記憶転移
楓は時々夢を見る。
香と笑いあったり、遊んだりする夢だ。
そんな夢を見ると、決まって彼は起きた時涙が出ている。
大学が決まった彼は久しぶりにお墓参りすることにした。
しばらく受験勉強があって行けなかったのだ。というのは建前で、彼女の「死」を受け止めることができなかったというのが本音である。
朝のまだ涼しい時間帯、彼は家を出た。
母親は基本放任主義のため、親にはなにも告げていない。それでも多分お墓参りだと察してくれるはずだ。そんなことくらいでしか外に出ないから。
自転車お漕いだ。
香は何らかの原因で脳死状態になった。その後の母親の話によると、彼女の臓器を日本中の人々に提供するらしい。というより今になってはもうしたのだろう。脳死は植物状態とは違って、目を覚ますことはほぼ0パーセントなのだ。ずっと眠った姿でいるなら、同じように苦しむ人の助けになりたい、と香自身も生前は言っていたらしい。母親もそれに賛同したのだろう。
それにしても楓は彼女の「死」ついて、あまり多くのことを知らない。
彼女の両親に聞こうにも聞けないのである。
知らぬが仏なのかもしれないが、それでも少し知りたくなる自分が彼の中にいた。
自転車に乗っていると、冷たい風が頬を沿って後ろへ流れてゆく。地面にはまだ雪が残っている。
首に巻くマフラーは前に香が縫ってくれたもの。病室で特にやることがないからって、楓のために作ってくれたのだ。
白いマフラーで、隅から隅まで綺麗に縫ってある。
残り雪のせいで道中転倒しそうになったけれど、無事墓地に着いた。
駐輪場に自転車を置いて、かじかむ手で鍵を抜く。
まずはバケツに水を汲みにいく。
蛇口をひねると、温かい水が出てきた。それは決して温かいわけではなく、彼がそう感じただけである。
多くもなく少なくもないところで水を止め、お墓に向かった。
向かった墓の位置は墓地のちょうど中央付近。
そこには葉山春之、彼の父の墓があった。そこには季節に合った、水色や薄ピンク、白色の花が供えられていた。最近母親がここにきたということは聞いていない。
一体どこの誰が供えたものだろうか、と彼は思った。そんな疑問も冷たい風に流されていった。
水をかけ終わった後、十分に手を合わせ、空にいる父親と対面する。
その後今度はすぐ左のお墓の前に立つ。
そのお墓には〈朝倉香〉と彫られている。
どうしてここに彼女のお墓が建てられたのかはわからない。それは偶然なのかどうか、神のみぞ知ることである。
楓は彼女のお墓の石塔に少しだけ積もっている雪を手で払っい、こちらにも水をかける。
終わってから、一歩下がり、再びそれに向かう。
色々なことが思い出される。
彼女に『告白』したこと。
彼女がそれを断ったこと。
再び『告白』したこと。
彼女が眠ってしまったこと。
何度も『告白』したこと。
彼女が目を覚ましたこと。
付き合い始めたこと。
リハビリの手伝いをしたこと。
キスをしそびれたこと。
水族館に行ったこと。
その後浜辺に行ったこと。
別れたこと。
彼女が目を覚まさなくなったこと。
全てが楓の一部で、思い出で、宝物だ。
楓は目頭が熱くなってきた。でもぐっと我慢した。泣いてる姿を彼女に見せるわけにはいかないと思ったから。
手を合わせて目をつむる。
長い長い拝みだった。
最後に、
「好きだよ」
とだけ呟いて目を開く。
「葉山さんですよね」
それは突然だった。
香に少し似た声が耳に飛び込んできた。
誰かが後方から呼びかけてきたのだ。
もしかして、と有るはずもない幻想を抱いて振り返る。でも、そこにいたのは見たことのない見知らぬ少女であった。楓からしたら赤の他人。それでもなぜか楓は彼女から香の面影を感じ取った。
彼女もまた綺麗だストレートの黒髪の持ち主だ。しかし体は香よりも小柄。顔は正直かわいい。
「僕……ですか?」
楓は人差し指で自分の顔をさしながら問うた。
こくりとかわいらしく頷く。
「僕は葉山楓ですけど。君は?」
少しためらう様子を見せてから彼女は自分の名前を言った。
「私は橘楓香」
「橘楓香か、良い名前だね。それでなんで僕を?」
楓香は楓の質問に答えなかったが、代わりに一つの便箋を鞄から出して渡してきた。
「これを渡せって」
「誰から?」
またも質問に答えない。
「開けても?」
こくりと頷く。
楓はシールを剥がした。中には何枚かの手紙が入っている。
それを取り出し、一番上になっている紙から黙読する。
『 楓君へ
なにから書けばいいのか困っちゃうなぁ。じゃあまずは出会いから。
私たちが出会ったのは君のお父さんのお葬式の時。あの時は本当に何も言うことができなかった。だって楓君の大切な人を一人奪ってしまったんだもん。大泣きしている君に話せるわけないよ。
高校に入って、楓君と同じ高校だって言った時は正直焦った。絶対に嫌われるだろうなぁと思ってた。実際にその後何度も君の視線を感じた。でも今考えたらその視線も私が思っていたのとは違った。
楓君は私に告白をしてくれた。めちゃくちゃびっくりして、ドッキリか何かだと思っちゃった。それでつい断っちゃった。本当にごめんなさい。
それでも君は二度目の告白をしてくれた。そこが他の人とは違った。本当の気持ちが伝わってきたよ。でもまだドッキリの可能性が1パーセントあったから保留したの。
でもそれから間も無くして私は事故にあった。大怪我。そしてなんと昏睡状態になってしまった。
と言うのは嘘です。真っ白な嘘』
「は?」
楓はつい間抜けな声を出してしまった。
それもそのはず。そこには真実が書かれていたのだ。
『私はその時初めて嘘をついたよ。みんなに病気のことを知られたくなかったの。楓君に嘘をつくように両親に言ったのもうちです。許してください。
私が昏睡状態になった本当の理由は脳腫瘍にある。私の脳腫瘍が見つかったのは中学生の時。火事にあう少し前だった。病院に行ったら。脳腫瘍があるって言われた。それも結構でかかったみたいなの。その時余命宣告された。あなたの余命はあと一年だって。すぐにでも死にたくなった。でも死ねなかった。死ぬのが怖かったから。それに加えて君のお父さんに助けられちゃったから。そのぶん生きないといけないと思ったから。
けど君と出会って変わった。死ぬのが怖いから生きるんじゃなくて、生きたいから生きようと思うようになった。人の人生観まで変えるなんて、君はすごい人だよ。
あれから私は何度も担当医を裏切ってきた。一年経っても私は元気だった。そのあと何回も余命は更新されていって、結局今まで生きてしまった。病は気からって本当だったんだね。ちなみに今っていうのは私がこれを書いてる時のことだから。』
楓自身全く知らなかった。これが真実だったんだ。
今考えれば、事故にあったとしたら、外傷がないわけがないのだ。けれども香は無傷だった。なぜそんな簡単なことにも気づかなかったんだろうかと楓は思った。答えは簡単だ。それどころではなかったからだ。
楓は読み進める。
『それが全貌です。でも楓君、私が嘘ついても怒らないって言ってくれたからその言葉信じてるよ。
あと、実はもう一つ嘘ついちゃいました。先に謝っとくね。ごめんなさい。
それは私と楓が別れた理由。あの時私楓君の勉強がどうのこうのって言ったけど、本当はそんなことどうでもよかった。前述した通り、私は前から命はもう長くないと知ってた。君が私のこと好きなまま私がいなくなるのは楓君に申し訳ないと思ったの。そんなの君と私の立場を逆にして考えたら簡単にわかる。だから少しでも私のこと嫌いになってくれたらと思って別れの話を持ちかけた。でも楓君は受験が終わったらまた会いに来るとか言っちゃうんだもん。私の話も聞かずに立ち去るし。本当に君はおバカさん。その時には相当やばい状態だったからもうすぐ脳死になることは予想できてたから、受験終わってからじゃ遅いってわかってたのに。
あー、死にたくないなぁ。怖いなぁ。生きたいから生きるようにはなったけどやっぱり死ぬのは怖いよ。
あー、もっと一緒のいたかったなぁ。少しでも一緒に出かけられるように意味もないリハビリをしてきたのに』
(意味なくなんかないよ。少なくとも君の頑張る姿は僕に希望を与えてくれたんだから)
『あー、楓君が球技大会のバスケで活躍してるところ見たかったなぁ』
(あんなの嘘だよ。って言うかそれ聞いてたんだね)
『聞いてたのかよって思ったでしょ。ずっと聞こえてたよ。全部聞こえてた。楽しかったし嬉しかったよ。
だから私からも言います。
楓君。君のことが好きです。大好きです。だいだい大好きです』
それはまさしく楓がずっと聞きたかった言葉だった。香は一度だってその言葉を言ってくれはしなかった。それもたぶん彼との距離を考えてのことだったのだろう。
(遅いよ。なんで今言うんだよ。俺からはもう言えないじゃんか)
『なんで今だよって思ったよね。楓君だって私が眠っている間ずっと言ってくれた。そのお返しです』
(バカ。何度でも言ってやるよ)
「僕も好きだよ」
『そろそろ締めにしようかな。頭が痛くなってきたから』
(頑張りすぎだよ)
『さようならとは言わないよ。
またねって言う。
ずっとそばで見守っとくから』
「きっとまた会えるよ。またね」
涙が溢れる。手紙に落ちる。
楓は大切に手紙を折って便箋にしまった。
涙を拭った。
「ありがとう橘さん」
「楓香でいいよ」
「ありがとう楓香。でもどうして君がこれを?」
「まだ朝倉さんと私が同じ病室にいた頃、彼女がこれを葉山楓って人に渡して欲しいって言って私に託したの」
それなら納得だと彼は思ったがもう一つ大事なことを聞かなくてはならない。
「どうして君は僕のことを知っていたの?どこかであったてたらごめん」
「私とあなたは会ったのは今回が初めて。でも君の後ろ姿を見ただけですぐにわかった」
楓が訝しげな眼差しを楓香に向ける。
「だって私、あなたのこと知ってるんだもん。その手紙に書いてあったことも全部。朝倉さんのことも全部」
より一層楓の頭にはてなが浮かぶ。
「私の記憶はどうやら私だけの記憶ではないらしいの。彼女の記憶も混じってる」
楓はまさかと思った。
「もしかして……」
「そう。この心臓、朝倉香の心臓なの。私はもともと重症心不全だったから専用の機械で人工的に心臓を動かして生きていた。移植しか方法はないって医者に言われてた。そしたらある日、脳死の患者が出たって親に言われて心臓移植をすることになったの。偶然なのか、それとも彼女が私に命を託したのかはわからない。でもその臓器提供者は朝倉さんだった。移植した日から私は変わった。記憶も性格も」
鳥肌がたった。冬の寒さのせいもあって鳥以上の鳥肌がたった。
「だからつまり、その……………」
長い沈黙があった。楓は楓香の言葉を待った。
「たった今、私は葉山楓のことが好きになりました」
楓は思いもよらぬ形で、初めての『告白』をされた。
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「死」があるからこそ生きるのが楽しいと思えるのではないか。何かをするのが楽しいと思えるのではないか。不幸があるからこそ幸福が輝くのだ。
みんながみんな最後には死ぬのなら、なおさら「生」を楽しんだ者勝ちだ。
だから人間は抗って抗って幸せを手にしようとする。そして死ぬ時に悔いのないような生き方をしようとする。
運命に逆らうことはできない。でも運命という道に、転がる幸せを拾うことはできる。
人生は山あり谷あり。そこが面白いところじゃないか。
ありがとうございました