『忘却の夜明け』
──それは、絶対に手放してはいけないものだったはずだ。
ほんの数秒前まで、私の思考の真ん中にあったはずのそれは、瞬きをひとつした隙に、まるですりガラスの向こうへ溶けるようにして消えてしまった。
輪郭さえ思い出せない。
胸の奥に、ひりひりとした空腹に似た焦燥感だけが、澱のように残っている。
部屋のなかの、静まり返った空気に耐えかねて、私はサンダルを突っかけて外へ出た。
一歩足を踏み出すと、そこには容赦のない、田舎の夜が広がっている。
街灯はひどくまばらで、頼りないオレンジ色の光が、わずかに足元を照らすだけだ。
数メートル先はもう、すべてが濃い闇のなかに沈んでいる。
遠くを見通そうとしても、視線はただ、湿った夜気に遮られるばかりだった。
見上げると、天には無数の星が、息をのむほど鋭く輝いている。
けれども、その光はあまりにも冷たく、私のいるこの暗闇には、けして届きそうにもなかった。
私は、自分が「何を」探しているのかさえ分からないまま、アスファルトの冷たさを足の裏に感じながら、ぽつぽつと灯る貧弱な明かりのほうへと歩き出した。
暗闇の奥から、そこだけ空間が切り取られたかのような、奇妙に鮮やかな青白い光が漏れていた。
近づいていくと、それは一台の自動販売機だった。
周囲に民家も店もないこのいなかの道で、それはあまりにも過剰な光を放ち、ぽつんと佇んでいる。
私は飲み物を買うわけでもなく、ただその光の前に立ち尽くした。
眩しいアクリル板の表面には、数匹の小さな羽虫が、狂ったようにぶつかり、這い回っている。
彼らは光を求め、光に触れようと必死に翅を震わせていた。
その姿が、どうしようもなく自分自身のように思えて胸が痛んだ。
どこにあるかも分からない「大切だったはずの何か」を求めて、夜の底を彷徨っている私。
当然ながら虫たちがどれだけ光に群がろうとも、その光を自らの身体のなかに落とし込むことはできない。
彼らはただ、透明なプラスチックの障壁に阻まれ、光の表面をなぞるだけだ。
私もまた、失った記憶の表面を、もどかしくなぞり続けているに過ぎない。
「───私たちは、同じだね」呟いた声は、湿った闇に吸い込まれて消えた。
虫たちの羽ばたきは、冷たい光のなかで、どこか無機質な模様のように美しく明滅している。
私はその切ない色彩を、網膜の裏側にじっと焼き付けた。
自動販売機の青白い光を背にして進むと、また元の容赦のない暗闇が私を飲み込んだ。
ここにはもう、虫を狂わせる光もなければ、他人の気配を知らせるものもない。
ただ、しんと冷え切った、不気味なほどの静寂が広がっている。
周囲の草むらや、遠くに見える歪んだ樹木の影が、暗闇のなかで奇妙な怪物のように私をじっと見下ろしている。
その不気味さに反して、私の心は不思議と穏やかだった。ざっ、ざっ、と、私が土を踏みしめる乾いた足音。
すれ、すれ、と、歩くたびに薄手のコートが擦れる頼りない布の音。
この広大な夜のなかに響いているのは、私の身体が発するその二つの音だけだった。
都会にいれば、絶え間ないノイズに掻き消されてしまうほどの微かな音が、ここでは世界を支配する唯一の旋律になる。
そのことに気づいた瞬間、胸を締め付けていた寂しさは、ゆっくりと形を変えていった。
ああ、いま、この世界には私しかいないのだ。
それは強烈な孤独であると同時に、途方もない解放感でもあった。
大切なものを忘れてしまったという事実さえ、この圧倒的な静けさの前では、どうでもいいことのように思えてくる。
誰も私を責めない。
誰も私に期待しない。
私はただ、自分の足音だけを頼りに、どこへだって歩いていける自由を手に入れていた。
私は深呼吸をした。
冷たい夜気が肺を充たし、頭のなかのモヤが少しずつ、透明な結晶へと変わっていくのを感じた。
どれほど歩いただろう。
遠くの山の端が、墨色から薄い紫へと、ゆっくりと滲むように溶け始めていた。
夜明けが近い。
私は立ち止まり、大きく息を吐きながら東の空を見上げた。
そのとき、不意に気づいた。
私が部屋のなかで必死に掴もうとして、そして指の隙間からこぼれ落ちてしまった「あの素晴らしいアイデア」のことだ。
いま思えば、それはきっと、ひどく陳腐で退屈なものだったに違いない。
四畳半の閉ざされた空間で、冷めたコーヒーをすすりながら、世界のすべてを知ったような顔をしてこねくり回していただけの、ちっぽけな独りよがり。
忘れてしまって、正解だったのだ。
もしあのとき、あの退屈な言葉を予定通りに書き留めていたら、私は満足してそのまま眠りについていただろう。
狂ったように冷たい光に群がる羽虫の、あの哀しいほどの美しさを知ることもなかった。
静寂のなかで世界を支配する、自分だけの衣服の擦れる音や、確かな足音の優しさに耳を澄ますこともなかった。
世界は、こんなにも素晴らしいもので溢れている。
街灯の少ない田舎の夜道。
見通せない暗闇。
そして、けして手は届かなくとも、確かにそこに在って輝き続ける無数の星たち。
家の中に閉じこもっていただけでは、私はこの剥き出しの美しさに、一生出会うことはできなかった。
探していた「元の何か」は、もういらない。
私は反転し、自分の部屋へと歩き出す。
胸の奥の空白は、いつの間にか、夜の空気と、光と、音と、確かな世界の断片で満たされていた。
忘却という名の余白に、いまなら、さっきよりもずっと本物の言葉を、新しく刻み込める気がしている




