第四章 盲目の姫君 第六話
アイリーンは王宮のあちこちを歩き回っていた。閣僚から正式に承認を得た二人は、国王の護衛の任務に就く為の準備として、王宮の構造を把握する必要があった。盲目のアイリーンは全ての通路を記憶しようと、シンに後ろを歩いてもらい、杖を頼りに熱心に廊下を行き来していた。足音や声の反響、匂いや人の声に神経を配り、杖で段差や障害物を確かめ、自らの頭と身体に覚え込ませていく。危険な場所があればシンが注意を促してくれる。かつて暮らした離宮のように、一人でも不自由無く歩けるようになる迄、アイリーンは地道に訓練を繰り返した。
アイリーンのその行為により、王宮で働く人々が彼女の姿を頻繁に見掛けるようになる。正真正銘のお姫様であるアイリーンの姿を、彼等は遠慮がちに遠くから眺めていた。トランセリアにも王族は居るのだが、アルフリートは誰にでも例のくだけた口調で話し掛けるので王様っぽく無く、今はまだ独身であるから王妃も居ない。この国では王族の子息は国政に参加しないので、現在トランセリアに『お姫様』といった者は存在しないのである。
アルフリートの父親、先代の国王アンドリューは、二年前に王位を退き、宮廷図書館の館長に就任していた。彼の妻、先代の王妃ユリアーナは他国から嫁いで来た貴族の娘であり、建国以来今に至る迄、トランセリアに存在した只一人の貴族階級であった。アルフリートの母親である彼女は大層美しく、国民の自慢の王妃であったが病弱で、あまり国の行事に参加する事は出来なかった。ユリアーナは国王の血筋を一人しか残せなかった事を悔やみつつ、十年ほど前に他界していた。
アルフリートの記憶に残る母親は、ベッドの上で優しく微笑む、透き通るような白い肌をした美しい女性だった。やんちゃな彼も母親だけはきちんと『母様』と呼び、彼女の前では緊張するのか、それとも子供なりに心配を掛けさせまいと考えていたのか、借りて来た猫のように大人しかったとアンドリューは語った。優しくアルフリートを抱き締める柔らかなその感触と、いい香りとが幼い頃の記憶として残っていた。ちなみに父王のことは『親父』と、彼は呼ぶ。
先々代の王妃であるアーロンの妻シャーロットは健在であったが、国民からも『国母』と親しまれる彼女はどちらかといえば『おっ母さん』タイプであり、姫様というイメージからは掛け離れた人物だった。結局王宮の女性達は皆働く為にここに居るのであって、騎士であるシルヴァやセリカは言うに及ばず、美貌のシンクレア姉妹にしても、外交官のリサにしても、日々忙しく職務に励む彼女達が優雅な仕種や作法などと疎遠になるのは当然であった。しいていえばユーストが王宮で最も貴族らしい振る舞いをするが、三十過ぎの言ってみれば『おっさん』が、お姫様らしいなどと評されるのは本人も嫌がるであろう。アイリーンは十数年振りにトランセリアに現れた本物の『お姫様』であった。
この後に、外務長官ヴィンセントの依頼で、彼女は他国の大使や外交官として赴任する官僚達の行儀作法を指南する役職も受け持つ事になる。アイリーンが身に付けたそれは、大陸中最も古い歴史を持つイグナートの物であり、さらに彼女を躾けたのが離宮の年老いた老人達であることから、いかにも古めかしい格式張ったやり方ではあったが、アイリーン自身もそれを良く分かっていて、そこから各国の現状に合わせて簡略化したりと柔軟に対応していた。トランセリア王宮の家族的な雰囲気や、特にアルフリートのくだけた物言いにすっかり慣れてしまっていた彼女は、シンを相手にこっそりと作法をおさらいして職務に臨んでいた。
アイリーンは自分を見つめる王宮の人々の視線に気付くとにこやかに微笑み、会釈を返す。その優雅な仕種がまた噂となり、彼女は一躍王宮の有名人となっていった。アルフリートは皆が慣れる迄は仕方が無いだろうと、特に注意をする事はなかった。アイリーンはそんな素朴なトランセリアの人々を好ましく感じていた。そして知れば知る程この国が他国と違う事に驚いていた。
トランセリア王国は七十年程の歴史を持つ、大陸中最も新しい国であった。建国王アルザス・リーベンバーグはセリア山脈の三部族を統合し、他国の侵略や山賊の襲撃から山や田畑を守る為に王国を築き上げた。アルザスは遊牧民の部族の若き長であり、国内の何処にも貴族の領地は無く、大陸史上初の平民だけの国家が誕生した。身内で王位を争う他国の醜聞を嫌悪した彼は、王位の継承の条件から血縁を除外した。
トランセリアは現国王が次の王を指名し、閣僚と法務庁元老院の承認を経て王位が譲渡される。アルザスの意志に反して、四代目のアルフリートに至る現在迄、血縁の連なった人物が国王を継承しているが、五代目がアルフリートの息子になる確証は何処にも無かった。
今でこそ国家として諸外国と交流し、通商や外交を行っているトランセリアであるが、アルザスの治世にはそもそも国として認められていなかった。昨日迄山羊を追っていた遊牧民が、突然山脈に作り上げた貴族も居ない国など、各国は反発するか無視するかのどちらかだった。セリア山脈には当時既に鉄鉱脈が発見されており、その他にも貴重な金属を産出するその地を、各国は虎視眈々と狙っていた。
三つの部族はそれぞれの特色を活かした軍隊を作り上げ、国民と山とを守る戦いに備えた。今に残るトランセリアの三軍は、その当時の名残りである。人口や国力に比して、トランセリアの軍事力が他国に引けを取らない規模を有しているのは、元々この国が戦争をする為に立ち上げられた意味合いが強いからである。
現在でもある一定の年齢から上の男達は必ずと言っていい程兵役の経験があり、予備役として騎士団に籍を置いている者も多かった。女性にも分け隔て無く騎士への門戸は開かれ、その数は全軍の一割に達しており、准将や隊長の地位に就いている者も幾人か存在した。
幾多の戦乱を経て、一国家として諸外国に認められるようになったのは、アーロンの治世も中程になった頃であった。建国の成り立ちから、トランセリアの国旗は空と山とを表す深い青に、三匹の色違いの山羊が描かれた意匠であり、国民達、特に軍人にはあまり強そうな旗ではないと、評判は今一つだった。
アルザスが国の基礎を立ち上げ、後を引き継いだアーロンが国を動かす政治システムを作り上げる。アーロンは長子では無く、彼の上に兄が居た。アルザスの長男、ヤルーノ・リーベンバーグは父が自分を国王に指名しなかった事に不満を感じてはいたが、同時に安堵してもいた。トランセリアの王になるという事は、公私の私がすっぽり無くなる事と同義であった。国王と王妃は私有財産を認められず、昼も夜も無く国の為に働き詰めに働いた。
戦乱に明け暮れる国土は荒れ、産業の育成もままならず、王宮すら無かった。アーロンら閣僚は王宮の建設予定地にアルザスの屋敷を移築して政治の拠点とする。貧乏な国家を動かす為には、身を粉にしてひたすら努力するより他に手立ては無かった。産業が軌道に乗り、国力が回復する迄は人間をあてにするしかなく、アーロンはなりふり構わぬ人材登用を行った。才覚がある者はたとえ十代であろうとも責任ある地位に付け、歳若い内から専門教育を行い、様々な分野のスペシャリストを育成した。今に至る人材の抜擢と、教育国家の基礎がこの時出来上がった。
もしこの時、ヤルーノが王位に就けなかった事を恨み、アーロンに反目したら果たしてどうだったであろうか。トランセリアという国はその次の日にでも大陸から消え失せていたかもしれない。当時のトランセリアはそれ程かつかつの状態であり、内輪もめなどしている余裕は全く無かった。『国民一丸となって』と言う言葉が、只のスローガンでなく実際に行われていたのがアーロンの治世であった。当時を知る年寄り達は「平和になって暮らし向きも随分と楽になったけど、今思えばあの頃は本当に面白い時代だった」と、口を揃えて語るのである。王族も平民も無く、ただがむしゃらに国の為に働いた彼等こそが、真の意味での建国の祖であるのかもしれない。
アーロンには四人の子供がいたが、男子は一人だけだった。末子のアンドリューは忙しい両親から乳母に預けられた。それがヤルーノの妻であり、現宰相、ユースト・リーベンバーグの母親にあたる。ヤルーノはどちらかといえば文人肌で、とかく首都を留守にしがちな国王の補佐をする為、宰相の地位についていた。
アンドリューは幼い頃から好奇心旺盛な子供で、回りにいる大人達を質問責めにしては閉口させていた。父王よりも彼の近くに居たヤルーノはその資質に興味を持ち、少ない予算をやり繰りして宮廷図書館を開設し、アンドリューに本を与えた。その結果彼はがちがちの学者肌に育ち、剣を握った事など生涯で数回あるかないかといった国王になるのである。後にユーストに引き継がれるトランセリアの情報網も、アンドリューの質問に答えるべく、あちこちの商人や旅人に話を聞くヤルーノが情報の重要性に気付いて作り上げたとされる、嘘か本当か分からない逸話も残されている。
アーロンは国法に定められた二十年の任期を勤め上げ、退位直前に自ら作り上げた王立工匠の顧問に就任する。こうしてようやく彼の手にプライベートの時間が戻って来たのだった。ヤルーノは宰相として閣僚に残り、息子のユーストと共にアンドリューの補佐を務める。戦乱も収まり、国家として諸外国に承認されたトランセリアが、外交に力を入れ、貿易を発展させる時代がやって来た。
第三代国王アンドリュー・リーベンバーグは歴代の国王の中で、最も影の薄い王として国民に記憶されている。これは彼の能力や努力が足りなかった訳では無く、地味な政策を長期間かけて浸透させるという彼の政治手法の故であった。カリスマ性や腕っぷしはからっきしなアンドリューであったが、粘り強く事に臨み、繊細で細やかな施策を数多く実行した。
教育や工業を発展させ、福祉や年金制度を整える。主要産業である鉱山の安全性にも気を配り、技術革新にも予算を割いた。国内外の街道を整備したのも彼であった。厳しい冬に多くの老人や子供が命を落とす事に心を痛めたアンドリューは、外国の学校に医術を学びに行く若者に、祖国に戻って医院を開業する事を条件に奨学金を与える。数年の後に、国のあちらこちらに診療所が立ち、人々は国王の政策に気付くのである。
アンドリューを最も高く評価するのは各国の王族や閣僚であった。粘り強く、気の長い彼は交渉事に長け、人当たりのいい笑顔と、のらりくらりと身をかわすウナギのような話術で数々の会見や折衝を成功に導いた。
歴史ある大国のグローリンドとの領土争いの際にも、双方合わせて二十万の軍勢が国境を挟んで睨み合う一触即発のさなか、ほとんど単身で相手国に乗り込み和平交渉を成立させた実績もあった。アンドリューに随行した当時の外務長官は家族に遺言をしたため、死を覚悟して敵国に赴いたとされている。グローリンド国王ルーク・アシュレイ・グローリスは、一週間に及ぶ連日連夜の会議の席でも、アンドリューが信じられない程のタフさを発揮し、変わらぬ態度と笑顔で諦めずに交渉を続けた事を褒めたたえ、不利な条文であるにも拘らずサインをしたと後に語った。
アンドリューがやはり二十年の任期をきっちりと終え、一人息子を国王に指名したのは、アルフリートがまだ十七歳の時であった。
アルフリートは時間を見つけてはアイリーンやシンからイグナートの話を聞いていた。ユーストが潜り込ませた間諜から、街の噂や市民の反応などは数多く情報として耳にしていたが、王族の側からの声はなかなか手に入れる事が出来ずにいた。アイリーンとて離宮からほとんど出ずに暮らしてきた身であるから、宮廷内部の事は良く知らなかったのだが、それでも彼女は自分の意見を交えて知る限りの事をアルフリートに伝えてくれた。
イグナート公国は大陸でも最も古い歴史を持つ国であり、建国から一千年近い時を経ていた。王族の血筋も複雑多岐に絡み合い、直系の子孫は既に絶え、ここ数百年は多数の傍系が国王の座を奪い合う事態となっていた。国王は代々イグナーティアの姓を襲名し、現在の王もカルロス・イグナーティアを名乗っている。
カルロスは二十年前の大戦で先王が戦死したどさくさに王位につき、国内の微妙なパワーバランスを、賄賂と甘言と恫喝とで乗り切って来た。彼は頭の悪い男では無かったが、気が変わりやすいという欠点があった。周囲の意見や状況に流されやすく、一度決めた方針をころころ変える癖があった。自分の政策に自信が無いという理由もあったが、何より変わり身の早さがこの国で王位を保持するのに必要な能力だった。
カルロスの弟、王弟ドルカスは、就任早々から兄のこの一貫性の無さに振り回され、数年で彼の治世に見切りをつける。以来ことあるごとに国王に反目し、同じように王に失望した貴族や閣僚らと派閥を作り上げる。既に十余年、国王を持ち上げて正統性を主張する国王派と、カルロスの無能さを指摘して改革を叫ぶ王弟派が宮廷を二分した争いを続けている。数少ない中立派も存在し、そもそも兄弟で相争う事自体が国の事を考えていないとして両派を糾弾するが、双方とも聞く耳など持たなかった。
リグノリア侵攻が失敗に終わり、起死回生を狙ったプロタリアとのパイプ作りもアイリーンの逃亡によって水泡に帰し、現在国王派はかなり窮地に追い込まれていた。
アイリーンの話のほとんどはアルフリートの知っている事だったが、彼は改めて彼の国の腐敗ぶりを耳にし、あきれはててこう呟いた。
「そんなに王様になりたいんだったらウチに来ればいいのに、今すぐ代わってやってもいい」
アイリーンは冗談だと思ってくすくすと笑ったが、アルフリートは半分本気だった。国王としての仕事は性に合っていたし、やりがいも感じてはいたが、何よりトランセリアは貧乏だった。彼に支給される私費は雀の涙ほどで趣味など全く持てなかったし、国王の激務には昼も夜も無かった。金が無いのだから外に家など持てず、それほど広くも無い王宮の暮らしではプライベートの確保は難しかった。何か事が起これば深夜でも呼び出しがかかり、シルヴァとの恋人としての時間を邪魔される事も幾度かあった。一度など彼女の下着を脱がし終えた時に侍女が呼び出しを告げ、さしものアルフリートも憮然とした表情で執務室に向かった。若い彼等にはさぞかし辛い事だったであろう。
閣僚中でもユーストやヴィンセントは王宮内に私室を持っているのだが、彼等は担当分野以外では召集がかからないし、そもそも呼び出す方が彼等だった。ユーストなど一体いつ眠っているのかと不思議に思う程、何時に現れようと髪の毛一筋も乱れていなかった。
「だいたいお家騒動なんかやってる事自体無能の証明じゃないか。俺よりも遥かに高い給料貰ってんだから真面目に仕事しろってんだ。王弟だったら国王の尻を叩いて悪癖を直してやるのが本来だろうが。国民を無視して貴族の顔色ばっかり伺ってるから、いざって時に味方がどんどん裏切っていくんじゃねぇか……いてっ」
やっかみもあってか毒舌が止まらなくなっていくアルフリートのすねを、テーブルの下でユーストが蹴飛ばした。アイリーンに気を使ったのである。トランセリアにはお尻を叩くどころか、手も足も出して国王を諌める宰相が居るのである。尤もアルフリートは言葉遣いや行儀作法で嗜められる事はあっても、政治手法を問われる事はほとんど無かったが。
アイリーンは二人の隠れたやりとりに気付き、ますますこの国の王族や閣僚が他国と違っていると感じるのであった。
トランセリアの王は常に民の中に居た。代々の国王の現場主義は、アルザスやアーロンの時代に人手不足を補う為の必要にかられて出来上がった側面もあるが、それはアンドリューからアルフリートへと着実に引き継がれていた。アーロンは口は出すが手も出すタイプで、何でも自分でやってみる癖があった。引退後に王立工匠でハンマーを振るったりするのも、元々身体を動かして物を作るのが好きな性格だったからであろう。
アンドリューは同じ現場主義でも正反対のやり方で、口も手も全く出さなかった。彼は赴いた先であちこち歩き回っては誰彼構わず話を聞き、それを片端からメモするのである。トランセリアの国民は、背の高い痩せた国王が、手帳を片手にひょいひょいと現場をうろつく姿をよく目撃していた。アンドリューのメモは単語の羅列でぎっしりと埋まり、彼以外の誰が見てもさっぱり理解出来なかったと伝えられている。
さて、現国王のアルフリートはどうであろう。彼は現場主義というよりも、無意識に国民の中に立って居るようである。幼い頃からごく普通に街や村で暮らし、国王になったからといって、それを変える気は無いようであった。大陸中の一国家として他国との付き合いや反目もあるトランセリアであるから、暗殺や襲撃を警戒して当然騎士の護衛がつくアルフリートであったが、しばしば護衛の目を盗み、単独であちこちほっつき歩いては後で小言を言われるのである。
国民からの人気も政治家としての手腕も、就任二年にして既に及第点以上の評価を得ているアルフリートの、唯一の欠点がその貫禄の無さであった。確かに年齢から考えれば仕方が無い事なのかもしれないが、にこにこ笑っていると少女のようにも見えるそのルックスも、ざっくばらんなくだけた物言いも、国王陛下というイメージから程遠い物だった。シルヴァからは常に王様らしくしなさいと言われ続けているし、顔見知りの屋台のおかみさんにまで「あんたはもう少し貫禄があるとねぇ…」と、面と向かってため息をつかれる始末である。それでいて他国の王族らと堂々と渡り合える語彙やマナーも身に付けている所が『可愛げが無い』と、閣僚のお歴々につぶやかれる所以であった。
結果としてトランセリアは、リーベンバーグ一族が国の根幹を牛耳る形となった。貴族の居ないこの国に、唯一生まれた貴族がリーベンバーグ家といってもいいかもしれない。しかし国民の間から不満の声はほとんど上がらなかった。歴代の国王は善政を行っていたし、国民の側も王族の激務を理解していた。将来、他国のように宮廷が腐敗した時に、アルザスとアーロンの作ったセーフティシステムが役立つのかもしれなかった。現在の国王、アルフリートは真剣に国の事を考えていたし、今の所順調に発展を遂げていた。尤も、国王が甘い汁を吸おうにも、貧乏なトランセリアの何処にもそんな物有りはしなかったのだが。
かつてアルフリートは、父王アンドリューから次期国王に指名すると内々に打診された時、ユーストの方がいいんじゃないかと王位につく事を一度は渋った。ユーストは冷静且つ聡明で、様々な学問に精通していたし、当時既に宰相として政治の経験も積んでおり、国王の資質は十分すぎる程備えていた。二十年後にユーストが退位し、自分が指名されたとしてもまだ三十八歳であり、二十年の任期を全うできる年齢だったし、王位が回ってこないならそれはそれでいいと思っていた。なんにせよトランセリアの王は決して楽な仕事では無い。貧乏くじを引くならなるべく後にしたいというのが、アルフリートの偽らざる本音だった。
しかし当のユーストは頑としてそれを拒否した。宰相の職に就いた時から彼は裏方に徹するつもりであったし、彼には国王になれない大きな理由があった。ユーストは馬車に酔うのである。
国王になれば外交や祝い事など様々な用事で諸外国へ出かけねばならない。遠方の国であれば何日も馬車に揺られて旅を続ける事になる、それはユーストにとってまさに死刑宣告にも等しかった。
たまに彼もどうしても外せない用事で馬車を使う事がある。といってもせいぜい市内の少し外れに行くぐらいの事なのだが、彼には遥かな長旅である。馬車にクッションを敷き詰め、酔い止めの薬とワインを飲み、なるべく揺れないよういい道を選び、馬車の速度も半分にしてもらい、ディアナとエレノアがつきっきりで世話を焼いてもふらふらになって現地に着くのである。半日もかからず往復できる距離を、場合によっては出先で一泊して王宮に戻ってくる有り様である。ならば馬に直接乗ればどうかというと、彼は馬術もからっきしであるし、人が手綱を握ればそれも酔うのである。下手に落馬でもされてはかなわないと、当時の国王アンドリューに乗馬は禁止されてしまった。
ユーストの父、ヤルーノは馬車であちこち出掛けていたし、リーベンバーグ家にもこういった人物は他に見当たらないようであるから、遺伝と言う訳でも無いようだ。馬車や馬に限らず、とにかく揺れる物は一切駄目なのである。以前初めてその事実を知ったディアナとエレノアは『そういえばユーストのベッドはクッションが随分固めの物だったわ』と、何やら意味深な発言をしたのであった。
ユーストの従兄弟でもあるアンドリューは、政務に始まり外交や学問、音楽やダンスに至る、あらゆる事柄を完璧にこなす若き宰相が、馬車に弱いなどという事が最初は信じられず、王位から逃げる方便ではないかと疑った。しかし、その後に一度だけ、真っ青な顔で馬車から降りて来た見るも無惨な従兄弟の様子を目にする機会があった。普段の彼からは想像も付かないその姿の余りの情けなさに、アンドリューはそれ以後一切の口出しをやめ、ユーストのやり方に任せる事とした。アルフリートやシルヴァに言わせれば、ユーストの完璧振りは『カッコつけ過ぎ』だとの事なのだが、水面下の白鳥のごとく、彼もなかなかの努力の末に現在の評判を維持しているようである。尤も、なりふり構わないアルフリートの方も、それはそれで問題なのではあるのだが。
もう一つ彼には苦手な物がある。人前で大きな声を出せないのだ。国王は式典や閲兵式など数多くの場面で挨拶をしなければならない。誰かに代わってもらう事も出来るのだが、国民を満足させ、兵の志気を高める為にはやはり国王が直々に声を掛ける必要があった。ユーストは兵を奮い立たせる為の、拳を振り上げて叫ぶような芝居じみた物言いや演説が、どうしても出来なかった。アンドリューもどちらかといえばこのタイプで、きちんと文面を書き起こし、何度も練習して本番に臨んでいたようだ。アーロンやアルフリートはこういった場面が大の得意で、アルフリートなど挨拶は全てその場で思い付いた事を、大きなアクションを交えてしゃべっている。それでいて兵の志気は天井知らずに上がるのだから、そういった意味では天職なのかもしれなかった。
ユーストは女性受けするルックスで、その優雅な物腰や整った顔立ちから、宮廷内の女官などにも彼のファンは多いのだが、物静かに話し、感情を表に出さない面があり、田舎者が多いセリアノート市民や武人達の評判となると今一つ芳しく無いようであった。
骨の随までインドアな男、ユースト・リーベンバーグ。王宮の奥に籠って日々情報を操る宰相の職は、まさしく彼の為にあるような仕事だった。
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アイリーンとシンが王宮で暮らすようになってひと月程が過ぎた。宮廷の人々も二人に慣れ、最初の頃のような浮き足だった様子は見られなくなった。歳の若い騎士などは未だに彼女と話す時は緊張するらしく、顔を真っ赤にしてしどろもどろになっていたりするのだが。
アイリーン自身も王宮の構造をすっかり覚え込み、顔見知りの(彼女にとっては幾分意味合いが違うが)侍女なども出来、シンが付き添わなくても日常生活に不自由は無くなっていた。
シンは時間を見つけては練武場に通い、棒術と体術の修練に余念が無かった。騎士達とも随分親しくなり、真面目で朴訥な彼の人柄はトランセリアの人々にスムーズに受け入れられていた。女性騎士達に二人の馴れ初めなど訊ねられ、真っ赤になって口籠ってしまう所も好ましく思われたようだ。
彼にはもう一つ、取り組み始めた事があった。読み書きの勉強を始めたのだ。シンは幼い頃から庭師として働き、学校にはほとんど通う事が出来なかった。店先の値札程度なら読む事は出来るが、アイリーンに読んで聞かせるような本となるとさっぱりであった。文字を覚えれば、本を読む事も、日記を付ける事も出来るだろうと、彼は以前から読み書きを習いたいと考えていたが、イグナートには平民が利用できるような図書館は無く、売られている本は大変高価で、シンにはとても手が出なかった。
トランセリアの宮廷図書館は市民なら誰でも利用する事が出来、日中は多くの学生達で賑わっている。王宮の外れに位置する図書館では、本の閲覧や貸し出し以外にも、各学校の紹介や留学の案内等も行っており、学問を志す人の窓口としての役割も果たしていた。それを聞いたシンはさっそく図書館を訪れるが、膨大な量の本を前に呆然と立ちすくんでしまう。良く考えてみれば字の読めない彼に本を探せる訳も無く、かといって司書に訊ねるのも気恥ずかしく、うろうろと館内をうろつくシンに一人の男が声を掛けた。
「君が噂のイグナートからのお客人かい?」
痩せた背の高い壮年の男が、にこにこと笑顔で問い掛ける。アイリーンとシンの噂は王宮では知らぬ者は無く、ひと目で西国人と判る彼はよくこうして声を掛けられた。シンは愛想良く答える。
「はい、シン=ロウといいます。…失礼ですが……」
「私はここの館長です。どんな本をお探しかな?」
「あ、はい。……お恥ずかしい話ですが自分は読み書きが出来ないものですか……せ!先王陛下っ!」
そこまで言ってやっとシンは思い出した。宮廷図書館の館長といえば、先代国王アンドリュー・リーベンバーグその人ではないか。そういえば目の前の男の顔はアルフリートに良く似ていた。白髪混じりの濃い栗色の癖のある髪は現国王と少し違ってはいたが、にこにこと微笑む柔和な瞳や、年齢よりも若く見える優しげな顔立ち、そして何よりその親しげな口調がそっくりだった。次の言葉が出てこなくなってしまったシンに構わず、アンドリューは話しを進める。
「うん、前はそうだったけど今は館長をやっています。……そうか、それなら読み書きの初歩の教科書がいいね。こっちこっち」
すたすたと歩き始めるアンドリューをあわててシンは追い掛ける。子供向けの本の棚で立ち止まり、何冊かを取り出してシンに手渡すと彼は言った。
「この棚は全部児童向けの本だからここから選ぶといいだろう。君は王宮に住んでるんだよね。だったら受付に持って行けばすぐに借り出せるから。ここで勉強していくのもいいかもしれないな。ほらあそこ」
アンドリューの指差す先では、大きなテーブルで何人もの人々が本を広げていた。小さな子供からシンのような若者まで、皆熱心に勉強しているようだった。礼を言うシンは背中を丸め、少し顔が赤くなっている。大きな身体をした自分が子供に混じって勉強する事を恥ずかしがっているのだろう。それに気付いたアンドリューは、優しく彼を諭した。
「何も恥ずかしく思う事は無い。学問を始めるのに年齢など関係無いし、この国では学ぼうとする者を笑う人など一人も居ないと私は信じているよ」
その言葉に勇気づけられたのか、シンは顔を上げ、何度も礼を繰り返した。アンドリューは親切に受付手続きまで手伝ってくれ、その上簡素なノートとペンまでプレゼントしてくれた。感激するシンにアンドリューは告げる。
「アルフは良くやってるようだけど、まだ若いのだからもっと色々勉強するように伝えてくれよ。あいつはここにはさっぱり近寄らないんだ」
メモ魔で本の虫の父親と異なり、アルフリートは直接人から情報を得る事を好んだ。顔を合わせて話をしていると見えてくる物があるのだと彼は言う。「それも分かるんだけど、書物は素晴らしい人類の叡智の結晶だと思うけどなぁ……」本好きのアンドリューにはやや不満らしい。かといってこの親子が別段仲が悪い訳では無く、単に趣味の違いらしいのだが、アルフリートは祖父アーロンの方が話が合うようだった。
アンドリューの助けにより、勉強の第一歩を踏み出す事が出来たシンは足繁く図書館に通う。目立つ風貌の彼を珍しがり、周囲の子供達は人なつこく話し掛けてくる。おずおずと質問を切り出すシンに、彼等は親切に答えを教えてくれ、お薦めの本など紹介してくれもした。並んで勉強をする子供達は、歳は違えどいつしかシンの『学友』になっていった。
夜、居室で復習をするシンのペンの音を聞きながら、アイリーンはいたく感心していた。彼が真面目で努力家だという事は良く知っていたが、勉学にまでその努力が向かうとは少し意外だったからだ。そしてシンが読み書きを覚える目的の半分は、自分に本を読み聞かせる為である事も彼女は察していた。熱心にペンを走らせるシンに、遠慮がちにアイリーンは話し掛ける。
「……シン、ごめんなさいね勉強中に。…もしわたくしの為に無理をしているのなら……」
シンは顔を上げるとペンを置き、アイリーンの白い手を取って答える。
「いいえ。確かにアイリーン様に本を読んで差し上げたいと思っていますけれど、私が字を覚えたいのです。いろいろ記録に残したり、手紙を書く事も出来るようになりたいと、以前から思っていたんです」
「そう……勉強は楽しい?」
「はい、とても。図書館の子供達とも友達になりました」
「良かった。シンにはずっとわたくしの世話ばかりさせてしまっていたから…」
「アイリーン様のお世話は少しも苦ではありません。自分にとって一番…大切な事です。……ひょっとして、寂しい思いをさせてしまいましたか?」
アイリーンの華奢な身体を包み込むようにそっと抱き締め、シンはささやくように言った。それは寡黙な彼としては破格の愛情表現といえた。アイリーンはシンの逞しい胸に顔をうずめ、小さく首を振る。
「いいえ、いいえ。…シンがいつもどれ程わたくしの事を思っていてくれるかは良く分かっています。……でも…ちょっとだけ。……ごめんなさい邪魔をしてしまって」
身体を離そうとするアイリーンをシンの腕がしっかりと抱きすくめる。顔を赤くしながら、シンは彼女の形の良い耳にささやく。
「アイリーン様以上に大事な事などありはしません」
「シン…わたくし…こんなわがままを言って……」
『ごめんなさい』と言い掛けた彼女の唇をシンの唇がふさぐ。男の胸にうっとりと身を委ね、長いキスがアイリーンを至福の高みにいざなう。やがてそっと唇を離したシンの頬を指でたどり、アイリーンはかすれた声で囁く。
「……シン、…もうひとつだけわがままを言わせて。……もう『様』なんて付けなくてもいいのですよ。…なかなか慣れないかもしれないけれど、…二人きりの時だけでもいいから……ね?」
「あ、……はい。………アイ…リーン」
「ああ…シン、……うれしい。…愛しています」
「アイリーン、……私もです。…誰よりも、あなたを愛しています」
再び唇が重なり、アイリーンの閉じた瞼から涙が一筋流れ落ちる。シンは彼の妻のしなやかな身体をふわりと抱え上げるとそのまま寝室へ向かい、今夜の読み書きの勉強はそこまでとなった。
アイリーンも剣の修練は続けていたが、彼女が一番力を入れ、熱心に行っていた訓練は、自分の感覚をさらに研ぎすます事だった。生真面目なアイリーンは宮廷騎士団の衛兵にわざわざ許可を得て、アルフリートの執務室や御前会議に同席させてもらうと、部屋の隅の椅子に腰を下ろし、じっと人々の動きを『観察』するのである。耳と肌で空気の動きを感じ、人がどう動いているのかを察知する。声や足音や匂いで個人を特定し、出入りする閣僚や衛兵、侍女達を個別に覚え込んでいく。シンや馴染みの侍女達に協力してもらい、自分の認識が正しいかどうかを確認してもらう。一週間程の訓練で、彼女の的中率はほぼ完璧なレベルに達していた。
アルフリートはそんなアイリーンに良くいたずらを仕掛けた。足音を忍ばせてこっそりと部屋を出て行こうとしたり、閣僚の一人と服や靴を入れ替えて歩いてみたりした。アイリーンを混乱させる事が出来たのは最初の数日だけで、それ以降はどんな工夫をこらそうと彼女はたちどころに察して声を掛けてくる。
「陛下、お出かけですか?」
「陛下、上着はご自分の物をお召し下さい」
「陛下、そこは窓です。お出入りはドアからお願い致します」
「陛下、机の下に何か落とされましたか?物が落ちた音は致しませんでしたが」
「陛下、侍女の服を脱がそうとしてはなりません」
「……アイリーン、俺そんな事してないよ」
「申し訳ありません、今のは冗談です」
おしとやかなアイリーンもトランセリアの王宮に大分慣れたようだ。時にはアルフリートにいたずらの仕返しをしたりもする。
アルフリートの性格を良く知るようになったアイリーンは、彼の事を年上だと思えなくなっていた。ユーストの評した『やんちゃ小僧』がいかに的を射ていたかが彼女にも判ってきた。アイリーン自身が年齢よりも落ち着いていて、世間知らずではあったがルックスも性格も大人びている事もあってか、アルフリートの事を目の離せない弟であるかのように感じていた。国王としては並外れた仕事ぶりを見せる彼が、普段はいたずらを仕掛けたり、冗談を言ったりするひょうきんな若者であるという事が分かり、アイリーンは家族のような親しみを覚えていた。ただ仮にシンという夫が居なかったとしても、彼に恋愛感情は抱かないだろうとも思ってはいた。アイリーンの好みのタイプは年上の(アルフリートも年上ではあるけれど)しっかりとした大人の男性であり、さらに背が高く彼女を包み込んでくれるような逞しさがあればいう事は無かった。要するにそれはシンの事だったのだが。
訓練によりさらに磨きが掛けられた彼女の聴力は、調子がいい時は壁一枚隔てても隣の部屋の人間がどう動いているのかが判るまでに至った。閣僚達は皆その能力に驚くと共に、これで陛下のきまぐれな行動がいくらかは減るだろうと、思わぬ効能に喜んでいた。護衛といってもアルフリートの場合そこそこ腕も立つし、市内ならばそうそう危険な事が起こる訳では無い。彼等が一番危惧していたのは、緊急事にもかかわらず国王が何処にいるか判らない事態が発生する事であった。アイリーンの鋭敏な聴覚は、アルフリートに見えない首輪を付ける様な効果を発揮した。当のアルフリートは(墓穴ったか……)と思ってはいたが、アイリーンやシンが日毎に皆に受け入れられて行く事に、素直に安堵していた。
アイリーンとシンの生活も日常としてのリズムが出来上がりつつあった。二人で朝食を終えると、練武場に向かい、アルフリートや宮廷の騎士達と訓練に汗を流す。午後からは会議や国王の執務に同席し、護衛担当の衛兵達とも仕事を分担して任に着く。夜になるとシンは読み書きの勉強を、アイリーンは編み物をしたり、楽器を弾いて歌を口ずさんだりしてのんびりと過ごした。アイリーンの透き通った歌声は侍女達の評判となり、良く恋唄などせがまれたり、逆に彼女達から流行り歌などを教えてもらったりしていた。二人はすっかりトランセリアの王宮の一員として人々に溶け込んでいた。
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良く晴れた休日のある日、セリアノートの教会の前には多くの人々が集まっていた。今日はアイリーンとシンの結婚式が行われる。無事出産を終えたマリーもシュバルカと共に姿を見せる。シュバルカの手には小さな女の赤ん坊が抱かれ、彼の目尻は下がりっぱなしであった。既に国王アルフリートとシルヴァ立ち会いの元、式が無事執り行なわれ、閣僚や騎士、王宮の侍女達も、手に手に花びらを持って教会の前で二人が現れるのを待っていた。
二人の結婚式については、来るべき国王の結婚式典の予行になると、いっその事国の行事として行ってはどうかという内務官僚からの意見も出たが、主計局長『締まり屋』リカルドから待ったが掛かった。リグノリア遠征で予算を使い切ったトランセリアの国庫に、とてもそんな余裕は無いと彼は懇願する。当事者であるアイリーンとシンも、これ以上王宮に世話を掛ける訳にはいかないと、結婚式そのものも辞退すると訴えた。結局アルフリートの説得により、吉日を選びささやかな式が挙げられる事となった。
教会の扉が開き、二人が姿を見せる。シンは宮廷騎士団の第一礼装を借り受け、背が高く逞しい彼は一層頼もしく見えた。アイリーンの身を包むウェディングドレスは、マリーがシュバルカとの結婚式に使った物だった。サイズを少し直して彼女のスタイルに合わせたそれは、アイリーンの美しさを際立たせ、人々は皆口々に彼女を褒めそやした。白い胸元には、彼女の母親が嫁ぐ時に持参したという形見の首飾りが小さく光っている。それは逃避行の際に持ち出す事の出来た、わずかな荷物の内の一つだった。
感激のあまり朝から泣き通しのアイリーンは、しっかりとシンに支えられ、一歩ずつ階段を降りる。彼女にもたくさんの人々が自分達を祝福してくれている事が感じられ、さらに涙が溢れ出した。シンも頬を紅潮させ、花びらを投げる皆に何度も何度もお礼の言葉を繰り返した。シュバルカと言葉を交わし、マリーと手を取り合い喜ぶアイリーン。手に持ったブーケをシルヴァとアルフリートに差し出すと、彼女は涙で声を詰まらせながら言った。
「……陛下、……シルヴァ様。……本当に…本当にありがとう…ございます。……どんなに感謝してもしきれません。……こんなに…幸せで……。…本当に…ありがと…う………」
泣き崩れて言葉にならないアイリーンを抱き締め、シンが続けた。
「陛下、トランセリアに受けた恩は一生忘れません。生涯を掛けてこの国の為に働くつもりでおります。…本当にありがとうございました」
きちんと礼の言葉を告げる頼もしげなシンに、アイリーンは涙で濡れた顔を向ける。シンは今でもアイリーンに対して従者として接するが、彼女はもうそんな意識は少しも持っていなかった。シンは彼女にとってかけがえの無いパートナーであり、誰よりも何よりも大切な人だった。アイリーンはこの国以上にシンにも恩を感じ、残りの人生を彼の為に生きようと心に決めていた。
終る事のない祝福の言葉が二人を包み、アイリーンとシンは生涯で最高の幸福を味わっていた。不幸な境遇に生まれた盲目の少女が、信じた男の手を取り切り開いた運命が、今ここに一つのゴールを迎えたのだった。