたかのように少し間を置いていった。
「過去の話はどうでも良い。未来の話をしよう」
「あ、逃げた。まいっか、優しいからきかないでいてあげるね」
楓はついふふっと笑ってしまった。
そして今度は本当に未来の話を始める。
「今度の休みの日どこか行こうよ。どこか行きたいところある?」
いわゆる初デートってやつだ。
こういうのはさりげなくいうのがポイントである。
「そうだねぇ。海とか、水族館とか、遊園地とか、お花畑とか、お買い物とか、どこでも良いから外に出たい……かな」
「多いね。平日は学校があって、休日しかいけないと思うから長期スパンで一つひとつ行こう。まずは……水族館でどう?」
「賛成!じゃあ土曜日で」
ほら成功。あまり恥ずかしがったりして引いた態度を取ると、話は進まないわ結局曖昧なまま終わるわで良いことなしである。それをわかってて楓がこんなにあっさりと約束したとは思えないが。何せ彼にとって香は初ガールフレンドなのだから。
「あ、まって。日曜じゃダメかな?土曜はちょっと用事があって」
「全然良いよ。逆に日曜の方が良いくらいだよ」
最後の一言。なんて優しいんだろうか。女神なのだろうか。おそらく楓にとっては女神なのだろうが。
そんなこんなで話はまとまり、二人は漫画を読み始めた。もちろん一緒に同じ漫画を、っていうことではなく、個々で読み始めた。
二人とも漫画や小説が好きな文学少年、少女組のため本の世界に行くことは容易い。
どうして二人でいるのにわざわざ漫画を読むのか?
それは彼らは同じ空間を共有しているだけで幸せを感じられるようになった印なのだろう。
それに、同じ空間から別々の世界に旅立ち、再びこの世界で再会する。こんなにロマンチックなことがあるだろうか。
彼らは読み続けた。時間も忘れて。
楓がふと我に返ると香はまた別の世界に足を踏み入れていた。今度は夢の世界だ。
香は足を伸ばしベッドに座っている。顔は斜め下を向いて、左手には閉じかけの漫画。
どうやら今はこちらの世界で再会することはできないらしい、と楓は悟った。
もうすぐ暗くなるし帰ろうかとも思ったが、こんな機会ももうないかもしれないと思って彼は彼女の穏やかで安らぎの表情を見守る。
それを見てると彼の方も夢世界に行ってしまいそうになる。
彼女の寝顔を見て彼は幸せを感じた。些細な幸せ。
確かに香の交通事故は不幸だ。今日のテストだって自分からしたら不幸なことの一つなのかもしれない。ものをなくしたり、先生に怒られたり、寝坊することだって。現実は沢山の不幸で満ちている。しかしそれ故に幸福が輝くのもまた現実である。
そしてその輝きを放っているのはやはり星なんだ、と。
このとき彼は気づいた。
無意識に椅子から立って、彼女に近づいている自分に。自分でも何をしているのか把握できていない。
そしてなぜか心臓が高鳴る。
体内で誰かが大太鼓を懸命に鳴らしているような鼓動。目の前には美しい横顔。そこに位置する柔らかそうな唇。
目の前の全てが彼を誘惑する。
思春期の若者にこの状況で何もするなという方が無理ってものだ。思春期ってそういうものでしょ?
静寂のなか少しずつ彼女の唇が近づいてくる。
ほのかに彼女の芳香が匂っている。それがまた彼の理性をも乗せて飛んで行く。
「……」
もう少し。幸い彼女はまだ夢の住人。
彼の中には彼を急かす何かとそれを善しとしない何かが存在していた。
「……」
飛び出そうな心臓を抑える。
「……」
香の吐息が彼に届くくらい。逆に言えば楓の吐息が彼女に届くくらい。
距離にしておよそ五センチ。
「…………」
「………………」
コンコン
唐突なノックに驚いて楓は椅子の位置まで身を引いた。香もうっすらと瞼を持ち上げた。
この時の楓の驚きというのは突然のノックに対するものと、自分の無道な行いに対するものが入り混じっていた。
驚きだけではない。彼の抱いていた淡い期待が一瞬にして理想や幻想や空想に変わり果てたことに対する怒りもあった。羞恥心も確かにあった。
彼の感情は驚き五割、羞恥心四割、怒り一割の混合物だったのだ。
「夕ご飯をお持ち込みしました」
テキパキと仕事をし終えた看護婦は颯爽と病室を出て行った。
楓はその人の背中を見ていることしかできなかった。だってその看護婦に悪気はないし、楓のことなんて知る由もないのだから。
「ごめん寝ちゃってた。帰っても良かったのに。どうしたの?なんか元気なくない?」
がっくりと項垂れていた楓に香は問うた。
「ううん、なんでもない。僕も晩ご飯食べないといけないしそろそろ帰るね」
「じゃあねー。ばいばい」
「じゃあ、またね」
楓の背中は普段よりも小さく縮こまって見えた。
彼がなけなしの笑顔で病室から出て行った。
夕日が白飯をケチャップライスに変えて美味しそうに見える。
箸で似非ケチャップライスをつまみながら彼女は思った。
そんなに凹まなくても次があるかもしれないのに。
「でも私もちょっと期待しちゃった」
ありがとうございました。