第四章 盲目の姫君 第四話
マリーを送り届けたシュバルカが、アルフリートの執務室に到着した。マリーの焼いたクッキーを持参した彼は、花柄の可愛らしい袋を手にしていた。それは軍装に着替えた彼の風体には、全くもって似つかわしく無かった。
さっそくユーストのもう一人の副官のディアナがお茶を入れてくれる。アルフリートはプライべートな用件で執務室の侍女を使えないと、妙に頑なな所を見せ、自分でお茶を入れようとして同席していたディアナとエレノアにカップを取り上げられていた。
副官の二人も職務中ではないのかとシンは不思議に思ったが、アルフリートはこのシンクレア姉妹がユーストの愛人である事を知っていた。黒髪のディアナが姉、金髪のエレノアが妹である。真面目なシュバルカやディクスンなぞが知れば、何か小言を言い出すかもしれなかったが、アルフリートはそういう事には無頓着だった。トランセリアの宮廷には歳が若く、独り身の者が多い。彼等が自然と恋仲に発展する事も珍しくなかった。アルフリートは公私の区別をきちんとして、風紀が乱れなければうるさく言う事は無かった。彼自身も婚約者のシルヴァは軍務長官の地位に居たし、だいたい男女の仲など外野があれこれ言う事じゃ無いだろうと考えていた。
ディアナとエレノアはお茶の用意を済ませると、ユーストに何か囁いて部屋を出て行った。例のごとくアルフリート一人だけはコーヒーをすすっている。ユーストが口を開いた。
「初めましてアイリーン様、シン殿。トランセリアの宰相を勤めておりますユースト・リーベンバーグと申します。ですが今はアルフリート陛下のはとことして同席させていただいております。このやんちゃ小僧がまた何か馬鹿な事を言い出さないように…」
その言葉にアルフリートはふくれ、シュバルカは笑いを堪える。『やんちゃ小僧』は確かにその通りだと思ったからだ。アイリーンも顔をほころばせ、典雅に挨拶を返す。
「初めましてユースト様。アイリーン・クレメントと申します。こちらは…夫のシン=ロウです。陛下やシュバルカ様には色々とお手を煩わせてしまって申し訳なく思っております」
「いえ、シュバルカ殿はともかく、陛下は好きでやってることですのでお気になさらず」
しれっと言い放ち、ユーストは滑らかな仕種で紅茶のカップを口に運ぶ。アルフリートがアイリーンに話し掛ける。
「まずお二人の件はもちろんウチの閣僚達は知っています。その上でトランセリアとしては、表向きには不干渉が既に決定しています。言ってみればお家騒動のような物ですからね。王宮はあなた達に対して一般市民と同様の、法に則った対応をします。色々と調べさせてもらったのは事実ですが、どんなうわさ話でも拾って来るのはユーストの趣味みたいなもんですから」
アルフリートはさっきの仕返しをしてやった。当のユーストは眉一つ動かさなかったが。
「ですから昼間の大騒動の彼等も、こっちが出したちょっかいに向こうが剣を抜いた咎でお縄になった訳です。彼等はこういった任務にはちょっと慣れて無かったのかな?丸腰だった自分に随分とお粗末な反応だったから」
今度はシュバルカが咳払いをし、じろりとアルフリートを睨む。
「いくら相手が手練れで無くとも、陛下は少し軽率でしたな」
「はーい。…あ、マリーにお金借りちゃったから後で返すねシュバルカ」
「そんな事はいいんですが…え?いつの間に」
アルフリートはそれを無視して話を続ける。口調も完全にくだけてきている。
「それで思ったんだけど二人は仕事を探してるよね?いい所紹介しようか」
突然の話にアイリーンは返事が出来ずにいる。シンが答えた。
「そ、それは願っても無い話ですが…。どのような仕事でしょう、私は庭師と御者の経験ならございますが」
「うん、知ってる。それでもいいけど、二人一緒に俺の護衛の任務についてくれないかな」
アルフリートのこの発言はユーストも初耳だったようだ。彼はちらりと国王に目を走らせる。シュバルカはひたすらびっくりして固まったまま動かない。彼が前もって聞いていたのは、二人が目立ち過ぎるから王宮で保護するという事だけだった。
「いい考えだと思うけどな。二人とも腕は立つし、夫婦で王宮に住み込んでもらえば通勤の手間も無いし…」
話の展開にアイリーンは考えが追い付かず、取り敢えず頭に浮かんだ疑問を口にする。
「あ…ありがたいお話ですが、……何故そこまでわたくし達を信用なさるのですか?」
ユーストが横から口を挟む。
「陛下、あなたは少し発想が飛躍しすぎていますよ。お二人が戸惑っておいでです」
「そう?じゃあちゃんと説明するね。ああユースト、どうせもう裏は取ってるんだろ?アイリーンが嫁ぐ筈だったその何とか言う侯爵の事も」
「プロタリアのリンデン侯爵です。調査の結果、家柄だけが取り柄の特に気に掛けるような人物ではありませんでした。今の所何の反応も見せてはいないようです。…お二人の行動にもなんら不審な点はございません。むしろ分かりやす過ぎるぐらいです、失礼ですが少々世間知らずなのではと推察されます。…イグナートの国王は顔を潰されたと大変なおかんむりのようですね、随分と大人数を我が国に送り込んで参りましたよ。もっともシュバルカ殿がもう八割方逮捕されてしまわれましたが」
すらすらと答えたユーストに満足そうに頷くと、アルフリートはアイリーンとシンに向き直り、話し始める。
「ちょっときつい話かもしないけど、正直に言って二人が市民の中で普通に暮らしていくのは、当面は無理な事だと思う。まず君達は容姿に特徴があって目立ち過ぎる。ウチもイグナートも簡単に足取りをたどる事が出来たからね。それからユーストが言ったように、国王はかなり本気で追っ手を出してきてるから、しばらくは隠れて暮らすしか無いだろうね。ウチみたいなデタラメな王族と違って、イグナートの血筋はまだまだあなたを解放してはくれないようだよ」
二人は固い表情で話に聞き入っている。アルフリートは続ける。
「他の国に逃げても同じ事だろうし、目の見えないアイリーンに旅暮しは辛いんじゃないかな。人目を避けた旅は危険が増すだけだ。それは良く分かってるだろうけど…。自分の護衛につくという事は同時に君たち二人を守ってやる事にもなる。それに街中であんな騒ぎはもう勘弁願いたいって気持ちもある。あー…今日のは俺が火を着けたんだけど…あのまま知らんふりは出来なかったしなぁ」
いつの間にかアイリーンはシンの手を固く握り締めていた。かすかに震える声で彼女は言った。
「陛下のおっしゃる通りです。もしあのまま囲まれている事に気付かずにいたら…私達に関係の無い人にまで危害が及んだ事でしょう。親切にしてくれた宿屋のご主人やおかみさんや…トランセリアの人達に…。わたくしは自分達の事ばかり考えていました。…あんなに…あんなに良くしてもらったのに、……命まで…助けてもらったのに…」
泣き崩れるアイリーンをしっかりと支え、シンはアルフリートに問い掛ける。
「何故…何故陛下はそこまでして下さるのですか?…私達はもう何も持っていません。厄介事を持ち込んだと、追い出されても仕方が無いと私には思えますが」
「うーん…。まったく親切心からだけって訳じゃないんだけど…」
そう言ってちらりとユーストを見るアルフリート。冷静な宰相はカップを置くと静かに口を開く。
「お二人はお国に残して来たご老人方の安否を、お知りになりたくはございませんか?」
その言葉にアイリーンは顔を上げ、ユーストに答える。
「はい、お分かりになるのですか?今どうしているんですか?」
「最初は取り調べを受けたようですが、今は離宮に戻されているようです。シン殿、あなたのお父上もご無事です。お二人の行方が早くに掴めたので、調べる必要も無くなりましたからね」
ほっと胸を撫で下ろす二人にアルフリートが言う。
「君達が何処に居るか分かっていれば、彼等は安全という訳だ。…ぶちまけるけどイグナートとのパイプが今ウチには無いんだ。リグノリアとの同盟の手前、事実上の国交断絶状態だからね。だから情報が欲しい。王弟派に知り合いって居ない?」
あまりの率直な話ぶりに二人共絶句してしまった。アイリーンが恐る恐る訊ねる。
「……間諜を…せよという事でしょうか…」
「ごめん、最後の王弟派の話は冗談。スパイももういっぱい行ってるからいらないし。知りたいのはイグナートの王族や貴族が、根本的な所でどういう発想をするかという、メンタリティーとかアイデンティティーの部分なんだけど…」
「……も…申し訳ありません、おっしゃっている事が良く…」
アイリーンがたまらず言う。
「えーと……要はイグナートの上の人は何考えてるのかなって…。下町のおばちゃん達の話ならいっぱい聞けるんだけどね」
ユーストがアルフリートに呟く。
「……陛下、いつものようにおっしゃった方が分かりやすいかと」
「あ、そう?……実はそんなに色々考えてる訳じゃ無いんだよ。ウチの女性陣はえらく君達に同情的だったしね、駆け落ちして来た二人がトランセリアを頼って来たから助けようって思っただけ、変かなぁ?政治や外交の為に女子供を差し出すなんてふざけんなって思って。だっせぇ事しやがって、そんな能無しの王様いらねぇよクソ野郎が。……あ、…ご、ごめん」
アルフリートは言い放ってしまってから、その王様がアイリーンの父親である事を思い出し、あわてて謝った。水を向けておきながら、ユーストは聞こえるようにため息をつく。二人はしばらく呆然としていたが、やがてアイリーンは柔らかく微笑んで言った。
「お気になさる事はありません。もう血縁も身分も全て捨てて来た身の上ですから。それに、王族といってもわたくしは妾腹のようなもの…、父王とも数度顔を会わせた事があるぐらいです。……陛下、むずかしいお話はよく判りませんが、この国に助けていただいた感謝の気持ちは決して忘れません。ご恩をお返ししたいと考えております。それに…お話を聞いているうちに、わたくしはアルフリート陛下のお役に立ちたいと思えてまいりました。……シン、どう思う?」
アイリーンに問い掛けられたシンは、少し固い表情で答えた。
「私は姫様のご希望通りにいたしますが……、陛下、失礼かと存じますが一つだけ、お約束をお願いしたいのです」
「……なに?」
「アイリーン様の身柄を決してイグナート本国に引き渡さないでいただきたい。それだけが私の望みです」
何か言いかけたアイリーンをアルフリートは手で制し、真直ぐにシンを見て言った。
「これは俺を信用してもらう他は無いけど、約束する。決して彼女を政治の道具に使ったりはしないよ」
「ありがとうございます陛下。無礼な事を申し上げて失礼致しました。私はどう扱われても構いませんから、どうか姫様をお守り下さい」
「シン……」
シンに顔を向け、アイリーンは何か言おうとするのだが、うまく言葉が出て来ない様子だった。それまで黙って見ていたシュバルカが口を開いた。
「お二人共もし陛下が約束を違えるような事があったら、私の屋敷においでになればいい。マリーも待っておりますゆえ。その時にはそれがしから陛下に、きついお仕置きをして差し上げましょう」
「ひどいなぁシュバルカ、約束は破らないよ。…ああ、でもシュバルカの所にしばらく身を寄せるのもいいかもしれないね。あそこなら第二軍の騎士がうじゃうじゃ居るから安全だし、王宮よりは静かで休まるかもしれない」
「うじゃうじゃはおりませんが、お二人がよろしければ是非にでも」
シュバルカに異存はなかった。話がうまくまとまらなくとも、彼は二人を匿うつもりでいたのだから。アイリーンは静かに頭を下げる。
「本当にありがとうございます。わたくしは何処でも…、ただ回りの人に迷惑が掛からぬ場所にしたいとは思っております」
アルフリートは優しく微笑み、言った。
「しばらくはのんびりするといいよ、別に急ぐ話でもないし。護衛の仕事が嫌なら庭師の仕事もあるしね。……ああそうだ、さっきの約束だけど…、いつかは一緒にイグナートに行ってもらう事になると思う」
アイリーンとシンはかすかに身を固くした。アルフリートは続けて言う。
「いずれイグナートと友好条約を結ぶ時には、二人に同席してもらいたいな。無理じいはしないけど」
アイリーンは驚いて問い掛ける。
「陛下はイグナートとも同盟関係を持つお考えでいらっしゃるのですか?」
「うん、できればリグノリアも含めて三国協定を結びたい。イグナートにだって国を憂えている王族や貴族はきっといるだろう。そういう人達とコンタクトを取りたいと思う。イグナートだけじゃなく、グローリンドやプロタリア、シンの国シャンドゥルともそうしたいと思ってるよ」
シンもかなり驚いた様子で、目の前の少年のような王を見つめている。アルフリートは面白そうに言う。
「そんなにびっくりしなくても…。だってこんなちっぽけな大陸でいがみ合ってるなんてバカみたいじゃないか。海の向こうにだって世界は果てしなく続いているのに」
大小合わせて十数カ国がひしめき合う広大なユーロン大陸を『ちっぽけ』とアルフリートは言った。アイリーンは自分とさほど歳の違わないこの若い王が、何故老練なシュバルカや、明晰なユーストら優秀な閣僚達から信頼を勝ち得ているのか、少し分かったような気がした。少年のような雰囲気や、ざっくばらんな物言いに惑わされ、感覚を鈍らせてはいけないと彼女は思った。大陸諸国の国王以上に、この若き王の視線は遥か高みを目指しているようだった。アイリーンは背筋を伸ばし、真剣な顔を真直ぐにアルフリートに向けて言った。
「その時は是非ともお供させて下さい。微力ながら陛下のお手伝いをさせていただきとうございます」
「ありがとう。まだまだ先の話だけどね」
「お二人は何故逃亡先に我が国を選ばれたのですか」
ユーストがさりげなく話題を変える。放っておくと彼のはとこは、これ以上の国家機密をぺらぺらとしゃべり出しそうだったからだ。シンがアイリーンの代わりに答える。
「トランセリアは自分の国とは正反対の位置にありますし、イグナートとは現在国交が無いので追っ手が侵入しにくいだろうと考えました。あまり意味は無かったようですが。それとリグノリアとの戦役の時に…」
アイリーンが彼の台詞を引き継いだ。
「トランセリアの軍はイグナートの捕虜に食料を与えて解放したと聞き及びました。敗者に情けのある懐の深い国だと、私達は印象を持っておりましたので」
この話に当のトランセリアの三人は顔を見合わせる。リグノリア奪還作戦の折、確かに捕虜に水と食料と臨時の通行手形を発行して帰国させたのは事実である。しかしそれは非常に実利的な理由からだった。飢えた兵を無闇に解放すれば、彼等は途中の畑や村を襲うだろう。通行手形を渡したのは堂々と本街道を行かせる為である。トランセリアにもリグノリアにも兵の余裕など無く、やたらとあちこちに散らばられては監視が出来ないからだ。少ない兵力で手早く敗残兵の危険を取り除く為の、それはいわば苦肉の策だった。無抵抗の数千に及ぶ捕虜を殺害させるという後味の悪い仕事を、兵にさせたくも無かった。
ユーストはそんな内情をおくびにも出さず、にこやかに微笑む。
「お褒めの言葉ありがたく承ります。これもアルフリート陛下の治世の賜物と存じます」
すげぇ嫌味だなぁと思いつつ、アルフリートは立ち上がった。
「お腹減ったなぁ、夕食にしようか。……あ、シルヴァと約束してたんだっけ。一緒にどう?お二人さん」
「よ…よろしいのでしょうか?ユースト様」
アイリーンは言い出した本人で無く、ユーストに訊ねた。型破りな国王より、冷静な宰相に聞いた方が王宮のしきたりを破らずに済むと思ったからだ。
「御遠慮なくどうぞ。行儀の悪い国王と軍務長官ですがお気になさらずに。陛下、お二人はまだお身体が完全ではないのですから、あまり遅くまで引き止めてはいけませんよ」
ユーストに続き、シュバルカも国王にクギを刺す。
「私は先に屋敷に戻ってお二人を迎える準備をしておきましょう。陛下、仮にお二人が陛下の護衛の職についたとしても、宮廷騎士団の衛兵が減る訳ではございませんぞ、昼間言った事をお忘れなきよう」
二人のお説教じみた発言をはいはいとやり過ごし、アルフリートはすたすたと歩き出す。ユーストとシュバルカに礼を返し、アイリーンはシンに手を取られ、慌ててその後を追った。
王宮の廊下を歩きながら、アイリーンは様々な事を感じ取っていた。音の反響から、廊下そのものはさほど広くないようだ。シンが注意を促さない所を見ると、飾りや置き物の類いも少ないのだろう。あちらこちらに人の気配がする。男性も女性も居るようで、ほとんどの人が活発に動き回っている。堅苦しい王宮の雰囲気は無く、新興国らしい活気溢れる気配がどこからも感じられた。
アルフリートが自分のプライベートな居室へと入って行く。食欲をそそるおいしそうな料理の匂いが漂って来る。食堂に入ると溌溂とした若い女性の声が掛かった。トランセリア全軍を束ねる、軍務長官シルヴァ元帥が副官と共に待っていた。
「ちょっと遅いわよアルフ、お腹減っちゃった。セリカも連れて来ちゃった、いいでしょ?」
シルヴァの女性副官セリカが、短い栗色の髪をした頭を下げる。
「お邪魔します陛下。今日は是非同席をお許し下さい」
アルフリートは笑って答える。
「みんな耳が早いなぁ、はいはい喜んで。あれ、ちゃんと五人分あるんだ」
「きっとお二人を夕食に招待するだろうからって、ディアナが知らせてくれたらしいわよ」
甲冑を脱いだだけの軍装のままのシルヴァはそう言って立ち上がり、セリカと共にアイリーンの前に立った。
「初めましてアイリーン様。軍務長官のシルヴァ・バーンスタインです。こちらは副官のセリカ・トレディア。ようこそトランセリアへ」
「お初にお目に掛かります。アイリーン・クレメントと申します。夫のシン=ロウです。陛下には大変お世話になって、感謝の言葉もございません」
シルヴァはこの二人の噂を聞いてからというもの、成り行きに興味津々だった。ひとつは十数人の山賊を屠ったという二人の腕前に、もうひとつは駆け落ちやら身分違いの恋やらといった、若い女性の憧れるロマンスにだった。無傷とは言えなかったが二人を王宮の保護下に置けた事で気が弛んだのか、シルヴァはその姿形を見て(あら、なんだかルックスもドラマチックな感じ)などと不謹慎な事を思っていた。
アイリーンは不思議な思いでシルヴァの持つ空気を受け止めていた。若い女性の持つ生気溢れる華やかな雰囲気と、シュバルカからも感じられた古参兵の凄みといったものが同居している。そんな人物とは生まれて初めて対峙した。年齢を推測する事の出来なかった彼女は思わずシルヴァに尋ねる。
「失礼かと存じますがシルヴァ様はおいくつでいらっしゃいますか」
「わたしは二十三歳です。アイリーン様は確か十……」
「わたくしは十八になりました」
二人はお互いにびっくりしていた。シルヴァの持つ凄みはとてもその年齢に合うものとは思えなかったし、アイリーンは伏せられた瞳と落ち着いた優雅な仕種が大人の色香を醸し出し、十代には見えなかった。
「十八………、そうでしたね。……なんだか…妙に色っぽいわ」
つい口に出してしまったシルヴァの呟きが耳に届いたのだろう、アイリーンはかすかに頬を染める。その表情もまた艶やかだった。
給仕が料理を運び、賑やかな晩餐が始まる。並べられた料理は贅を尽くした物などでは無く、どちらかといえば家庭料理に近い物だったが、暖かく量も豊富で、アイリーンは素直に美味しいと感じた。特にシンは大変に喜び、侍従におかわりを奨められ、赤面しながらも断らなかった。
トランセリア側の三人は、行儀が悪いと思いつつ、ついアイリーンを見つめてしまう。皿の位置を確かめ、シンに料理の説明を受けただけで、戸惑う事なく食事をする彼女は、知らぬ人なら盲目だとは気付かないだろう。子供の頃から一緒に居るシンのサポートがあるとはいえ、彼女の持つ鋭敏な感覚は常人を遥かに凌駕していた。
アルフリートもシルヴァも良く食べ、そして話した。ユーストは『行儀が悪くて…』とは言ったが、アイリーンは久しぶりの大勢での食事を心から楽しんでいた。ひょっとするとこんな風に歳の近い人達と皆で食卓を囲むなど、彼女の生涯で初めての事だったかもしれない。帰り際に彼女は言った。
「陛下、それにシルヴァ様もセリカ様も、今日は本当にありがとうございました。わたくしはこんなに楽しい夕食はきっと生まれて初めてだと思います。機会がありましたらまた是非ご一緒させて下さい」
シルヴァがにこやかに答える。
「こちらからもお願いします。今度は男抜きでお話しましょうね」
二人はくすくすと笑い合う。シンは子供を失ってふさぎ込んでいたアイリーンに、再び笑顔が戻った事に安堵していた。
屋敷に着いた二人をシュバルカとマリーが出迎える。馬車の中に戻されていた自分達の武器を、シンはシュバルカに預かってもらおうとした。シュバルカは大切な客人を疑う事になると頑としてそれを受け取らず、鉄棍と杖は二人の手に戻って来た。アイリーンに杖が戻って来た事は正直ありがたかった。
清潔な夜着、柔らかなベッド、広いバスルームと熱い湯。行き届いたシュバルカ邸のもてなしに二人は感激する。離宮に追いやられていたとはいえ、王族の贅沢な暮らししか知らないアイリーンは、この半月あまりの逃避行で時々しか湯を使えないのが一番辛かったようだ。彼女はマリーに礼を言うと共に、呟くように本音を漏らした。
「……愛する人に抱き締めてもらっているのに、自分の身体が不潔だという事が、とても悲しく思えました」
その言葉にマリーは大いに共感していた。もっとも肝心のシンの方は「姫様はいつでもいい匂いがします」と言って照れていた。
その夜、屋敷が眠りに就いた深夜、ちょっとした事件が起こった。イグナートの追っ手の残党が、シュバルカ邸に忍び込もうとしたのだった。当然屋敷の周囲はいつもより厳重に警備が固められており、数倍の騎士達に囲まれた賊はあっさりと取り押さえられた。騒ぎに気付いたシンとアイリーンは、指揮を執るシュバルカの元に駆け付ける。事態を知ったアイリーンは蒼白となり、世話になった人達や、まして身重のマリーに何かあったら死んでも詫びきれないと、シュバルカに幾度も謝罪した。実際の所予想していた事でもあるし、怪我人もほとんどおらず、シュバルカにしてみれば残りを一気に片付けられてかえって楽だったのだが。取り乱すアイリーンを皆でなだめ、眠りに就かせたのは夜も明ける頃だった。
イグナートの追っ手はアイリーンを連れ戻すまで国に戻る事も叶わず、わずかに残った人数で一か八かの賭けに出たのだった。本来国王に斬り付けるなど死罪も免れない所なのだが、被害も少なく、外交絡みとあってシュバルカはアルフリートに裁定を委ねた。
抜け目のないアルフリートは外務長官ヴィンセントと策を講じ、彼等を外交カードとして使う。イグナート国王への親書を作成し、彼等を使者として国元へ帰らせた。トランセリア国王暗殺未遂事件(そんな物ありはしないのだが)を起こした彼等を無罪放免とする代わりに、アルフリートの賓客となったアイリーンとシンには手出し無用と通告したのだ。親書には離宮の老人達やシンの養父、クムに対する擁護もやんわりと記載され、同様の物をリグノリアの王女クレアとプロタリア皇帝にも提出した事を書き添えた。親書を読んだイグナート国王が怒り狂って使者をどう扱うかなど、アルフリートの知った事では無かった。
結局、アイリーンとシンは数日後に王宮の一角に移り住む事になる。シュバルカやシルヴァらと相談し、私邸より遥かに警備が厳重で、宮廷騎士団の猛者がごろごろ居る王宮に、忍び込もうとする莫迦はいないだろうという結論となった。何よりもアイリーンはマリーに危険が及ぶ事を怖れた。例え自分の身で無くとも、授かった子供を失うなどもう彼女には耐えられなかったのだ。当のマリーはひたすら残念がっていたのだが。