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 雨が降り続いていた。窓ガラスに雨粒がうちつけられている中、室内ではやる気のない生徒たちがため息をつきながら、黒板に向かっていた。

 梅雨特有のじめじめとした空気の中で、一人の少年が気怠そうに頭を上げる。


 あと二十分。


 彼と同じく眠気にあらがっているクラスメイトを眺めながら、ぼんやりとそんなことを考える。やっと授業の半分が経過したんだ。あとの時間を耐え抜けば、もう帰宅するだけだ。


音羽おとわ


 名前を呼ばれた瞬間、体中に電流が走る。それまで丸めていた背中をピッと伸ばすと、警戒するように教師の目を見つめて身構えた。


「次、読んでくれ」


 教師の話に上の空だった彼は内心焦る。教科書は真面目に開いているものの、全く授業を聞いていなかった。だがわざと落ち着いた様子で教科書をゆっくりと持ち上げると、すばやく周囲に目を走らせる。ここで少しでも焦燥感を見せたなら、たちまち音羽ブランドの価値が下がってしまうだろう。いちかばちかだ。


「よし、そこまででいい」


 区切りのいいところで教師は手を挙げて啓介を止め、別の生徒を指名した。

 当てずっぽうに過ぎなかったが、どうやら正解だったようだ。今日は運がいい。彼は着席すると、見えないように机の下で小さくガッツポーズをした。




 高校生活において大切なものとはなんだろう。勉強? 部活動? 恋愛? 音羽啓介にとっては、そのどれもが正解であり、同時に間違いでもある。彼が最も重視しているもの、それは自分自身だ。特に成績優秀でも、運動能力があるのでも、あるいは顔がたいして良くもない者。持たざる者であるにもかかわらず、クラスの中心にいたいという願望を持っていた啓介は、その願いを叶えるために必要不可欠なことが何なのかを知っていた。それはすなわち、「ブランド力」。「あの人っていい人だよね」というポジションに収まるためのほんの少しの努力。落ちた消しゴムをにこやかに拾ってあげるだとか、朝早く来て花壇に水をあげたりだとか。小さなことからこつこつと、の信念で積み重ねてきた彼の好感度、つまりブランド力は、クラス内においてある一定のステータスともなっていた。




「おと、今から空いてるか?」


 やっと、やっと待ち望んだ授業終了だ。時は満ちた。ようやく誰に咎められることもなく眠れる、とチャイムが鳴るのと同時に突っ伏した啓介は、たちまち隣の男子生徒に起こされた。


「暇だけど、なんかあるのか」


 不機嫌な口調でゆっくりと顔を上げる。掃除時間までの、せっかくの睡眠タイムを邪魔されたのだからこれぐらいはしても当然だろう。頬杖をつきながら首だけ動かして隣を向いた。


「いや、これからどっか行かねえかなって思っただけだけど……」


 ぶっきらぼうな啓介に、しまった、とでも言いたげな表情を浮かべたのは、立川悟(たちかわさとる)。いつもつるんでいるクラスメイトだ。彼の空気の読めなさにはイライラさせられるものの、決して悪い奴ではない。もっとも、名前負けしすぎだ! と叫びたくなることは、よくあるけれど。


「例えば? ボウリングか?」


 起こされてしまった以上は仕方ない。啓介は、体を立川のほうにくるりと向け、話を聞く体制をとった。


「俺はもう、行くとこは決めてんだ」


 立川はそう言うと、こちらにずいっと詰め寄ってきた。いつもぼんやりとした様子の彼にはめずらしく、決意のこもった強い目をしている。


「なんだ、ずいぶん強引だな。で、どこに?」

「カラオケだ」


 その言葉を聞くなり啓介はすっと立川から身を引き、再び机に伏せた。


「お、おい。どうした?」


 やはり、ちょっとやそっとの拒絶モーションには気づきもしないか。舌打ちしたくなるのを必死に堪える。


「ちょっと、気分が、な……」


 浮かない口ぶりでつぶやくと、立川はしゃがみこんで友人の顔をのぞきこもうとした。


「なんだ。むかついてんのか? 胃が」

「別に体調がどうこうってわけじゃねえよ」

「じゃあ行こうか」


 啓介は顔を伏せたままうなった。


「ほんと、どうしたんだ。だってほら、今まで一度もカラオケ行ったことねえじゃん」

「それは、あの、あれだ……」


 それは、俺が今までずっと、カラオケを避けていたからだ。

 言いかけた言葉をぐっと飲み込む。

 カラオケが、歌うのが苦手だと知られてはいけない。さもなければ、今まで着々と築き上げてきた音羽ブランドがもろくも崩れ去ってしまうだろう。音痴だと知られたら立川のことだ、絶対に周りに言いふらす。その状況で平然としているだけの余裕があるだろうか。

 啓介は心の中で首を振った。

 それなら、いったいどうすればこいつの提案を打ち砕けるのか。やはり仮病を使うしかない。でも、さっき否定しちまったし。


「あ。もしかして、おと。カラオケ嫌いなのか?」


 自信満々な立川の声音に、啓介ははっとして顔を上げた。

 立川が、最高に空気の読めない、略してSKYなあの立川が他人の心中を見事、言い当ててみせただと⁉


「やっぱそうか」


 隣のSKYは満足げな顔をして、一人でうんうん、とうなずいた。


「お前が歌ってるの、一度も聞いたことないしな。容易に想像できたさ」


 額に人差し指をあて、気取った様子で彼を見下ろす。いつもなら当てこすりの一言でも言ってやりたいような気にさせる小憎らしい表情だが、今回はそうはいかない。啓介は無言のまま、立川を穴が開くほど見つめる。


「音楽の試験で、皆の前で歌うときは、確か、いつも欠席していた……」

 

 視線をちらりとこちらに向けた立川は、指を額から唇まで移動させて得意げに笑った。


「ま、俺の灰色の脳細胞にかかれば、こんな推理朝飯前だよ。お前が音痴だってのはな」

 

 焦げろ。俺がずっと凝視していた奴の口よ、焦げてしまえ。

 まさかそんな呪いが効くはずもなく、啓介はそっと視線を机に戻した。


「な、どのくらい音痴なんだ? 病人が出るレベルか?」


 立川は耳障りな笑い声を上げると、うつむいた啓介の背中を痛むほど強く叩いた。堪えようとしたが、もう限界だった。やはりこいつはただのSKY、スカイだ。

 啓介はため息をついて視線を下に落としたまま椅子を引き、立ち上がった。


「どこ行くんだ? やっぱトイレか? 吐きそうなんだな」

「もういいよ。なんか疲れた」


 かたくなに立川を見ないようにしているため、首が不自然な方向を向く。


「いやいやいや、今からが面白いのに! 俺の推理プロセス聞いてくれよ! 音痴だって看破した! 俺の!」


 バン、と啓介は勢いよく机をたたいた。両手がじりじりと痛みを訴えてくるが、それを気にする余裕はない。立川がハッとしたように彼を見つめ、怒ってるのか、と小声で尋ねる。

 そんなSKYの目を直視し困惑の色を読み取った啓介は、なんでこんなのを友人に持ったのか、改めて自分の愚かさを悔いた。だが、立川だけが悪いわけではない。それを指摘してこなかった自分にも問題はある。そんなことを考えてみても、積もり積もった怒りは止められるはずもないのだけど。


「誘うなら誘うで、それだけにしとけよ! なんでくどくどお前の語りを聞かされなきゃならないんだ⁉」

「ん? やっぱ音痴?」

「俺は別に、音痴じゃない。ただ、行くのが面倒なだけだ」

「それなら、他のとこだって一緒じゃ……」


 立川が言いかけた言葉を、にらみつけて無理やり黙らせる。


「だいたい、何でカラオケなんて行きたがるのか、俺にはさっぱり分からない。料金は高いし、非常設備も整ってないとこばっかだ。火事とか起きたら、どうするんだ。エレベーターだけだったら駄目だろ。死ぬだろ」


 立川が何か言いたそうなそぶりをみせたが、啓介は気にせず矢継ぎ早に続けた。


「そもそも、誰かと行こうってスタンスがどうかと思うんだけど。プロならともかく、上手いのか下手なのか、よく分からん友達の歌なんか、なにが悲しくて聞かなきゃならないんだ? 絶対、長い間奏とか、終わった後の空白の時間に気まずくなるだろうが! 何か感想言えよみたいな無言のプレッシャーをかけられるだろうが!」

「必ずしもそうって……」

「とにかくだ! 俺は、絶対に行かない! 自己顕示欲で凝り固まった奴らがゴロゴロいるとこなんて、行く意味がない!」


 夢中でまくしたてていると、視界の隅でクラスの女子がこちらを指さしているのが見えた。気づけば、立川の顔もこわばっている。


「……あ」


 しまった……!


 啓介はクラスの空気を察して、今さらながら口をつぐんだ。あまりにヒートアップし過ぎたために、周りが見えなくなってしまっていた。何という不覚。彼には、自らのイメージ像が崩れる音が聞こえる気がした。


「ま、まあ、あんまり褒められたことじゃないしな、寄り道してカラオケ行くの……」


 シンと静まり返った教室に、立川のとりなすような声だけが響く。その口調に若干の非難の気持ちを感じ取った啓介はうつむきながら、ごめん、と呟いた。


「いや、別に謝るようなことじゃねえし。いいよ、またボウリングにでも行こうぜ」

「ああ、誘ってくれてありがとな」


 鳴り響く心臓とは裏腹に、啓介はわざとらしい明るい声色で返すと立川の肩をぽん、と親しみを込めて軽く叩いた。

 なにもこれで騒ぎが、クラス内の一つの不和が完全に消滅するわけではない。ただ単にこの口論がひとまずは収着したことをアピールするためだけの行動だ。それを直感していながらも、啓介にはもはやこうするしか道がなかった。今までブランドのためだと積み上げてきた犠牲の数々を、啓介はあえて考えないよう努めた。


 立川がこわばった笑顔のまま、道をあける。さすがに言い過ぎたと反省しているのか、それとも、思いがけずクラス中の注目を集めてきまりが悪いのか。さて、どちらだろう。


「んじゃ、ちょっと便所行ってくる」


 笑顔を貼りつけたまま啓介が通ると、扉周辺をふさいでいた女子集団が無言でさっと退いた。疫病神扱いもいいところだ。


 教室から出るまでの間、彼はずっと皆の視線を背中に感じていた。

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