第一章 結婚式と出会い(泉ノ壱)
結婚式の夜、荻原家一同は式場近くの旅館に泊まった。
夜になると外から蛙の鳴き声が聞こえてくるような田舎だが、そこに似つかわしく無い綺麗な旅館。
俺はその一室の窓際でタバコを吹かしていた。
昔は部屋の中央にあるテーブルで堂々とタバコを吸えたのに、今は麩で仕切られた外側に喫煙席が虐げられているとは。
全く、大分喫煙者も肩身が狭くなったものだ。
「あー、いいお湯だった。」
旅館で必ず一回は聞く台詞を吐きながら、母が部屋に入ってきた。
ここの温泉はそれなりに有名で、腰痛、神経痛、リウマチ、火傷、骨折、ストレス解消、疲労回復と、様々な効果があると謳っている。
ホントかよ。
効能有りすぎじゃないか。
「覧も入ってきなよ。疲れた体にいいわよ。」
母は喫煙所に顔を出して俺にそう言った。
再度言うが俺はニートだ。
一日中部屋にこもっているか、友達と遊びに行くかしかしていない俺に、疲れた体などあるはずもない。
嫌味か。
そもそも俺は温泉と言う奴が嫌いだ。
なぜ男の裸など見なければいけない。
あんな気持ちの悪い物。
いくら隠しても布一枚。おっさんに至っては隠す気の無い奴もいる。
恥ずかしくないのか。
などと考えながら、親に向かってニート風情が偉そうなことを言えるはずも無く、俺は「ああ」とだけ返事をして外に向かいタバコの煙を吐いた。
19時30分。
夕飯の時間になり、一同は“飛鳥の間”と言う部屋に集まった。
個人の都合上先に3人帰り、人数は21人。
先程までの披露宴に集まった250人から比べたら、かなりこじんまりとした感じだ。
それでも俺は親戚が苦手で、楽しく晩酌と言う気分にはなれなかった。
ある程度親戚が集まり席についた頃、俺の両親がビールを注ぎに席を立った。
一応主役の両親だからな。と言うことは、ここは俺も行くべきだろう。
柄にもなくそんなことを思ってしまい、俺はビールの栓を抜いた。
俺が叔父にビールを注ぎに行くと、その辺りで笑いが起こった。
「まさか覧ちゃんにビールを注いでもらえるとはねぇ。」
俺にビールを注がれた叔父が笑いながら言った。
確かにな。自分でもそう思う。
叔父と最後にあったのは未成年の時だったか。
あの頃はビールを注ぐなど大人の仕事だと思っていた。
それがいつの間にか俺もその大人になってしまった。
時間が経つのは早いものだと、またひしひしと歳を感じてしまった。
ビールを一通り次ぎ終わると、宴会恒例の乾杯の音頭が始まった。
ここは我父が仕切るのかと思いきや、叔父が膝をついた状態で体を持ち上げ、乾杯を宣言した。
つくづくうちの家系はおかしいと思う。
それから1時間ほど経ち、俺はすっかり酔ってしまった。
あー。
気持ちが悪い。
あまり飲むつもりはなかったのだが、雰囲気と半強制的に継ぎ足されるビールで、酒に弱いにも関わらずコップ3杯は飲んでしまった。
俺は下戸とは言わないがかなり酒に弱い方で、1杯飲めばもう顔は真っ赤。
それを3杯も飲んだとなると、布団に倒れ込まずには居られなかった。
部屋に戻ると既に布団が敷いてあった。
俺は全身の力を抜いて布団に倒れ込んだ。
それからどのくらいたっただろう。
周りにはいつの間にか帰ってきた両親がいた。
父はいびき、母は歯ぎしり、外からは蛙の鳴き声と、最悪のコラボで不協和音を奏でていた。
自宅では3人共別々の寝室があるので眠るのに困ることはないのだが、こういう時は不快にも程がある。
不協和音で目が覚めてしまった俺は、携帯電話で時間を確認した。
午前1時。
時間を見ると不意に温泉に入りたくなった。
俺は温泉が嫌いだ。
しかし、俺が嫌いなのは男の裸であって、温泉自体はむしろ好きな方だ。
貸し切りなんて最高ではないか。
流石に貸し切りと言う訳にはいかないが、この時間なら人も少ないだろう。
寝汗もかいたことだし、俺は温泉に行くことにした。
脱衣所に着くと、深夜にも関わらず人間が3人いた。
ここの温泉は24時間開いているので、俺と同じような考えをしたのだろう。
まあ、まだ許容範囲内だ。
俺は体を洗うタオルを2枚取り、見られたくない部分をしっかり隠しながら服を脱いだ。
温泉の中に入ると湯気の香りと流れる水の音がする。
素晴らしい。やはり水は癒される。
俺は流れる水が好きだ。
海や川、滝なんて最高の癒やしスポットだ。
その点だけなら温泉も十分癒しに値するが、案の定前を隠さない不届き者がいる。
街中で全裸になって捕まるのに、何故この場はわいせつ物陳列罪が適用されないのか。
日本の文化はうちの家系と同じくらいどうかしている。
恐らくそう思っているのは俺ぐらいだろうが。
見たくないモノを見ない様に視界をぼやけさせながら、俺はシャワーの前に腰掛けた。
持っていたタオル1枚でしっかり見られたくない部分を隠し、もう1枚で体を洗った。
その為の2枚。必ず2枚。
銭湯などでは貸し出しを1枚までとする所があるが、そんな物は論外だ。
そう言われた時点で帰るか、1枚買って持っていく。
俺は見るのも見られるのも絶対に嫌だ。
まあ、女性に対してなら話は別だけどな(笑)。
あいにくここは混浴では無い。
混浴ならば率先して人の多い時間に入りに来た。
変態的な思考を冗談混じりに考えながら、俺は体を洗っていた。
さて、体を洗い終わって、いよいよお楽しみの入浴タイムだ。
気持ちの悪いモノを見せられたのだ。その分の癒やしは得なければならない。
俺が辺を見回すと、様々な温泉があった。
それはそうだ。
あれだけの効能が一つの温泉にあるなど、嘘くさいにも程がある。
温泉の名前を見てみると“龍の巣”やら“勇士の癒し”やら、いちいち格好付けた名前が付いていた。
龍の巣の効能を見ると、リウマチと書いてあった。
リウマチ…龍街…龍の街…龍の巣…。
ダジャレかよ。
そう思いながらもどれに入ろうか迷ってしまう。
とりあえず露天風呂の方が好みだ。
俺は外へ通ずる道へ向かった。
ガラスの扉を開け外に出ると、春先と言えど流石に夜は寒かった。
我慢出来ない程ではないので、一旦立ち止まり辺を見回した。
露天風呂もいくつかの種類があるようだ。
その中で一際目立つピンク色の看板があった。
色恋の湯。
説明文によると、この温泉に入れば恋愛事が上手く行くらしい。
なんとも胡散臭い温泉だ。
とは言え、恋人のいない俺はとても興味がある。
ネタとしても面白そうなので、この温泉に入ってみる事にした。
俺はピンク色の看板の横にある、竹で出来た扉を開けた。
他の温泉は頻りなどないのに、色恋の湯だけは竹の塀で孤立していた。
俺は不思議に思ったが、異質な温泉だから分けているのだろうくらいにしか考えていなかった。
この後、安易にこんなところに入ってしまった事を後悔するなど、想像もしていなかった。