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口づけ

「この子はもう目覚めない」

 香の父親は力なく言い捨てた。

 楓が両親の顔を見ると、二人の目の周りは赤く染まっていた。

 随分と泣いたんだと思う。

 しかし不思議と今は、優しい眼差しで動かない彼女を見張っている。

「何が……あったんですか?」

 父母のどちらかに訊ねたわけでもなく、口を開く。

「香は脳死状態。前回の植物状態とはわけが違うのよ」

「前のようにもしかしたら奇跡が」

「ないわよ。もう二度と目を覚ますことはない」

 改めてその言葉を聞いて楓の目からは涙が一粒、また一粒と次々流れ始めた。

 彼女の両親は気を遣って、彼を一人にするため病室から出てくれた。

 後になって気づいたことだが、この時の彼らはこの日が来ることを知っていたようであったような気がした。


 二人が去って、ここには楓と香、姿の見えない他患者二人となった。

 楓の頬から流れ落ちた雫は香のベッドを濡らしている。その速度はどんどん増している。

 池ができてしまうかのごとく滴り落ちる。


「どうして……。まだ僕たち別れたまんまじゃんか。本当に別れたらよりを戻すことも叶わないよ」

 彼女に被せられている布団が微かに動いている。

 楓がそれをめくるとそこには彼女の心臓。

 まだ心臓だけは動き続けていたのだ。

 そのことが彼を一層悲しみに浸らせた。

 側にいて、命もある。それなのに二度と会うことは出来ない。

 近いようで遥か遠くにいる。

 今の彼女はそんな存在なのだ。


「まだたくさん遊びたかった。まだたくさん話したかった。まだたくさん好きと言いたかった。まだたくさんやり残したことがあるのに」

 楓は側にある二つのうちの一つの椅子に腰をかけた。

 そして細くて綺麗な彼女の右手を両手で包み込んだ。

「僕たちたったの一回しかデートしてないよ?そんなの付き合ってたなんて言えないよ。……どうして別れようなんて行ったんだよ。別れるっていうのは本当はこのことだったの?」

「ーーー」

 沈黙。

 涙が彼女の乾いた手にこぼれた。

「君は一度だって僕に……。君は最低な人間だ」


 その時、シャーっという音と同時に一枚のカーテンが開かれた。

「その子は最低な人間なんかじゃないよ」

 優しく心地良い低音の声で発したのは和久だった。

 急な声に驚きを隠せないでいる楓に対し、続けて話す。

「その子、君の彼女さんだよね。君のいない間、彼女はずっと俺に君の話をしてくれた。君のことを話すときは総じて彼女は笑顔になるんだよ。今日は何々をした。こういうことがあって楽しかった、って具合にね。でもね、彼女は一回も君といる時間がつまらなかったなんて言ったことはなかったよ」

 楓の知らないところで彼女も一恋愛者として、彼のことを思い続けていたのだ。

「君と別れた後だって、俺の前では『これでよかったの』って笑顔でいたよ」

「そう……だったんですか」

「でもね、俺は知っていたよ。彼女がカーテンの中に一人でこもっているときに普段は見せないくらい泣いていたこと。彼女だって彼女なりに辛いことがあるんだよ。そんな子に、簡単に最低なんて言っちゃダメだ」

 まさにその通りだ。何も知らない楓が一方的に最低だの何だの言うことは間違っていた。

 そんなことを言う自分が最低だと思った。


「僕は最低だ」

 歯を噛み締めた。

「彼女はもう目を覚まさないかもしれない。ならば代わりに君が三人分の人生を歩んで行け」

「はい゛!」

「俺からはそんだけだ」

 和久はそっとカーテンを閉めた。



 楓は泣いた。

 たくさん泣いた。



 涙がついに枯れてしまった。再び香の顔を眺めていた。

 横には美しい彼女。

 楓は前回とは違って何のためらいもなく顔を近づけ、自分の唇と香の唇を重ね合わせた。唇は生温かく、柔らかく感じた。

 唇を通して互いの心臓が共鳴する。風の人と何ら変わりのない香の鼓動。

 香が眠り姫か白雪姫で、自分が王子様だったらいいのに、と思った。そんなグリム童話的展開があるわけもないのに。

 どれだけの間、接吻していたのかわからない。

 長かったのか、それとも短かったのか楓にもわからなかった。

 彼はゆっくりと唇を離した。

 その時見た彼女の顔は心なしかさっきよりも微笑んでいるように思えて仕方がなかった。


 これが彼らにとっての最初で最後のキスとなった。

 それでも彼は喜べなかった。悲しみの方がよっぽど大きかった。一体誰がこんなに不幸なキスを望むだろうか。


 楓は立ち上がって言った。

「今度は夢の中で会おうね」



 香は夢を見た。長い長い夢。一生覚めることのない夢。

 香が周りを見渡すと、そこは一種の楽園のように黄色い花が一面に咲いていた。

 彼女は気がついた。ここは現実世界じゃなく、夢の中なのだと。


「香!」

 誰かが背中の方から呼びかけてきた。

 声を聞いただけで誰なのかすぐに見当がついた。聞きなれた声。心地良い声。楓の声だ。

 彼女はすぐさま振り返る。

 やはりそこには楓が立っている。

「香、好きだ」

 率直な言葉と共に彼は彼女に近づく。

 目の前まで来たところで再び、

「大好きだよ」

 そう言ってキスをする。

 香は心臓が飛び出てきそうなくらいの驚きと緊張を覚えた。おかげで夢から覚めてしまいそうだ。


 なんて幸せなのだろうかと思った。楓の体温が感じられる。

 楓はそっと唇を離した。

「またね」

 彼は言った。

 彼の姿がだんだんと薄れていく。

「まって。私からも言いたいことがあるの。一度も言えなかったこと」

「なに?」

 爽やかな笑顔で彼は訊ねる。

「楓君、私……」

 どうしても言いたかった言葉。

 しかしとうとうその前に楓の体は星屑となって消えて言ってしまった。

ありがとうございました

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