三
「で、アンタはそのまま帰ってきちゃったわけ? 荷物も持たずに?」
無造作に後ろで束ねた黒髪。八十二、と算用数字ででかでかと印字されたTシャツに、短パン。完全に女を捨てた姿の姉が、ポテトチップスの袋に手を突っ込みながらにやにやして啓介の顔をのぞきこんだ。
「仕方ないだろ? あの空気の中、ほかにどうしろっていうんだよ」
啓介はため息をつきながら、できるだけ姉の顔を見ないようにとベッドの上で寝返りをうった。
荷物も持たずに浮かない顔で戻ってきた弟をなぐさめるつもりなのか、姉は彼の部屋で、根掘り葉掘り事のてんまつを聞いている最中だ。いきなり押しかけて来た姉を初めは無視していたが、誰かに聞いてほしい気持ちと姉のあまりのうっとうしさがあいまって、ついつい話してしまった。それが間違いだった。
「ばっかだねー。そんなんだから、いつまでたっても彼女ができないんだよ」
甘い期待は見事に裏切られた。どうやらなぐさめる気はさらさらなかったようだ。彼女は空になった袋を無造作にゴミ箱に放ると、今度は啓介の椅子の上に馬乗りになった。
「姉ちゃんだって、彼氏いないくせに」
「女子校ですから。別に、いなくたって女だけで楽しんでるし。ご親切にどーも」
啓介のくやしまぎれの言葉にも動じず、姉は歌うように答えるとくるくると椅子を回転させ始めた。人が落ち込んでいるときにそんなことをされると、かなり腹が立つ。
「もういいから、出てってくれよ。自分の部屋に戻ってろよ」
「ほら、そういうとこ」
声を荒げて姉に向き直った啓介は、すぐに指を突きつけられた。
「自分の思うようにいかなかったら、すぐ怒る。だから、今日みたいなことになっちゃうんだよ、分かる?」
啓介の苛立ちを気にもとめない様子で、姉は人差し指を軽く振った。昼間の出来事で、彼のただでさえ少ないデイリーメンタル数値がかなり削られている。これ以上の消耗は避けたいところだ。啓介は、説教モードに入った姉を不快そうににらみつけた。だが、彼女は涼しげな表情でさらに言いつのる。
「一時の感情に身をゆだねるから、今までの虚構の姿が崩れるんだよ。ほら、私はいつでも自然体でしょ? 啓介も見習ったら?」
「自然体っつーか、女としてのたしなみとか、最低限の礼儀を知らないだけだろ。野蛮人だよ」
今度は、姉が彼をにらむ番だった。
「知ってるけどやらないだけだから。私はそんなのにとらわれたくないの。かごの中の鳥より空を自由に滑空する鳥の方が、生き生きしているようにね」
「またでたよ、乙女チックポエマーな妄想」
「あらあら、かわいくない弟だこと」
啓介が顔をしかめると、姉の方は不機嫌そうな表情で応酬する。彼ら二人は、あごをつきだしてしばし火花を散らせた。姉弟格闘戦が始まるまでそう時間はかからないだろう。姉のどこにつかみかかるべきか、啓介が狙いを定めている時だった。
「まあ、今日はここまでにしよっか」
戦闘前の極度の緊張に耐え切れなくなったのか、カウントがゼロになる前に姉は椅子に座りなおすと、ふうっと大きく息を吐いた。彼女のことだから、あるいはこの芝居がかった衝突に飽きただけかもしれない。
啓介は何も答えず、無言のまま姉に背を向けた。かかわり合いたくない。一人でこの苦しみと向き合っていたいんだ。ただ真っ白な壁の一点だけを凝視していると、すっと姉が立ち上がる気配がした。
願わくは、このまま大人しく出て行ってほしい。ベッドから遠ざかる姉に祈りを込めながら意識を集中させていると、彼の期待通りドアノブの音が響いた――と思ったその瞬間。
「そっか」
せっかく開きかけた扉が、また閉ざされた。姉が再びベッドに戻ってきた。
絶望感とともに彼を迎えたのは、さらに奈落に突き落とそうとする彼女の言葉だった。
「啓介、いっぺんカラオケ行ってみな。いや、私と行きなさい」
「はあっ⁉」
意外な言葉に啓介は思わず飛び起き、姉の顔をまじまじとのぞきこんでしまった。彼女はその反応を楽しげに眺めると、啓介が退いてわずかに空いたベッドのスペースに無理矢理割り込む。
「楽しいし、ストレス発散にもなるし。自分をさらけださないアンタには、ちょうどいい訓練じゃない? それに……」
姉は、啓介のほうにずいっと顔をよせた。視界いっぱいに、なぜか得意げな彼女の表情が映し出され、反射的に弟はのけぞる。
「私も啓介の美声、聞いてみたいし、ね?」
脅迫めいた姉の態度に、啓介は首を縦に振るしかなかった。