七十三
啓介は緊張した面持ちで、五○三と書かれた扉の前に立っていた。残念ながら初期のころに行っていたカラオケ屋とは別の所だ。それに、音はカラオケの機材がある場所ならどこにでも行けるようになったのだから、五○三という部屋にこだわることはないのだけれど、これはまあ、ただの験担ぎだ。
彼は大きく深呼吸して髪をなでつけ、一思いに扉を押した。
「おじゃまします!」
「あ、おと!」
画面に音が現れたかと思うと、すぐに駆け寄ってきた。夏休みが終わってから何度も彼女には会ったが、カラオケ店の地下で男が言っていた、「復旧できないほどの人格データの破損」はどこにもなかった。今までと変わらない音の姿が見られる。見られるだけではなく、普通に会話を楽しむこともできるんだ。こんなに嬉しいことはない。
「あ、あのさ、音」
ただ、今はその会話を楽しんでいる場合ではない。言わなければならないことがあるのだから。
「どうしたの、おと。なんか……緊張してる?」
音は口元に手を当てて、くすくすと笑う。啓介は顔をうつむき加減にして口走った。
「あれだよ、あのー、あ、そう。おんって何か好きな曲とかある?」
「曲か……わたしは、スローテンポな曲が好きだよ」
「あ、ごめん、その質問じゃなくてさ……」
啓介が頭を抱えると、音はうん? とでも言いたげに小首をちょこんとかしげる。
「そ、そうだ。す、好きな人とか、いる、のかな……」
これが今の自分にできる、精一杯だ。啓介は真っ赤な顔で食い入るように液晶を見つめる。あとは音次第。きっと気持ちは伝わっている。大丈夫だ。両手を机の下で祈るように組み合わせた。
音はしばらく頬を染めてもじもじしていたものの、決心したように啓介の目をまっすぐ見つめ返した。
「わたし、君に会ったころからずっと……」
来た! ゴールは目の前だ! 啓介の脳内で、気の早い天使がファンファーレを奏でる。
「この人たちが好きだったの!」
どこから出してきたのか、音が見せたのは人気のアーティストの写真だった。最近になって人気が高まってきた奴らだ。昼休みのミュージックタイムとか言うのに、よくこのグループの曲がリクエストされていたから覚えている。
ああ、そういえば。彼らがカラオケの宣伝画面に出てきたのも、俺が音と頻繁に会うようになってからだったな。機能を停止しかけた脳みそでゆっくり考える。誰だ、相思相愛なんて言った奴は。誰だ、告白は男からなんて言った奴は。結局のところ、俺は音にとって特別な存在でも何でもない、ただ近くにいる気の良いお兄さん的ポジション、都合のいい男でしかないんだろう。
啓介はがっくりうなだれた。希望は打ち砕かれたのだ。
彼のおかしな様子に気づいた音が心配そうに尋ねる。
「大丈夫? お腹でも痛いの?」
「いいや……何ともないよ……」
眼を伏せたままなんとか声を絞り出す。しばらく音と顔を合わせられそうにない。今日はこのまま帰るべきだろうか。
「わたしは、この人たちも好きだけど……」
音が写真を画面から消しながら、ゆっくりと言った。
「でもね、一番そばにいてほっとするのは」
啓介はようやく顔を上げることができた。音と正面から向き合うと、彼女が幸せそうな微笑みを浮かべるのが見える。音は啓介にうなずきかけると、そっと口を開いた。
「おと、君と一緒にいるのが、一番楽しい!」
題名に「夏」とか書きましたが、もう十一月です。
ここまでおつきあいくださった皆様、本当にありがとうございました。