六十四
啓介はカウンターに駆け寄ると、息を切らしながら店員の前に立った。VIPルームから飛び出てきた男子高校生に、驚いたように目をみはる店員。
「お体の具合でも――」
こわごわと言いかけた店員の言葉を手で遮ると、啓介は決然とした面持ちで尋ねた。
「五○三号室は、空いてますか?」
「えっ、五○三ですか?」
店員はVIPルームのほうを振り返り、困惑した顔で啓介に目線を戻した。今VIPルームで楽しんでいるはずの客が、わざわざ移動するなんて、と不審がっているのがよく分かる表情だ。だが啓介にはそれを説明する余裕も、言い訳をする気力もなかった。
「人を待たせてるんです、お願いします!」
必死に頭を下げる。もちろん、ここは今まで通っていたところとは別のカラオケ店なのだから、音がいるという根拠はどこにもない。あるとすれば、さきほど見た幻覚のような音だけだ。まるでクラス全員で集団催眠にかかっていたような、はっきりしない根拠だけれど。
「……別料金がかかりますよ?」
店員はVIPルームを指さして言った。啓介はクラス会料金にプラスして五○三の部屋代を払わなければならなくなる。それでもいいのか、という念押しだ。
「構いません。お願いします」
啓介の必死の形相に気圧されたのか、店員は無言で受付を始めた。フリータイムで、と頼むと店員はちらりと目を上げてうなずいた。
「……それじゃ、ごゆっくりどうぞ」
いぶかしんでいるのがありありと分かる。警戒している店員の目を背中に感じながら、それでも啓介は興奮気味にエレベーターを待っていた。
音がいるわけない。たまたま同じ部屋番号が空いていたからって、何かがあるわけじゃないんだ。
言い聞かせても、先ほどの音の幻聴が耳から離れない。
『おと、がんばって』
彼女の優しい微笑みを思い出しながら、啓介はエレベーターに乗り込んだ。