五
なぜ、こんなところにいるんだ。
上昇する心拍数をおさえつけようと無駄な試みをしながら、啓介はぐるりとあたりの様子を見まわした。けばけばしい装飾品、大音量で流れるヒットソング。そして彼のすぐ横には、カウンターでてきぱきと受付を済ませている先客。
どうして来てしまったんだろう。
今さら、そんな問いを頭の中で反芻する。接客準備が整ったのか、店員が「お次でお待ちのお客様」とにこやかに彼を見た。前と違うのは、たった一人でこの異空間にいるということだけだ。
こんなはずでは、こんなはずでは――
姉と一緒に行った前回は結局、歌うことなく終わってしまった。
時間が経過するにつれ、どんどん不機嫌になる姉の気配を感じて曲を検索したものの、どうしても「送信」ボタンが押せなかったのだ。
「ほんっと、アンタってヘタレね! ヘタレたネクラ!」
帰り道の姉の機関銃のような罵詈雑言を聞きながら自分でも、まったくその通りだな、とぼんやりと考えていた。彼女の、あの悪夢のような提案を聞くまでは。
「今週末、今度こそは一人で行きなさい……絶対だから! いい?」
返事を迫る姉に「般若だ……」とぼそっと言ってしまった啓介は、強烈なビンタを食らった後、大人しくそれに従うほかなかったのだった。
そして、現在。
「会員カードをご提示ください」
にっこりとほほ笑む女性店員に、BIG EGOと印字されたカラフルなカードを差し出す。先日、姉が勝手にも音羽啓介名義で新たに作ったものだ。カードに威圧感たっぷりの姉の顔を連想した彼は、思わず目を背けた。
「ありがとうございます……あの、ご希望の機種はございますか?」
「ええと……何があるんでしたっけ」
もはや音羽ブランドもなにもかなぐり捨て、不安げに尋ねる。女性店員はやはり笑みを絶やさずに「当店では、CHOISOUND、DUMBの二種類からお選びいただけます」と落ち着いた様子で答えた。
「ちょ、CHOIでお願いします」
姉の店での頼み方を思い出しながら少しうわずった声で言うと、女性はちょこんと小首をかしげるも、すぐに満面の笑顔になった。
「CHOISOUNDですね、かしこまりました。他にご希望は何か……」
「できれば、あの、禁煙室とか……」
「禁煙室ですか」
啓介がうなずくと女性は瞬間戸惑った様子を見せた。
神経質な男。
そんな店員の心の声が聞こえる気がして、彼は後悔した。しかし、姉は遠慮することなくそんなリクエストをしていたはずだ。慎重に女性の顔に目をやると彼女は穏やかに微笑んで、はい、かしこまりました、とうなずいただけだった。
「五〇三号室へどうぞ」
クリップボードに紙を挟み込み、相変わらずニコニコしながら店員はカウンターの上にそっとのせた。
「それでは、お楽しみください」
女性が一礼するのを背後に感じながら、啓介はへたりこみそうになる体を何とか動かしてエレベーターに乗り込んだ。
カタカタカタカタ。
啓介の右足が高速で小刻みに揺れる。入室してからもう、三〇分ほども経過しただろうか。
ドリンクを持ってきた店員にもごもごとお礼を言い、曲を検索、マイクを取ったところまではよかった。完璧だ。それでもなお一番重要な、最後の過程がまだ終わっていない。これをしないかぎり、永遠に楽曲が流れることはないというのに。
スクリーンに映し出されるアーティストの宣伝映像と手元の時計をかわるがわる見ながら、彼はタッチペンをどうしても握れない。
時間は刻一刻と迫ってくるし、何よりこの部屋には自分だけしかいない。啓介を思いとどまらせるものは何もないはずなのに、貧乏ゆすりをつづけたまま「送信」ボタンがどうしても押せないのだ。
「やっぱ、無理だったんだな」
誰に言うともなく呟くと吹っ切れたように目の前の通信機をずいっと脇に退け、代わりにドリンクを引き寄せた。ウーロン茶の氷がカランと軽い音を立てるのを聞いて、ここでも無難な選択をしたものだ、とやや自嘲気味に鼻をならす。
「そもそも何で姉ちゃんの言うことを聞かなきゃいけないんだよ、くそ」
口に出して愚痴をこぼすと、すーっと心のもやが晴れていく気がした。たとえ、誰にも聞いてもらえなくても、だ。
頬杖をついて啓介はそもそもこの原因の、学校生活について思い返した。あの出来事の後の教室内にはまだ何とも言えない空気がまだ残っていたものの、立川とは普段通りの付き合いができている。立川は相変わらずのSKYぶりを発揮しているし、啓介はそれに適当に相槌を打ちながら、友人としての関係を保っているはずだ。少なくとも、表面上は。ただ問題は音羽ブランドが崩壊したために、クラスメイトからの彼の好感度が著しく下がっているに違いないことだ。ゼロ、いやもしかすればマイナスからのやり直しかもしれない。
啓介は頭を勢いよく振って、雑念を断ち切ろうとした。これからは大人しくすればいい。影のように、教室の隅でひっそりと学生生活を送る、そうすれば――
やにわにグラスを引っ掴み、啓介はウーロン茶を一気に飲み干した。とにかく、胸を締め付ける不安を消したかった。もちろんそんなことで気持ちが軽くなるはずもない。
暗い顔のままなにげなくスクリーンを見た彼は、ひっ、と小さな悲鳴を漏らすと途端にむせた。
「な、なん、だ……」
肩で荒く息をしながら啓介は声を絞り出す。飲み物が通過したばかりの食道がひりつくが、そんなことを気にする余裕はなかった。画面いっぱいに映し出されていたのは、心配そうな表情を浮かべながらも、笑いを堪えきれずに小刻みに肩を震わせている、そんな少女の姿だったのだ。