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 見間違いだ。

 何度そう思っただろう。啓介が咳き込んでいる間に、少女の姿は跡形もなく消えていた。何事もなかったかのように通常通りの映像が流れるのを彼は呆然として眺めていた。ある種の胸の高鳴りを感じながら。


 食い入るように画面を見つめるだけで終わったヒトカラ一日目だったが、家で待ち構えていた姉には「何曲か歌ってきた」と嘘をついた。彼女は疑い深そうに啓介の言葉に首をひねっていたものの、次回も行くつもりであることを言うと大きくうなずいた。


「やっとアンタにも、歌う楽しさってのが分かったんだ」


 嬉しそうに今度は採点にチャレンジだね、と話す姉には悪いと思うが、啓介には歌うためではない、カラオケに行かねばならない理由があった。

 もう一度、あそこに行って真相を確かめる。

 

 単なる映像の乱れなのかもしれない、もしかしたらプロモーションビデオの一部だっただけなのかもしれない。そう納得しようとしたものの、どうしても心に引っかかる。

 学校でもぼんやりしていたのか、ぎくしゃくしていたはずの立川にさえ心配されるほど彼は上の空だった。


 そして、また。


 接客スマイル全開のあの店員の前に立ち五〇三号室を、と息せき切って啓介は要望した。

 彼女は驚きの表情を見せたものの、すぐに元の笑顔に戻り注文通りの部屋にしてくれた。受付を済ませた彼はクリップボードを受け取るや否や、エレベーターへとダッシュする。エレベーターのドアが閉まるのももどかしく、閉ボタンを連打した。上昇した階数の表示がやけに遅い気がして、イライラと腕組みをする。

 エレベーターが開くなり飛び出すと、目的の部屋まで突っ走った。ドリンクを運んでいた店員がその様子に目を丸くするが、そんな些末なことを気に留める余裕はない。そんな啓介も部屋の前まで来ると立ち止まった。大きく深呼吸をして、ぎゅっと目をつむる。少女が画面にいる場合は、その現実離れしたことにショックを受けないため。いない場合は……

 

 授業でいきなり指名されたような緊張感が、体をこわばらせる。まさかここまで来て引き返すなんてことはできない。震える手でなんとかドアノブを握ると、彼は目を閉じたまま思い切って扉を開いた。

 恐る恐る目を開く。もしかしたら、あの少女が画面から手を振っているかもしれない。誰かが部屋の中で待ち構えているかもしれない。


 だが、思惑は外れた。

 暗い室内で流れているのは商業ソングの宣伝だけで、怪しい気配はまったくない。画面の中の女の子も、ソファで啓介を待っている人物もいない。

 啓介は肩の力を抜いて、大きくため息をついた。機械的な動作で中に入るとマイク、通信機を両手に持ってソファに腰をかける。

 何を期待していたんだろう。

 もう一度目を閉じると、じわじわとほろ苦さが心にしみわたった。この感覚はいったい何なのか。思いがけず自分の失望感の原因に気がついて、彼ははっとした。

 そうだ、俺は非現実に憧れていたのか。

 空から女の子が降ってきたり、道端で前触れなくモンスターに出会ったり、はては魔法学校から手紙が届いたり。非日常を期待することで、今までのこの平凡な毎日を生きてきたんだ。「いい子にしていれば、なにかいいことがあるよ」幼いころよく親に言われたことを思い出す。啓介にとってのいいこととは、自分が特別な存在になることだった。それには手っ取り早く、自分の周りで非日常的なことが起きることが望ましい。たとえ、そんなことは起こるはずもないと、頭の片隅で一笑に付していたとしても。


 やれやれ、と二度目のため息をもらす。そんな空想を半分本気で信じていた自分が、情けなく思えた。いや、妄想か。妄想と現実の区別がつかなくなるなんてどうかしている。このままで本当に大丈夫なのか。


 ――大丈夫?


 いいや、大丈夫なはずがない。いずれは壁に向かって話しかける、なんてことに発展しかねない事態だ。早急に手を打たなければ。


 ――大丈夫?ずっと考え込んでいるけど。


 そうだ、考え込むことが、妄想の一因なのかもしれない。だからこんな架空の少女の声が聞こえてきたりするんだ。


 ――ちょっと、そこの男性。


 男性……男性?


 雷に打たれたかのように、啓介は全身をびくりと震わせた。いくら妄想でも自分に語りかけるはずがない。じゃ、さっきから頭の中で聞こえていると思っていたこの声は、いったい何なのか。

 机から目線を上げた彼は、ディスプレイの中に信じられないものを見た。今度ばかりは幻覚でも、妄想でもないと断言できる。

 うわあああっと啓介が奇声を上げるのと、男性店員が、フロントで注文したドリンクを運んで来たのと、画面の中の少女がふっと消えるのはほぼ同時だった。

 ぎょっとして彼を見る店員の視線にも気づかず、スクリーンを指さしながら息もたえだえに訴える。


「あ、あの、いま、この画面、おかしな……」


 そこまで言ったところで、この話がどれだけこっけいに見えるかを改めて思い起こした。変なやつと思われるに違いないし、そんな噂が立っても困る。そう思って啓介は慌てて口を閉ざした。そもそも、あの少女の姿を確かめるためにこの部屋に来たんだ。ここで店員に泣きつくのは、本末転倒だろう。

 急に黙り込んだ啓介を不審な目で眺めながら、困惑したように店員は飲み物を机に置く。


「どうかされましたか、何かこちらに不備でも……」


 落ち着きはらって話そうとしているが、店員が動揺しているのはすぐに分かった。手が震えて、グラスの中の氷がカタカタと音を立てているのが何よりの証拠だ。ヒトカラに来た男子高校生が奇声を発していたのだから、無理もない。


「いえ、何でもないです……すみません、寝ぼけてて……」


 かわいた声で笑いながら何ともまずい言い訳だ、と啓介は心中で頭を抱えた。完全に、おかしいやつ認定されてしまったに違いない。


「そうですか、ご用でしたら、いつでもお申し付けください」


 店員は、顔に苦笑いを貼り付けながら、そそくさと出て行った。愛想笑いをなんとか浮かべながら彼は店員が出て行ったことを確かめ、もう一度画面と向き合う。

 一見、何の変哲もない、ただのスクリーンだ。だが、さっきは……


「あの、どなたかいらっしゃるんですか、話しかけてくれた……」


 どうしても声が尻すぼみになるのを禁じ得ない。何を馬鹿なことを、という気持ちが拭いきれないからだ。でも、もしかしたら。

 啓介は期待と不安の入り混じった表情で画面を見つめた。

 お願いだ、出てきてくれ。

 祈るように強く願った、その時。


「……もう、カラオケの人っていないよね?」


 アーティスト映像が不意に切り替わり、少女の上半身が画面中央に映し出された。


「うっ」


 声を上げそうになるのを必死で抑えた。予期していたことだ。全然、驚いてなんかいない。深呼吸をしてリズムを整えると、もう一度画面を見る。最初の衝撃が過ぎればなんてことはない。女の子が、スクリーン上に登場しただけだ。日常茶飯事だろ、こんなこと。

 彼女はもの問いたげに首を傾けた。啓介は「カラオケの人」が自分を指しているのではないかと考えたが、すぐに店員のことを言っているのだと気づいて何度も首を縦に振ってみせる。


「よかった……とりあえず、君以外の人には、見つかりたくなかったんだ」


 少女の顔が物憂そうな面持ちから、ぱあっと花が開いたかのような笑顔に変化する。その顔つきにつられるかのように、啓介も頬をゆるめた。

 とりあえず、敵意はなさそうだ。彼女の明るい表情から、ひとまず胸をなでおろす。

 ストレートの黒髪を肩先まで伸ばし、白いワンピースにブルーのふわりとしたカーディガンといったいでたちに、ほっそりした体つき。中学生くらいだろうか。決して美人、というわけではないが、笑った顔が、とても魅力的だった。

 そこまで考えたところで、思わず顔を赤らめる。そもそも、女子の顔をこれほどまじまじと注視したことがあったかどうかさえ疑わしいんだ。

 啓介のどぎまぎした様子に少女はくすくすっとうつむきながら笑うと、おもむろに彼の方に手を差し伸べた。

 まさか、引きずり込む気か?

 彼女の様子に某呪いのビデオの類を想起した啓介は、反射的に一歩退く。だが、ワンピースの少女はスクリーンの壁に阻まれたかのように手を沿わせると、残念そうに首を振った。


「やっぱり、だめね」

「何が?」


 聞きたいことは山ほどあったが、とっさに口をついたのは、そんな言葉だった。


「千人目にしてやっと、君が見えたから、もしかしたらと思ったんだけど」

「それは……この部屋の客に憑りつく、とか、そんな話ですか?」


 本能的に恐怖を感じ、じりじりと後退する。センニンメ、モシカシタラ、彼女の言葉が頭の中で入り乱れ、わずかだがめまいがした。


「まさか、わたしがあなたなんかに憑くとでも思っているの?」

「なんだ。じゃ、別に心配しなくても……って、あなたなんかってどういうことですか」


 啓介がぐいっと身を乗り出したのを見て、少女は口元をほころばせる。


「仮に憑りつくことができたとしても、そりゃ相手は選ぶよ。あなただって、幼稚園児のわがままな女の子より、年頃の女性と仲良くなりたいでしょ? それと同じこと」


「ロリコンとかいう言葉もありますがね」とひそかに啓介は呟くが、それが耳に届かなかったのか、少女はどうせできはしないことだけど、と再び顔をくもらせた。


「そんなことより、君、歌わないの?」


 突然大声で少女が問いかけたために、彼女の声の出どころとなっているスピーカーがハウリングする。啓介はいきなりの大きな音に、びくりと体を震わせた。


「お、俺はいいや……」

「いいやって、わざわざ来て何を言っているの? ここに来る人はみんな歌うのに」

「いやいやいや! とりあえず、歌よりもあなたの方が気になるんですよ」

「気になるって……いきなり告白?」


 びっくりした様子の彼女に、啓介は手を振り回して力強く否定する。


「そういうことじゃなくてですね、何でこんなところに女の子が入ってるのかとか、いったい誰なのか、とかつまりは……」

「なるほど、わたしの正体が知りたいわけね」


 少女は強くうなずくとスクリーン表面から離れ、画面の中の、地面とおぼしき所にぺたりと座り込んだ。その顔に少しさみしげな表情が浮かんだと思ったのは、彼の気のせいだろうか。


「教えてあげたいのはやまやまだけど……だめね、だって覚えていないから。覚えていれば、どんなに良かったか……」

「覚えてない?」

「わたしは、生まれたときからずっとここにいるの」


 彼女は静かに言うと、見えない丸を地面に描いた。


「自分が誰なのか、どうしてここにいるのかも何も分からない。今までは、ここで見つからないように息をひそめてた。でもね」


 啓介はごくりと唾をのみこんだ。


「君が普段ここに来る人と違っていたから、どうしても話してみたくなっちゃったの」

「違ってた……」


 啓介は少女の言葉をなぞるようにつぶやくと、にやけそうになって大慌てで口元をおさえた。

 つまり彼女が言いたいのは、俺のことが気に入った、もしくは気になった……すなわち、一目ぼれ……‼

 我ながら発想が飛躍しすぎたと思うが、でもこれこそが彼の待ち望んでいた妄想だった。この世の人とは思えない謎めいた少女との出会い、そして恋に落ちる二人――


「だって、歌わないんだもの!」


 彼女はこらえきれない様子で噴き出すとパチパチと大きく手を叩き、愉快そうに笑った。数秒間思考を停止したのち、甘い夢を打ち砕かれた啓介はぼんやりしたまま繰り返した。


「歌わない……」

「そう! こーんな変な顔して! こんな風に足をがたがたさせて! それで、何て言ったかな……このやろう? だっけ?」


 彼女は渋面を作り、何かに腰かける動作をして足を激しくばたつかせた。


「もういいです、勘弁してください……」


 とんでもない思い違いに気がつき、両手で顔を覆う。彼女は啓介の外見に惹かれたのでも何でもない――そわそわした落ち着かない奇妙な様子に、興味を示しただけだった。しかも、独り言までばっちり聞かれてしまっている。


「まあ、ここまでにしておくね。嫌われちゃったら困るし」


 え? と啓介が疑問に思う間もなく少女は立ち上がり、左手を画面の中からカラオケのディスプレイに密着させた。彼にも同じようにして、と身振りでうながす。おそるおそる画面越しに手を合わせると彼女は白い歯を見せた。


「わたしは、音という字を書いて、おん。よろしくね」

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