九
「こんにちはー。来たよ」
啓介はいつものように小声でうきうきと挨拶すると、カラオケの画面上に少女が現れるのを今か今かと待ち構えていた。
「おーい、啓介だけど」
呼んでみるが、返事はない。プロモーション映像が淡々と映し出されるだけだ。
「……音さ……いや、おんじさん?」
画面を指でコツコツと叩き、近くで呼んでみる。それでも、音はいっこうに姿を現さない。
入る部屋を間違えたか? 啓介はドアのところまで戻って、もう一度部屋番号を確認した。五○三。この部屋だ。
「おんじさーん」
少しボリュームを大きくして画面に呼びかける。ブチッというノイズが聞こえたかと思うと、やっと音が姿を見せた。
「どうしたんだ? なにかあった?」
安心して笑みをもらしながら啓介が走り寄った。
「えぇ?」
音の声を聞いて、啓介はたちまち急停止する。まじまじと彼女の顔を見つめると、どこか不機嫌そうだ。
「えーっと、なにかお気に召さないことでも……?」
「なんでもない」
彼女はふてくされた顔でそっぽを向いた。俺か? 俺がなにかしたのか? 若干混乱しながら啓介はどうして音がこんなことになったのかを考えようとした。
「ご、ごめん。来るのが遅かったかな? 一週間くらいずっと来てなかったから……」
「君のせいじゃないよ」
「……じゃ、どうした?」
「今日は、レディースデイだから」
首をひねる啓介に、音はため息をつきながらも説明してくれた。
「レディースデイって一人で来る女の人が多いの。一人だからって遠慮なしにこう……」
音は苦々しげな表情で言うと、耳をふさいでみせた。
「練習のためだから仕方ないんだけど、何人も連続でそんなお客さんが来ると、ね?」
「だから今日は疲れた顔をしてるってわけか」
うなずきこうとした啓介は、ふと頭を振るのを止めた。
「え? おん……じさんは俺以外の人も見えてるの?」
「そうだよ」
事もなげに音は言ってのけた。
「前回のアレ、『君のことだけはちゃんと見えた』ってたしか言ってくれたと思ったんだけど……」
「言ったっけ?」
啓介は危うくずっこけそうになった。
「お客さんの様子なら、ちゃんと分かるよ。何を選曲したのか、どんな風に歌っているか、そして」
画面の中の音がまっすぐに啓介の目を見た。
「おとが今、ソファからずり落ちそうになったのも分かる」
啓介は苦笑いしながらソファに座りなおした。音はその様子に機嫌を直したように笑うと、ぽんと手を打った。
「そうだ! おとの歌が聞きたいな!」
歌……歌⁉
少女の突然の注文に、啓介は凍りついた。一人きりのときも歌えなかったというのに、ここには音がいる。他人に聞かれるのが分かっている前提で、歌えるはずがない。
「お、俺の歌、ものすごく聞き苦しいと思うけど」
「大丈夫、さっきそんなすごいのを何曲も聞いてきたから」
音が胸を張った。
「だいたい、クラス……会だっけ? みんなの前で歌う機会があるんでしょう? それなら、練習しておかなきゃ」
「練習はまた今度でもいいし、今はおんじと話がしたいといいますか……」
「そう? わたしは君の歌が聞きたいけど」
画面の前で硬直している彼に、スピーカーから聞こえてくる音の声が早くして、とやや苛立たしげに急かす。
見えない力に引きずられるように啓介は機械的に手を動かし、カラオケ人気ランキングの一位の曲を選択、そして、送信――
押してしまってから彼はああっ、と情けない声をあげてタッチペンを放り出した。慌てて目をディスプレイにやるが、時すでにおそし。イントロが流れ始めてこの一年で最も歌われた楽曲、『誰よりも会いたくなかった』の文字が大きく映し出された。
「おおっ、やっぱりこの歌は定番なんだね!」
音のはずむような声から、期待をよせていることがうかがえる。歌が下手だと念押ししたにもかかわらず、このありさまだ。
ここで部屋から逃亡する考えも彼の心をちらりとよぎった。だが、ここでいなくなっては音が悲しむだろうし――女の子一人を残して出て行くのは、それこそ音羽ブランドが許さない。
どっちにしろいつかはやらなきゃならない運命だ。それなら、ここで歌ってやる。
勢いに任せてマイクをスタンドから引き抜き、口元に近づけた。ドクン、ドクンと心臓が脈打つのが聞こえる。彼は大きく息を吸い込んで、歌いだした。
パチパチパチ。歌い終わるとともに、儀礼的な拍手が響き渡る。
「がんばったね、わざわざありがとう」
拍手をしながら微笑む少女の姿に、啓介も肩の力を抜き、マイクを下ろす。口を開いて、自分の歌声にダメージを受けなかったか聞こうとしたが、性も根も尽き果てたのか声が出てこない。
彼の表情から疑問を察したらしく、彼女は手を打ち終えると肩をすくめてみせた。
「予想はしてたけど、なかなかのものだね……」
なかなかのもの、というのはもちろん悪い意味でだろう。
言いにくそうに目をそむけ口ごもる彼女に、啓介は先ほどの歌いっぷりと思い出して顔を紅潮させる。ひどい出来だったのは、言われなくても分かっている。女性アイドルの曲をむりやり同じ音程で歌おうとして失敗したんだ。どれほど滑稽に見えたか、考えたくもない。
「でも、でも歌詞を間違えることはなかったんだから! 噛まずに歌えたのは、すごいことだと思うよ」
フォローしようと涙ぐましい努力をしている小さな女の子を見ていると、なんだか申し訳ない気がして、彼はいや、別に、そこまで言うことじゃ……と声を絞り出す。
彼女は、憐みのこもった目で啓介を眺めると、優しく言った。
「それじゃあまず、マイクをつけて歌うことから、始めましょうか」