三十六
「音はもういない、ということなのか?」
その言葉を言ったとき、啓介は少し震えた。あんなに生き生きと会話をしていた少女が、もうここには存在しない、となれば――
男は皮肉っぽく顔をゆがめて笑うと、何度もうなずいた。
「データは、もう使い物にはならな――」
音がいないことを確認するや否や、啓介は背後の男のスイッチを力を込めて押した。途端に啓介を締め付ける力が弱まったかと思うと、店員の体が地面にぐたりと横たわる。
「まさか、電源を⁉」
男がはっとしてガラス窓に顔をくっつける。その隙に、啓介は倒れている店員を蹴り飛ばして出口に向かってダッシュした。頼む、開いてくれ。啓介の祈りが通じたのか、先ほどびくともしなかった扉は押すだけですんなり開いた。振り返ることなく、彼は猛然と長い通路を走り抜ける。
「クソッ。待て、待てと言っている!」
背後で男が奇声を上げるが、もちろん足を止めるはずもない。このまま上まで駆け上がり、警察に逃げ込もう。体力に自信があるわけではないが、この距離なら十分逃げ切れるはずだ。だが、啓介には一つ引っかかっていることがあった。男が言った言葉、「データは使い物にはならない」。
カラオケの中にいた、音が……音のデータが消滅したものだと言葉を聞いた直後は思った。けれども今改めて考えてみると、それはあの男にとって使い物にならなくなっただけではないだろうか。まだ音はどこかであのけいれんを続けているのかもしれない。もしそうであれば、このまま逃げてしまうのは――啓介の脳みそは、撤退を勧告していた。その一方で、ブランドは音を残して逃げる気か、と彼を責めていた。
「よし」
啓介は顔を引き締めた。ようやく決心がついたのだ。音羽ブランドの言うままに、音を探しに行くと。