八
それからも、カラオケ通いの日々は続いた。笑顔の女性店員とも軽い立ち話ができる仲になるほど一人きりで行くことにも慣れたのだから、自分でも驚きだ。
「おじゃましまーす」
廊下に誰もいないことを確認し、小さな声でディスプレイに挨拶する。はたから見ればおかしいだろうが、この言葉によって少女が姿を現すのだから当然のことだろう。彼女は最初、目だけをのぞかせてこちらの様子をうかがった後、笑顔で啓介の方に駆け寄ってくる。とは言っても、画面の外には出られないのだけれど。
「いらっしゃい、おと!」
彼も照れくさそうに笑いながら、少女が這わせた手のひらに自分の手を重ねる。これも、今は恒例行事となった挨拶だ。ちょうどハイタッチのように片手を合わせ、再会を喜ぶ。もちろんお互い触れることはできないが、啓介はこうすることで彼女のぬくもりが直に伝わってくるような気がしていた。
店員がドリンクを運んでくるまで音は姿を隠していたが、行ってしまったことを確認するや否やひょいと顔を出す。
「ねえねえ、考えてきてくれた? わたしのニックネーム」
目を輝かせて見つめる少女に、啓介は頭をかきながら顔を横に向ける。
前回、「わたしは君のことをおとって呼んでいるのに、わたしをあだ名で呼ばないのはおかしい!」と愛称をつけることを音に要求されたのだった。だが、実は何も考えていないというのは秘密だ。
そもそも、女子を苗字でしか呼んだことのない彼にこんな提案は無謀だった。聞いたかぎりではただ「音」という名だけが記憶にあったらしい。それなら、そのまま音と呼べば良さそうなものだが、啓介にはそれがどうにも気恥ずかしく、なかなかできないでいたのだった。
「やっぱり、音さん、じゃだめなんですかね?」
おずおずと切りだした彼に、音はしかめっつらで答えた。
「ひねりがなさすぎて、面白くないでしょ。それに、他人行儀だから敬語もやめてって……」
「ごめんなさ……ごめん。でも、やっぱり敬語じゃないと落ち着かなくて」
ややうつむき加減にぼそぼそと喋る啓介に彼女ははがゆそうな表情を浮かべると、とりあえず座って
よ、と自らも地面に腰をおろして促した。
「とりあえず、ま、敬語は仕方ないか……あだ名の、ほかの候補はないの?」
彼がソファに腰を落としたのを見て、音はせかすように尋ねる。
「思ったんだけど、おんって言いにくいんですよね、なんかくぐもってる気がして……少し、少しだけ!」
画面の中の少女が少し悲しげな顔をしたために、慌てて言い直す。
「だから、音の下に、なんかつければ……おん、おん……」
啓介の中で、何かがつながった。そうだ、これならいける。
期待を込めたまなざしでみつめる少女に、彼は指を鳴らして意気揚々と告げた。
「おんじ!」
「……おんじ……?」
怪訝そうな顔色の彼女におんじの説明をしようとして、はたと思いとどまる。おんじって、かの有名なアルムのおじいさんの愛称ではなかったか。年齢が不明とはいえ、見た目はせいぜい中学生のこの子におんじのニックネームは酷な気もする。やっぱり、訂正を……。
「おんじ、か。いいね! コミカルで、かわいくて、しかも言いやすい! おんじ、おんじだね」
おんじを連呼して恍惚の境地に達している彼女にそれを言い出すことは、やはり啓介にはできない相談だった。意識が目覚めてからずっと、このカラオケボックスに閉じ込められている女の子だ。本物のおんじを知る機会もないだろうし、このまま放置しておこう。
「おんじって、おとが、もともとない知恵を引きちぎって考えてくれたんだよね、わたしのために、そこまで……」
待て待て、引きちぎってどうする。振り絞るだろ。それ以前に、もともとない知恵って何だ。馬鹿な奴だ、ってか?
ここはツッコミどころなのか逡巡していたが、こんないたいけな少女にありがとう、と幸せそうに言われて誰がその喜びを妨げられるだろう。彼は頭を垂れ、しばしその愉悦を甘受することにした。
それはともかく。
啓介には、差し迫ったある問題があった。――クラス会だ。
「ふーん、大変そうだね」
事情を聞いた音はこともなげに言うと、目にかかった髪を払いのけた。
「だから、悩んでるわけですよ」
「女々しいね」
唖然とする彼に、音はふんと鼻をならし腕組みをする。さっきの瞳をうるませながら感謝を述べていた少女は、どこに行ってしまったのだ。
「それくらいでうじうじ悩むなんて! どうせ悩むなら、人はどうして争うのか、みたいなことで苦悩してほしいのに」
「俺がそんな大層な人に見えますか、音さん……」
「音さんじゃなくて、おんじ! さっき決めたでしょ」
やっぱり、ニックネームの変更を願い出るべきか。
ちらりと音の様子をうかがうと、あごをつんと上げ、好戦的な態度だ。啓介は言い出す勇気をたちまち失い、また大人しく顔を下に向けた。
「おん……じ。じゃ、どうすればいいと思うんです?」
「ずばり、歌う!」
音はふわりと画面近くまで歩み寄ると、真剣な面差しで彼を指さす。
「そのまんまですね……」
「そう。その……クラス会? を欠席するのも、よくないでしょう。残った選択肢はただ一つ。歌うこと」
口をもごもごさせてさらに何かを言いつのろうとする彼を押しとどめ、音は毅然とした態度で断言した。
「いい? この場所は何のために存在していると思う?」
「そりゃ……歌うため?」
「その通り。別に、わたしと話すための空間じゃない。そもそもここにいるのさえ、お金がかかるのでしょう?」
カラオケに行きたくない、という理由の一つに含まれていた料金問題。クーポンを使う、料理は頼まないなど、けち臭いことをして少しでも安くしようとしているが、それでも高校生が頻繁に通うのはかなりの負担がかかる。
啓介が軽くなった財布を思い浮かべながらうなずくと、彼女は少ししゅんとした。
「それなら、なおさら歌わなきゃ。ずっと君とお話していた、わたしにも原因があるのだけど……」
「でも、ずっと気になってることがあるんですが」
ここ数回の訪問で、彼が言いだせなかったことを切り出す。もっとも、言えなかったのは彼女が啓介のことを根掘り葉掘り聞いてきたせいなのだが。
「一番初めに会ったとき、千人目で見えた……とか言ってたじゃないですか」
「言ったっけ?」
音が不思議そうに啓介を見た。
「言いましたよ! 覚えてないんですか」
「覚えてない」
出鼻をくじかれ、啓介は苦笑いしながら続けた。
「それじゃあ、おん……じがいるそっちの世界はどうなってるんですか? こっちからだと、真っ白にしか見えないんですけど」
「どうなってるか、って言われても……」
困惑したような顔で音はぐるりと頭をまわし、周囲を眺めた。
「よく分からないの。ここがどこで、わたしが誰なのかも全然知らないし。君は、ここが真っ白な世界って言ったよね?」
「はい」
「わたしには、それが分からない」
音はゆっくりと言った。
「ここが白い世界なのか、なにがあるのかもまったく分からない。もしかしたら真っ暗な世界なのかもしれない。でも、それすらも分からないの」
「どういうことですか?」
音は首を横に振った。
「説明できないの。でもね、これだけは言えるよ」
怪訝そうな啓介に向かって、音は微笑を浮かべた。
「何も分からない中で、君のことだけはちゃんと見えた。そして、今も見えている。これだけ分かっていれば、十分じゃない?」