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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

歴史もの

麻姑

作者: しのぶ

麻姑(まこ)は戦国の人であった。

彼女は良家の生まれだったので、常々同じ年頃の子供らを見下していて、彼らが家畜の屠殺をやったり、街角でもの乞いするのを軽蔑していたものだが、そのうちそうも言っていられなくなった。というのも、麻姑の住む城市が戦場になって包囲され、包囲が何ヵ月にも長引いて、飢餓が深刻になった街では、骨を薪にし、子を取り替えて喰うという事態になったからである。


麻姑は飢え衰え、病に伏せる日々を送ったが、貧民の子供らは既に死ぬか食われるかしていたので、彼女はまだましだったかも知れない。


ある日ついに城市は陥落し、城内に敵兵がなだれ込んできた。


彼らは全てを破滅させた。

彼らはどんなにか嬉々として、虐殺し、略奪し、強姦し、拷問し、破壊し、放火していったことか。

どんなにか嬉々として、子供らの脚をつかんでは、壁に叩きつけて殺したか、何か滑稽に思えるほどだった。


父は戦死し、家族も行方不明になった麻姑は、祖先の廟に退いて、自殺しようと思った。だが、どうしてもできない。短剣で首を、胸を突き刺そうとするのだが、傷をつけても、どうしても思い切ってやることが出来ないのだ。

この程度の傷でもこんなに痛いなら、深くまで突き刺したらどんなに痛いだろう。恐ろしい。恐ろしい。でもやらねばならぬ。だが出来ないのだ。悔しや、情けなや、だがどうにもならぬ。恐怖に捕らわれているからだ。恐怖があまりに圧倒的で、意志の力など、ボロ雑巾も同然だ。


麻姑がためらっていると、壁が破れる音がして、見ると、全身に返り血を浴びた敵兵が、抜き身の剣を手にして立っていた。兵は麻姑を見ると、狂気の笑みを浮かべて、こちらに迫ってくる。悲鳴。だが、敵兵は突然倒れた。敵兵の後ろには、行方不明になっていた兄がいて、敵兵の首から剣を抜きながら言う。


「もうこの街は終わりだ。俺と逃げよう」


「でも…」


「なんだ、自分だけ生き残るのは不義だから、殉死するつもりだとでも言うのか?それが出来るなら、もうやってるはずだ。出来ないんだろうが!

だが、それも当然だ。死にたくないんだ、生きていたいんだよ!だが安心しろ。お前だけは決して見捨てない。さあ、俺と一緒に逃げよう」


「私も…私も、兄上だけは決して見捨てませんわ!」


かくして二人、辺りに散らばる敵兵の死体から服や鎧をはぎ取って、敵兵に化けると、仲間の死体を荷車に載せて運んでいる兵士を見つけた。兄は荷車に麻姑を載せると、その上に死体を積み上げて、外に捨てにいくふりをして、どうにか街から脱出した。

近くの山に逃げ込み、山を越えて、国内の別の街へ逃げようとしていると、今度は山賊共が現れて、二人の前に立ちはだかった。山賊が言う。


「ここを通りたければ、通行税を払ってもらおうか」


兄が言う。

「頼む、見逃してくれ。陥落した城市から命からがら逃げてきたんだ。金も、金目のものも、何もない!」


「そうか、あの街が陥落したか。そりゃいい気味だ。金がないなら、お前らの肝臓をえぐり出して、酒の肴にしてやるぜ」


逃げ出す二人、賊は後を追いながら、矢を射かけてくる。麻姑の顔の横を矢がかすめ、腕や脚に痛みが走る。恐怖。もっと速く走らなければ。もっと速く…


突然、横で叫び声がした。見ると、兄の首に矢が突き刺さっていた。兄は麻姑を見つめ、何か言おうとするが、血がごぼごぼいって言葉にならない。

一瞬立ち止まった麻姑は、しかし次の瞬間には駆け出していた。あの傷ではもう助からぬ。とっさの判断…いや違う、恐怖に駆られて逃げたのだ。一瞬の後悔。だがもう遅い。一瞬の判断は永遠に取り返しがつかぬ。


背後で、恐ろしい断末魔の叫びが聞こえた。麻姑はびくりと体が震えたが、振り返らずに、そのまま走り続けた。走っていると涙が出てきた。泣きながら走り続けた。



どうにか追手はまいたようだが、今度は道に迷ってしまったらしい。深い森の中、行けども行けども、まっすぐ進んでいるのか、同じところを回っているのか、おまけに日は落ちて辺りは闇。少しの物音にも、賊か獣かと心は怯え、飢えと寒さと、疲労と、傷の痛みとで、ついに倒れ込んで、起き上がれなくなった。


きっとここで死ぬのだ。どうせ死ぬなら、何のためにここまで逃げてきたのか。これから死ぬと思うと、改めて恐怖がこみ上げてきた。死にたくないと思った。死にたくないと思う自分を呪った。世界を呪った。天を呪い、地を呪い、人を呪った。


ああ、この世の生はいとわしいかな、災いとわずらいと、痛みと苛立ちと、恐れとおののきとに満ち満ちて、目にするものと言えばただ、嘆き、嘆き、嘆きだ!!

どうしてそこまでして生きていたいと思うのか、生きたところで、苦痛しかないものを。だが、盲目の生は、どんなにおぞましいことをやってでも、一瞬でも生き延びることを願ってやまぬ。これは呪いだ、病いだ、災いだ!ああ、死にたくない、死にたくないと思いながら、気を失った。



ふと気がつくと、横に何かいた。朦朧とした意識の中そちらを見やると、かたわらに一羽の鳥が立っていて、麻姑を見下ろしていた。


その鳥は大人の男よりも背が高く、頭には冠のような羽、尾が長く、五色の羽毛は光を放ち、ただの鳥とも思われぬ。どうやら鳳凰のようだった。

鳳凰はじっと麻姑を見つめていたが、おもむろにくちばしで自分の胸を傷付けると、くちばしに自分の血を含み、麻姑に飲ませた。麻姑はそれを呑み込むと、寒さも痛みも感じなくなって、眠りの中に落ちていった。


目が覚めると、周囲は霧深い岩山で、麻姑は鳥の巣のようなところにいた。だが、何か違和感を感じる。見ると、自分も鳳凰に似た鳥になっているのだった。そこへ、鳳凰が舞い降りてきて、麻姑に言った。


「ここにいれば、安全でしょう。さあ、これを食べなさい」


と言って、赤子のような形の木の実や、(ぎょく)のような色の水を与えて、麻姑を養った。


全ては夢のように過ぎて、自分は鳳凰になって鳳凰と共に舞い、霊山を飛び巡り、仙界を垣間見たのだった。

時は流れ、それは数ヶ月だったのか数年だったのか、ある日目が覚めてみると、麻姑は再び人間の姿に戻っていた。しかし、手だけはわずかに鳥の足のような姿をとどめ、鳥のような長い爪が生えている。鳳凰が言った。


「やはり、あなたは人間の血が勝っていたようですね。しかし、完全には元に戻れなかったようですが…」


麻姑は再拝して言った。

「いいえ、構いません。むしろ嬉しいくらいですわ。あなたは私にとって、実の親以上の方です。どうか、私と正式に親子の誓いをして下さい」


「おやめなさい。誓いなどして何になりましょう。あなたのその手が、内に流れる血が、いやでも私達を結びつけるものになるでしょう。さあ、ここの空気は人間には毒です。もう、ここを降りなければ…」


言われてみれば、何か息苦しさを感じる。鳳凰に連れられて山を降り、霧が晴れる辺りまでくると、呼吸が楽になった。鳳凰が言う。


「ここで別れましょう。下界ではいろいろと危険もあるでしょうから、これを渡しておきます」


鳳凰は羽の間から二個の腕輪を取り出した。麻姑がいぶかしむと、鳳凰はそれを空中に投げあげて言う。


「回れ!」


すると腕輪は飛び跳ね、閃光のごとく空中を駆け巡り、周囲を縦横無尽に飛び回って、また鳳凰の元に戻ってくると、周囲の岩が、鋭利な刃物で切られたかのように、細切れになってバラバラと崩れ落ちた。

しかしあらためて見れば、やはり変わったところのない普通の腕輪である。鳳凰はそれを麻姑に渡し、


「これがあればまずは大丈夫でしょう。しかし、生き物を殺せば、その汚れを身に受けることになりますから、気を付けるのですよ。それと、これを渡しておきます」


そう言うと、鳳凰は自分の羽を一枚抜き取って麻姑に渡した。


「何か困ったことがあれば、その羽を燃やしなさい。そうすれば、私はいつでも飛んでくるでしょう」


かくして、鳳凰と別れた麻姑は、なお山で一人で暮らしていた。そして不思議なことには、彼女はいつまでも年をとることがなく、若いままだった。しかし、その原因は麻姑自身にも分からない。再び下界に降りていく気にはなれなかった麻姑だが、そのうち彼女のことは噂になったのか、その地方に残っていた小国の王が麻姑の元に使者をおくってきた。使者は贈り物を差し出して言う。


「王があなたに会いたがっておられます。王は仙道を好まれる方です。どうか、お会いになってください」


「私は仙人などではありません。会ってもご期待を裏切るだけでしょう。この贈り物は受け取れません」


「しかし、これは私の任務ですので、どうかお会いになるだけでも」


「いいえ、遠慮しておきます」


麻姑は断わったが、たびたび使者が送られてくる上に、そのうちこの任務を果たせなければ私が刑を受けることになると言い出したので、麻姑は、厄介なことになったと思いながらも出かけていった。


宮廷では下にも置かぬ歓待ぶりで、三日もの間宴をはり、麻姑は逆に不安になってきた。この時代で、こんな小国に、こんな宴をはれる余裕があるのだろうか。

ようやく王に謁見することとなり、広間に出てみると、王の周りには大量の兵士が立ち並び、さらに不吉な予感がしてきた。王は言う。


「あなたは仙人らしいが、どうやって仙道に入られたのですかな」


「私は仙人などではありません。ただ世を離れることを願っているだけです」


「しかし、あなたはいつまでも若さを失わないというし、虎狼の住むあの山に一人で住んで、害を受けないのは理由あってのことでしょう。それに、その手…」


麻姑は手を袖の中に隠した。


「その手は、ただの人のものとも思われぬ。聞くところでは、あなたは竜か鳳の肝を食って不死を得たとかいう話ですな、見たところ、多分鳳でしょう。どこに行けば、鳳を捕まえられるのですかな」


「…そんなことはありません」


「なぜ教えられないのですかな。聞くところでは、鳳凰は聖王が現れる時の瑞祥の鳥だとか。何も私ごときがそうだとは申しませんが、瑞獣を殺して食ったとなれば、罪を得ることになるのではないかな」


「知ってどうするのですか。あなたも、鳳凰の肝を食って不死になりたいとでも?」


「それを望まない人がありますか?知っての通り、我が国は小国で、この時代、いつ滅ぼされるかわからない。私自身もそうだ。だが、今ここに、千載一遇の好機がある。逃がしはしない」


「しかし、私は本当に、鳳を食ってなどはいない…」


「教えないつもりなら仕方ない。あなたに鳳の代わりになって貰おう」


「!」


王が立ち上がって、さっと手を振ると、周りの兵士達は一斉に武器をとり、麻姑に押し迫ってくる。同時に、麻姑は腕輪を投げた。腕輪は閃光のごとく、広間を縦横無尽に飛び回り、ものの三秒ほどで、全ての兵士を斬り殺した。輪が麻姑の手元に戻ってくるのと同時に、兵士達は折り重なって倒れ、武器が床に散らばった。


王は立ち上がったまま呆気にとられていたが、麻姑が一歩、歩み寄ると床にひれ伏して叫んだ。


「お許しを!」


「…」


「お許しを!お許しを!二度とこんなことはいたしません!!」


王はひれ伏し額を床にガンガン打ち付けて叫ぶ。王の額に血がにじんできた。麻姑はためらった。ここで見逃せば、また後で兵士を集めて追撃してくるかも知れない。

だが、額から血を流しながら命乞いする王を見ていると、哀れみの心が生じてきた。この王も自分と同じだ。恐怖に捕らわれているのだ。だが、しかし…


麻姑は輪をおさめると、踵を返して歩み去る。だが、三歩ほどいったところで、背後に殺気を感じた。振り返ると、王が死んだ兵士の手から弓を奪い取り、矢をつがえて、今しも射るところであった。麻姑は振り向きざまに腕輪を投げる。腕輪は空中で矢を切り落とすと、そのまま一閃、王の首を切り落とした。王の体は血を吹き上げて倒れ、首が転がった。


そして、沈黙。広間には死体が折り重なって倒れ、うめき声ひとつ、たてる者もいない。床に流れ出した血がひたひたと、足元まで迫ってきて、麻姑は思わず後ずさり、よろめいた。昔見た戦場の光景を思い出して、気分が悪くなった。

だがこうしてはいられない。誰かがやって来る前に、ここを離れなくては…。だが、外に出ていくのは危険だろう。


麻姑は、鳳凰の羽を取り出して、その端を灯火で焼いた。少しすると、天井が割れて、鳳凰が姿を表した。鳳凰は広間を見回して言う。


「ずいぶんやりましたね」


「ええ」


「さあ、私の背に乗りなさい」


麻姑が背に乗ると、鳳凰は飛び立って、再び山まで戻ってきた。しかし、家の前に降り立つと、妙な息苦しさを感じた。かつて、山の高所で感じたものと同じである。鳳凰が言った。


「あなたが人を殺したから、その汚れを身に受けてしまったのですよ。それで、ここの空気があなたにとって毒になったのです」


「そんな…」


「さあ、もっと下に降りましょう」


二人して山を下り、ふもと近くまでくると、ようやく息が楽になった。麻姑は言う。


「もう、上には戻れないのでしょうか」


「ここで、ものいみを続けていれば、そのうちまた上にも戻れるでしょう。しかし、今はまだ無理です」


「しかし、今回のようなこと、どうやって避ければいいのでしょうか」


「…手がなくはありませんが、多分、これを使えば、あなたはますます人の間にいづらくなるでしょう」


「構いません。もう、こんなことは二度とごめんですわ」


「それでは、あなたに人の心の内を読む術を教えてあげましょう。人に悪意があれば、すぐそれがわかるでしょう」


麻姑はずっと山に住んでいた。時は流れ、時代は移り変わり、一人の男が家族と共に山に移り住んできた。彼は麻姑の元を訪れて言った。


「私は蔡経と申します。あなたは仙人だと聞いております。どうか、私を弟子にしてください」


「私は仙人などではありません。ただ世を離れることを願っているだけです」


「しかし、あなたは戦国時代から生きているという噂、それなのに、年は二十にならないかのようです」


「それはただの噂でしょう。それに、長生きしたからといって仙人ではありますまい」


「私は道を好んでいるのです。どうか、弟子の礼を受けて下さい」


蔡経の心を読んでみると、特に悪意もないようであった。それでも弟子にするつもりなどはなかったが、彼がしょっちゅう訪ねてくるので、自然と近所づきあいになった。


ある日、蔡経があわてふためいてやって来て言った。

「先生、助けて下さい。妻が苦しんでいるんです」


「病気ですか?」


「いえ、子供が産まれそうなんですが、それが難産で、理由もわからないし、ふもとの医者はよそに行っていて、助けてくれる人がいないんです」


「私だって、そんなことはわからない…でも、ちょっと待ってなさい」


麻姑は家の裏手に回って、鳳凰の羽を取り出して焼いた。鳳凰がやって来ると、麻姑は言う。


「こういうわけで、助けてもらえませんか」


「いいでしょう。しかし、この姿ではまずいですから…」


そう言うと、鳳凰は人間の医者に姿を変えて、麻姑と共に中に入る。蔡経は、突然別の男が現れたので驚いた。鳳凰は礼をして言う。


「私は王遠と申しまして、麻姑の兄です。少々、医術の心得がありますので、お力になりましょう」


かくして、三人で蔡経の家に行くと、蔡経の妻が寝床で苦しんでいた。鳳凰は彼女を診察して言った。


「これは、腹を切り開いて、子供を取り出さなくてはなりませんね」


蔡経は明らかにうろたえるが、鳳凰は、


「大丈夫です。母親も子供も死にはしません。私に任せておいて下さい」


と言うと、麻姑にも手伝わせながら、麻酔を打って母親を眠らせると、手術して子供を無事取り出し、傷口を縫い合わせた。麻姑は気が気ではなかったが、さすがに鳳凰は動じる気配もない。


麻姑は子供を洗っている鳳凰を後にして、隣の部屋に入った。隣では蔡経がなすこともなく座っていて、聞いてきた。


「妻は…子供は…、無事ですか?」


「無事ですよ、心配いりません」


麻姑は疲れて腰を下ろした。仕方ないと言えば仕方ないが、蔡経が何もしていないのが少し不満である。しばらく黙っていると、蔡経は麻姑の手をちらりと見やって、心に思うよう、


「何か背中が痒くなってきたな。あの鳥の爪のような爪で、背中をかいてもらえたら、さぞかしいい気持ちだろう」


麻姑はこれを読んで言う。


「蔡経」


「は、はい?何でしょう」


「私を師匠だと思うなら、もう少し敬意を持ってもらいたいですね」


「はっ!申し訳ありません…」


その時突然、あの腕輪の片方が勝手に飛び出して、蔡経を床に打ち倒した。麻姑は驚いて、蔡経が死んでしまうかと思ったが、ただ打たれただけで、死にはしないようだ。

腕輪は蔡経を何度も打ち叩き、「先生、お許しください!先生!」と叫ぶ蔡経。麻姑は輪を戻そうとするが、戻らない。まるで自分の意思をもったかのように、あくまでも打ち続ける。もう片方の輪を投げつけると、ようやく元に戻って、床に転がった。


麻姑はいぶかしみながらも、蔡経に歩み寄って言う。


「大丈夫ですか?」


「うう…、大丈夫です」


そこで蔡経は心に思う。

(仙人であっても、このように怒ったり、他人に敵意を持ったりするものであろうか。仙人も普通の人間も、心の内は変わらないのかもしれぬ)


麻姑はこれを読んで、思うところがある。

「…蔡経」


「は、はい?何でしょう」


「あなたの言う通り、私もまだまだですわね。俗心が抜けきらないようですわ」


「あ、いや、そんなことは…」


「でもそうですわね…私達は皆、本質的にはそう変わらないのかもしれません。

思うにこの世では、人も獣も、生物も無生物も、火が高きに昇り、水が低きに流れるように、みなそれぞれの性質に従って進んでいくものなのですわ。

だから、この世では常に争いが絶えることがないのですわ。あたかも、一つの腕に二つの腕輪をはめていれば、互いに打ち合ってすり減るように…。だが、それも異なことではない。一人の人の内でさえ、常に相反する性質が戦っているのだもの」


麻姑は腕輪を拾い上げながら言う。


「人は、この世界は陰陽の気が分かれて生じたと言っているけど、どうしてその二つは分かれなければならなかったのでしょうか。それは、そういう性質だから、そうならざるを得なかったのですわ。明暗、寒暑、理非曲直…世界は対立によって始まり、闘争によって保たれる…この世は常に相反するもの同士の争いの場だと、確か安息国にも、そんなことを言っている人がいましたわね。


時間が常に自分自身を殺しながら進んでいくように、この世では生きることが同時に死ぬことでもあり、幸には不幸がひそみ、不幸には幸がひそみ、常に自分自身と戦いながら進んでいく…」


麻姑は戸口に向かう。


「先生、どこへ行くのですか?」


「あなたの子供はもう無事に産まれましたし、あなたには私から学ぶことなど何もないでしょう。もう、行かなくては…」


「先生…」


麻姑を追って、蔡経が外に出てみると、もうそこには誰もおらず、ただ岩山の光景が広がっているばかり。ただ、一枚の羽が、ひらひらと空中を落ちてきて、蔡経の足元に落ちた。


その後の麻姑の行方は、誰も知らない。

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― 新着の感想 ―
[一言]  不思議さを味わいながらたのしく読ませていただきました。  人の心が読めるというのは厄介なものですね。  人の気持ちを察することができなれば人の世で暮すことができませんが、人の心が読める…
[一言] 麻姑というタイトルから、どんな話だろう読み出したら、私の好きな中国武侠小説を読んでいるような感覚の歴史+ファンタジー小説と呼んでもいい話でした。 日本人でこのジャンルの話を書く人があまりいな…
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