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青の時代 3  作者: 森 鉛
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第四章 盲目の姫君 第三話

 月番の将軍である第二軍司令官シュバルカは、国境警備隊からの報告書を読み終えると、薄くなった頭髪をこりこりと掻き、随分と複雑そうな顔をしていた。若い副官らは親父がこんな表情をするのは珍しい事だといぶかしんだ。シュバルカは正義感が強く、竹を割ったような性格で、物事に対してきっちりと白か黒かを決める所があった。時に感情丸出しで兵士達に語り掛け、下級職から准将クラスまで分け隔てなく接した。

 同僚のディクスンのように寡黙で緻密でもなく、メレディスのように洒落者で飄々とした所もない彼は、どちらかといえば田舎者の土臭い人間であった。それ故にその人間味溢れる人柄が兵士の人望を集めていた。

 同格の二人の将軍がまだ四十を越えたばかりであるのに対し、彼は五十も半ばになろうとしており、筆頭将軍としてディクスンもメレディスも何かとシュバルカを立ててくれる。軍務長官シルヴァ元帥の実父である、亡きバーンスタイン将軍が夭逝してもう六年になる。数少ない彼と同世代の軍人達はほとんどが現役を退き、後進の指導にあたっていた。部下から『親父』と呼ばれて何年になるだろう。いつの間にか、トランセリア軍で『親父』と言えばシュバルカの事を指すようになっていた。


 報告書はシンとアイリーンの件についての物だった。『地獄耳の宰相』ユーストの情報網によって、二人の足取りはほぼ正確に掴めており、トランセリアの閣僚は(特に女性陣は)駆け落ちしたイグナートの王女を保護する方向で意見を固めていた。

「かといって別に指名手配ってわけじゃないから、とにかく目立たないように、ひっそりと何気なくそれとなく気を付けていて」

 国王アルフリートはそうシュバルカに告げた。閣議を考えれば、将軍はその報告書を御前会議に上げなければならない。しかし個人的にはそっとしておいてやりたいと考えていた。いくら偶然を装おうが、王宮が手を出せば国家間の問題にならざるを得ない。報告書には賊に襲われ、一命は取り留めたものの子供を流産したとある。妊娠中の、それも盲目の王女が国を捨てて逃亡するなど相当の覚悟があるのだろうし、報告書を作成した国境警備隊の隊長も随分と二人に好意的のように見受けられる。シュバルカは二人に対して同情の念を禁じ得ず、もっと穏やかなやり様で助けてやる手段は無い物かと悩んでいた。


 実の所彼にはシンとアイリーンに気持ちが傾く理由があった。シュバルカは半年程前に再婚していた。新妻のマリーは彼より二回り以上歳下の二十歳であり、産み月を間近に控えていた。毎朝大きなお腹を抱えて彼を送り出す妻の顔を思い出し、シュバルカは他人事とは思えなくなっていたのである。



          ◆



 シュバルカは早くに妻に先立たれ、男手一つで二人の子供を育て上げた。二人とも既に成人し、娘は嫁いで一子をもうけ、息子は地方の学校で教鞭を取っている。一人息子は父と同じ軍人にならなかった事を詫びたが、シュバルカは俺にはまだ三万も息子がいるから気にするなと、心良く彼を教職へと就かせた。

 広い屋敷に使用人達と暮らす日々は淋しかったのか、シュバルカは勤め始めたばかりの歳若い侍女のマリーを、実の娘のように可愛がった。身寄りの無いマリーも、見知らぬ土地で優しく接してくれる屋敷の主人を慕い、時には二人で仲良く街に買物に出る事さえあった。

 二人には共通の趣味があった。シュバルカは頑健でいかついその外観からは想像もつかぬ甘党で、加えて下戸であった。マリーは菓子を作るのが大変上手で、シュバルカにも何度か手作りのケーキやクッキーを振る舞ってくれた。騎士として日頃から鍛練や節制に気を使うシュバルカを思い、砂糖を控えたり、油を使わなかったりと、様々な工夫をして彼を喜ばせた。

 マリーは自分が親子以上に年齢の離れたシュバルカに惹かれていく事に、戸惑いを感じていた。親しくなればなる程、彼が外見から受ける印象と違い、細やかで優しい心を持った男であるという事が分かり、想いが募っていった。しかし歳の差以上に彼女は自分が使用人である事を意識した。いくら優しくされても、主人と侍女の関係を踏み越えてはいけないと自分に言い聞かせた。それでも夜になると、狭いベッドの中で人知れず涙を流す事もあった。

 シュバルカは堅物で真面目な男であったが鈍くは無かった。自分を見つめるマリーの瞳が熱を帯びた物であったり、ふと手が触れた時に頬を染める仕種などから、彼女の気持ちに薄々気付いていた。だからといって自分の娘よりも歳若い女性にどうこうする気持ちは無く、今さら妻を娶る気も無かった。かといってこのまま放っておくのは、マリーに対して誠実で無いのではないだろうかと考えたシュバルカは、思い余ってとある人物に相談を持ち掛ける。閣僚中最年長で、全軍でもほとんどが目下の者になる彼が相談できる人間といえば、シュバルカには一人しか思い付かなかった。


 王立工匠にその人物を訪ねたシュバルカは、現れた男の出で立ちを見て一瞬ぎょっとする。溶鉱炉の熱で真っ赤に灼けた肌に、焼け焦げで穴だらけの作業服を身に着け、白髪頭には奇妙な形のゴーグル、片手に巨大なハンマーを持って彼はシュバルカの前に立った。トランセリア王国第二代の国王、現職は王立工匠顧問、アルフリートの祖父にあたる、アーロン・リーベンバーグその人だった。

 アーロンは齢六十を越えている筈だったが、筋骨逞しく、背筋も真直ぐに伸びていた。重そうなハンマーを軽々と扱い、どかりと椅子に腰を下ろすと、ぽんぽんと服のほこりをはたきながら挨拶をした。

「久しいなシュバルカ、…いや、将軍と呼ぶべきかな」

「御無沙汰致しております陛下。昔のようにシュバルカとお呼び下さい」

「わしを陛下と呼ぶ者なぞもうおぬしぐらいしか居らんよ」

 アーロンは楽しそうに笑い、自らコーヒーを入れてシュバルカに差し出した。恐縮するシュバルカを余所に、自らも行儀悪く音を立ててコーヒーをすすった。


 アーロンが国王だった時代、若きシュバルカは宮廷騎士団の副官や大隊長、国王直属の衛兵などの任務に就いていた。アーロンは徹底した現場主義で、何か事がある度に率先して現地に駆け付け、直接指揮を執った。シュバルカら当時の幕僚達はその都度国王の護衛に同行し、時には並んで作業を手伝い、狭い宿に王と雑魚寝をする事すらあった。

 戦の折に先陣を切って突撃する国王など、当時でも既に時代を逆行したような所行だったが、それゆえ兵士や国民の人気は圧倒的な物であった。スタイルは違えどその気骨は彼の息子やアルフリートにも受け継がれ、現国王の型破りな行動を、往時を知る年寄り達はアーロン陛下そっくりだと懐かしんだ。

 国王を退位し、工匠の顧問となった今でもお目付役などに収まっている性格ではなく、工学校を卒業したばかりの若い技術者達と日々現場に立ち、炉をのぞき、ハンマーを振るう。必要とあらば鉱山まで出掛けて機械の発明や改良に余念が無かった。リグノリアの金鉱脈に派遣された鉱山技術者達と、最後まで同行すると言って聞かず、アルフリートの説得でなんとか断念したが、まだ完全に諦めてはいないようだった。


 シュバルカはおずおずと相談事を切り出した。話を聞いたアーロンはぽかんと口を開け、呆れたように言い放った。

「おぬしもう孫もおるのではなかったのか?若いのう…。髪はそんなに薄くなってしまっとるのに」

「髪はまぁこんなですが…、自分の回りには相談できる年長者がもうおらんのです。そこで思い付いたのが陛下でして…。つまらぬ話を持ち込んでしまって申し訳なく思うのですが…」

「わしなどよりアルフあたりの方が余程的確なアドバイスをくれると思うがな…。国王としてどうだあいつは?しょっちゅうここに現れては、なんだか勝手な事をくっちゃべって帰って行くが」

 その話はシュバルカにとって初耳だった。

「しょっちゅう…ですか?お一人で?」

「そういえば供のような者は見掛けんかったな、まぁあいつはアンディと違って腕も立つし…大丈夫じゃろう」

 けろりと言い放つアーロン。アンディとはアルフリートの父親の先代国王、アンドリュー・リーベンバーグの事である。シュバルカはそれを聞くと慌てて立ち上がり、当初の目的を忘れて帰ろうとする。

「へ…陛下。失礼ですが急いで戻らねば」

「なんじゃ、もう帰るのか…。つまらんのう、酒でも飲んでいけばいいのに…おっとおぬし下戸じゃったな」

 礼をするシュバルカにアーロンが言う。

「ふーん…甘党が取り持つ縁というのも面白いかもしれんのぉ……。よし、結婚しろ!わしが仲人をしてやる!今からその足で指輪を買いに行け!ばあさんにそう言っとくからの」

 愉快そうにげらげらと笑うアーロンに、シュバルカは仏頂面で呟いた。

「陛下……面白がっているだけではないのですか…?」


 数日後に工匠に現れたアルフリートには、きっちりと宮廷騎士団の護衛がついていた。アーロンに向かって彼はぶつくさと言った。

「じいちゃんがシュバルカに言うもんだから、なかなか身軽に動けなくなっちまったじゃねぇかよぉ」

「わしは知らんぞ。だいたいお前口止めしなかったじゃろう、甘い甘い。王様なんじゃから文句言うな」

「………」


 アルフリートの警護を固め、問題を解決したシュバルカは、その後のひと月を悩みに悩み、ついに長年の独身暮らしにピリオドを打つ決意を固める。マリーを美味しいと評判のケーキ屋に誘い、指輪と共にプロポーズをしたシュバルカは、翌日アーロンの元を訪れた。彼の隣には栗色の髪を三つ編みにまとめた小柄な少女が微笑んで立っていた。アーロンは自分の冗談を真に受けて結婚を決めたシュバルカの仲人を、本当に引き受けなければならなくなったのである。



          ◆



 シンとアイリーンの境遇に、自分の妻を重ね合わせて見てしまったシュバルカは、公私混同と知りつつも二人に手を貸してやりたいと漠然と思い始めていた。どちらかといえば彼は情にもろい人間であった。

 国王に報告する前に顔を見ておこうと、シュバルカは部下に二人の調査を依頼した。事情を知らぬ若いその騎士は、何故将軍が旅の夫婦などを気にするのか不思議に思ったが、ひょっとして何か重大な秘密を持った人物なのかと思い直し、熱心に仕事をこなした。結果として彼の予想は当たっていたのではあるが、シュバルカの思惑とはいくぶんズレが生じていた。


 馬車でセリアノートに到着したシンとアイリーンは、警備隊の薦める評判の良い宿屋まで送ってもらっていた。国境警備隊の若い隊長は、おおまかな事情を知るといたく二人に同情し、自ら紹介状を書いて手渡してくれた。この辺りも公私混同といえるのだが、盲目の妻を血まみれになって守ったシンと、子供まで流産してしまったアイリーンが、災難に遭った駆け落ち中の夫婦以外には考えられなかったのだ。

 事情を聞いた宿屋の主人は軍の紹介ということもあり、親身になって二人の世話をし、アイリーンの為に医者を呼んでくれた。

 この事件で一つだけ二人の得になった事があった。シンとアイリーンは通行手形を持っていなかったのだ。今迄に二人は本国から出た事など無く、仮にも王族であったアイリーンは元々手形など必要とはしなかった。シンは国境でひと悶着あるだろうと覚悟を決めていた。袖の下を使うか、いざとなればアイリーンの身分を明かすより他は無いだろうと考えていた。

 結局二人は一度も手形の提示を求められる事無く、こうして首都の宿屋に落ち着いている。今からなら、山賊に襲撃を受けた時に荷物ごと失ったという言い訳が出来る。二人の持ち物が元々少なかった事など誰も知りはしないのだから。

 シンはトランセリアの人々が皆親切な事に驚いていた。アイリーンがイグナートの王族であるということは誰にも言わなかったが、身分違いの二人が無理強いされた結婚から逃れる為に国を捨て、駆け落ちしてきたという話に、誰も彼もが同情し、救いの手を差し伸べてくれた。シンは自分達の手助けをしてくれた人々の顔を一人ひとり思い浮かべ、彼の信ずる神に祈りを捧げた。詰る所、トランセリアはまだまだ田舎であるという事だったのだが。


 当初の目的であったトランセリアの首都に到着し、安全な宿を得た二人はようやく緊張から解放され、ぐっすりと眠る事が出来た、シンの怪我はみるみる回復し、アイリーンの体調も随分と良くなった。それでもアイリーンは子供を失ったショックからなかなか立ち直る事が出来ず、時折シンの胸に顔をうずめては泣き、何度も彼に謝った。シンはそんな彼女を元気づけようと、市街に出ては美味しそうな菓子や、セリア地方独特の衣装などをアイリーンの為に買い求めた。シンの心遣いにアイリーンにも次第に笑顔が戻り、彼はほっと胸を撫で下ろした。


 シンは仕事を見つけようと思っていた。庭師の仕事を探し、どこかに家を借りてアイリーンと暮らそうと考えていた。トランセリアの人々の素朴さも、シンは好ましく思っていた。

 宿の主人にどこか仕事の斡旋をしてくれる場所は無いか訊ねようと、シンは階下に降りて行く。主人は訪れた男になにやらぺこぺこと頭を下げ、愛想良く応対している最中だった。大柄な初老のその男はシンの姿を見つけると近寄り、声を掛けてきた。シンは一瞬身構えるが、その男が大きなお腹を抱えた若い女性を連れている事に気付き、警戒を弛めた。男はこう名乗った。

「シン=ロウ殿ですな。初めてお目に掛かる、自分はトランセリア第二軍司令官を拝命しているシュバルカと申す者。これは妻のマリーと申します。本日は勤務中ではないので軍装はしておりませんが」

 傍らの小柄な女性がぴょこんと頭を下げ、にっこりと微笑んだ。シンは答える。

「…シュバルカ将軍。お名前は存じ上げていますが、いったいどのようなご用向きで…」

 たとえ平服であっても、目の前の男が軍人として相当の技量を持ち合わせている事はシンにも分かった。服の上からでもわかる胸板の厚み、丸太のような太い腕、落ち着き払った凄みのある眼差し。隣に並んだマリーが小さな子供のように見える。シンも腕力には自信があったが、彼にはかないそうもないと感じた。シュバルカは声を抑えて言った。

「アルフリート陛下の密命で参った。アイリーン様にお目通りを願いたい」

「アル……!」

 声を上げそうになるのをかろうじて抑え、シンは目を白黒させ、返事につまった。

「見ての通り武器は持っておらん。妻は産み月が近い。これでも信用ならぬか」

 目を覗き込むように小声で言うシュバルカに、シンは覚悟を決め答える。

「……ご案内します。どうぞ」

 シンを先頭に三人は階段を昇る。階下にいた主人や宿の客が興味深そうに下から見上げる中、シュバルカはマリーの背中を後ろから優しく支え、踏み板をきしませ、ゆっくりと昇って行く。

 部屋の前でシンはマリーにちらりと目をやり、わずかに躊躇した。彼女はシンの気持ちを察し、自分から告げた。

「アイリーン様がお気になさるようでしたら、わたしは下で待っていましょうか?」

 シンは小さく首を振り、ドアを開く。マリーを伴った事に、何がしかシュバルカの意志があるように思われたからだ。シンは部屋の中に声を掛け、二人を招き入れた。アイリーンは部屋の中央に立って待っていた。

「お初にお目もじいたしますシュバルカ将軍。アイリーン・クレメントと申します。下から声が聞こえたものですから、こうしてお待ちしておりました」

 アイリーンはイグナートの王族の姓を名乗らなかった。クレメントは彼女の母親の旧姓である。アイリーンは国を出た時から、自分はもう王族ではないと決意していた。

「!……お、驚きましたな…」

 シュバルカは面喰らった。確かに自分は声が大きいが、二階に聞こえる程大きな声で話してはいない筈だった。彼は気を取り直すと床に膝を付き、王族に対する正式な挨拶をした。

「失礼を致しました。トランセリア第二軍司令官を拝命つかまつる、ローレンス・シュバルカと申します。王女殿下にはお初にお目に掛かりまする。こちらは妻のマリーと申します。同席の無礼をお許し願いたく存じあげます」

 さすがにマリーは膝を付く事が出来ず、丁寧にゆっくりと頭を下げた。アイリーンは微笑んで答えた。

「将軍、それにマリーさん。ご丁寧な挨拶かたじけなく思いますが、ここは宮廷ではありませんし、わたくしは国を捨てた身、もう王女などではありません。どうか頭をお上げ下さい。……シン、お二人に椅子を差し上げて」

 二脚しかない椅子をシュバルカとマリーにすすめ、シンはアイリーンをベッドに腰掛けさせると自分はその傍に立った。

「お身体の具合はいかがですか、アイリーン様」

 そう問い掛けるシュバルカに、アイリーンは真直ぐに顔を向けて答える

「お心遣いありがとうございます、二人とももう大分回復致しました」

 シュバルカは盲目のアイリーンが正確に自分の方を向いて話す事や、先程の声の件に驚きを隠せず、我慢出来ずに質問をぶつけた。

「失礼ですがアイリーン様は何故私が訪ねて来た事がお判りになったのですか?それに頭を下げている事も…」

 アイリーンはかすかに笑顔を浮かべ、答える。

「わたくしは人より少しだけ耳が良いようなのです。ですから近くに居る人ならば、声のする方向や位置で、どんな格好をしているか大体分かります。声質で年齢や体格もおおよそ推測できます。将軍はとてもご立派な体格をしていらっしゃいます。奥様は随分とお若い方なのですね。……ひょっとしてお腹にお子様がいらっしゃいますか?」

 マリーはシュバルカと顔を見合わせ、返事に戸惑った。将軍は小さく妻に頷いた。マリーがはきはきと答える。

「はい、良くお判りで。来月が産み月になります」

 シュバルカが続ける。

「アイリーン様の事情は存じておりますが…、今日伺ったのはあくまでもプライベートな用件なのです。トランセリアの国としての使いでは無く、陛下の個人的なメッセージを伝える為に参りました。もしお気に触ったのでしたら申し訳なく思います」

 アイリーンは左右に首を振り、こう言った。

「いいえ、お気遣い痛み入ります。……マリーさん、よければお腹に触らせてもらえないでしょうか」

「はい、喜んで」

 マリーは椅子から立ち上がり、アイリーンの前に立った。大きく膨らんだ腹にそっと手が添えられ、やがてアイリーンは頬を寄せる。どことなくヒヤヒヤして見ている男二人を余所に、女同士の会話が進む。

「……小さな心臓の音が聞こえる。…あ、動いているわ、とても元気みたい。……マリーさん、わたしもいつかこんな風に、お腹に子供を宿す事が出来るのかしら…」

 アイリーンの瞳がかすかに潤む。マリーは明るく答えた。

「きっと出来ます。わたしの旦那様はもう五十歳を過ぎてるんですけど、こうしてちゃんと赤ちゃんを授かる事が出来ました。お二人はまだとてもお若いんですもの、これから五人でも十人でも大丈夫です!」

 アイリーンは顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。シュバルカは顔を赤くし、一つ咳払いをすると話を切り出した。

「あー…アイリーン様。アルフリート陛下に会ってはいただけないでしょうか。陛下はお二人の事を気に掛けておられるようでした。宮廷に上るのがお嫌なら、場所はどこでも構わないとおっしゃられています」

 シンの手がアイリーンの肩に触れる。その手にそっと白い手を重ね、二人は長い間じっと黙りこくっていた。



 シュバルカが二人の宿を訪れる前日、御前会議を終えたアルフリートは自らの執務室に彼を呼び、こう切り出した。

「シュバルカ、例の二人来たよね」

 シュバルカは宰相ユーストの情報網を甘く見ていた。大陸中の最新情報を二日と開けずに入手する男が、国内の、ましてや首都の人の出入りを見逃す筈は無かったのだ。御前会議に報告書を上げなかったシュバルカは、幾分ばつの悪い思いをしながら国王に懇願した。

「はい、おっしゃる通りですが…陛下、この件はそれがしに任せては頂けまいか」

 アルフリートの横に立つ宰相ユーストが諭すように静かに口を開く。

「シュバルカ殿、お気持ちはお察し致しますが、まずは陛下に御報告するべきかと」

 シュバルカはユーストにも強い口調で訴える。

「宰相殿、報告が遅れたのは申し訳なく思っております。しかしあの二人を政治に…国同士の争いに巻き込む事は、どうかお考え直しくださらんか」

 シュバルカはここ数日で国王が方針を幾分変更していた事に不満を感じているようだ。少々興奮気味の将軍を苦笑して見ていたアルフリートが、椅子から立ち上がって言った。

「まぁまぁシュバルカ、俺だってそんなこと考えて無いから。とりあえず座ってよ。コーヒー飲む?それとも紅茶?」

 シュバルカを豪華なソファーに座らせると、相変わらずのくだけた口調で飲み物をすすめるアルフリート。ユーストの副官のエレノアが、美しく波打つ金髪を揺らして紅茶とコーヒーのカップを運んだ。

「良い葉が手に入りましたので、御賞味下さい」

 澄まし顔でそう言い、紅茶のカップを口に運ぶユーストをちらりと横目で眺め、シュバルカも紅茶を一口味わう。確かにそれは大変な美味であった。感心した彼は素直にその味を褒め、ユーストに銘柄を尋ねたりしている。シュバルカは紅茶党らしい、ケーキに合うのだろう。

 アルフリートは彼の祖父にそっくりの仕種でコーヒーを行儀悪くすすり、話を再開させた。彼自身も当初はアイリーンを王宮に迎え入れるのでは無く、信頼の置ける人物に預けるか、市内に家を用意し、騎士団の目の届く所に住まわせるかどちらかの考えを持っていた。しかし二人の情報が集まるにつれ、とてもでは無いがひっそりと暮らせる事の出来る容姿では無いと分かって来た。アイリーンは一目で高貴な家柄の人物であると知れる典雅な美貌の持ち主だというし、さらには盲目である。従者のシンは西国の目立つ顔立ちに加え、大変な長身であるとの事だった。静かに暮らすどころか、町中の噂の的になってしまうだろう事は容易に想像出来る。子供を流産したばかりの彼女の体調も気になる点だった。

 女性閣僚達の積極的な後押しも影響したのか、アルフリートは彼個人の客として二人を招き入れる事を決めた。第一報から十日近くが経っており、日毎に集まって来るアイリーンとシンの情報を目にして、アルフリートにも二人への興味が沸いて来たようだ。それは王宮の女性達の様に、身分違いの恋や駆け落ちといったロマンチックな事柄に対してでは無く、彼等二人の個性に向けられていた。

「盲目の王女の剣士と、西国出身の棒術使いの従者の夫婦なんて面白過ぎるよ、早く会ってみたいなぁ」と、ユーストに告げては「いいから仕事しろ」と怒られているアルフリート。とにかく毛色の変わった人材の好きな様子は、父王アンドリューにも見られた性格であり、どうやらリーベンバーグの血筋の様な物であるらしい。

 国王の説明に納得したシュバルカは二人を警戒させない為に妻を伴い、アルフリートの使者としてシンとアイリーンの元を訪れたのだった。



 宿屋の狭い階段を、マリーの手を引くシュバルカがゆっくりと下りて来る。シンとアイリーンも二人を見送る為にその後に続く。結局二人はシュバルカに話し合う時間をくれと言い、結論を先送りにした。アルフリートに会う事を強く拒む訳では無いが、できれば市井で静かに暮らしたいというのが二人の希望だった。その考えにはシュバルカも共感し、今日の所は暇をする事にした。

 マリーを宿に待たせ、馬車を呼びに行こうと通りに出たシュバルカは、道を隔てて向い側に店を開く串焼の屋台を見て仰天する。アルフリートが両手に串を握って立ち食いをしていたのだった。彼はシュバルカに気付くと口をもぐもぐさせながら言った。

「あ、ごめんシュバルカ。来ちゃった」

「へ!……いか…」

 絶句するシュバルカに食べ終わる迄待っていてくれとアルフリートは言い、あわてて残りを頬張っていた。


 トランセリアの王族は、国王とその妻以外は国の行事に参加しない。十八歳で王位に就いたアルフリートももちろん例外では無く、彼はその年齢迄まったく国民に顔を知られていなかった。少年時代はごく普通に学校に通い、友達と山や川で遊び、下町で買い食いや追いかけっこをしては大人に叱られる、言ってみればどこにでもいる子供の一人だった。

 二十歳となり、国王として顔を知られた今でも、こうしてふらりと下町に現れ、屋台で立ち食いをしたり、通りの店を冷やかしたりする事がよくあった。事情を知る店の主人やおかみさんは知らん振りで応対し、アルフリートは顔馴染みの店でおまけしてもらったりする事もあった。

 特に彼は肉だんごの串焼が大好物で(これはビールに合うと評判だった。アルフリートもこの後の用事がなければ一杯やっていたかもしれない)甘辛いたれと塩胡椒の二種類の味付けを一本ずつ両手に持って、通りの隅で立ち食いをしていた。平服の彼はそうと知らぬ人なら、いやアルフリートを見知っているセリアノートの市民達にさえ、とても一国を治める国王陛下には見えなかった。彼自身も良くその事を自覚しており、自分の見た目を逆手に取って、先程から何やら宿屋に向けて怪しい視線を向ける二人連れの会話に、こっそりと聞き耳を立てていた。

(……やれやれ、イグナートの間諜だろうけど…バレバレだなぁ。俺が見てもそうなんだからユーストなら零点間違い無しだ)

 旅の商人らしき風体をした二人連れは見るからに怪しい行動を取っていた。通りの店を覗くでも無く、宿を探しているふうでも無く、じっと佇んで何やらひそひそと話をする。言葉にもトランセリアでは無い訛りがあり、腰には剣を吊っている。大通りを行き交う人々も胡散臭げな視線を送っていた。

 その二人以外にも、あちこちの辻に見慣れぬ男達が潜んでいるのをアルフリートは確認していた。間諜らしき人間が入国したとのユーストの警告もあり、アルフリートは特に驚く事も無く、肉団子を口に運びながら考えていた。

(十…数人かな?二十はいないだろう。結構出してきたなぁ……さてどうしようかな)

 気配に振り向くとシュバルカが宿から出て来る所だった。口をあんぐりとあけてアルフリートを指差す将軍に手で合図をし、急いで残りを口に詰め込むと、アルフリートはこちらを見ていたイグナートの二人連れにすたすたと近付く。

「スパイ失格。零点だよお二人さん」

 からかうような口調で話し掛けると、気色ばった男達は剣に手を掛け、アルフリートに詰め寄る。

「なっ!…小僧!何奴っ!」

 襟首を掴もうと伸びてきた男の手を、素早いフットワークでかわしたアルフリートは、向いの辻に固まっていた三人にも軽口を投げ掛ける。

「国王派?王弟派?あんたたちはどっち?」

 仰天する三人組。あちこちに潜んでいた者達も飛び出してくる。騒ぎに気付いたシュバルカがアルフリートに向かって走り寄る。

「陛下っ!」

 既に始めの二人は剣を抜き放ち、次の三人もアルフリートに迫る。悲鳴が飛び交い、大通りは一気に騒然となった。アルフリートは素晴らしい加速を見せ、一人を足払いで、もう一人を背後から突き飛ばし、通りを走り抜ける。追って来る男達の前でステップを踏み、店の壁に足を掛け、ふわりとジャンプして背後に回る。逃げるついでに後ろから蹴りを入れるとシュバルカに声を掛けた。

「後はよろしく」

 宿屋に向かう途中で露店にあった天秤棒を借りると、騒ぎを見ていたシンに手渡し、言った。

「悪いけどちょっと入口を固めといてくれる?ご婦人方がいるからね」

 シンは面喰らって一瞬絶句するが、シュバルカを気にして訊ねてくる。

「え?…あの、将軍をお助けした方がいいのでは…」

 アルフリートはひらひらと手を振ると、笑って答える。

「シュバルカがあんなのにどうかされる訳ないよ、百人来たって負けやしないさ」

 彼の言う通り、大通りではシュバルカが獅子奮迅の活躍を見せていた。丸腰であるにも拘らず、剣を構える男達を軽々と投げ飛ばし、次々に敵を倒していく。一人倒すごとに遠巻きに見物している人々から歓声が上がり、将軍を応援する声が掛かる。四十年の軍歴を持つシュバルカの顔を知らぬセリアノート市民など、一人もいなかった。

「陛下っ!……ご、ご無沙汰致しておりますっ!」

 宿屋ではマリーが驚いてアルフリートに挨拶をしていた。

「ああ立たなくっていいよマリー。お腹大きくなったね。……こちらがアイリーン様…ですね」

「まぁ…、アルフリート…陛下でいらっしゃいますので?……お初にお目に掛かります。アイリーン・クレメントと申します」

 アイリーンは戸惑いながらも優雅な仕種で挨拶をする。アルフリートはにっこりと微笑み、挨拶を返す。

「トランセリア国王、アルフリート・リーベンバーグです。申し訳ありません、もう少しちゃんとした段取りをするつもりだったんですけど、どうもあまりのんびりもしてられないみたいで…」

「ひょっとして……表の騒ぎは…」

「ええ、お国からの追っ手のようですね。この宿を囲んでいたもので、ついちょっかいを…おっと」

 宿の入口に近付いて来た男の剣をシンが跳ね飛ばす。アイリーンもマリーも表情を固くし、それぞれの連れ合いの事が心配な様子だった。アルフリートが安心させるように声を掛ける。

「二人とも大丈夫ですよ。正直言ってたいした相手じゃ無いし…。マリー、きみの旦那様はトランセリアで一番強い男なんだからね」

 マリーにかすかに笑顔が戻る。一番強い女はもちろんアルフリートの婚約者である、軍務長官シルヴァ元帥なのだが。アルフリートは表を覗きながらぼそぼそと独り言を言う。

「こんな事なら護衛を撒くんじゃ無かったかなぁ…ああ、そろそろ片付くか」

 大通りの敵はあらかた倒されている。丸腰のシュバルカが相手の剣を奪ってからはまったく勝負にならなかった。左からアルフリートの護衛の騎士が二人、右から騒ぎを聞き付けた警備隊が駆け付ける。集まった騎士達は、大立ち回りを演じているのが自分達の『親父』であることに仰天し、同時に叫ぶ。

「しょ…将軍!……まさか陛下が」

「親父殿!…これはいったい」

 シュバルカは大通りに響き渡る大音量で即座に命令を下した。

「全員ひっ捕らえろ!恐れ多くも陛下に斬り付けるなど言語道断!一人も逃がすなっ!!」

 筆頭将軍の大声に腹の底迄揺さぶられ、背筋をぴんと伸ばして敬礼した騎士達はたちまち賊を捕らえていく。もっともほとんどの敵は既に路上に倒れていたのであるが。

 立ち食いをしていたあの若造が、トランセリアの国王である事にやっと気付いたイグナートの間諜は、大失態をやらかした事実に青ざめ、がっくりと肩を落とす。その彼等に縄を打つ第二軍の騎士達は、シュバルカの剛腕ぶりに改めて驚愕していた。


 宿屋に戻って来たシュバルカは開口一番アルフリートに言った。

「陛下っ!あのような無茶をなさってはいけません!護衛を撒くなどとんでもないことですぞ。だいたい陛下は国王としての自覚が……」

 言い終えぬ内に護衛の宮廷騎士二人も飛び込んで来る。

「陛下!ご無事で……ああ良かった。……まったくもう勘弁して下さい、肝を冷やしましたよ」

 三人がかりのお説教が始まりそうになるのを制し、アルフリートは慌てて謝った。

「ごめんごめん。いやあそこの串焼きはホントにおいしいもんだから…。喉乾いたろ、なんか飲むかい?」

 その場を逃げるように、宿屋の主人に皆に飲み物を振る舞ってくれと頼むアルフリート。

「騒がせちゃってすまなかったね。通りの店のみんなにも一杯奢ってやって……あれ?…しまった」

 ポケットから小銭ばかりをじゃらじゃらと出す。銅貨ばかりで銀貨がかろうじて一枚混じっているだけだった。苦笑する宿屋の主人がお代は結構ですと言い掛けた時に、マリーが横からこっそり金貨を差し出してくれた。

「ご…ごめん。ありがとうマリー」

「どういたしまして陛下」

 くすくすと笑うマリーは、かいがいしくハンカチでシュバルカの汗を拭ってやっていた。皆の前でそのような事をされた彼は、真っ赤になって照れて余計に汗を掻いていた。



 宮廷に向かうアルフリートの馬車に、シンとアイリーンが同乗していた。シンの説明と彼女自身の鋭敏な感覚とで、一連の事態を把握したアイリーンは、一時的に王宮の保護を受ける事に決めた。このままでは自分達以外にも被害が出るかもしれないし、アルフリートは二人に対して『あくまでも自分の個人的な客人』と言ってくれた。シュバルカとマリーの奨めもあり、二人は荷物をまとめ、宿屋の主人に礼を告げると、馬車に乗り込んだ。

 馬車の中でアルフリートは二人の武器を見せてくれと頼んだ。護衛の騎士がヒヤヒヤして腰を浮かしている中、シンの鉄棍をしげしげと眺め、アイリーンの仕込み杖を抜いては感心する。子供のようなその行動に、アイリーンはいかに彼が型破りな王であるのかを改めて感じていた。彼女自身も宮廷との付き合いなどほとんど無かったのだが、他国の王族と掛け離れている事だけは確信できた。それは決して彼女に悪い感情を与えなかった。そしてトランセリアの国王が、代々国民に人気がある理由が少し分かったような気がした。

「それはそのままお預かり下さい。杖が無くとも、シンに手を引いてもらえばわたくしは大丈夫ですから」

 アイリーンは自分からそう提案した。アルフリートは一瞬迷ったが、アイリーンの言う通りにする事にした。護衛の騎士が睨んでいたからだ。

「いや……そうだね。悪いけどちょっと預からせてもらうよ。……なんか睨んでるし」

 最後の一言は小声で言ったのだが、狭い馬車の中ではもちろん筒抜けだった。アイリーンは小さく頷き、軽やかに微笑んだ。馬車は王宮の門をくぐる。

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