十
だめだ、壊滅的だ。
啓介は頭を抱えた。
画面の中の少女も同じように右手で額を押さえ、首を横に振っている。
数日間、啓介は五○三号室で練習に練習を重ねてきた。カラオケランキングの上位の曲はあらかた歌いつくしたし、老若男女の歌手の歌も試してみた。それでも。
「うーん」
未だに、唯一の聞き手にさえ微妙な反応をされる啓介だ。
「お腹から声が出てないんだよね。声のボリュームを大きくすれば音程が狂うし、逆に音の高さが合っていても声が聞き取りにくかったりするし」
数百曲歌ってこの評価なのだから、よほどのカラオケ下手なのだろう。どうしようもない。
「やっぱり、ダメなものはダメなんだよ。あきらめ――」
「無理」
にべもなく拒絶された。啓介が固まる横で、彼女は難しい顔でうーんと考え込むと、首をひねる。
「これだけ人気曲を歌ってもダメってことは、むしろ啓介にはマイナーな曲のほうが合っているってことかな……?」
音さん、多分その論理は間違っていると思う。
「とりあえず、人気なさそうな曲を探してみようよ!」
音がいいこと思いついた! とばかりに瞳を輝かせながら言うのを見て無視できるほど、啓介は鍛え上げられてはいなかった。乗り気でないながらも通信機にタッチペンを走らせ、適当な曲を探してみる。
「『真冬の夜に、あなたは独りで眠れますか』」
「ない」
「『魚と肉と、そしてケーキ』」
音はくちびるをかんで首を横に振った。
「『俺こそ最強』」
啓介が曲名を読み上げひょいと目線を上げると、音が画面裏から手を強くディスプレイに押し付けている姿が見えた。
「……おんじさん?」
「歌手は、誰?」
鼻息荒く音はたずねた。
「えーっと……Black type-X……?」
「いいね、それで行こう!」
音は力強くうなずいた。いや、でも俺、この曲ちっとも知らないんだけど……?
「曲なんて、歌いながら覚えればいいんだし。ね? 入れてみてよ」
音がにっこりした。しかし、その目はまったく笑っていない。
まあ、とりあえず聞いてみるだけなら――と曲を送信してしまったのが間違いだった。
「(THE WORLD'S STRONGEST MAN)」
大音量で流れるバックコーラスに慌てて音量を調節しようとする。だが、音に手で制された。口元に人差し指をやって静かに、と合図している。啓介は大人しく従った。
しかし、なんだこの曲。ヘビーメタルっぽいのに、音の背後に映し出される映像では男女が仲睦まじく手を取り合ってきゃっきゃうふふしている。曲自体も、三拍子から四拍子、四拍子から三拍子へと目まぐるしく移り変わって、聞き苦しい。
啓介は視線を画面からそっと外すと、小さくうつむいた。
「いい! これはいいよ!」
だが、音の感想は啓介のそれとは百八十度方向が違っていたようだ。頬をほんのり赤く染めて興奮したようにまくしたてる。
「音楽史に残る傑作だよ! こんないい曲、初めて聞いたよ! こんな掘り出し物を見つけるなんてさすがは啓介だね」
これはほめられているんだろう……多分。啓介は曲に対する自分の評価に少しだけ疑いを持ち始めながら、そ、そうか……? とつぶやいた。
「啓介はこの曲をクラス会で歌うべきだと思う。今から練習しよう?」
乗り気になって手をぐっと握る彼女に、啓介はそっとため息をついた。
いくら音がこの曲を気に入ったと言っても、俺がクラス会で歌うことはできない。こんな歌を歌えば、その時点で俺のブランド力は地に落ちる。地獄まで堕ちていくかもしれない。笑い話で済むようなもんじゃないぞ。
「いや……やっぱ別の曲が……」
「絶対これがいいって! ね? これにしよう?」
有無を言わさぬ表情で迫る音に、啓介は今まで彼女に感じたことのなかった気持ちを自覚した。
これは――苛立ちだ。
「俺はちょっと、歌えそうにないしさ」
「練習すれば大丈夫だよ! 啓介にも歌えるって、これなら」
「でも……」
「歌おうよ、せっかくなんだしさ」
啓介の脳裏にそもそもの元凶となった立川の顔がちらついた。今の音は、空気を読まない立川にそっくりだ。
わざとらしく腕時計を見ると、啓介は立ち上がった。
「あれ? もう帰る時間だっけ?」
画面の中の少女は無邪気に聞く。
「ああ、少し用事があってさ。ごめん、今日は帰るな」
音の顔を見ないようにしながら啓介は明るい声音で返した。一方的に腹を立てて帰るだなんて卑怯だ、嫌な奴だ。自己嫌悪にさいなまれながら彼は手早く身支度を済ませた。
「んじゃ、またな」
突然立ち去ろうとした啓介を音は優しい目で見つめて、気をつけてね、と微笑んだ。
啓介は目も合わせず、そのまま何も言わずに部屋を出て行った。