第四章 盲目の姫君 第一話
午後になって降り出した雨が、街道の石畳を冷たく叩いていた。二頭の馬が旅人を乗せ、雨に濡れながら黙々と歩みを続ける。二人連れのその旅人は馬を寄せ合い、狭く荒れ果てた旧道を並んで進んで行く。
一人は上背のある若い男のようだった。フードからのぞくその肌は浅黒く、一目で西国の人間だとわかった。もう一人は女性だった。男と同じように深々とフードをかぶり、白い肌と短かめの黒い髪が、馬の動きに合わせちらちらと見てとれた。
言葉を発せず、うつむき加減にひたすら街道を行く二人連れ。男は時折気遣うように女に視線を向けては、また前を向く。やがて男が口を開いた。
「姫様、寒くはありませんか?どこかで休みますか?お疲れでしょう」
姫と呼ばれた女は顔を上げ、かすかに微笑んで男に答えた。
「いいえ、大丈夫ですよシン。それに先を急いだのは私ですからね。ごめんなさいねシン…こんな天気なのに」
そう男に話している間も、女の目は閉じられたままだった。彼女は盲いだった。顎の辺りで切り揃えられた黒髪が、雨に濡れて白い肌に貼り付き、伏せられた長い睫毛と見事なカーブを描く鼻梁と相まって、憂いを帯びた美しい容姿を一層際立たせていた。
「姫様が謝られることではございません。いずれにせよ今日中にトランセリア領内に入る予定だったのですから」
生真面目に答えるシンに、女はうっすらと頬を染めて言った。
「シン…もう『姫様』ではないのですよ、アイリーンって呼ばなくては……。私達『国に帰る途中の夫婦』なんですからね」
そう女に言われ、シンはあわてて言い直す。
「あ…はい。アイリーン…様」
「『様』を付けてはダメでしょう?」
アイリーンにくすくすと笑われ、顔を赤黒くさせて照れるシン。国を捨て、追っ手に怯える逃亡者としての旅だが、愛する者と二人きりで過ごす日々に、アイリーンは幸福を感じていた。
「日が落ちる前にはトランセリアの国境を越えられるはずです。そうすればもう旧道を行かなくても大丈夫でしょう。治安も大分良くなっているという話でしたから」
照れ隠しに話を進めるシンに、アイリーンがつぶやくように答える。
「首都のセリアノートに着いたら、しばらく住む所を探さないといけませんね。…子供が産まれる迄は色々と迷惑を掛けてしまいそうね」
「迷惑などとんでもございません。それに…半分は私の責任ですから。姫……アイリーン様は何もお気になさる事はございません」
「また『様』が付いていますよ…」
「あ……申し訳ございません」
顔を見合わせ、微笑みあう二人。降りしきる雨に打たれ、身体は冷えていたが、心には暖かい灯が宿っていた。
◆
アイリーン・イグナーティアはイグナート公国の王女として生を受けた。母親は彼女を産み落として帰らぬ人となり、産まれた赤子は盲目だった。
アイリーンの母親は平民出身の第三夫人であり、古い歴史を持ち、貴族階級との厳密な差別が存在するこの国では、身分の差は非情に少女の境遇に影響を及ぼした。たとえ国王の血を引く王女であっても、盲いとして生まれた彼女は凶兆と疎ましがられ、王都のはずれにある小さな離宮に、わずかな召し使い達と人目に触れぬように追いやられた。アイリーンは十八歳になる今日迄、ほとんどの月日をその離宮から出る事無く暮らしてきた。
シン=ロウはアイリーンの離宮を管理する庭師の養子だった。彼は戦で両親を失った戦災孤児であり、年老いた養父に代わり、庭の手入れや建物の修理、門番から御者、果てはアイリーンの護衛まで務めていた。
彼は祖父の代に、イグナートよりもさらに大陸の西方に位置するシャンドゥル王国より移り住んだ移民であった。浅黒い肌に金色の髪と青い瞳、アイリーンよりも頭一つ以上背が高く逞しいその姿形は、大陸中央では大変珍しく人目を引いた。
同郷の知人から体術を習い、独学で棒術を覚えた。イグナートでは平民は帯剣を許されておらず、離宮には衛兵など配備されてはいなかった。シンはアイリーンを守る為に、幼い頃から仕事の合間に鍛練を積み重ねてきていた。
そんなシンの影響を受けたのか、それとも彼女が自ら運命を切り開く為なのか、おそらくその両方であったろう、アイリーンは剣技を磨き始めた。盲目の彼女は常に杖を手放さず、シンはアイリーンの頼みを聞き入れ、倭刀の仕込まれた仕込み杖を苦労して入手した。人気の無い寂びれた離宮は絶好の訓練場となり、彼女は剣の修行に明け暮れた。それまでアイリーンの出来る事といえば、楽器を弾いて歌を歌う事ぐらいであり、シンは字が読めず、本を読み聞かせることも出来なかった。訪れる人もおらず、歳の近い友人といえばシン一人だけだった少女には、時間は有り余るほどあった。
アイリーンの剣は『待ち』の剣だった。住み慣れた離宮のような良く知っている場所以外では、彼女はゆっくりとしか歩けない。自らは動かず、周囲の空気の動きや匂い、人の放つ気配を読み取り、向かって来る物に対して必殺の一撃を浴びせる。初太刀が全てであり、二撃は死を意味した。それが彼女の培った剣技だった。実際アイリーンは風を読んで天候を予測することも、気配で何処に誰が居るのかを正確に当てることも出来た。シンはそんな彼女を見て、神が目の見えない代わりに何か別の感覚を与えたもうたのだろうと信じていた。
アイリーンが十八に、シンが二十一歳になった年、イグナート公国は突然隣国のリグノリアに侵攻した。リグノリアで新たに発見された大規模な金鉱脈の利権を巡り、両国の関係は険悪な状態になってはいたが、この暴挙は周辺諸国の予想しえなかった事態だった。宮廷は十数年に渡る国王と王弟の派閥争いで真っ二つに別れており、出兵は決着を焦った王による勇み足といえた。
東の小国トランセリアが、ただ一人生き残ったリグノリアの王族であるクレア王女に組みした為、王都は二ヵ月後に奪い返された。鉱脈の利権を餌に目をつぶってもらった北の軍事大国プロタリアからもそっぽを向かれ、数万の兵を犠牲にして何も得る事の出来なかった国王派は窮地に立たされていた。国王は再びプロタリアの後ろ楯を得ようと、彼の国の有力貴族に自らの王女を差し出す計画を実行に移す。その王女こそがアイリーンだった。
突然の国王からの呼び出しに、アイリーンは王宮へと向った。ほぼまる一年ぶりとなるその場所は、あまり良い記憶の無い所であった。戦火を免れた王宮の建物は、長い歴史のある古い意匠やごてごてとした飾りなどがそのまま残されており、さらに歴代の王が新しく立て直したり改修したりした箇所が複雑に入り組み、盲目の彼女にとっては非常に不安定で、歩き辛い場所だった。平民であるシンは立ち入りを許されず、年老いた執事の手を借りて歩まねばならない事も、アイリーンが神経をすり減らす理由の一つだった。
珍しく王宮に現れた王女に、親しげに言葉を掛けてくれる貴族の令嬢なども居ない訳では無かったが、それらはごくわずかな、物事にこだわらぬような人物のみであり、人々は遠巻きにアイリーンを見つめ、ひそひそと内緒話を耳打ちしたりするばかりだった。そしてそれらの声は、聴力の鋭い彼女の耳に届いてしまっているのである。過去に数度王宮に上った折りも、アイリーンは用事だけを済ませると早々と逃げるように立ち去っていたのであった。
謁見の間に通されたアイリーンに、国王の出座が告げられる。壇上の重そうな緞帳がゆっくりと上がり、イグナート国王、カルロス・イグナーティアが現れた。五十代に差し掛かったカルロスは、そろそろ腹周りの肉付きが目立ち始めた中年男といった風情であり、上背は決して低い方では無かったのだが、体型のせいか妙に小柄な印象を与えた。前髪の後退を気にしているらしく、何やら塗っているのか頭髪はてかてかと光り、けれど口ひげは大層形よく整えられ、先端までぴんと伸びていた。二十年の間王位に在る貫禄が十分に備わってはいたが、今日に限ってなのか、彼の小さな丸い目は落ち着かずにそわそわと視線が定まらずにいた。アイリーンは典雅に一礼し、口を開いた。
「ご無沙汰を致しております父王陛下。アイリーン・イグナーティア、お召しにより参上つかまつりましてございます」
「久しいのアイリーンよ、幾つになったか」
「陛下のご厚情を頂き、先々月に十八になりましてございます」
いつもと変わらぬ中味の無い会話だとアイリーンは思った。確か前回の謁見も、そしてその前も、全く同じ受け答えだったと記憶していた。そしてこの後の会話が途絶えてしまうのである。そもそも自分に用など無いのだろうと彼女は思い、また同じ事を繰り返すのかとうんざりしていた。傍に呼び寄せる素振りも見せず、椅子を進める訳でも無い。気まずい沈黙が続いた後、二言三言おざなりな会話を交わして退出が言い渡されるのだろうと予想していた。しかし、今回ばかりは彼女の予想を裏切る事になった。王は言った。
「十八になったか。アイリーンよ、そなたに縁談の話が来ておる。器量の良いそなたには遅いぐらいであったが、プロタリアの伯爵の元へ嫁ぐがよい」
「………は?」
アイリーンは一瞬何を言われたのか理解出来なかった。返答が出来ずにいる彼女に構わず、カルロスは言葉を続けた。
「あちらの王宮でも大変な力を持った、由緒ある家柄での、プロタリアでも一二を争う広大な領地を持っておる。早速支度を致せ。吉日を選んで盛大に送り出そうぞ」
それだけ告げると国王は急かすように退出を告げた。アイリーンはそれでも完璧な礼をして謁見の間を後にした。
馬車に戻る迄の事をアイリーンは全く覚えていなかった。何も考えられず、ただ執事に手を引かれて人形の様に歩いていた。途中で誰かに声を掛けられたようだが、その時の事だったのかどうかも分からぬ程記憶が曖昧だった。
シンに手を取られて馬車に乗り込み、何か心配する言葉を彼から掛けられた。走り出した馬車に揺られ、アイリーンは次第に事が飲み込めて来た。手足が冷たくなっていくのが感じられ、身体が小さく震えるのが分かった。涙は流れなかった。
謁見を終えた国王カルロスはいささか不機嫌になっていた。平民の侍女に産ませた妾腹のような娘であっても、アイリーンは間違い無く自分の血を分けた子供であり、全く愛情を感じていなかった訳では無い。亡くなった母親のフローリアは優しい女で、王位に就いたばかりの政治的にも精神的にも不安定な彼をいつも慰めてくれた。アイリーンが盲目でさえ無かったら、傍近くに住まわせて置く事も出来ただろうが、当時のカルロスは宮廷の重鎮や貴族達の意見に逆らう力は無かった。長い間離宮に閉じ込め、顔を合わせる事も無く過ごして来た娘に、もう彼はどう接すればいいのか分からなくなっていたのである。
プロタリアのリンデン侯爵は王の言う通り、古い家柄の力のある貴族だった。帝都の王宮での発言力も大きく野心もある男だったが、実力の全く備わっていない気の小さな人物だった。噂では妻の尻に敷かれその言いなりだと聞くが、その妻も伯爵家の出自であり、両家の力を合わせれば国政に影響を与える事も可能であった。イグナートの傀儡としては申し分の無い相手と言えようが、本人は只の冴えない中年男である事もまた確かだった。娘を売り渡したと陰口を叩かれるのを承知で、カルロスはこの縁談を押し進めた。もう他に手立ては無かったのである。
離宮へと戻ってきたアイリーンは、真っ青な顔で足取りもおぼつかなく馬車から降りた。口々に気遣う声を掛ける老人達に、それでも彼女は気丈に振る舞い、執事の指示に従って支度を進めるようにと言い渡した。
顔を会わせた事も無く、名前すら初めて聞いたそのプロタリア貴族には、既に夫人があるという。ふた回りも歳上の男の元に、それも第二夫人として嫁ぐなど、一国の王女の待遇として考えられぬ事であった。誰が考えても彼女が人身御供にされた事は間違い無かった。
年老いた侍女や侍従達は彼女の身に降り掛かった不幸を嘆いたが、国王の命令に背く事など出来る筈も無く、またこの離宮に一生閉じ込められたも同然のアイリーンの残りの人生が、このまま良くなるとも思えなかった。
自室に戻って一人になったアイリーンは、のろのろとベッドに腰を下ろし、そこで初めて涙を流した。力無くぱたりと横になったまま、彼女の見えぬ瞳から幾筋も涙が溢れ出す。反抗する気力も無く抗う術も思い付かず、ただはらはらと涙がこぼれるに任せた。濡れた頬を拭う事も出来ず、長い間そのままの姿勢でただじっとしていた。今のアイリーンにはそれだけしか出来なかった。
婚礼の為に半月後にはプロタリアに向けて旅立たねばならない。このまま一生を離宮で暮らして行くのだと思い込んでいたアイリーンにとって、今日の出来事は文字通り晴天の霹靂だった。仕込み杖で喉を突いて果てようかとも思った。しかし産まれてからの十八年を共に過ごして来た離宮の老人達に罰が及ぶと思い、その考えを頭から打ち消した。何よりも、シンと離れたく無かった。ただ彼の傍に居る事だけが、彼女の望みだった。
泣き通して少しだけ落ち着いたアイリーンは、一人で居る事が堪らなく不安に感じ始めた。シンに会いたかった。彼の腕にすがりつきたかった。すぐにでも彼の元へ行きたいと思ったが、二人の仲は誰にも明かしてはおらず、夜が更ける迄待つしか無かった。食事も喉を通らず、人々が寝静まる迄の不安に苛まれる時間を、ただ彼の声や匂いを思い浮かべて耐えた。
アイリーンはいつも逢瀬に使っている森の奥へと急ぐ。思った通り彼はその場で待って居てくれた。間違え様の無いシンの気配に、小さな声で自分の名を呼ぶその声に向って足早に走り寄り、アイリーンは彼の胸に飛び込んだ。あれ程泣いたのに、再び溢れ出した涙がまた彼女の頬を濡らした。
シンは十にもならぬ頃からアイリーンの従者として暮らして来た。長い時間を共に過ごした二人は、何も言わずとも相手の気持ちが理解出来る迄に近い存在だった。しかし、たった一つの想いだけは、アイリーンもシンもお互いに伝え確かめる事が出来ずにいた。
離宮の森を散歩する自分を導いて歩くシンの、繋いだ大きな手の平の熱さに、頬が火照るのが分かった。何年も繰り返して来た当り前のその習慣が、アイリーンには日を追う事に特別な時間になっていった。
彼の指先がほんの少し髪や肩に触れるだけで、鼓動が早まるのがはっきりと感じられた。気持ちとは裏腹に、ついつっけんどんな態度をとってしまう事もあり、後から随分と気分が落ち込んだ。そんな時でも、シンの態度は決して変わる事は無く、次の日も同じように真面目にそして優しく接し、孤独な王女の最も身近な人物であり続けた。
想いを告げたのはアイリーンからだった。彼女の十七歳の誕生日に、シンはアイリーンの好む香りの良い花をひと束贈った。小さな花束を手に、アイリーンは礼をいう代わりにこう問い掛けた。
「……シンは、…わたくしをどう思っているですか」
「……姫様は、自分にとって一番大切な人です」
シンのその答えはアイリーンにも嬉しいものではあったが、欲していた言葉では無かった。そんな事はとうに知っていた。アイリーンにとっても、シンは世界で一番大切に思う人だった。お互いに気付いていながら、さらにもう一歩を踏み出す事が出来ずにいたのだ。
もどかしげな長い長い沈黙の中、シンの息遣いに耳をそばだてていたアイリーンは、意を決して募らせてきた想いを自分から打ち明けた。シンの方からは言えない理由も彼女には分かっていた。
「……わたくしは、シンを愛しています。……一人の男性として」
自分が今真っ赤な顔をしているだろう事がはっきりと分かった。耳の先迄も熱く感じられた。シンは幾度も言い淀んで答える。
「………自分は、……自分は姫様の従者です。…異国の、出も卑しい、何の取り柄も無い男です。……どのような感情を持っていても、それを伝える事など……叶わぬものだと、思って…います」
アイリーンにはそれだけでも十分だった。自分の想い人が自分を同じように想っていてくれる事が、シンの言葉からは伝わって来た。アイリーンは自分の気持ちを全て伝えようと決意した。胸の内に沸き上がった小さな勇気に背を押されるように、彼女は言った。
「シン、あなたがそう考えるのも分かります。……わたくしは確かに国王陛下の血を受継いでいます。けれど、それは形だけの事でしょう。このまま表に出る事も無く、残りの人生をこの離宮で暮らさねばならない事は分かっているのです。……だからせめて、あなたの気持ちだけでも、……ただ一度だけでもいいのです。どうか……どうか、………聞かせて…ほし……」
閉じた瞳から涙がひと雫こぼれ落ちた。立ちすくむシンは何度もかぶりを振り、きつく握った拳を彷徨わせ、迷いに迷った。お互いの鼓動だけが響く長い静寂を破り、やがてその両手がゆっくりとアイリーンの肩に伸び、そして背中に回された。震える華奢な身体を抱き寄せ、しっかりとその胸にかき抱く。
「……愛しています、……姫様。……愛しています。……あなただけが、私の全てです。……初めて会った時から、ずっと」
「ああ……、シン……」
耳に届いたその言葉だけで生きていけると、アイリーンは神に祈った。この瞬間を生涯忘れないと心に刻み込んだ。逞しい両腕に包まれ、アイリーンは涙を止められなかった。
暗闇に覆い尽くされた森の片隅で、逞しい腕に飛び込んだアイリーンはそのままシンの胸に額を押し付け、長い間肩を震わせて泣いていた。シンは黙ったまま、その手でずっと彼女の髪を撫でていた。やがてアイリーンはおずおずと顔を上げ、小さな声で告げた。
「……シン、…わたくし、お腹にあなたの子供がいるのです。…ごめんなさい、ずっと黙っていて。……わたくし、どうすればいいのか…」
全てを言い終える前にシンはアイリーンの儚げな細い身体を抱き締め、はっきりと言った。もう覚悟を決めてこの場に来たのだろう。
「逃げましょう、姫様。……明日の夜までに馬を用意します。私と一緒にどこか他の土地で暮らしましょう。国を捨てる覚悟がおありですか?」
アイリーンの見えぬ瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。彼女は泣きじゃくりながらも首を左右に振る。
「……シン、…でも、でも、…わたくしきっと…あなたのお荷物になってしまうわ。……こんな…目の見えない女を連れていたら、いずれ捕まってあなたが罰を受ける事になってしまいます。……無理だわ、そんなこと、……とても」
「それはやってみなければ分かりません。何もせず諦める事など私はいやです。それに…姫様、あなたのいない人生なら、死んだ方がマシです」
「ああ…シン。…ありがとう。……ついていきます、もう…ずっと…離れない。…愛しています」
「姫様…」
暗い庭の片隅で二人の唇が重なり、求め合う。アイリーンは生まれて初めて、自らの手で人生を変える決意を固めたのだった。
翌日の深夜、日付けが変わると同時に、シンは音を立てずにそっと寝床から抜け出す。粗末なテーブルの上に置き手紙を残し、扉に手を掛けたその瞬間、背後から養父のクムの声が掛かる。
「シン」
その声にびくりと身を震わせ、ゆっくりと振り向くシン。クムは杖を手によろよろと寝台から降りると、引き出しから小さな袋を取り出し、シンの手に押し付けた。
「金だ。持って行け」
「……親父」
老人は置き手紙に気付くとそれを取り上げ、シンに手渡しながら言った。
「こんなもの残しとくんじゃねぇ。いいか、お前は俺の金を盗んで姫様と逃げちまった親不孝者だ。そういう事にしとくんだ」
シンは養父の心を悟り、皺深い手を握って幾度も礼を言った。
「すまねぇ…親父、すまねぇ。…俺、あんたに何の恩も返してないのに…。すまねぇ…」
「姫様を守ってやるんだ。お前がしなきゃなんねぇのはそれだけだ。……もう行け」
シンは黙ってうなずき、扉を押し開いて待ち合わせの場所へと走った。暗闇の中にアイリーンのほっそりとしたシルエットを見つけ、シンは少しだけ心が落ち着いた。
わずかな荷物を馬の背にくくり着け、街外れまで慎重に馬を引いて歩いた。離宮は王都の端に位置し、すぐに城壁近くまで辿り着いた。二人は衛兵のいない抜け道を通り、旧街道へと向かう道を選んで夜の闇に消えていった。
イグナート領を抜けるまで、二人はごくわずかな仮眠を取るだけで、ひたすら先を急いだ。シンはアイリーンの体調を心配したが、彼女は追っ手を怖れ、少しでも国から離れたいと懇願した。不安からか仮眠中も眠りは浅く、わずかな物音でもアイリーンは目を覚まし、シンの胸にすがりついた。自由国境地帯に入り、旧街道から新しい街道に出て宿に泊まったのは、出発の夜から三日目の夕刻だった。
浅黒い肌に短い金髪という西国の容貌のシンと、盲目のアイリーンの二人連れはかなり人目を引いた。シンは怪しまれぬ程度に宿の主人と世間話を交わし、疲れているからと食事を持って部屋に上がった。アイリーンはぐったりとベッドに横たわり、三日ぶりの暖かな食事も、最初はなかなか喉を通らないようだった。
狭い風呂を交替で使い、すぐ逃げ出せるように旅支度のままベッドに横たわる。アイリーンは仕込み杖を、シンは使い慣れた鉄製の棒を傍らに置く。粗末なベッドの上でしっかりと抱きしめ合い、小さく口付けを交わすと、たちまちアイリーンに眠気が訪れた。小さな寝息をたて始めた彼女を腕の中にすっぽりと包み込み、シンは油断なく夜中に幾度も目を覚ましては辺りの気配に耳を澄ませた。
翌日からも人目を避け、旧街道を選び二人は旅を続ける。一晩ゆっくりと休み、馬にも少しは慣れたのか、アイリーンにも話をする余裕が出来た。彼女は残してきた離宮の老人達を心配していた。
「……クムじいや…みんな、大丈夫かしら。…酷い目にあわされていなければいいのだけれど」
アイリーンも置き手紙を残してきていた。二人が居なくなった事をすぐに王宮に連絡し、金目の物を持って逃げたと報告すること。この手紙は読み終えたら燃やし、何も知らないことにして、王宮の捜査に協力すること。そう書き記した。二人の残したその手紙は、シンが口の固い代書屋を探して用意した物であった。十八年の歳月を共に過ごした彼等に、何も伝えずに立ち去る事などアイリーンには出来なかった。
実際の所アイリーンは母親が彼女に残した形見の宝飾類と、わずかな着替えや身の回りの物を持ち出しただけであったし、シンもクムに手渡された金以外には、小さな鞄に必要な物を詰め込んだだけだった。残された侍女や侍従達がアイリーンの手紙の通りにしたのかどうか、今の二人には知る術も無かった。