四
なぜ、こんなところにいるんだ。
上昇する心拍数をおさえつけようと無駄な試みをしながら、啓介はぐるりとあたりの様子を見まわした。けばけばしい装飾品、大音量で流れるヒットソング。そして彼のすぐ横には、カウンターでてきぱきと受付を済ませている姉。
どうして来てしまったんだろう。
今さら、そんな問いを頭の中で反芻する。虚ろな目で壁にかかっている絵を眺める弟に、姉はほら行くよ、と注意を促した。運命を受け入れておとなしくそれに従おうとした啓介は、あることに気づいてふとその歩みを止める。
「ここって、エレベーターだけ?」
「だけって、どういう意味?」
まさにそのエレベーターに向かっていた姉が、怪訝そうに振り向く。
「エレベーターだけだったら……ほら、あれじゃん。火事とかのとき……逃げられないよな」
啓介の言葉に眉根を寄せていた姉は合点のいったような表情を浮かべると、弟の腕をがっちりとつかんだ。
「な、なにか……」
「じゃ、上がるよ」
有無を言わせず彼の手を引っ張る。エレベーターに引きずり込もうとする姉の意図を察し、啓介は手を振りほどこうと必死にもがいた。
「何してんのよ、あがるんでしょーが」
姉の力がぐっと強まる。
悲しいかな、彼女よりずっと体力がない啓介はなすすべもなく引っ張られた。せめてもの抵抗に、目の前で徐々に閉まるエレベーターの隙間にこれでもかと叫ぶ。
「火事になったら、死ぬ! 脱出できねえよ! 死んじまう!」
「うるさい」
扉が閉まったことを確認すると、彼女は弟を解放した。反動でよろけた啓介のすねを勢いよく蹴り上げる。
「なんて恥ずかしいことするの? 店員さんも、ほかのお客さんも、アンタのことガン見してたじゃん。よくあんなことができたもんだね」
痛みで思わずしゃがみこんだ彼に、姉は容赦なく罵声を浴びせかけた。
「そもそも、私がカラオケ恐怖症のやつに、エレベーター一基しかないような店、選ぶと思ってんの?」
「それはつまり、二基あるから大丈夫だと……」
そんなわけないでしょ、と言って彼女は啓介をエレベーターから蹴り出した。もんどりうって転がった先にあったのは。
「階段?」
「ロビーぐらいちゃんと見てるものだと思ってたけどね。わが弟のレベルはしょせんこの程度、か」
姉は捨て台詞をはきながら、足早に奥の部屋へと歩いて行った。啓介も片足をひきずりながら、しぶしぶそれに続く。
部屋番号を確認してから、姉はどうぞ、と啓介を室内に招き入れた。
「さて、じゃあ歌いますか」
ソファにどっかりと腰をおろすと、姉は啓介の前にマイクと通信機を差し出した。
「ほら、曲を入れてみなよ」
姉の鋭い視線が啓介に突き刺さる。仕方なくタッチペンを取ると、彼女は満足げに微笑んだ。
「どうする? 啓介、先に歌う?」
「……いや、俺はあとでいいよ」
「そっか、じゃあ早速」
姉はほんの数秒で曲を入れると、わくわくした様子でマイクを手にした。
結局、自分が来たかっただけじゃねえか。啓介は心の内でそう呟きながら画面に目を向けた。姉の入れた楽曲が、ちょうど流れ出したところだ。彼女は立ち上がると啓介の顔をみおろした。
「聞いてください。《エット・イット・コー。アリーのママに》」
ニコリとすると、姉ははりきって歌いだした。リズムに合わせて拍子をとり、ノリノリの様子だ。啓介はうつむくともう一度通信機と向き合った。今すぐ帰りたい。その気持ちを押し殺して、とりあえずランキングを調べる。
「エリコォォォ、エリコォォォ!」
サビに入って、一人で盛り上がる姉。啓介は気を取られまいと、通信機により一層顔を近づけた。だが、隣の姉が気になって読んだ文字も頭の中に入って来ない。
「エリコォォォ! エリコォォォォ!」
だから来たくなかったんだ。啓介は顔をしかめて思った。歌いたいやつだけがカラオケに行けばいい、どうして歌いたくないやつに余計なおせっかいをするんだ。
「啓介、はやく曲入れなよ」
数秒間の間奏タイムに、姉が早口で催促した。
「どれでもいいからさ、知ってるのを入れて――エリコォォォ!」
そうは言われても。ランキング上位の曲を順々に見ていくが、サビしか知らないものばかりだ。歌えるわけがない。
姉が熱唱している傍らで、啓介は押し黙ったままじっとしているだけだった。