何度だって言ってやる
楓はそっと扉を開ける。
「ごめん待った?できるだけ急いで来たんだけど、遅くなっちゃった」
ベッドに近づきながら微笑んで言った。
側までくると、横にあるテーブルに、幾つかフルーツが入った竹材の籠と雑誌の入ったコンビニ袋を置く。
「こんなにやせ細ってあんまり食べてないでしょ。フルーツ持ってきたけど何か食べる?りんご?オレンジ?バナナ?……………僕は神様じゃないんだから言ってくれないとわからないよ………」
彼の顔がだんだんと曇ってゆく。
今となってはお世辞にも美しいとは言えない顔を上から眺める。
ベッドの横の椅子に腰を掛け、再び笑顔を取り戻すと、オレンジを一つ取り、剥き始めた。そして両手を働かせながら言うのであった。
「今日はね、色々あったよ。まず朝さぁ、斉藤が座ってた椅子の脚が急に折れ曲がったんよ。あいつどんだけ太ってるんだよって話だよな、ははは」
「…………」
剥き終わったオレンジをさらに並べる。
「あとさ、この前受けた期末テストが返却されたんだけど、数学で91点取ったんだよ!数学では高校生になって最高点かも。まぁそう言っても、君が受けていたらきっと僕なんかより上の点数を軽く取っちゃうんだろうなぁ。でも僕知ってるよ。君ってめちゃくちゃ努力してること。え、なんでわかるかって?そりゃわかるよ、性格的に」
「…………」
「それと今日体育があってさ、百メートル走だったんだけど変に緊張しちゃって足動かなかったや。でも、安達が5.5秒だった。本当化け物だよな。さすがインターハイ選手は違うなって感じ」
「…………」
「でもやっぱり物足りないな、君がいないと…………。早く帰っておいでよ。みんな待ってから……」
彼は一人でオレンジをつまみ、食べている。
「あとこれ見てよ。君の好きなジャンプ。少年漫画がある好きなんだよね。それは知ってるよ、何回か話したしね」
床に積まれた無傷の雑誌を一瞥する。やっぱり見ていない。
そこの一番上に雑誌をまた一冊積み重ねた。最終的にこれがどれくらいの高さになるのだろうか。楓は低くあってくれと強く願った。
そして笑ったままこう言った。
「君は最低な人間だね。覚えてる?僕の二度目の『告白』。あんなに勇気振り絞ったのに君はまだ返事すらくれやしない。これならいつもみたいに軽くふってくれたら良かったのに。ははは、冗談だけどね。いつまでも返事待ってるよ。どんなにかかってもずっとずっとずっとずっと」
楓の瞳が窓から差し込む夕日で一層キラキラと淡く橙色に輝く。
「オレンジも食べ終わっちゃったし、そろそろ帰ろうかな」
そう言うと彼は席を立ち、真上から彼女を見る。
なんて細い手なのだろう。元から細く美しく綺麗な体をしていたが、今ではどこかにぶつけたら折れてしまう、まさに枝のような腕に変わり果てていた。
彼女を見るために下を向いていたためだろうか、いくつもの涙が彼女の体に滴り落ちる。
「あれ、なんで僕は泣いてるんだろう」
涙が止められない、次々と流れ落ちていく。拭っても拭っても。
まるで枯れ果てた木に水を与えるかのごとく。
涙が枯れ果ててしまった時。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
そして最後に一言。
「好きだよ」
「…………ッ…」
彼は病室の扉に向かっている時、先生の言葉を思い出した。
「容態は………植物人間」
そう、彼女は植物人間。
事故にあって車に轢かれた時、頭を強打した。その衝撃で彼女の脳の大半は活動を休止してしまったのである。
大量の血も流していたが、すぐに救命救急センターへと運ばれて、すぐに高度な技術を要する手術が行われた。そしてなんとか一命はとりとめた。糸一本で繋がったような命。いつ切れるかわからない命。彼女はいまそんな状態だったのだ。
そして今なら彼女の母親の言いかけていたこともなんとなく分かる気がした。
次の日は休日だったため、昼頃にお見舞いに行った。
彼女の病室の扉の取っ手に手をかけると、いつもよりも軽く横にスライドする気がした。
それもそのはず。病室から出てくる彼女の母親とちょうど同時に扉を開けてしまったのだから。
楓は彼女の母親と鉢合わせてしまい、狼狽してしまっている。反対を見てみると、母親も同じく狼狽えている。
けれどここはさすが大人。彼女が口火を切る。
「すみません。あの少しお話いいですか?」」
楓は突然何を言い出すのかと思ったが、あまりにも真剣で真っ直ぐな瞳に、
「は、はい」
そう答えるしかできなかった。
二人はデイルームに行き、向かい合って一つの丸テーブルの椅子に座った。
「香にお見舞いに来てもらえるのは嬉しいんだけど、来月からもう来なくてもいいから」
「は?」
突然のことで彼はつい間抜けな声を発してしまった。
後一週間で来月になる。本当に突然のことだ。
「あ、いや、そういう意味じゃないの」
そう言う意味ってどう言う意味だよ、と言いたくなったが、彼女からの続く言葉を待った。
「香の臓器を提供しようと思っているのよ」
「……」
楓は目を見開くだけで、何も言えなかった。本当は言い返したかった。でも家族でもない彼に決定権はない。故に何も言えなかった。
しかも多分彼女なら、他人に尽くすタイプの彼女ならそれを望むだろうとも思ったからだ。
「わかり……ました」
「ごめんなさい。話はこれだけなの」
「あなたが謝らないでくださいよ。後、だけ、なんて言わないでください」
できる限り微笑んでそう言った。本当に笑えていたかはわからないが。
「そうね。では、これで」
彼女は椅子から立ち上がり、会釈してその場を後にした。
楓は座ったまま右手を握りしめ、机を叩いた。仕方ないことだが納得できなかったのだ。
彼も椅子から立ち、香の病室へと向かった。
前で一度深呼吸。笑顔を作る。してから、中へ入っていった。
この日は何も持って来なかった。
彼女を見ると日に日にやせ細ってきていることがわかる。
楓はいつも通りたわいもない事を話し始める。
相手はもちろん無言。それでも話す。もしかしたら聞こえているかもしれないから。
そして、
「ねぇ、いつになったらあの返事くれるの?やっぱりもう待てないや。もしかして忘れたとかないよね?」
彼女には時間がない。返事は貰えないかもしれない。
それでも、
「忘れてたらいけないからもう一回言うね」
そう前置きをして、
「僕は君が好きです。君がどんなことになっても、僕は朝倉香、あなたが好きです。付き合ってください!」
「…………ッ…」
「無反応、だよね。何か言ってよ、一人でバカみたいじゃん僕。えへへ」
そんなことはない。だって、今の楓をバカにできる人なんて誰一人いないのだから。
「でも、それでも僕は君が好きだよ。君がもしこのままだとしても……。君が笑えないなら僕が二倍笑うし、君が泣けないなら僕が二倍泣くよ。あ、やっぱりあまり泣きたくないから泣くのはなしで。その代わり三倍笑顔でいるから」
「…………」
「じゃあね僕そろそろ帰るよ。またね」
そう言って楓は彼女に背を向けた。
瞬間、香の指が微かに動いたのは見間違いだっただろうか。
それから五日間、毎日のように彼の『告白』は静かな病室に響き渡った。
ありがとうございました