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2026/1/7_11:03:53

    13,チケット販売

 6月が梅雨と共にやって来た。雨の日の出勤は憂鬱だったが、アパートを出て電車に乗ると、その憂鬱な気分も人混みに洗い流された。下北沢駅で下車し、改札口を出ると、商店街のマイクや路上を歩く人たちのウオークマンなどから、音楽が送られて来た。気が付けば、出勤した喫茶店『ボヌール』でも軽音楽が流れており、東京という都市空間では何時、何処でも音楽が溢れているのだと気づいた。音楽を聴きながら、早坂信平は、五味克彦ではないが、この『ボヌール』の客の中に、『演劇広場』の演劇のチケットを買ってくれる人はいないだろうかと思った。だが、考えてみれば店に来る馴染み客は、皆、宮下若菜が劇団員であることを知っていて、信平がチケットを買ってと、しゃしゃり出る余地など無かった。その上、岩崎店長は『ボヌール』のオーナーである遠藤団長の指示を受け、レジカウンターに『曙橋慕情』公演のパンフレットを置き、ウエイター長、小野栄治に、それを配布させていた。従って信平のチケット販売のノルマを、『ボヌール』で得ようとするのは無理だった。こうなったら、自分が暮らす『メゾン羽根木』の近くのアパートにいる女子大生、坂口美咲たちが、何枚、買ってくれるか期待するしかなかった。それが勝負だった。その結果、売れ残った分は、自腹で買って、公演日の一週間くらい前に新宿に出かけて、路上配布するしかないと考えた。前売券は1枚2千5百円だから、10枚で2万5千円となるが、その総額を自己負担するとなっても、現在の信平の銀行口座の残高からすれば、何の支障も無い事だった。しかし手持資金が目減りして行くことは、これから、この厳しい大都会で、独立独歩、一人で生きて行かねばならぬ信平にとっては望ましい事では無かった。それ故、信平が劇団員であると知っている誰かが買ってくれないかと願った。そんな信平を気にしてか、仕事中に若菜が声をかけて来た。

「信平ちゃん。チケット販売、うまく行ってますか。さばききれないようだったら、相談して」

 若菜が目を細くして優しく言ってくれたが、信平にも演劇活動に参加している劇団員としての意地があったので、強気な発言をした。

「大丈夫です」

 つい心にも無い返事を口にしてしまった。既に沢山のフアンをかかえている若菜は、五味克彦同様、チケット売りに自信を持っていた。信平は若菜に声をかけられたりして、チケット販売のノルマの事が気になりだすと、『ボヌール』で接客しながらも、『演劇広場』で稽古をしながらも、チケットを完売出来るかどうか、気がかりになった。アパート『メゾン羽根木』に帰ってからも、そのことが頭の中を駆け巡り、眠ってしまえば気にならないだろうと布団に潜り込んで、仰向けになっても、気になって仕方なかった。天井に吊るされた電灯を、ぼんやり見上げていると、上京してから、ずっと封じ込めて来た幼馴染の川端晴美のことが、突然、浮かんで来た。彼女は今、どうしているのだろうか。無事に、大学に通い、学業に励んでいるのだろうか。友達が沢山、いるのだろうか。恋人はいるのだろうか。もし大学に訊ねて行って、チケットのことを話したら、何枚か買ってくれるだろうか。池袋の大学は池袋駅から近いのだろうか。それとも板橋のアパートを訪ねた方が良いのだろうか。英文科で勉強しているのだから、演劇に興味を持つ友人も沢山いるのではないだろうか。そういえば東京に来てから、携帯電話を新しい番号に変更した時、今までのアドレス帳の読み込みをしてもらっているので、川端晴美の携帯電話番号はアドレス帳の彼女の名前を押せば、通じる筈だ。信平は枕元に置いてある携帯電話機を取って、晴美の名前を押そうと思い、人差し指を伸ばしたが、直ぐに思い留まった。

「今は、その時ではない。有名になるまでは、誰にも存在を知られてはならない」

 信平は天井に向かって呟いた。信平が故郷を去って、上京してから、以前の携帯電話機に家族は勿論のこと、晴美からの電話やメールが、幾度も入って来たのを想い出す。しかし、その総てを無視して来た。会いたいから連絡して欲しいとのメールも入ったが、それの返信もしなかった。そして携帯電話機を新しく入れ替え、電話番号を変更した今は、故郷の関係者の誰とも接触することを止めた。罪深いことかも知れないが、自分の方から一方的に自分の過去の人たちと決別したのだ。

 そんな信平に、金曜日の午後、野原香澄からメールが入った。先日、約束した7月10日、日曜日の『演劇広場』の公演の前売券手配の申込みだった。

〈 こんにちわ。

 紫陽花が雨に濡れて綺麗なこの頃ですね。

 お手数を、お掛けしますが、チケットの手配、

 昼の部を8枚、お願いします。

 入手出来ましたら、お知らせ下さい。

 よろしくお願いします           〉

 そのメールを受けて、信平はびっくり。大喜びすると共にほっとした。直ぐにお礼の返信を送った。

〈 有難う御座います。

 沢山、買っていただき、感謝感激です。

 チケット入手出来次第、連絡しますので、

 少々、お待ち下さい            〉

 彼女たちが8枚も買ってくれるとは、予想外だった。せいぜい4枚程度と考えていた。それが8枚も買ってもらえることになったのだ。1枚、2千5百円のチケットは、女子大生にとって高すぎるのではないかと思っていたが、彼女たちの自分への協力に、信平は心から感謝した。自分に割り当てられた10枚のチケットは、これにより完売出来たようなものだ。香澄に、チケット入手次第と返事したが、チケットは既に入手しているので、自分の都合の良い休みの日に合わせ、後で彼女に届ける日時を連絡することにした。残りは2枚。その残りを誰に売ろうか考えている時、胸ポケットで、携帯電話が鳴った。ポケットから携帯電話機を取り出して、耳に当てると、先月末に『鈴なり横丁』で会った望月満男からの電話だった。

「秋元マスターから、北上さんなら、まだ『曙橋慕情』のチケット、譲ってもらえるのじゃあないかと教えてもらったので、電話しました。チケット、まだ残っていますか?」

「ありますが、何枚ですか?」

「2枚ですが、ありますか?」

「ありますよ」

「ああ、良かった」

 望月満男とは、一度会っただけで、余り口を利いたこともないのに、チケットを欲しいという。有難い電話だった。信平は『演劇広場』での稽古が終わってから、早速、そのチケットを届けに、『鈴なり横丁』の居酒屋へ行った。信平が店のドアを開けるや、秋元公一マスターが笑顔で歓迎した。

「いらっしゃい。お待ちしてますよ」

 秋元マスターはカウンターの奥で焼酎の御湯割りを飲んでいる望月満男の所在を、目で合図した。その望月は信平の来店に気づくと、にっこり笑い、自分の隣に座るよう手招きした。信平が横に座ると望月が済まなそうに言った。

「申し訳ないね。突然、お願いして」

「そんなこと無いです。有難いです」

「何、飲む?」

「あっ、ビール、お願いします」

 信平は秋元マスターにビールを頼んだ。そしてカバンの中から『曙橋慕情』のチケットを取出そうとすると、ビールが直ぐに出て来た。信平がマスターからジョッキを受け取ると、望月が飲んでいた焼酎のグラスを差し出し、信平の持つビールのジョッキに軽く、ぶつけた。

「じゃあ、乾杯」

「乾杯」

 ジョッキとグラスをぶつけ合うと、何故か緊張がほぐれ、和やかな気分になった。信平はビールを一口飲んで、『曙橋慕情』のチケット2枚とパンフレットを望月に渡した。望月は、それを受け取ると、胸ポケットから財布を取り出し、千円札を5枚、信平に差し出した。

「数えて。5枚あるよね」

「はい。確かに5千円、受取りました。有難う御座います」」

 そんな二人の様子を見て、秋元マスターが二人に声をかけた。

「二人とも、私にも一言あって良いんじゃあないの。感謝の気持ち」

「そうだね。マスターの心使いに、二人とも、とても感謝してます。なあ、北上さん」

「はい。有難う御座います。マスターへの感謝の気持ちでいっぱいです。お陰様で、ノルマを達成することが出来ました」

 信平は望月に合わせ、秋元マスターに、心から感謝の言葉を述べた。望月に残りのチケットを買ってもらい、北上さんと呼ばれ、ビールを飲み、マスターの美味しい料理を口にし、信平は嬉しくてたまらなかった。

 翌週、信平は渋谷に出かけた。紫陽花の季節の休日は、何時、雨が降って来るか気がかりで、傘を持って出かけたが、雨の降る気配は無かった。ここで信平がいう休日は、劇団の稽古と喫茶店のアルバイトが休みの日であって、いわゆる休日ではない。会社員や学生たちの勤務学業の日だ。信平は渋谷の喫茶店『キーフェル』に行き、野原香澄が現れるのを待った。昨日、『曙橋慕情』のチケットを入手したので、渡したいとメールしておいたのだ。喫茶店の窓から見える道玄坂の欅は青葉に変わり、田舎育ちの信平の心を明るくしてくれた。今日もまた、香澄と美咲は二人で来るのだろうか。約束の3時になると、予想通り、二人が店のドアを開けて入って来た。香澄は相変わらずスイトピー色のトップスに、ぴったりとしたデニムのショートパンツをはいて、派手なスタイルだった。美咲は青と白のストライブシャッツにグレーのスカートをはき、女らしい装いだった。こんな姿の女子大生たちに講義をする大学教授は、どんな気持ちで彼女たちと接するのか、ふと余分な事を考えた。香澄が笑顔で声をかけた。

「お待たせ。どうしたの。きょとんとした顔をして・・」

 信平は、そう言われて、はっとして我に返った。自分の妖しい視線が、彼女たちに気づかれたのではないかと、少し赤くなった・

「二人とも、何時も明るく、仲良くしてるから」

「もしかして、私の露出スタイルに悩殺されそうになったんじゃあないの?」

「そ、そんな」

「香澄ちゃんたら、何、言っているの。ごめんなさいね。変な事ばかり言って・・」

 香澄に代わって、美咲が信平に詫びた。ウエイトレスが、水の入ったグラスを準備して、三人の会話が終わるのを待った。

「何にしますか?」

 信平はウエイトレスの代わりに、飲み物を何にするのか、二人に訊いた。二人はウインナーコーヒーをウエイトレスに註文した。ウインナーコーヒーとはオーストリア風のコーヒーで、その昔、ウイーン人が馬車に乗りながらコーヒーを飲む時、コーヒーカップからコーヒーがこぼれぬように、コーヒーの上に生クリームを入れて、泡立たせて飲んだことから、そう呼ばれているという。信平は『ボヌール』で、そう教えて貰っていたので、二人に、その話をした。すると二人は信平の知識の広さに驚いた。二人が自分に注目したところで、信平はバックの中から、『曙橋慕情』のチケットを取り出した。

「これ、頼まれたチケット昼の部、8枚です。それにパンフレット8枚、お渡しします」

「あ、有難う御座います。合計2万円よね」

「はい、そうです」

「では、2万円」

 香澄は仲間から集めたチケット代金の入った封筒を信平に渡した。信平は、それを両手で受け取り、頭の上に載せ、感謝の気持ちをこめて頂戴した。

「ありがとう御座います」

「あらっ、このパンフレットに、北上信平って、ちゃんと名前が載っているのね」

「どこどこ。あっ、本当だわ。凄い、凄い。北上さん」

 それから話題は演劇の話になり、信平がどんな気持ちで演技をしているのか、質問された。そう訊かれて正直なところ、そんなこと考えた事も無かった。ただ浜田監督が満足するように動いているだけだった。しかし、質問に答えなければならないので、もっともらしく話した。

「役者という者は、脚本家や監督の考えているものを、忠実に表現する仕事だと思ってます。だから作品や監督が観客に訴えたいものが何であるかを把握し、それを自分の肉体から捻出するよう心掛けています」

「まあっ。しっかりしているわね」

「でも作品を更に輝かせる為、時々、自分の思いを発散したくなる時もあります」

「他人によって作られたものに、自分の思いを加えるのね」

 三人の話ははずんだ。喫茶室での話題が無くなると、何時ものように、イタリアンレストラン『グルマン』に行き、パスタを食べた。チケットを買っていただいたので、食事代は信平が支払った。食事が終わると、信平は新宿に行くという二人と別れて、東松原のアパートに帰った。


     14,リハーサル

 割り当てられたチケットを完売し、信平は一安心した。だが劇団員である現実は、そう甘いものでは無い。『曙橋慕情』の1場から6場までの、ぶっ通しの稽古は、上京してから演劇世界に跳び込み、無我夢中で練習して来た信平には、まだ慣れないことが多々あり、難しかった。もともと人前で喋るのが苦手な性格だったが、農協の営業で鍛えられたお陰で、何とか対応して来た。そんな風であるから、周囲の者から、被災地からやって来て、頑張っていると好感を持たれていた。だが、言葉が滑らかでなく、動作の鈍い信平の不自然な演技を目にすると、浜田監督は厳しく指摘した。

「もっと軽く、なめらかに自然体で演じてくれないと、主人公が目立たなくなってしまう。台本の字面に頼らず、素直に郵便配達をしてくれれば良いんだ。北上君は通り過ぎる風で良いんだよ」

「通り過ぎる風?」

「そうだ。それを表現出来れば、客席の人たちも、その風の中で、主人公を観る事が出来るのだ」

 浜田監督の言う事を理解するのは難しかった。頭の中で考えると分からなくなるので、その雰囲気に従って役を演じた。風になれと言われても、人間が風になれる訳が無かった。比喩とは分かっているが、慣れるまでには時間がかかった。まごつく信平を見て、細村慶子が信平に声をかけてくれた。

「監督の言う事を難しく考えては駄目よ。ストーリィは全部、台本によって、御膳立てされているのだから、細かい事は気にしないで、軽くやれば良いの。軽く。それで、通り過ぎる風になれるの」

「風になるって、そういう事ですか」

「そうよ。脇役は余り目立たない方が良いの。でも脇役が存在することで、お客様の心を、より近づかせることが出来るの。お客様を脇役と一緒にいるような思いに引き込ませるのが、脇役の真骨頂なの」

 言われてみれば、脇役とは目立ってはならない存在でありながら、なくてはならない存在だった。それは雰囲気を盛り上げる太鼓持ちのようなもので、主役を孤立させない為の役割だった。このことを五味克彦も下田次郎も宮下若菜も、理解して演技しているのだろうか。信平は通り過ぎる風のようにと、頭の中で何度も繰り返し演技した。またメインキャストの青木洋子、平野由美、杉山良介たちの演技にも目を向けた。青木洋子の演じる姉、節子の姿は、時代の中で強く生きる女の目の輝きと機敏な動きで、主人公をくっきり浮き彫りにさせ、何ともいえぬ艶があった。平野由美の演じる妹、和子は明るく軽やかなステップで自然体そのままで、語るように歌い、とても心地良い時間を醸し出し、楽しくしてくれた。杉山良介の演じる復員兵、南雲竜也は、敗戦という絶望の中で混乱しながらも、何とか新しい世界へ踏み出そうとする試行錯誤の果てに、真実の愛を掴む青年の姿を、彼の鋭い目力で、魅力ある独特な人物に創り上げて見せた。その他、遠藤団長や細村慶子たちのベテランの演技には、何故か落ち着きがあり、セリフの発生、立居振舞に味があった。若い川口昌行、五味克彦、下田次郎、宮下若菜、高木桃香たちも、浜田監督の教えに沿って、上手に喜怒哀楽を演じて、完全に、この作品に欠かせない存在になっていた。信平が他人の演技に目を向けるようになって気づいたのは、自分たち演技者が原作者の思いを舞台で披露し、観客の心の中にその思いを伝染させる役割を担っているということであった。それが役者の演じる基本であると、信平は学んだ。そしてベテランになると、台本見ずの通し稽古に入っても、全く慌てず、セリフを喋れるので感心した。自分も経験を重ねれば、長いセリフでもサラッと喋れるようになるのだろうかと、将来の事を夢想した。

 6月の終わりになると、『曙橋慕情』の稽古がいよいよ終盤に差し掛かった。浜田監督は勿論のこと、劇団員の公演への意気込みが一段と高まった。観客から沢山の拍手を頂ける作品にするには、主役たちが舞台の上で、観客の魂を揺さぶる演技力を炸裂させ、悩み、苦しみ、吐息、怒り、震え、喜び、涙といったものを観る者の肌に感じさせることが必要だった。その限られた時間内での濃密な演技の奥深さが、観客の内に秘められた感情を外に引っぱり出し、劇場内に溢れさせるというのだ。そういった意味で、浜田監督と遠藤団長は、新宿のシアターの公演前に、『曙橋慕情』の演劇を、知り合いの人たちに観てもらうことにした。土曜日の夕方、その人たちが、下北沢の『演劇広場』に集まって来た。その人たちは『アモーレ』という同人誌のメンバー十五人ほどだった。この作品の原作者、丸山伸之をはじめとする小説や詩を愛好する文学者たちで、演劇についても、辛辣な批評をする人たちということだった。そのリハーサルが何時も稽古している『演劇広場』の教室で始まった。信平は何時もの教室なのに、観客を前にして、とてつもなく緊張した。第1場は信平のセリフが無く、終戦の玉音放送を頭を垂れて聞くだけなのに、第2場のことが気になり不安だった。第2場になり、郵便配達の出番になると、緊張して息を吸うばかりで、息を吐くタイミングを失い、息苦しくなり、眩暈がして、自転車にうまく乗れず、ヨロヨロ登場して、皆に笑われた。そこで信平は溜まっていた息を全部吐いた。すると胸がすっきりして、緊張が解けた。すると配達員のセリフがスムーズに口から出て来て、軽くなった。これこそが軽くなる対処の方法であると悟った。兎に角、息をすうっと吐いて、登場することに心がけると、第4場の帰国の知らせを持って神社の前を通過する時は、自転車にも上手に乗ることが出来た。そして最終の桜咲く第6場では、新郎新婦に拍手を送り、リハーサルは時間通りに終了した。浜田監督は脚本の作者、丸山伸之に出来栄えを訊いた。その問いかけに作者は、こう答えた。

「素晴らしい出来栄えに、時間を忘れそうになったよ。ここまで良く頑張ってくれた。ありがとう。私の求めに監督は徹底的に、愚直なまでに従い、キャストの一人一人が、その監督の意思を汲み取り、一心不乱に、その役に集中して演じてくれて素晴らしかった。ちょっと緊張し過ぎの人もいたが、本番では上手く行くと思うよ」

 その丸山伸之の評価を受けて、浜田監督を始め遠藤団長らは自信を得た表情を見せた。浜田監督は更に『アモーレ』の同人、松坂秀明にも、劇評を、お願いした。小説を書いている松坂秀明は、劇団員が今まで熱心に演じて見せた情景を思い出しながら、感想を語った。

「初舞台を前にしたリハーサルを観させていただき有難うございました。戦後の辛い時代のこの物語は、戦争の悲惨さを教え、目頭が熱くなり感動しました。浜田監督の演出による青木洋子さんと平野由美さんという二人の組み合わせが、とても魅力的でした。連日、浜田監督の指導のもと稽古を重ね、物凄いエネルギーで、各配役が演技を磨き上げられたのだと想像します。キャストの人たちに独特の雰囲気があって、良かったです。終戦から60余年の今、後世に語り継ぐべき大切な作品であると、心から思いました。本番を観に行きます。皆さん、頑張って下さい」

 二人の激励の言葉に劇団員が満足して耳を傾けていると、女流詩人、中村久美が手を上げて立ち上がり、付け加えた。

「私も、この作品に感動しました。終戦と言うより、敗戦と言う暗闇の中から、次第に明るさを取り戻す戯曲に設定された状況を、それぞれその配役、一人一人が理解し、説得力を発揮し、その情感がじわりじわり滲み出て来る演技は、まさに名演技と言っても過言では無いでしょう。全部を説明しないで、観客に考えさせる余地を与える場面もあり、印象に残る素敵なリハーサルでした」

 同人誌『アモーレ』の同人メンバーの中で、ひねくれ者と噂されている中村久美に、何か問題点を指摘されるのではないかと、皆が緊張したが、彼女の批評も、褒め言葉だった。信平は3人の批評を聞いて、流石、文学者だけあって、気の利いた答えをするものだなと思った。『アモーレ』の人たちを招いてのリハーサルが終わると、浜田監督や遠藤団長、細村慶子たちベテランは、『アモーレ』の人たちと一緒に食事に出かけた。信平は五味克彦たち若者で、『鈴なり横丁』に行き、今日のリハーサルの結果を語り合った。


     15,シアター公演

 東日本大震災から、4か月、経過し、7月になるが、被災地の復興のきざしは見えず、福島原発は、ようやく淡水注入を実施し始めたところだという。信平は家族や友達のことが気になって仕方なかったが、自分の目的の為、そのことから気を逸らせるよう努めた。何となく後ろめたい思いが身体の中に浸透しようとするのを、演劇の稽古で断ち切った。『曙橋慕情』の公演が目前に迫っていて、公演の準備が大変だった。信平は舞台美術の藤田研吾の手伝いをしていたので、公演の二日前に、舞台装置の運び込みをしなければならなかった。信平は『ボヌール』の岩崎店長にアルバイトを休ませてもらい、下田次郎、杉山良介、川口昌幸たちと一緒に、その積み込みを手伝った。『藤田巧芸』の4トントラック2台で、新宿のシアターまで、車で運ぶのに車を運転出来る者が少なく、藤田研吾が1号車、信平が2号車の運転をすることになった。信平の運転する車の助手席に下田次郎が乗った。信平は都内の地理が分かっていなかったので、藤田研吾が運転する1号車を見失わないようにして、その後を追って運転した。時々、下田次郎が向かう方向を指示してくれた。下北沢を出発し、環七通りを走り、京王線を横切り、甲州街道にぶつかった所で右折し、新宿に向かった。

「あれがオペラハウス、その向こうが都庁」

 下田次郎が、目の前に現れて来る建造物を説明するが、運転している信平は、それどころでなかった。藤田研吾の車を追いながら、緊張の汗が止まらない。車が多く前方、左右、後方にも気を配らなければならない。やがて前方に新宿駅の標識が現れ、坂道を登り、新宿駅南口を通過した。下田が、この道路の下を電車が走っていると言った。新宿駅前を過ぎると下り坂になり、新宿三丁目に到着した。それから1号車は細道に入り、信平は歩行者を注意しながら、ハンドル操作をした。と突然、1号車が停まった。信平は慌てて2号車を停めた。すると藤田研吾が照れたように笑いながら、1号車の運転席のドアを開けて降りて来て言った。

「やれやれ、やっと着いたよ。ご苦労さん」

 その声に信平は下田と一緒に、2号車から降りた。そこへ電車に乗って、新宿のシアターに駆け付けた川口昌幸、杉山良介たちが現れ、皆で車に積んで来た舞台道具を降ろし、ビル2階の公演会場に運んだ。信平は初めて見る公演会場を目にして、そのホールの大きさが、それ程、大きくないので、ちょっと驚いた。予想外だった。故郷の文化会館の小ホールより小さく、客席が300席あるかないかだった。しかし舞台の広さは、その目的に応じて設計されていて意外に広かった。舞台道具の運び込みが終わると、浜田監督や遠藤団長も顔を見せ、1場から6場までの舞台背景を、皆でセットし、確認した。その結果、若干の修正箇所があったが、大方、合格し、美術担当の藤田研吾をはじめ、信平たち手伝いもほっとした。全ての確認が終了したところで、遠藤団長が持って来たサンドイッチを皆で頂いた。『ボヌール』の岩崎店長と山本コックたちが作ってくれた昼食だった。皆、午前中に組み立てた舞台背景の前で、自分が演じる姿を想像しながら、そのサンドイッチを美味しそうに口に入れた。サンドイッチを食べ終えると、その場で解散になった。信平は、その後、藤田研吾に従い、駐車場に行き、下田次郎を助手席に乗せ、4トントラックの運転をして下北沢に引き返した。藤田研吾と五味克彦が乗るトラックの後を追って、車を走らせ、下北沢の『藤田巧芸』に戻った。2台のトラックを車庫に納めて、シャッターを下ろすと、藤田研吾が3人に言った。

「お疲れさん。ちょっと飲みに行こうか」

 それを聞いて、下田次郎が、待ってましたとばかり、笑顔で答えた。

「いいですね。行きましょう、行きましょう」

 下田と五味が賛成したので、信平も、それに従った。『鈴なり横丁』の居酒屋へ行くと、秋元マスターが、四人を明るく迎えてくれた。また望月満男も飲んでいて、信平たちに期待していると言ってくれた。嬉しかった。

 信平は、その翌日の金曜日も『ボヌール』のアルバイトを休ませてもらった。公演の前日の稽古に参加する為だ。『ボヌール』のオーナーである遠藤団長の主催する劇団の為とあって、岩崎店長も、信平と若菜の休みを許可せざるを得なかった。信平は『メゾン羽根木』の部屋で、簡単な朝食を済ませると、ジャンパー姿で、アパートを出て、東松原駅から井の頭線の電車に乗り、何時もと反対方向にある明大前まで行き、そこから京王線に乗り換え、新宿駅まで行った。その後、どうやって昨日、行ったシアターに行ったら良いのか分からず、昨日、トラックを運転した時の事を振り返り、まずJR新宿駅南口に出た。そこで、昨日、走った道路を目にすると、後は、どう行けば良いのか分かった。シアターに辿り着き公演会場に入ると、皆、これからの本番練習が楽しみらしく、笑顔で挨拶し合った。全員が集合すると岩崎団長が、本日、3回、本番練習を行うと説明した。午前、午後、夕方の3回だという。午前9時、浜田監督の掛け声で、第1回目の稽古が始まった。

「では、始めよう」

 皆、その掛け声に緊張した。何しろ衣装セットも本番の物を使い、音楽や照明も加わり、台本を見ないでの通し舞台なので、皆、無我夢中だった。下手な個所があると、浜田監督が、怒鳴って、その者に活を入れた。浜田監督の演出は聞きしに勝るもので、途轍もなく恐怖を感じさせるものだったが、皆、真剣に演技に取り組んだ。若者から老人、子供まで、20数名の劇団員が、『曙橋慕情』の庶民の力強く生きる様を、したたかに演じ、だれることが無かった。本番練習とあって、原作者の丸山伸之も浜田監督と一緒に、舞台正面の客席に座り、舞台演技をじっと見つめた。第1場から場面ごとにセットを組み換え、次から次へと物語が展開して行くステージは、裏方の仕事を兼ねる信平には、目まぐるしかったが、藤田研吾の指示を受けて、機敏にこなした。第3場を終えたところで休憩が入り、信平は仲間と一緒に、缶コーヒーを飲んだ。15分程して、第4場が始まると、また忙しくなった。自分の出番が来ると、信平は緊張した。『演劇広場』の稽古場で自転車に乗るのと、ここの舞台で自転車に乗るのでは全く状況が違っていた。下北沢の稽古場は平だが、新宿の舞台と客席の段差は1メートル程だった。その舞台から落下しては困ると、信平が、舞台の奥の方に自転車を乗り付けると、浜田監督が怒鳴った。

「自転車は、もっと前。客席とすれすれの所まで来て、自転車から降りる。風のようにな」

「は、はい」

 信平が驚き、目を丸くするのを見て。原作者の丸山伸之が、声を上げて笑った。信平は、ムッとしそうになったが、怒りを堪えた。そんなこんなしているうちに、第6場の幕が下りた。そして昼食の時間となった。それぞれ持参した弁当を客席に座って食べた。信平がコンビニで買って来た弁当を食べ終わって、若い連中で喋っていると、丸山伸之が近寄って来て言った。

「北上君。先ほどは笑っちゃって悪かったな。浜ちゃんが、無茶な事を言ったから」

「良いんです。監督の言う通りだと思いました」

「うん、そうか。分かってくれたか。浜ちゃんの教えに従って、彼の指揮する船に乗って行けば、必ず目的の港に辿り着けるから安心してくれ。どんなステージになるのか、明日が楽しみだよ」

 丸山伸之は、そう言うと、信平の肩を軽く叩いて、元いた席に戻った。信平は、そんな丸山伸之の優しい心使いに感動した。あの一見、高慢そうな細村慶子が、妻子のある丸山伸之に心を寄せるのが理解出来た。午後の稽古は、1時過ぎにスタートした。1回目よりゆったりした気持ちで、全体を観る事が出来た。そこで信平が感じたのは、丸山伸之の戯曲は、観る人に、戦争を絶対起こしてはならないという作者の訴えたい究極の本質が明示されている反戦作品であるということであった。そして夕方の3回目の稽古になると、更にその奥深さが心にしみて、作者、丸山伸之の類まれなる創作力に心動かされた。3回の本番練習が終わると、浜田監督が、明るい口調で言った。

「皆さん、朝から一日、ご苦労様でした。よくここまで頑張ってくれました。丸山先生から合格の御言葉をいただきました。あとは明日、皆、一丸となって共に稽古して来た演技の総てを、出し切りましょう。今日はは解散します」

 その言葉に一同の胸に期待が広がった。信平は胸を膨らませ、仲間と一緒に新宿駅まで歩いた。

 そして7月10日、日曜日、『曙橋慕情』公演の日がやって来た。信平は爽やかな風が朝の窓辺を通過して行くのを心地よく感じながら、野菜サラダとパンの朝食を急いで済ませ、昨日と同じ経路で新宿のシアターへ行った。公演会場の入口に立つと、そこは公演を祝う花輪スタンドが幾つも並べられ、早くも華やかな雰囲気につつまれていた。その花輪の中に信平がアルバイトをしている喫茶店『ボヌール』の名もあった。まずは楽屋へ行き、遠藤団長、浜田監督や出演者及びスタッフの人たちに挨拶した。それから直ぐに午前中の練習稽古があるのかと思ったら、練習稽古は無く、セットの組み換え練習と音響や照明、マイクの確認など、スタッフの作業が中心となり、信平たち出演者は、セット組み換えの手伝いをした。その後、近くのラーメン屋などで、早めの昼食を済ませて、正午には楽屋に戻り、午後2時の開演を待った。メイクしたり、衣装の姿を鏡で確認したり、舞台初出演の信平は、不安で不安で、落ち着けなかった。だが開幕時間は正確にやって来た。午後2時丁度、開演の幕の前で遠藤団長が口上を述べた。

「今回、劇団創立10周年を記念する『演劇広場』の作品、『曙橋慕情』の公演に、かくも大勢の皆様にお集りいただき、心より感謝申し上げます。この作品は敗戦直後の食糧難の中で、家を守りしたたかに力強く生きて来た人たちと、死と隣り合わせの戦地から帰って来た人たちのドラマです。戦争の記憶は既に遠くなり、おぼろに消えて行こうとしていますが、この公演を観ていただき、戦争の悲惨さを知り、今の平和の想いを新たにしていただきたいと思います。では、ごゆるりと御覧になって下さい」

 その口上が終わると緞帳が上がり、1場の部隊の幕が開いた。

「1場」

 昭和20年8月15日、水曜日、町会長より、昼、重大な大本営からの放送があるからと声がかかり、主人公、小山節子は、母、多恵や妹、和子と一緒に集会場のラジオ前に集まる。正午になると君が代の音楽が流れ、玉音放送が始まる。それを一同、直立不動の姿勢で聴く。その放送が終わると町会長が肩を落として玉音内容を伝える。

「皆さん。聞き取りにくかったと思いますが、日本は戦争を終わりにしました。天皇陛下が停戦の大号令を下され、戦争は終わりました」

 それを聞いて、一同、茫然。

「どういうことだ。どうして、ここで止めるんだ」

「日本は負けたんだ」

「日本が負けただって。そんなの嘘だ」

「嘘ではない。天皇陛下は耐えがたきを耐えと申された」

 その説明に一同、その場に泣き崩れるが、妹、和子は立ったまま、泣いている母、多恵に訊く。

「お父さんが帰って来るの?」

 それに対し母が答える。

「そうだよ。お父さんが帰って来る」

 その言葉に姉の節子も頷き、喜びの声を上げる。

「あの人も帰って来るのね。あの人も」

 その言葉をもって1場の幕が引かれた。信平たちは慌てて、セットの組み換えを行った。

「2場」

 焼け残った3軒の家の前で、子供たちと和子が遊んでいる。そこへ郵便配達員が一通の知らせを、豆腐屋の女店主に届ける。何とそれは夫の戦死の公報ではないか。それを読んだ豆腐屋の女房は子供を前に全身を硬直させ、卒倒。近所の人たちに家の中に担ぎ込まれる。その後、小山家に町会長と畳屋の主人が現れ、節子の母、多恵を口説く。節子の婚期を逃してはならぬとの縁談話である。相手は節子も良く知っている足の悪い写真屋の息子である。節子には今まで将来を約束した交際相手がいる。その相手と節子は出征して戻ってから、結婚する約束をしている。節子は周囲の人からの勧めを断る。

「帰って下さい」

 節子が怒った所で、2場の幕が引かれれた。郵便配達員を演じた信平は、そこで直ぐ、神社のセットを手伝った。

「3場」

 神社の前に『町内のど自慢大会』という横断幕が張られれている。氏神様の祭礼で、屋台など出て、多くの人が集まっている。小山節子は妹の和子がのど自慢大会に出るので、近所の人たちと人たちと一緒に、会場に来ている。その節子に写真屋の息子が、近寄って来て、尻を触ったりして、口説く。すると節子が友達と一緒に、怒る。

「何をするのです。戦地では兵隊さんが、祖国の為に闘い、戦死する人もいるというのに、貴方は非国民です」

 その騒ぎで、会場が異様な雰囲気になる。それを打ち消そうと妹、和子が舞台に上がって歌を唄う。『とんとんとんからりんの隣組』という歌を、清らに済んだ歌声で唄う。その唄う姿を境内の後方で観ている父がいるのに和子が気づく。和子が唄い終えて舞台から駆け降り、父親にしがみつく。節子も多恵も駆け寄る。

 そこで3場の幕が引かれ、休憩時間に入った。遠藤団長、浜田監督及びスタッフは、第一幕が無事終了し、ほっとした。信平は1場の幕が引かれた時、300席ほどの目の前の客席に、坂口美咲と野原香澄たちの他、望月満男や『ボヌール』で顔見知り客たちが座って、自分たちに笑顔を送っているのに気づいた。信平はドキドキした気分になったが、やがて観客の視線が、自分だけに注がれていないと悟った。浜田監督の言う通り過ぎる風になるよう心掛けると、不安も恥ずかしさも何処かへ吹き飛んだ。観客を集めて演じる1場から3場までの笑いと悲しみに包まれたドラマは、一旦、小休止しながらも、その余韻は次へと続いた。

 午後3時45分。第2幕4場の幕が開かれた。

「4場」

 舞台は3場と同じ神社前。今にも雪が降って来そうな神社前を、郵便配達員が通り過ぎる。蕎麦屋の配達員も通り過ぎ、やがて辺りが暗くなって、雪が降って来る。そこへ節子が現れ、お百度参りを始める。節子が慕う南雲竜也は出征したまま、まだ戦地から帰って来ない。節子は帰らぬ男を待ちわび、早く帰して欲しいと、氏神様にお願いする。何度も何度も、行ったり来たり手を合わせているうちに、節子は寒さの為、境内の雪の上に倒れ込んでしまう。それを社殿の脇から、こっそり見ていた妹、和子が走り寄り、抱き上げる。妹は涙をいっぱい溜め、激しく泣いて雪空に叫ぶ。

「竜ちゃん、竜ちゃん、何で早く帰って来ないの!」

 そこで幕が引かれた。

 ここで裏で控えていた劇団員たちは、4場の神社前のセットを、2場と同じ焼け残った家の前のセット戻した。信平たち若者は5場に出番があるので、慌ててセット替えを済ませた。

「5場」

 幕を開けると、焼け残った3軒の家の前で、子供たちが遊んでいる。そこへ戦闘帽を被った軍服姿の男が現れ、畳屋の前に立つ。そして出て来た畳屋夫婦に男は自分の名を名乗り、リュックサックの中から、布に包んだ骨壺を取り出す。畳屋夫婦は息子の遺骨を受け取り、号泣して、母親が卒倒する。それを節子や多恵が家の中に引き入れる。見ていた写真屋の息子が、節子の妹、和子に声をかける。

「お姉ちゃんに伝えな。長い間、待っていても、竜也は帰って来ないからって」

 すると和子が怒った顔で言い返す。

「ふん。何、言っているの。そんなこと言ったって、お姉ちゃんは、あんたのお嫁さんなんかにならないよ。べえだ!」

「生意気な女だ。今に分かるさ」

 写真屋の息子は和子を睨みつけて去って行く。それと入れ替わるように、また軍服姿の男が現れる。畳屋に入った男より、もっと見すぼらしい乞食姿で、警察官に追われて逃げて来て、自転車に乗って蕎麦を運んで来た蕎麦屋の息子とぶつかって倒れ伏す。またもや豆腐屋と八百屋と畳屋の前は大騒ぎ。人だかりがして警察官が泥棒ではないかと軍服男の調査を始める。リュックサックの中を調べるが、書物と衣類と御椀だけ。警察官が問い詰める。

「何故、この町をぶらついたりしているのだ?」

「昔、お世話になった先生の、御宅を探しているのです」

「嘘を言うな。ここらに先生はいない。何という先生だ?」

「小山先生です」

 男は泥まみれの顔で、周囲の人に目を向けて答える。それを聞いた和子はびっくりする。そういえば父は八百屋を始める前、小山先生と呼ばれていたことがある。もしや、この人は面影が違うけど、姉が待つ、南雲竜也ではないのか。

「お姉ちゃん!」

 和子は節子を呼びに、畳屋に駆け込み、節子に声をかける。すると節子が血相を変えて跳び出して来る。節子は手帳に男の住所、氏名を書き留めている警察官を跳ね除け、路上に横たわる男の顔をじっと見つめて叫ぶ。

「竜ちゃん。竜ちゃんなのね。帰って来られたのね。良かった。良かった。こんなに痩せちゃって。頑張ったのねえ」

 すると男は節子の顔に手を伸ばして答える。

「うん。必ず帰ると約束してたから・・」

 そこへ節子の父や母も現れ、竜也の帰りを喜び、幕が引かれる。

 そして、いよいよ最後の6場を迎える事となった。信平たちは藤田研吾の指示に従い、6場の舞台背景を、急いでセットし、その舞台に座った。信平が郵便配達員の姿のまま片隅に座ると、6場の幕が上がった。

「6場」

 舞台は窓から桜が咲いているのが見える料亭の座敷。出征前に将来を言い交した南雲竜也と小山節子の結婚披露宴。正面の床の間の前に新郎と新婦が並び、その左右に媒酌人とその夫人が座り、客席から見て左の列に南雲家の関係者、右の列に小山家の関係者が並ぶ。まずは媒酌人である柳原町会長が、二人の結婚の経緯を説明し、高砂を謡う。それから、この御目出度い結婚式を迎えられた二人を温かく見守って欲しいと一同に依頼する。その後、岩淵副会長による乾杯があり、両家の叔父たちが祝福の言葉を述べる。続いて竜也の親友が食うや食わずの戦地での苦労と約束した人の為に死線を乗り越えて生きて帰って来た新郎の事を話す。片方、節子の親友はひたすら新郎の帰りを待つ節子の心情を語り、皆の涙を誘う。その次に節子の妹、和子が立ち上がって唄う。歌は『リンゴの唄』で、澄んだ声が会場に響く。会場が明るくなったところで、もと芸妓のおばさんと蕎麦屋の主人がジャンケンして、いろんな芸をして笑わせる。宴もたけなわになると新郎、南雲竜也の父、南雲医院の院長が親戚を代表して御礼の挨拶する。最後に新郎が戦地に行き南十字星を眺めながら故国を想い、戦死することなく復員出来たことの喜びを語り、これから二人で新しい世界に踏み出す勇気を伝え、皆さまの温かなお力添えをいただきたいと話す。更に一礼して、また話す。

「まだまだ未熟な私たちですが、どうか皆さま、末永く私たちを見守って下さい。皆さまのご健康と、お多幸をお祈りして、御礼の挨拶とさせていただきます。本日は誠に有難う御座いました」

 その言葉に節子が言葉を添える。

「私たち、仕合せになります」

 その二人に宴席にいた者、全員が拍手を送る。

 そこで最後の6場の幕が降ろされた。それから団員一同、舞台の黒幕の前に整列した。開演時と同様、遠藤団長が代表の挨拶をした。信平は舞台の端に立ってはいるが、客席を面前にして緊張した。知っている人たちが目の前の客席から、こちらを観ているかと思うと、心臓が高鳴り、恥ずかしくなった。遠藤団長の御礼の挨拶が済むと、客席にいた人たちが舞台の下に駆け寄った。家族、友人、支援者などの人たちで、各人舞台の上にいる出演者に、花束やプレゼントなどを手渡した。

「北上さん。北上さん。お疲れ様。良かったわ。おめでとう」

「おめでとう」

「ブラボー」

 坂口美咲や野原香澄や、その友達が、花束やお菓子の箱を差し出し、信平は、それを抱きしめた。望月満男も化粧の濃い女とやって来て握手すると花束とプレゼントを信平にくれた。信平は主人公でもないのに主人公たちと共に万雷の拍手をもらい、燦然と光り輝く舞台で、有頂天になり、劇団員たちと一緒に観客に向かって手を振った。それを確かめるように終演の緞帳幕が下りた。信平たちは達成感に包まれた。夜の部は夕方6時から同じように進み、同じように終わった。信平は『ボヌール』で一緒に働く椿原愛子から宮下若菜と一緒にプレゼントをいただいた。

 月曜日、昨日の公演の疲労感が残っていたが、信平は下田次郎、五味克彦たちと朝8時に『藤田巧芸』に集まり、トラックに乗って新宿のシアターに行った。シアターに行くと、遠藤団長はじめ三宅英治、川口昌幸、杉山良介たちの他、平原由美や宮下若菜たち女性メンバーも来ていて、舞台装置や照明道具を片付けていた。信平たちは、その片付けている物を藤田研吾の指示に従い、1号車と2号車に載せた。そして全ての運び出しが終わると、信平は下田次郎を助手席に乗せて藤田研吾と五味克彦が乗るトラックの後を、下北沢の『藤田巧芸』まで、トラックを走らせた。『藤田巧芸』に到着すると、藤田研吾がほっとした顔をして言った。

「荷物降ろしは後日、ゆっくりやるから、そのままで良いよ。皆が待っているから、稽古場へ行こう」

「はい」

 信平たちはトラックを車庫に入れ、車庫のシャッターを下ろして、『演劇広場』へ行った。『演劇広場』では、浜田監督、丸山伸之、細村慶子、青木洋子たちが打上げの飲み会の準備をして待っていた。信平たちが、稽古場に入って、間もなくすると、遠藤団長たちが、新宿のシアターから移動して来て、劇団員や演劇スタッフ、全員40名ほどが集合した。『曙橋慕情』で節子の父、元教師、小山吾郎役を演じた桜井俊明が打上げの飲み会の司会を務め、遠藤団長が、まず劇団創立10周年の記念公演が、ここに集まる人たち及び支援してくれた観客の皆様のお陰で成功したことの感謝の言葉を述べた。続いて浜田監督が、劇団員の真摯な演技により、今回の作品を観た全ての人たちの心に、我々の生き生きした情熱を送り込むことが出来たと言って、乾杯した。それから皆で、ビールやジュースのグラスをぶつけ合い、寿司、天ぷら、鶏の唐揚げ、生ハム、カキフライ、枝豆、ポテトなどを食べながら、観に来てくれた人たちの反応を語り、喜び合った。途中、座付き作家、丸山伸之から祝辞をいただいた。

「お集りの皆さま、創立10周年、記念公演を見事に成功させ、誠におめでとう御座います。10年前、小さな一歩から踏み出した劇団による新宿シアターでの公演を目にして、私は泣きそうになりました。皆さまの演劇に注ぐ弛まぬ情熱の成果が、今日の素晴らしい『演劇広場』を作り上げたことは、まさに画期的快挙です。観客の評価は予想以上の万雷の拍手でした。皆さまは既にお気づきと思いますが、私がこの作品で表現したかったのは、あの悲惨な戦争の深い傷が、現在、この日本社会から忘れ去られようとしていることに対する忠告です。戦争は決して遠い過去のものではありません。祖国に準じた人、運命に引き裂かれた人、我が子を殺された人、飢えて死んだ人、焼け跡で清冽に生き抜いた人などのことを想うと、今も涙が流れます。皆さまの名演技のお陰で、観客のほとんどの人が舞台に感情移入し、私の思いを読み取ってくれたと確信しております。これもひとえに皆様の名演技の賜物と深く感謝しております。遠藤団長、浜田監督のご指導のもと、10周年記念公演を成功させた喜びを契機として、どうぞこれからも『演劇広場』の発展の為、皆さま、力を合わせ頑張って下さい。以上、私の祝辞とさせていただきます」

 丸山伸之のこの祝辞は、ちょっと自画自賛風だった。自分が手掛けた作品の出来栄えに大満足だったに違いない。同人誌『アモーレ』の仲間にリハーサルを観ていただいた時、以上に一般大衆の感激した様子を目の当たりにして、満足したに違いない。『演劇広場』の打上げの飲み会は午後3時過ぎになって、復員兵を演じた杉山良介の3本締めで終わった。それから各人、バラバラに解散した。浜田監督、遠藤団長、桜井俊明、藤田研吾たちは新宿に戻って、飲むというが、信平は参加しなかった。五味克彦、下田次郎と喫茶店『邪宗門』に行って、今回の公演の成果と反省点について語り合った。


     16,夏の訪れ

 水曜日の午後、信平は渋谷の喫茶店『キーヘル』に向かった。まるで真夏になったような暑さの午後だった。汗を拭き拭き、『キーヘル』に入ると、坂口美咲と野原香澄の他、3人の女子大生が待っていた。余りにも大勢なので、面食らった。信平は棒立ちになった。それを見て香澄が笑ったので、信平は慌てて挨拶した。

「先日は公演を観に来ていただき、誠に有難う御座いました。それに花束や沢山のプレゼントをいただくなど、気を使わせてしまって、申し訳ありませんでした」

 すると、また香澄が笑った。

「こちらこそ素晴らしい演劇を観させていただき、感動しました。まあ、座って」

 香澄に、そう言われて信平は、彼女たちがあらかじめ準備しておいた席に腰を下ろした。外が暑かった上に、大勢の女性に囲まれ、汗びっしょりだった。そこで信平はウエイトレスに、アイスコーヒーを註文した。注文を受けてウエイトレスが去ると、香澄が直ぐに、友人3人を紹介した。

「こちらが麻生民子さん」

「麻生です。よろしく」

「こちらが内藤安子さん。歌手ではありません」

「内藤です。よろしく」

「こちらが早川夏美さん」

「早川です。よろしく、お願いします」

 信平は、その3人の顔と名前を脳裏に刻み込んでから、改めて名乗った。

「北上信平です。よろしくお願いします」

 信平が、そう挨拶して頭を上げるや、すかさず麻生民子が口を開いた。

「北上信平って、格好良い名前ね。本名ですか?」

「いいえ、芸名です」

「自分で考えたの?」

「劇団の団長と相談して付けていただいた名前です。東北出身なので、苗字を北上にしました。信平は本名です」

「まあ、そうなの。将来、有名になりそうな名前ね」

「ありがとう御座います。ところで『曙橋慕情』を観ての皆さんの感想を知りたいのですが、如何でしょうか?」

 信平が感想を話題にすると、リーダー格の野原香澄が順番に感想を話すよう指示した。

「まず、美咲ちゃんからどうぞ」

 香澄から指名されると、美咲はちょっと赤くなって、その問いに答えた。

「恋人を思い、戦渦を生き延び、純粋に愛を貫く主人公たちの姿は、切なく美しく、涙が溢れて止まりませんでした。観に行って良かったです。感激しました」

「ありがとう御座います」

 続いて香澄が話すのかと思ったら、香澄が今日、現れた3人を指名した。

「次は民子ちゃん」

 そう言われて麻生民子が話した。

「私には衝撃的な劇でした。近所の人が遺骨になって帰って来るような中、戦渦を潜り抜け再会した2人の物語には胸を打たれました。戦争とは何か、個人とは何かを考えさせらました」

 続いて内藤安子が喋った。

「最初から最後まで悲劇や喜劇が交錯して、涙と笑いが込み上げっぱなしでした。豆腐屋のおかみさんが、旦那さんの死を突然、知らされた時のショックは残酷で、胸が痛くなりました。戦中、戦後の混乱の中で、愛を貫き通した女の強さにびっくりしました。素晴らしい演劇でした」

 次に早川夏美が話した。ちょっと恥ずかしそうだった。

「私は終戦後の暗い世相の中で起こる色んな出来事に迷わされずに、一人の男の帰りを待ち続けた主人公に女として胸が熱くなりました。彼女は意志の強い女性ですよね。その内面は不安や弱さもあるのだけれど、この時代に自分の思いを貫いたということは、本当にすごいと思います。また恋人役の杉山さんも男らしくて、とても魅力的でした。勿論、北上さんの役柄も素敵でした」

 皆、優等生みたいな感想を述べた。それに対し、野原香澄の批評は、ちょっと変わっていた。

「あの演劇で、作者や監督が目指したのは、戦争反対という尋常ならざる感情移入だと思うの。だから北山さんたち出演者、一人一人の演技に、単なる名演技を越えた伝道師的な熱さが感じられたわ。最後には熱烈な愛の讃歌。でも私が興味を持ったのは、夏美ちゃんと同じで、杉山さんの一挙手一投足を、息をつめて見詰めるだけだった。今の時代、処女神話はとっくに崩れ去ってしまっているのに、婚前交渉もしないで、待ち続けるなんて、信じられないわ。私なら出征する前に処女を捧げるわ」

「また香澄ちゃんたら」

 美咲が、そういって香澄をつねった。信平は香澄が以前にも同じようなことを言っていた気がした。そんな批評の後、彼女たちは杉山良介を紹介してくれないかと信平に依頼した。信平は杉山良介と、それ程、親しくなかったが、了解した。喫茶店『キーヘル』でのお喋りの後、坂口美咲たちは、カラオケに行くと言うので、信平は自分と彼女たちの喫茶店での飲食代を支払い、彼女たちと道玄坂で別れた。それから、『文化村』などを眺めて、暗くなる前に東松原の『メゾン羽根木』に帰った。

 『演劇広場』の10周年記念公演が終わってしまうと、下北沢の稽古場は、まるで祭りが終わって日が暮れてといった覇気のないものとなった。今まで劇団員を指導してくれていた浜田監督は、座付作家、丸山伸之の次回作がまとまるまで、別の劇団の指導することになり、下北沢の稽古場に姿を見せなくなった。そんな活気を失った劇団の中だるみを無くす為、遠藤団長は信平たち若者を集め、指導した。その指導内容は演劇論とこれまで沢山の人たちが演じて来た有名作品の稽古だった。遠藤団長は、自分が何故、演劇に情熱を注いでいるのかを信平たちに論じた。

「演劇には文章や映像で表現出来ないものがある。いずれも見る者に作者の思いを伝えるものであるが、それぞれに特徴がある。文章は字面を目にして、読者に脳中で内容を感じさせるものである。映像はカメラで撮ったものをスクリーンに映し出し、観客に内容を伝えるものである。演劇は劇場という大部屋での中で、大勢の人たちが生身の人間の発声や動作や息使いを、目撃者として一緒に共有するものである。そこでは観客たちが客席にいるお互いの感情まで垣間見る事が出来る。同一の舞台を見つめ続け、誰かが笑えば、他の人も笑い、誰かが泣いたら、他の人も涙をぬぐう。つまり喜怒哀楽を共有することが出来る。観客が感じたものが、場内で空気感染して、演劇者にも反響し、人間同士の交感が生まれる。この不思議が、まさに演劇の魅力である。ここに演劇の芸術的価値があるといえる」

 遠藤団長の演劇論は分かりやすく、好奇心から演劇の世界に足を踏み入れた信平を、前向きな気持ちにさせてくれた。入団当初は、台本というものすら手にしたことも無い自分でも、演劇が出来るのだろうかと不安で、稽古が進むにつれ怖くなった。だが遠藤団長や浜田監督に叱咤激励され、初舞台を経験させてもらい、自信を得た今、遠藤団長の演劇に対する情熱が良く分かった。有名作品の稽古として選ばれたのは、菊池寛原作の『父帰る』だった。ストーリィは、かって家族を顧みずに家出した父が、20年後、落ちぶれて戻って来る内容で、母と次男と妹は、これを温かく迎え入れようとするが、困窮と闘い、弟や妹を学校に出し、母と一緒に一家を支えて来た長男は、それを許さない。結果、父が去るという内容だった。この稽古で信平は道化役を演じた。セリフの多い役を希望していたが、遠藤団長が配役を決めるので、自分の勝手で、役を選べなかった。遠藤団長が監督として稽古の指導をすることから、遠藤団長の役柄は無く、父親役を担当するのは『曙橋慕情』で畳屋の主人役を演じた三宅英治先輩だった。長男、賢一郎役には杉山良介が指名され、次男、新二郎役は五味克彦が演じる事になった。下田次郎は桜井俊明先輩の演じる校長の息子役に選ばれ、嬉しそうだった。母のおたか役は白石優子で、その役柄にしては、ちょっと肥満気味だった。父の情婦、お竜は青木洋子がつとめ、賢一郎の妹、お種は平原由美が演じた。宮下若菜は園田修造の娘、お加代役を割り当てられて満足そうだった。この稽古に奥津輝男、藤田研吾、細村慶子たちベテラン数人は参加せず、丸山伸之の次回作が出来上がるのを待つということだった。信平は下っ端役であったが、遠藤団長の指導に従い、真剣に稽古した。そんな中で、今まで親しくなかった杉山良介とも親しくなり、気軽に会話出来るようになった。彼が気分良さそうな時を見計らって、『曙橋慕情』の公演を観に来てくれた女子大生の話をした。

「彼女たち、杉山さんの名演技に感激して、杉山さんの事、紹介して欲しいと俺に言うんだ。一度、彼女たちに会ってもらえませんか?」

 信平から話を聞いた杉山良介は一瞬、キョトンとした顔をした。だが直ぐに笑顔になって答えた。

「良いですよ。観客が目にした感想は貴重なものです。自分の演技が、どれ程、観客の情動をかきたてたか知るのに良い機会です。僕も会ってみたいです」

「本当に良いのですか?」

「はい。水曜日なら、時間の都合が取れます」

「では調整して連絡します」

 信平は杉山良介と親密な話が出来るようになり、嬉しかった。自分が『演劇広場』の仲間として、正式に認められたような喜びの増す、日々の到来を感じた。

 そうこうしているうちに8月になった。初めて経験する都会の夏は東北育ちの信平にとって想像以上に蒸し暑く、耐えがたい毎日だった。あの恐ろしい東日本大震災から、5ケ月になるが、故郷は、どうなっているのだろうか。海風が運んで来る潮の香と青い夏草の匂いが懐かしく思い出される。テレビや新聞の報道によれば、災害公営住宅の着工が、政府や地方自治体の緊急意識の欠落により、全く遅れているという。政府が防潮堤を震災前の2~3倍の高さにすると考え出したことから、そちらの計画が先行し、家が流されたり、損壊して住む場所が無く、困っている人たちに対する住宅対策が、二の次になってしまい、被災者たちは苦難の日々を続けることを余儀なくされ、不平不満の毎日を送っているという。そして、その苦しんでいる人たちの手助けをする為、全国から、この夏休みを利用して、会社勤めの人や学生たちが、ボランティア活動に被災地を訪れているこという。信平はテレビの放送を観て、故郷に帰ろうか、いや帰るべきでないなどと、逡巡を繰り返した。東京でも計画停電が開始されて大変な状況だった。そんな悩みを抱える信平に、坂口美咲からメールが入った。

〈 暑中お見舞い申し上げます。

  お元気ですか?

  私と香澄ちゃんは、喫茶店で、アルバイトを

  しています。

  貴方と同じ業種のアルバイトです。

  緊張する仕事ですが、何とか頑張っています。

  また、お会いしたいですね。

  では また               〉

 何時も野原香澄がメールして来たりするのだが、今回は美咲からだ。どうしたことか。信平は、どのように返信すべきか悩んだ。この前、彼女たちと会った時、彼女たちは杉山良介を紹介して欲しいと、彼との出会いを待ち望んでいる風だった。杉山良介には、このことを数日前に話しておいたので、信平は杉山良介を紹介する提案のメールを送った。

〈 メール、有難う。

  この間、杉山さんに貴女たちのことを話したら

  水曜日なら、皆さんと、お会い出来るとのこと

  です。

  今度の水曜日、お会いしましょうか。

  もし、OKなら、杉山さんの都合を

  確認します。              〉

 すると直ぐに了解の返事が来た。香澄と一緒にアルバイトをしていることから、早い返答だった。信平は彼女たちの返答をもらうと、そのことを杉山良介に伝えた。彼は一応、了解したが、二人だけで多くの女性陣に囲まれるのは照れ臭いので、『演劇広場』の仲間を誘ってはどうかと提案した。そこで信平は五味克彦や下田次郎に声をかけた。ところが五味に断られた。自分が任されているラーメン屋の昼間の仕事を休む訳にはいかないというのだ。下田次郎はカラオケ店の受付の仕事をしているので、カラオケ店の近くなら、顔見せくらいは可能だと答え、新川正人を誘ってはどうかと助言してくれた。信平が新川に事の次第を説明すると、彼は快諾してくれた。結果、待合せ場所は下田次郎の勤め先の近くの原宿駅、午2時と決めた。早速、そのことを美咲にメールした。

〈 水曜日の件、杉山さんから了解を得られ

  ました。

  待合せ場所はJR原宿駅改札口午後2時

  との約束です。

  劇団員4人で待っています。     〉

 すると1時間後に美咲からメールが入った。

〈 お骨折りいただき、有難う御座います。

  皆、喜んでいます。

  この間の5人で行きます。

  劇団の人たちにお会い出来るのが

  楽しみです。            〉

 信平は、その返事を受けて、杉山良介、下田次郎、新川正人に、原宿での集まりが決定したことをメールで伝えた。皆、楽しみにしているとの返事だった。そんな楽しみのメールをいただきながら、信平は自問自答した。東日本大震災や福島原発事故の人たちの苦しみをよそに、東北出身の自分が、このような安楽な生活をしていて良いのだろうか。時は確実に、過去を切り捨て、次の時に向かっているというのに。

 そして約束の水曜日がやって来た。都内のアパートはエアコンをつけているのに暑くて堪らない。信平は午前中、部屋掃除や洗濯を済ませて、新しいTシャツとジーンズに着替え、アパートを出た。学校が夏休み中とあって、渋谷行きの井の頭線電車は、それ程、混雑していなかった。渋谷に着いてから、待ち合わせ時刻までに余裕があったので、東口に行き、立食いソバを食べた。その為、汗が溢れて、中々,引かず、『東横百貨店』に入り、冷たい風に当たった。それから待合せ時刻に間に合うよう、渋谷駅から隣の原宿駅まで移動した。古風な駅舎の原宿駅に着くと、新川正人が先に来て待っていた。坂口美咲たちの姿は無かった。信平は新川と雑談しながら杉山良介と下田次郎が現れるのを待った。そこへ美咲たち5人がやって来た。近くのレストランで食事をして、時間つぶしをしていたのだという。信平は5人に新川を紹介した。

「こちらは、写真屋の息子を演じた劇団仲間の新川さんです」

「新川正人です。よろしく」

 新川が深く頭を下げると、美咲たち5人が、それぞれ名前を名乗り、信平の顔を窺った。

「杉山さんは来られないのですか?」

 早川夏美が杉山良介に会えるのを心待ちにしていたのか、杉山の不在を質問した。信平は杉山が来ていないので、どう話そうかと戸惑い、新川と顔を見合わせた。今日の約束を忘れているのではあるまいか。そう思って携帯電話機に手をかけた時、神宮橋の方から杉山が現れた。

「お待たせ」

「おお、来てたのか?」

「うん。明治神宮にお参りをして来た。下ちゃんは、まだかな?」

 杉山が、そう言った時、下田次郎が明治通りの方から坂道を登って来た。全員そろったところで、近くの喫茶店に入ろうとすると、どの店も9人が、固まって座れる席が無かった。近くの公園に行って話そうかという意見が出たが、この暑さの中で、公園で過ごすなど女性には気の毒な事だった。困惑する皆を見て、下田が機転を利かせた。

「俺の店へ行こう。その方が俺も助かる」

「9人も入れる部屋があるのか?」

「あるよ。今なら空いてるよ」

 一同は下田の言葉にほっとして、下田の案内に従った。次郎は原宿駅から明治通りまでの欅の並木道を先頭に立って、自分が勤務するカラオケ店へと案内した。カラオケ店に着くと、下田が受付の手続きをして、下田を除く8人で、彼に指定された大部屋に入った。部屋に入り、まずは飲み物を註文し、それから杉山良介が、公演を観に来ていただいた御礼の挨拶をした。その後、女性5人が自己紹介し、談笑した。下田はもう一人の従業員と一緒に飲み物を運んで来て、話に加わった。会話は人数の多い女性の方が積極的だった。麻生民子が言った。

「あの芝居で、新川さんのこと、とても憎らしく思ったけど、こうして良く見ると、ドングリ眼をしていて可愛いのね」

「そうね。あの写真屋のバカ息子とは思えないわね」

 内藤安子が同調すると、女性たちは悪役的写真屋の息子を演じた新川正人をからかった。だが杉山良介に対しては遠慮気味で、誠実な質問をした。

「杉山さんは、あの復員兵を演じるにあたって、どんなことを心掛けましたでしょうか?」

 早川夏美の問いに、杉山は慌てることなく答えた。夏美だけではなく女性一人一人の顔を観ながら真面目な顔で答えた。まさに観客を一人にしぼらない対応の仕方だった。

「僕は高校時代から演劇に興味があり、幾つもの演劇を観て来ました。蜷川幸雄先生の演出による『近松心中物語』などを観て、演劇による美術的舞台と音楽、その舞台に溢れ出る心情的表現の混交に魅了されました。あの心中シーンのクライマックスは今も脳裏から離れず、記憶の奥に焼き付いています。自分も何時かは、あの男女のような演技をしてみたいと、役者を目指して来ました。お陰様で今回、『曙橋慕情』で主人公の相手役、南雲竜也役に抜擢され、そのプレッシャーたるや大きかったです。そんな中で、僕は台本に忠実に演技をしました。そしたら浜田監督が、〈 気合の入れ過ぎだ。もっと自然体にやれ。敗残兵が、張り切ってどうする? 〉と指導してくれました」

「まあつ、そうでしたの」

「ですから初登場の5場では、町内の人たちの空気を鮮明に描き出す為、僕はなるたけ控えめの演技を心掛けました。そして6場では、戦地で死んで行った仲間の分まで、ちゃんと生きようという強い意志を観客に見せようと演じました」

 その杉山の説明は、どこか遠藤団長の演劇論に似ていた。演劇に関する話題が無くなって来ると、皆、口数が少なくなった。すると下田が大きなピザを3枚、部屋に運んで来て、カラオケを勧めた。そこで、それぞれが自分の得意な歌を唄った。皆、カラオケに慣れていて、早川夏美や野原香澄は杉山とデュエット曲を唄ってみせた。夕方5時、カラオケ店が混んで来たので、解散することにした。

「またのお越しをお待ちしております」

 下田の言葉に見送られ、またの再会を楽しみに信平たちは、女子大生組とカラオケ店前で解散した。その後、信平は杉山良介に誘われ、新川正人と一緒に、新宿に移動した。

 その数日後、盆休みの時期となったが、都内にその雰囲気は感じられなかった。喫茶店『ボヌール』で働く宮下若菜に、東京のお盆は7月だと教えて貰い納得した。東京の夏は何時もの年より暑いというが、信平には東京で初めての夏を経験するので、何時もの年が、どの程度だったのか判断のしようがなかった。また先祖の墓参りの事など、脳裏に浮かんだが、ただ思い出し、北に向かって手を合わせる以外にすることが無かった。テレビや新聞では、東日本大震災で被害に遭った人たちの供養の報道をしきりに流した。また福島第一原発では事故後、最高の放射線量を測定し、収束作業者が急性白血病で死亡し、大変な状況になっているとも報じた。この先、日本がどうなるのか心配になったが、自分一人で悩んだところで、どうなるものでも無かった。そんなニニュースを聞きながら、猛烈に暑い日々を過ごすより仕方なかった。11日から16日まで劇団の稽古は無く、夜は手持無沙汰だった。だからといって一人で繁華街に出かけて行く気持ちにもなれなかった。13日の夜、五味克彦から、仕事を終えたので会わないかと電話が入った。信平は待ってましたとばかり了解し、『鈴なり横丁』で五味と待ち合わせすることにした。7時過ぎ茶沢通りに行くと、派手な半袖シャツ姿の五味が『鈴なり横丁』の入口で待っていた。二人そろって何時もの居酒屋へ行くと、マスターの秋元公一が大きな声で二人を迎えた。

「いらっしゃい。今日は稽古では無かったのですか?」

「今は盆休み中で稽古も休みです」

「そうですか。ではゆっくり出来ますね」

「はい。藤田さんは来ますかねえ?」

「無理じゃないかな。研さん、奥さんが具合悪いみたいだから・・」

 秋元マスターはそう言いながら二人の前にビールの入ったジョッキを差し出した。信平と五味は、そのジョッキを軽くぶつけ合い乾杯した。それから今、稽古している『父帰る』の話や仕事の話や女の話をした。五味には好きな女がいて、まだ交際を始めたばかりで、どうなるか分からないという。彼女は花屋で働いていて、店先をバイクで走る配達中の五味に愛想良く笑い、或る日の夕方、店をしまう時、五味に声をかけて、バラの花をくれたという。

「売れ残りの花だけど、もしよろしかったらどうぞ。廃棄するのも勿体ないし」

 五味はその彼女との出会いを、まるで運命のようだと語り、この間の新宿公演の時も、彼女が大きな花束を作って持って来てくれたと自慢した。それを聞いて秋元マスターと信平が顔を見合わせると、あの望月満男が、話に加わった。信平はそこで望月満男に『曙橋慕情』のチケットを買ってもらい、花束をいただいたお礼を言った。すると望月はニッコリ笑った。

「あの花束は、私じゃあなくて、私と同伴した彼女が、北上さんに差し上げた物だから、礼を言うなら、彼女に言ってくれ。今から一緒に行って、彼女にお礼を言おうか?」

 そう言われて、信平は戸惑った。どうしたら良いのか分からなかった。そんな信平の様子を見て、秋元マスターが望月の気持ちを配慮して、信平の背中を押した。

「信ちゃん。良いチャンスだ。モツちゃんに連れて行ってもらい、お礼を言いな」

「そうですね。じゃあ、これから五味ちゃんと、一緒に行って来ます」

 信平は秋元マスターに、そう答えると、望月に従い、五味と一緒に店を出て、あの化粧の濃い女のいるスナック『千草』に移動した。そのスナックは代沢に近いビルの2階にあった。望月がドアを開けると、あの化粧の濃い女が駆け寄って来た。

「いらっしゃい。待ってました。こちらへどうぞ」

 彼女はカウンターで相手にしていたお客をそっちのけで、信平たち3人をテーブル席に座らせた。彼女は横山雪乃と名乗り、若い劇団員二人を歓迎した。信平は乾杯してkら、新宿公演の時、花束をいただいたお礼を言った。その後、ママの福島園子と白石安奈が加わり、信平たちは時を忘れる程、飲まされた。

 翌日、喫茶店『ボヌール』に出勤した信平は東京のうんざりする程の暑さに、体調を乱された。アルバイトをしていても、何となく身体がだるくて仕方なかった。昨夜、遅くまで飲みすぎたからかもしれなかった。『鈴なり横丁』から『千草』に移動して、どの程度、飲んだのだろうか。ママの福島園子の接待上手に、信平たち3人は男女を含め、親交を深めて、へべれけになるまで飲んだ。終電にやっと間に合ったのか、それともタクシーで帰ったのか、その記憶はぼんやりしていて明確でなかった。そんな信平を見て、『ボヌール』で一緒に働いている宮下若菜が、心配そうに声をかけて来た。

「何か、虚ろな目をして元気ないけど、大丈夫?」

 信平はそう訊かれて真実を話した。

「大丈夫です。ちょっと辛いけど。昨日、五味ちゃんと飲みすぎちゃって」

「駄目ねエ。仕事があるんだから、夜更かしもほどほどにしないと駄目よ」

「はい。気を付けます」

 信平は先輩の若菜に注意され、しおらしい態度で謝った。そんな信平が体調不良であることは、若菜だけでは無く、岩崎店長や山本コック、小野栄治、椿原愛子たちにも気づかれていた。どう見ても動きが緩慢になっていて、疲労が蓄積しているように見えた。しかし若菜以外は、そのことについて注意しなかった。昼時の忙しさに信平は眩暈を感じたが、何とか切り抜けることが出来た。午後1時を過ぎると岩崎店長が厨房から出て来て信平に言った。

「顔が青いぞ。無理するな。スタッフ室で休め」

「は、はい」

 信平は限界に近かったので、素直に岩崎店長の命令に従い、スタッフ室に入り、椅子に寄りかかって休んだ。目を閉じて、じっとしていると、今まで肩にかかっていた圧迫感が次第に薄らいで行くのが分かった。乱れがちだった呼吸も落ち着き、冷や汗も出なくなった。もし、岩崎店長が休めと言ってくれなかったら、自分は店の床にぶっ倒れていただろう。そう思うと部下を管理する岩崎店長の管理能力の凄さに感心させられた。また己の自己管理不足を痛感せざるを得なかった。昨夜、五味克彦と共に、将来有望な役者になると、望月満男やスナック『千草』の女性たちにおだてられ、有頂天になり酒を飲み過ぎたことを反省した。飲めない酒を調子に乗って飲むものではない。酒を飲んでも飲まれぬなと言うのが、二日酔いの辛さを、これ程、味わった事がない。石巻にいた頃は、大酒を飲んでも、家に帰って、ゴロンと寝転んでいれば母や姉が毛布を掛けてくれたり、酔い覚ましの飲み物を出してくれたりして、休息することが出来た。しかし都会での一人暮らしでは、酔っ払いの世話などしてくれる者は無く、自分で気を付けないと思わぬ災難に襲われることが懸念された。そんなことは、一人暮らしを始めた時から肝に銘じていたことではあるが、迂闊にも軽んじてしまった。信平はスタッフ室で瞑目し休憩すると、何となくだるさが抜けたので、再び店に出て、夕刻まで働いた。そして、その夜と月曜日、たっぷりと休養した。だが一旦、狂った体調は万全に回復せず、何故か背骨が痛かった。熱も少しあるような感じだった。火曜日、青白い顔をして店に出ると、岩崎店長が心配した。

「まだ万全ではないようだな。この暑さで今まで溜まっていた疲れが一気に噴き出したみたいだ。今日のランチタイムが終了したら、家に帰って休め。今日と明日、休めば体調も良くなるだろう」

「申し訳ありません」

「気にすることは無い。ゆっくり休め」

 岩崎店長に、そう言われ、信平は午後2時過ぎ、『ボヌール』を早退して、『メゾン羽根木』に帰った。部屋に戻ってみたが、することが無かった。否、することが無かったというより、何かをしようという意欲が湧かなかったというのが、正確であろう。食欲もなく、布団を早めに敷いて寝る事にした。タオル地の夏用掛布団を腹に掛けると、直ぐに眠ることが出来た。

 眠りについてどのくらいしてだろう。信平は突然、寝苦しくなり、何故だろうと身の回りを確認した。すると隣に髪の長い女が寝ていて、その女の黒髪が、自分の顔に触れているのだと気づいた。この女は一体、誰なのか。顔がはっきり見えない。ぞくぞくする奇妙な快感を覚えながらも、身動きが出来ない。誰なのか。何で忍び込んで来たのか。信平が、その不可思議に夢中になっていると、急に女の白い手が伸びて来て、信平の首を絞めつけようとするではないか。信平が驚き、何をするのだと叫ぼうとするが、声にならない。何故なら叫ぼうとしている信平の口の中に彼女が舌を突っ込んで来たからだ。信平はそこで窒息してはならないと、その女の舌を歯で噛み切ろうとした。しかし、何の反応も無い。それでも強く噛み付くと、長い髪の女は怖くなったのか突然、信平の身体の上から離れて、すうっと消えた。信平は、そこで目が覚めた。びっしょり、汗をかき、今の出来事が、夢であったと気づいた。恐ろしい夏の幽霊の夢を見るとは。それにしても夢に出て来た女は誰なのか。あれやこれや考えたが、該当する女はいなかった。もしや、この部屋は自殺者の出た部屋なのか。そんな良からぬ事を考えると眠れなくなった。突然、部屋に入って来て、いきなり信平の身体に絡みついて来た女は、男を怨んでいるのだろうか。そして、この蒸し暑い夏の夜に、迷い出て来たのであろうか。信平は冷や汗をかき、頭痛を覚えた。頭がガンガンして、どうしたら良いのか分からなかった。こういう時には睡眠をとるのが一番。無理矢理、眠ろうとするが眠れない。そうこうしてるうちに夜が明けた。幸い今日は休みの日だ。ゆっくり起きて、後で薬局に行き、頭痛薬でも買って飲もうと考えた。そこへ坂口美咲からメールが入った。

〈 お早うございます。

  今日は休みですよね。

  昨日、新潟から帰って来ました。

  お土産がありますので、お渡ししたいのですが

  ご都合、如何でしょうか? 

  お知らせ下さい。            〉

 信平は寝床の中で、そのメールを読み、どうしたら良いのか悩んだ。頭が痛いし身体の調子が良くない状態で人に会うのは苦痛だ。出来れば後日にして欲しい。信平は寝床の中から返信した。

〈 今日は休みですが、頭痛がして

  外出不可能です。

  今日でなく、後日にしていただけない

  でしょうか?            〉

 すると直ぐに枕元に置いた携帯電話が着信音を鳴らした。たった今、返信メールを送ったばかりの美咲からの電話だった。

「もしもし。美咲です」

「ああ、ごめん」

「頭痛がするって、大丈夫ですか。熱は何度ありますか?」

「いや、分からない。体温計、無いから」

「風邪でも引いたのかしら。薬は飲みましたか?」

「昼頃に薬局に買いに行こうと思っています」

「それは大変ね」

「ああ」

 彼女の問いに対して答えるのも億劫だった。声に力が出ない。それが美咲にも分かったのだろうか。彼女は慌てていた。

「もしもし、本当に大丈夫なのですか?」

「ああ」

「声に力が無いわね。しっかりして。私が薬を買って持って行くから、待ってて」

 美咲は、そう言って電話を切った。信平は驚いた。美咲は『メゾン羽根木』のこの部屋を知っているのだろうか。信平は彼女が、自分の部屋にやって来ることを考えてみた。そう考えると、不安でいっぱいになった。頭がガンガンしているのに、無理矢理、起きて、パジャマからTシャツと短パンに着替えた。布団もたたんで押入れに入れた。ちらかっているゴミも一ケ所にまとめた。エアコンの電源を入れ、冷房を利かせた。訳もなく心臓が高鳴り、落ち着かなかった。美咲がやって来るなんて、信じられない。どうなるのか、これから。今後の展開が恐ろしく思えた。

 30分程すると、アパートの部屋に近づいて来る靴音がして、部屋のチャイムが鳴った。

「坂口です」

「どうぞ」

 信平は、そう言ってドアのロックを開放し、ドアを開けた。目の前に荷物を持った美咲が、心配そうな顔をして立っていた。彼女の顔を見詰めると、信平は一層、熱が高まったような気がしたが、そんなこと考えている余裕が無かった。真白いTシャツと薄茶色のスカート姿の美咲は、照れ臭そうに小さな声で言った。

「お早うございます。大丈夫ですか?」

「何とか。どうぞ、どうぞ」

 信平はモジモジしている美咲を部屋に招き入れた。彼女は緊張した面持ちで、そっと部屋に入って来た。

「失礼します」

 美咲は軽く信平にお辞儀をすると、部屋の中を観察した。信平は折り畳みテーブルの前にイグサの座布団を置いて、そこに座るよう美咲に指示した。美咲は言われるままに、そこに座ると、荷物をカーペットの上に、そっと置いた。

「これ、お土産。魚沼の桃なの。悪くなるといけないから、早く届けたくて」

「桃。魚沼で桃が獲れるの?」

「そうなの。お米ほど有名ではないけど・・」

「有難う。美味しそうだね」

「美味しいわよ。それより体温を調べないと。体温計、持って来たから測ってみて」

 美咲はそう言って、ハンドバックの中から体温計を取り出し、信平のTシャツの袖口から脇の下に、体温計を差し込んだ。信平は接近して面倒を見る美咲の香りに圧倒された。そのドギマギしている信平の目の前に美咲は風邪薬と頭痛薬を置き、信平に訊いた。

「グラスはどれを使っているの?」

 普段、大人しい美咲が、次から次へと喋るので、信平はびっくりした。美咲は、信平の指示したグラスをテーブルの上に置くと、持って来たペットボトルの水をグラスに注ぎながら、自分の細い手首に付けている小さな腕時計を見て言った。

「もう良いでしょう。体温計、見せて」

 そう言われて信平は自分の脇の下から体温計を取り出し、そこに表示された体温計を確認した。38度だった。美咲は信平が手にしている体温計を急いで取り上げ、叫んだ。

「まあ、こんなに高いのに、寝てなくては駄目よ。風邪を引いたみたいね。布団は何処なの?」

 美咲は、そう言うと、テーブルを部屋の片隅に、さっさと片付た。そして信平が押入れの中から出そうとしている布団を敷くのを手伝った。またTシャツからパジャマに着替えさせ、布団に寝かせた。午前中ではあるけれど、兎に角、薬を飲ませた信平を布団の中で、ゆっくり休ませることにした。

「私の事など気にしないで、ゆっくり眠って。貴方が眠っている間に、食事の用意をするから。何か食べたい物ある?」

「お粥を食べたい」

 信平は遠慮なく答えた。美咲は、お安い御用だと思った。しかし、何処に何があるのか分からなかった。冷蔵庫を開けたが、ジャムとキューリとトマトと食パンが入っているだけだった。

「お米は何処?」

「電子レンジの台の下」

 信平に言われた通り、電子レンジ台の下のボックスを開けると、米袋が入っていて、美咲はほっとした。電気炊飯器があるので、お粥は炊けるが、味付けの食材が無い。美咲は米を研ぎ炊飯器に入れ、炊飯器のセットしてから、布団で寝ている信平に声をかけた。

「ちょっと、出かけて来るから待っててね」

 美咲は、そう言うや、部屋のドアをパタンと閉めて、外に出て行った。それから20分程して再び食材を入れたレジ袋を持って、戻って来て、土鍋やネギや卵や梅干をキッチンに置いた。そして丁度、炊きあがった御飯を土鍋に移し、お粥を作った。煮上がる寸前に卵を割って、さっと垂らして混ぜ、塩で、ちょっと味付けして、お粥が完成。

「出来たわよ」

 美咲がそう言って、出来上がったお粥をお椀によそって枕元に持って行くと、信平は寝床から身を起こし、お粥をスプーンですくって、フウフウしながら、口に運んだ。

「味はどう?」

「熱いけど、とても美味しいよ。お腹が驚いているよ。今まで食欲がなくて、何も食べていなかったから。本当にありがとう」

「良かった」

 信平に喜んでもらい、美咲は嬉しかった。信平はひどい熱を出して寝込んでいて、空腹だったから、美咲が愛情をこめて作ってくれたお粥を、とても美味しく感じたのだ。そのお粥を食べ終わると、信平は不思議なほど元気になった。それを見届けると美咲は信平に風邪薬を飲ませて帰って行った。信平はそんな美咲の親切心に、心から感謝した。信平は、母親にお粥を食べさせてもらったような不思議な気分につつまれた。

 そんな風にして美咲に面倒を見てもらったお陰で、どうなるかと思っていた高熱も平常に戻り、信平は翌日から普段通りに、『ボヌール』で働けるようになった。美咲が置いて行った魚沼の桃を朝食時のデザートとしていただいた後、電車に乗って下北沢の『ボヌール』に行くと元気が出た。そんな信平を見て、宮下若菜が言った。

「今日はいやに元気ね。休み中に何かあったの?」

「岩崎店長に、たっぷり休ませていただいたので、元気になりました」

 信平は、そう答えて軽く受け流した。

「それだけ?」

「それだけだよ」

 女の直感は鋭い。何かあったに違いないと洞察され、信平は昨日、美咲が部屋に来てくれたことを思い返した。考えれば思いがけない出来事だった。自分の部屋に美咲が来るなんて予想外だった。狭い部屋に布団を敷いて寝かせられ、お粥を食べさせてもらってから、薬を飲み、何も起こらず、美咲は帰って行った。その後、死んだように眠ったのが、健康を回復させるのに効果があったようだ。そのようにして元気になった信平の姿を見て、岩崎店長をはじめとする『ボヌール』の従業員たちは、皆、一安心した。何処で信平の具合が悪かったことを耳にしたのか、昼休み、遠藤団長が、様子見に『ボヌール』にやって来た。

「大丈夫か?」

「はい。大丈夫です。夏風邪をひいたみたいです。皆さんに心配かけて、申し訳ありません」

「気にするな。皆、仲間だからな。心配して当然だ。でも元気そうで安心した。今日の稽古は休め。無理して風邪を長引かせぬよう養生しなさい」

「は、はい」

 信平は夕方からの稽古に出る予定でいたが、遠藤団長に釘を刺され、稽古に行きたかったが、今日の稽古を休むことにした。『ボヌール』での仕事を終えてから、下北沢のコンビニで冷やし中華弁当を買い、その後、真っすぐ、東松原のアパートに帰った。何時もなら『演劇広場』で稽古を始める時刻であるが、今日は、何もすることが無い。部屋に灯りを点け、これからゆっくり夕食を始めようかと、テーブルの上に冷やし中華弁当を置いて、テレビのスイッチをひねった時だった。部屋のチャイムが鳴った。

「は~い。どちら様ですか?」

 信平が、そう言って部屋の入口に向かうと、部屋の外から答えが返って来た。

「坂口です」

 信平は二日連続の彼女の来訪に驚きながら、部屋のドアを開けた。すると目の前に紺色のストライブのYシャツにジーパン姿の美咲が笑って立っていた。

「部屋に灯りが点いていたので、どうされているのかと思って」

「お陰様で、すっかり良くなりました。どうぞ、入って下さい」

 信平の明るい声に美咲は嬉しそうな顔をして、狭い入口で靴を脱いで部屋に上がった。テーブルの上に置いてあるコンビニ弁当を目にして、屈託のない口調で言った。

「これから夕ご飯を食べるところだったのかしら?」

「はい」

「私もまだなんです。一緒に食べましょうか。アパートに帰って一人で食べるのより、ここで二人で食べた方が美味しいでしょうから」

 美咲は、そう言うと、手にしていたレジ袋から食料品を取り出し、テーブルの上に並べ、夕食の準備を始めた。彼女が作ったのはパスタ料理だった。おかしな話だが、そのパスタと冷やし中華を分け合って食べた。デザートは魚沼の桃。その後、信平はテレビドラマに合わせて、美咲にキッスしようとした。すると美咲はするりと身をひねり、キッスを避けて言った。

「駄目よ。私、体温計を返してもらいに来たのだから・・」

「ああ、そうだったね。体温計、体温計」

 信平は良からぬことを考えた自分が恥ずかしくなって、赤面した。机の上に置いていた体温計を手に取って、美咲に渡した。

「ありがとう」

 そう言って、体温計を渡すと、美咲が笑ったので、その場での緊張は直ぐに解けた。体温計を受け取った美咲は、ではまたと言って帰って行った。


     17,夏去りて、秋へ

 暑かった日本の夏は、残酷な爪痕を残したまま過ぎ去った。東日本大震災の復興、福島原発の処理、失業者の増加、領土問題など、沢山の悩みを抱えたまま、民主党の野田佳彦議員が内閣総理大臣に任命され、日本の9月がスタートした。これからの日本はどうなるのであろうか。信平は日本の未来を危惧しながらも、時代の流れに沿って生きる以外に方法がないと思った。東日本大震災に襲われた故郷では、今や就職先も無く、ガレキの山が続いているだけで、住民は途方に暮れているという。行政を担当する筈の内閣が全く機能せず、各省庁への指示が徹底しておらず、国民からの不満がつのり、菅直人内閣の後、9月2日、野田内閣が『決められる政治』を掲げて入れ替わったが、果たして大丈夫だろうか。故郷の事が時々、脳裏をよぎったりするが、月日が経過すればするほど、故郷との距離が遠くなって行く。心配でならない。そんな時の『演劇広場』での『父帰る』の道化芸人の稽古は、故郷の事を忘れさせてくれるのに十分だった。遠藤団長の月初めの挨拶では、来月、南麻布の女子学園で、『父帰る』の演劇披露を行うとのことだった。信平たちは、その発表に向けて、日々、熱心に稽古を重ねた。目的があるということは、たとえ脇役であっても遣り甲斐があった。しかし奥津昭男や藤田研吾、細村慶子たちベテランが参加していないことに、遠藤団長は何となく寂しさを感じているようだった。遠藤団長は『父帰る』の今回の発表について、参加者に語った。

「この作品を、お涙頂戴の人情劇と受け取る人もいるだろうが、この作品には、いろんな人の生き方が描かれている。兄弟でも、それぞれに考えが異なるという事を教えている。公演する女子学園にも、一人で苦しんでいる女子学生が何人かいる筈だ。その女子学生たちが、我々の演劇を観て、目覚めるかもしれない。正気を失い道に迷い、途方に暮れて、泣き伏している女子学生が、我々の差し伸べた演劇の力によって、立ち上がれるかもしれない。もし、そのようなことが出来たなら、我々が役者として演じた価値が証明され、仕合せなことだと思う。この役者としての役割を忘れず、皆さん、稽古に頑張って下さい」

 遠藤団長の演劇に注ぐ情熱は、信平たち若者の心を揺さぶった。信平たちは真剣に稽古に向き合い、遠藤団長の指導に身を任せながら。役者としての夢を追いかけた。力いっぱいの演技と声調で、観客たちと心を通わせる為の努力をした。そうした稽古を重ねる日々の中で、ベテラン役者、三宅英治の言葉は嬉しかった。

「北上君。君が思っていた以上に演技が上達し、遠藤さんが喜んでいたぞ。泣かせる演技は誰でも出来るが、笑わせる演技は難しいのに、北上君はひどく真面目で、繊細で、それが実に滑稽に見えて、とても面白いと言うんだ。その一風変わった雰囲気が、観客を喜ばせてくれる不思議な才能だと言うんだ」

「本当ですか?」

「本当だよ。自分の才能は当人には意外と分からないものだよ。そのうち大役を任されるかもしれないから、一生懸命、頑張るんだね」

「は、はい」

 信平は三宅英治に励まされて、何となく取り組んで来た演劇を、更に追求しようと思った。今まで農協に務めて蓄えて来た貯金が少しずつ、減少して、生活が厳しくなって来ているが、何時の日にか収入の得られる役者になれるのではないかと考えたりした。その誘惑は田舎から上京して来た信平にとって、とても魅力的だった。努力に努力を重ねて立派な役者になり、出来る事なら将来、寺山修司のような劇作家兼演出家になりたいと思った。三宅英治の励ましにより、信平は自分で予想もしていなかった夢への芽生えを実感した。

 そうこうして、日々を過ごしていると、暑かった夏を芙蓉の花が寂しげに見送り、秋らしい風が吹き始める季節となった。福島の原発処理では原子炉建屋にロボットが投入されて、進展し始めたかに見えたが、放射能に汚染された米や野菜を食べると危険だという風評が高まり、その被害は東北だけでなく北関東にまで及ぶほどになった。しかし、東京にいる信平には自分の故郷や福島で起きている厳しい現実を実感することが出来なかった。テレビや新聞で、その悲惨さを見聞するが、何故か目の前の現実では無く、遠い世界の出来事だった。実感出来るのは、演劇の世界に入り、そこで活動することによって、自分が生きている確信だった。演劇の事に頭をめぐらせていると、楽しくて楽しくて仕方なかった。不思議な事に演劇に対する想像力が湧き上がり、丸山伸之のように戯曲を書いてみたいと思ったり、浜田監督のように脚本に合ったキャスティングなど、劇団の先頭に立って、指揮を執ってみたいと思ったり、遠藤団長のように、劇団のプロデュースをしてみたいと考えたりした。『父帰る』の演劇の稽古の帰りのことだった。母のおたか役を演じる白石優子が、そっと声をかけて来た。

「北上君。私と夜中のコーヒー、飲みに行きませんか?」

「これからですか?」

「ちょっと話したいことがあるの」

「はい」

 信平は彼女が何か自分に伝えたいことがあるのだと直感し、彼女の誘いに同意した。

「では駅近くの『ラベンダー』に先に行ってて」

「はい」

 信平は『演劇広場』の前で、五味克彦たち仲間と別れると、白石優子に指示された喫茶店『ラベンダー』へ行った。夜の遅い時刻なので、店内の客はまばらだった。アメリカンコーヒーを註文して、少しすると、白石優子がやって来た。彼女もアメリカンコーヒーを註文した。二人のコーヒーがセットされたところで、優子が嬉しそうに言った。

「では、夜中のコーヒーをいただきましょう」

 彼女はコーヒーを口にしながら、信平の顔を覗き込み、ウフフと笑った。信平は『演劇広場』の先輩の優子と一対一で会うのは初めてだったし、彼女の豊満な胸を目の前にして、赤面した。彼女は何を自分に言いたいのだろう。信平が緊張して優子を見詰めると、またウフフと笑って、小さな声でささやいた。

「北上君の台本、こっそり見ちゃった。監督に言われたことを、細かくメモしているのね」

「はい。言われたことを忘れないようにメモしています」

「それを見て、私、感心したの。貴方には文学の匂いがするって」

「本当ですか?」

「本当よ。だから『アモーレ』の同人になったらどうかなと思って・・」

「丸山先生や細村さんや白石さんが発行している同人誌の仲間にですか?」

「そうよ」

「私には、そんな才能ありません」

 信平は戯曲を書いてみたいと思っていたのに、いざ、そのような機会を提案されると、腰が引けた。しかし、一旦、勧誘を口にした優子は、熱心だった。

「貴方には文学の匂いがするの。貴方が『アモーレ』に入ってくれたら、『アモーレ』にも活気が出るような気がするの。世代やジャンルの違う人たちの集まりの中に加わると、貴方の演技にもシナジー効果が生まれると思うの。考えておいて」

「は、はい」

 信平は思わぬ誘いに驚き、どうしたら良いのか分からぬまま頷いた。それから同人誌『アモーレ』や『演劇広場』の話などを沢山、聞かされた。そして10時半に『ラベンダー』を出た。下北沢の駅の井の頭線のホームで、彼女と東西に別れた。彼女の家は井の頭線、神泉駅を下車して、数分の所だという。

 それから数日後、南麻布の女子学園で、『父帰る』を上演する日となった。午前中に、遠藤団長の指示に従い、藤田研吾にお願いして、舞台装置、照明道具、小道具などを、『藤田巧芸』から女子学園まで、トラックで運んだ。女子学園の会場は講堂を兼ねた室内体育館だった。舞台装置の組立は、何度も使い古した物で、三宅英治をはじめとする先輩たちは、藤田研吾の指示に従い、手際よく舞台セットを済ませた。そして昼食後、午後1時半、『父帰る』の開演となった。会場には女子学生たちが、教師たちと一緒になって、舞台前に並んで、演劇が始まるのを、今か今かと楽しみにしていた。開演にあたり、学園長が挨拶した。

「演劇とは生身の俳優が観客を目の前にして、身振り手振りで台詞や歌を発し、物語を観客に伝える一回限りの舞台芸術です。これから演じられる皆さんの演技に溶け込み、舞台と一体になる時空間を共有しましょう」

 その後、遠藤団長が『演劇広場』の説明と明治時代の文豪、菊池寛の原作を座付き作家、丸山伸之が現代風に脚色し、原作と違い、場所も東京都内に設定し、言葉も東京弁に改め、皆さんに分かりやすくしたので、楽しんで欲しいと伝えた。そして、まず『第一場』向島の料亭からスタートした。信平の出番は、この『第一場』だけだった。羽振りの良い黒田宗太郎社長が、かっての高校時代の友人、久保忠太と出会い、友人を向島で接待する際、芸人、蝶太として、妹、桜子と芸を見せるという役だった。いわゆる太鼓持ちの役だ。宗太郎は久保に自分が家を出た後の家族がどうなっているのか尋ねた後、酒に酔うが、蝶太と桜子は猿踊りなどして、女子高校生たちを笑わせた。『第二場』からは、信平の出番は全く無かった。舞台装置の切り替えなどの裏方の仕事に専念した。『第二場』は久保家での寺島正夫と黒田早苗の見合い場面だった。ここでは宮下若菜が、都会議員の娘として、ちょこっと登場した。『第三場』では杉田家の前で五味克彦演じる次男、新二郎が、父親と似ている老人を目にしたと、杉田校長の息子、信吉から教えて貰う場面で、宗太郎の演技が女子高校生たちを笑わせるとともに、哀愁を漂わせ、悲しい気持ちにさせた。『第四場』は黒田宗太郎のいない黒田家の夕刻の情景で、次男の新二郎が母、孝子や長男の賢一郎、妹の早苗に杉田校長たちが、父を見かけたと言っていたと話す。それを聞いて、皆、びっくりしていると、落ちぶれた父、宗太郎が家に帰って来る。妻、孝子をはじめ、子供の新二郎も早苗も惨めな姿をした父を温かく迎える。ところが、今まで、家族の生活の為に苦労して来た長男の賢一郎は、父を許っそうとしない。俺たちに父親などいないと、宗太郎に罵声を浴びせる。その怒りに、宗太郎は尤もだと言って、家を出て行く。母、孝子が賢一郎にすがりつき、お父さんを許してやってと泣き叫ぶ。その母の涙を見て、賢一郎は態度を変え、新二郎と父を追って飛び出して行く。妹の早苗が母をなだめる。そこで閉幕になる、すると女子高校生たちが一斉に拍手喝采を送り、止まらぬ涙をぬぐった。教師たちも泣いている女子生徒たちに気づかれてはならぬと、涙を我慢した。信平たち劇団員は、その様子を舞台の陰から見ていて、上演が成功したことに興奮した。それから団員一同は再び舞台の紅白幕の前に整列し、遠藤団長が挨拶をした。

「本日は『演劇広場』の公演『父帰る』を観ていただき誠に有難う御座いました。如何でしたでしょうか?お陰様で本公演が無事、上演出来たことは学園長様をはじめとする皆様のご支援、ご協力によるものと心より感謝しております。今回の作品で、皆さんは兄弟でも、それぞれ考えが異なり、いろんな人の生き方があるのを知ったと思います。人生には登り坂もあれば、下り坂もあります。向かい風もあれば、追い風もあります。そんな時は、あえて厳しい道に立ち向かう事を選んでみて下さい。困難な事に立ち向かうことによって、真理が見える筈です。輝けるものが見える筈です。自分の進むべき道が、はっきりと見えて来ます。苦しい時を過去から与えられた自分の悲劇と思ってはなりません。身に受ける苦難は、偶然でしかないと思って、前向きに進めば、痛さ、辛さが喜びに変わり、悲劇が喜劇に転じます。明治の劇作家、菊池寛が『父蹴る』で伝えたかったのは、このことです。本日は若い皆さんから、沢山の笑い声と涙と拍手をいただき、劇団員一同、ホッとしています。長い時間を頂戴して、ありがとう御座いました。では、また何処かで、お会いしましょう」

 遠藤団長の御礼の挨拶に女子高校生たちは感激し、またもや拍手喝采を送り、体育館から順序良く退出して行った。女子高校生たちがいなくなってから、信平たちは皆で舞台装置、照明道具、小道具を整理して、校庭に停めてある『藤田巧芸』のトラックに積み込んだ。衣装は金子麻美のライトバンに載せた。そして皆で、下北沢の『演劇広場』に引き上げた。夕方6時から、『演劇広場』の稽古場で御苦労さん会を行った。遠藤団長は、劇団員一人一人の努力の積み重ねによって、今回の公演が成功したことを、皆に感謝した。また観客だった女子高校生たちにも、良い授業になったと言って、皆で乾杯した。それから『ボヌール』の岩崎店長の指示で山本コックや椿原愛子が準備してくれたピザ、鶏のからあげ、エビの甘辛炒め、ポテトフライ、マカロニサラダ、生ハムなどを食べながら、女子高校生たちの純真な瞳から流れ出た涙がいっぱいだったのを、喜び合ったりした。信平たち若手劇団員たちは、自分たちだけの公演の成功の喜びに花を咲かせ、満足感に酔った。

 こうして女子学園での公演が終わると、『演劇広場』の稽古も一段落して、ぼんやりとした日が続いた。そんな或る日の朝、野原香澄からメールが入った。

〈 おはようございます。お久しぶりです。

 今日は、お仕事、休みの日ですよね。

 午後4時、渋谷の喫茶店で、お会いしたいのですが

 ご都合、いかがですか?          〉

 香澄のメールの通り、今日は確かに『ボヌール』のアルバイトが休みの日であり、これといった用事が無かった。そこで直ぐに了解の返信を作成した。

〈 了解です。午後4時、『キーヘル』へ

  行きます。               〉

 そのメールを送ってから、信平は自分の部屋掃除をしたり、コインランドリーに洗濯に行ったり、スーパーマーケットに行き、食料品を買ったりして、午前中を過ごし、午後3時、アパ-トを出た。近くの家の庭には、百日紅の花が咲き、柿の木の細い枝に青い実がしがみついていて可愛い。信平は故郷の季節を想い出し、故郷の状況を想像し、考えながら東松原駅に行き、渋谷行きの電車に乗った。約束の『キーヘル』に行くと、白いブラウスの上にデニムのジャケットを着た野原香澄がいた。近づいてから彼女の赤いミニスカートに気づいた。彼女が携帯電話を夢中になっていじくっているので、信平から声をかけた。

「お待たせ。今日は一人?」

 そう訊ねると、香澄はハッとして信平を見上げて、妖しく笑った。

「はい。私、一人です。でも私が北上さんと会う事、美咲ちゃん知ってます」

「そう。他に用事があったのかな?」

「いえ。注文、何にしますか?」

 ウエイトレスがやって来て、立っているので、香澄がウエイトレスの代わりに、飲み物を何にするのか信平に訊いた。

「アメリカン」

 そう答えてから、一旦、会話が途切れた。男と女の一対一の時空。目の前にいる香澄は、何の目的で自分を呼び出したのか。その疑問を信平が訊こうとした瞬間、香澄が先に口を開いた。

「美咲ちゃんは、一人暮らしの北上さんのこと、心配しているの。栄養失調になって、身体を駄目にするのではないかって・・」

「この前、風邪をひいて、迷惑をかけたからなあ。あの時は高熱で死ぬかと思ったけど、彼女に面倒を見てもらい、助かったよ」

「そうだったらしいわね。健康に気を付けないと」

「言われる通り、健康第一にしないとね」

 信平が、そう答えると同時に、アメリカンコーヒーが運ばれて来た。信平はコーヒーカップに砂糖とミルクを入れ、ゆっくりと掻き回してから、アメリカンコーヒーを口にした。香澄は信平が一口、飲み終えるのを確認してから言った。

「私の提案なんだけど、美咲ちゃんと北上さん、一緒に暮らしたらどうなの?」

「ええっ」

「その方が家賃も食費も節約出来るわよ。今日は、それを伝えたかったの」

「でも俺に言われても、坂口さんは、どうなんですか?」

「美咲ちゃんは勿論、了解よ。このことを貴方に訊くのが恥ずかしいからって、彼女、今日、来なかったの」

 香澄からの提案を聞いて、信平はどうしたものかと、腕組みした。いろいろと考えてみたが、直ぐに返答出来るものではなかった。

「坂口さんの御両親が知ったら、納得しないと思うよ」

「どうかしらね。今、大学生の同棲、流行っているから平気よ」

 香澄の言動は、香澄自身が同棲生活をしていることを推測させた。信平にとって、美咲との同棲生活は疑問だった。

「考えてみるよ」

「そう。良かった。私、伝えたからね。良い返事、待っているわよ」

 香澄は、それからショートケーキを食べ、カラオケに行こうかと、信平を誘った。しかし信平は、それを断り、喫茶代を支払い、『キーヘル』の前で香澄と別れた。彼女と別れてから、この近くに住んでいる白石優子から『アモーレ』の同人にならないかと誘われ、まだ返事していないことを想い出した。

 次の火曜日、朝から風雨が激しくなり、信平はアルバイトに出かけるのが辛かったが、休む訳にはいかなかった。台風15号がやって来ているが、『ボヌール』は休みではない。びしょ濡れに近い状態で店に入ると、山本コックと西川四郎、宮下若菜が既に来ていて、開店の準備を進めていた。続いて椿原愛子、小野栄治、岩崎店長が現れ、『ボヌール』は何時ものように、モーニング珈琲客で賑わった。この朝の慌ただしい空気に自然と身体が活気づけられ、外の暴風雨のことなど忘れてしまった。その客の多い朝食時のピークが過ぎて店内が静まる時刻を見計らってだろうか、『ボヌール』のオーナーである遠藤団長が現れ、店の片隅のテーブルで、岩崎店長と何か話し始めた。何を話しているのか気になったが、近寄ってはならないような気がした。信平に若菜が声をかけて来た。

「こんな雨の日に何かしら?」

 信平には、こんな雨の日に、遠藤団長が何で来たのか分からなかった。岩崎店長は遠藤団長の言葉の一つ一つに頷いていた。そこへ思わぬ人が入って来た。

「やあ、お早う」

 豪放磊落な態度で入って来たのは、あの肥満体の浜田監督だった。彼は信平や若菜に手を上げると、遠藤団長と岩崎店長が座っている席に行き、岩崎店長と入れ替わり、ドカッと席に着いた。椿原愛子が直ぐにコーヒーを淹れて上げた。それから遠藤団長と浜田監督は嬉しそうに、時々、笑い声を上げて話した。まるで若者のように楽し気だった。そして話しが終わると浜田監督は早めのスパゲッティランチを食べ、帰って行った。後に残った遠藤団長が、信平と若菜を片隅の席に呼び寄せ、浜田監督が来て喋った内容を伝えた。

「昨日、浜田監督から電話があり、『曙橋慕情』の再演の話があり、今日、店に来てもらって詳細を聞いた。浜田監督の話だと、『曙橋慕情』を観た十条の劇場主が、『曙橋慕情』を是非、十条で再演して欲しいというのだ。浜田監督は、ほとんど再演しないのだが、相手が熱心なので、どうだろうと相談された。私は、良いんじゃあないのと答えておいた。多分、再演することになるだろうから、そのつもりでいてくれ」

「はい」

 信平は、若菜と自分に、そう話してくれた遠藤団長も、乗る気になっているのだと感じた。あんなに真剣に稽古して来たのに、『曙橋慕情』の新宿シアターでの公演が、たった一日で終わってしまったことに虚しさを感じていた信平は、再演の話を聞いて興奮した。

「また同じ役を演じられるなんて、ドキドキしますね」

「そうだな。皆、頑張り屋だから、初演より、もっと面白く、もっと観客を感動させることになると思うよ」

「再演をお願いされるなんて、高く評価されたのですね。胸を震わせる衝撃と感動の作品だと観客の何人かが言っていましたから・・」

 若菜も再演の話を聞いて喜んだ。遠藤団長は二人に『曙橋慕情』再演の話が進んでいることを話してから、浜田監督と同じ、スパゲッティランチを食べて、岩崎店長と、また二、三言、喋って帰って行った。台風15号は午後になると、一層、荒れ狂った。夕方5時にアルバイトを終え、暴風雨の中、駅まで行ったが、井の頭線は運転を中止していた。駅前では大勢の人たちが、行き場を失い、熱気に溢れていた。電車が来るのを1時間以上待ったが、電車は動き出す様子でなかった。信平は耐え忍ぶことが出来なくなり、下北沢から環七通りまで歩き、新代田駅を越え、『メゾン羽根木』まで歩いた。傘が台風の為、おちょこになったりして、まるで滝の中を歩いているようだったが、何とか8時過ぎに、アパートに辿り着くことが出来た。


     18,十条公演

 『演劇広場』の稽古が、しばらく休みかと思っていたら、再び浜田監督が現れ、『曙橋慕情』の稽古が始まった。あんなに稽古したのに、新宿シアターで、昼の部と夜の部の二回公演しただけで終わってしまったので、演劇とは苦心して準備したのに、まるで花火のように空虚なものだと信平は感じていた。だがその喪失感は再演の知らせを受けて信平の心から吹き飛んだ。何ケ月も夜の時間を費やし稽古して来た努力の成果が多くの人の感動を呼び、愛惜され、再び上演されることになったのだと知らされると、演劇仲間は跳び上がって喜んだ。

「そうだよな。あんなに熱心に練習し、必死に演じて、沢山の人たちから拍手喝采をもらったんだからな」

「本当に嬉しいわ。突然、セリフが出なくて、その都度、助けていただいたりして、何とか舞台に立たせていただき、沢山の花束を貰った時の体験が、もう一度、出来るなんて」

 そんな下田次郎や平原由美たちの喜びと、浜田監督が考えている再演への思いは全く異なっていた。浜田監督は、皆に言った。

「遠藤団長から『曙橋慕情』を十条の劇場で公演することになったと聞いて、諸君は新宿シアターと同じことをやれば良いのだと考えているかも知れないが、私は、その時の再演とは考えていません。新宿の舞台とは一切、関係ありません。今日から稽古するのは、十条の舞台で演じる『曙橋慕情』であり、全く新しい気持ちで創造し、演じなければ、意味がありません。演劇はお客様との一期一会なのです。その出会いの一瞬が、勝負なのです。そのつもりで十条のお客様と対峙する為の稽古を始めるのです。頑張って下さい」

 浜田監督の言わんとすることは、何となく分かるような気がしたが、自分たちが使う台本は、以前の台本、そのままであった。同じ台本のままで、全く新しい気持ちで創造し、演じることが出来るのであろうか。信平が難しい顔をしていると、藤田研吾が信平に近寄って来て、楽しそうに言った。

「どうしたの。信じられないような顔をして。君たちに手伝ってもらって作った舞台装置を、また使うことになって嬉しいよ。毎年、上演する作品に合わせた舞台装置を作るのだが、その多くは二、三年保管した後、ゴミとして廃棄せねばならなくなり、愕然とすることが多い。苦労して作り上げた舞台装置の価値が消え、自分が無益な事をしているのではないかと思ったりすることがある。それがまた生かされ、十条の劇場で陽の目を見るんだから、俺は嬉しいよ」

「そう言われれば、そうですよね。新宿のシアターで一日、使われただけではつまらないですよね」

「その通り。舞台装置は役者と同様、観客と一体になる為の力を持つ作品でなければならないんだ。そこにセットしたことにより、風のそよぎ、花の香り、空の青さ、小川のせせらぎ、雪の冷たさ、漂う空気などを観客の心に湧き上がらせる役目をするんだ」

 信平は久しぶりに藤田研吾先輩の熱弁を聞き、新しい意欲を胸に抱いた。十条の劇場という所が、どんな所か知らないが、そこでまた何か新しいものを得られるような気がした。研吾は信平に喜びを聞いてもらい、気分、良さそうだった。

「帰り、五味君を誘って、飲みに行こうか?」

「はい。再演祝いをしましょう」

 このことを五味克彦や下田次郎に話すと、二人とも賛同し、稽古が終わるや、四人で『鈴なり横丁』へ行った。居酒屋のマスター、秋元公一が、何時ものように大きな声で、四人を迎えた。

「いらっしゃい。今日は、お揃いで、何かあったのですか?」

「まあね」

 そう答えて、四人はビールのジョッキをぶつけ合い、乾杯した。

 その数日後、信平は『演劇広場』での稽古を終えて、白石優子から、夜中のコーヒーの誘いを受けた。前回と同様、喫茶店『ラベンダー』に先に行って、彼女が現れるのを待った。同人誌『アモーレ』の会員になるか否かの返事はどうなのかと訊かれることは明白だった。あれから、いろいろ考えたが、これから役者として生きて行く為に、小説や戯曲の創作も大きく成長する為の糧となり、役立つ事は分かっている。だが『アモーレ』の同人としてやって行けるかどうか分からない。しかし、寺山修司に憧れて上京したのであるから、まずは『アモーレ』の会員の誘いに応じようと心に決めた。10分程すると、白石優子が、喫茶店のドアを開けて、中に入って来た。その後ろに、もう一人女性がいた。何と細村慶子だった。

「お待たせ」

 二人は、そう言って信平の前に座ると、紅茶を註文し、信平を見詰めた。年上の二人の熟女を前にして、信平は緊張した。

「どうも」

「この前、お話したこと、思い切りがついたかしら?」

 豊満な優子が、囁くような甘ったるい声で、質問して来た。信平はあらかじめ考えていた答えを返事した。

「ええ、考えてみました。自分には文学の才能があるとは思えませんが、文学に興味があります。役者をやって行く上で、文学の勉強も重要です。有難い御誘いをいただきましたので、文学の修行をしてみることにしました。よろしく、お願いします」

「まあっ、『アモーレ』の仲間になってくれるのね」

「はい」

「良かった。良かったわ。細村さん」

「ええ、良かったわね。白石さん」

 熟女二人が喜んでいるところへ、紅茶が運ばれて来た。運んで来たウエイターに細村慶子が声をかけた。

「ケーキをお願いしたいのだけれど・・」

「有難う御座います。何になさいますか?」

「私はショートケーキ。貴方たちは、何にするの?」

 優子と信平は慶子とウエイターに促されてサバランとモンブランを註文した。

「入会祝いよ。北上君に入ってもらい、『アモーレ』が、若返るわ」

 慶子は細面の端正な顔立ちを、ちょっとゆがませて嬉しそうに言った。その真っ直ぐな瞳の輝きは魅力的だった。信平は二人が信平の同人加入を心から歓迎してくれていることに、喜びを覚えた。それから、信平は、教えて欲しい事を幾つか質問した。

「下手な作品でも載せてもらえるのですか?」

 その質問に、一瞬、時間差があったが、慶子が笑って答えた。

「ええ、大丈夫よ。丸山先生たち編集部の人たちが、指導して、立派な作品に仕立て上げてくれるから。それに白石さんが言うように、貴方には文学の匂いがするから」

 二人は信平の入会について、以前からいろいろと相談していたみたいだった。彼女たちは信平が、寺山修司に憧れて家出して来たことを耳にしていて、『アモーレ』の仲間に加えたいと思っていたのだ。二人は文学サークル『アモーレ』について、誇りを持っていた。

「私たちのサークルは詩や小説を創作するだけのサークルではないの。互いに知識や教養を授け合い、人間性を高めるの。その他、迷える人たちの精神の避難所でもあるのよ」

「はぐれ者を惹きつける人生の相談所であり、サナトリュームのような役目もすれば、夢を描く若者が向上しようとするのを支援したり、新しい目標を抱く人の情熱を燃え上がらせる暖炉のある家のような役目もしているの。だから会合に参加すれば、必ず貴重なものを得られるわ」

 二人はケーキをいただきながら、代わる代わるに『アモーレ』の素晴らしさを語った。信平は先輩二人の話に真剣に耳を傾け、彼女たちの一言一句に頷いた。そして店内の客がまばらになった夜の十時半に、『ラベンダー』を出た。下北沢の駅で小田急線の電車で成城学園前に行く細村慶子を見送り、その後、井の頭線のホームで、渋谷方面に行く白石優子と別れた。週末とあって、井の頭線吉祥寺行きの電車は、驚くほど混雑していた。

 10月になると、都会の草むらでも、秋の虫たちが演奏を始め、何となく、うら悲しい気分になった。故郷はどうなっているのだろう。押し寄せて来た津波に破壊された町は復興しているのだろうか。避難所にいる人たちの仮設住宅の準備は出来ているのだろうか。家族の者は無事でいるだろうか。行方不明者になっている自分を海辺に行って探しているのではなかろうか。ボランティア活動をする人たちがいるのに、自分はよそ見していて良いのだろうか。それに貯金も目減りしている。信平は自分の先行きの事が不安になって来た。自分は果たして演劇世界で、このままやって行けるのだろうか。『アモーレ』の同人になることを約束してしまったが、自分に文章を書く力があるのだろうか。夜空の月を眺めながら、一人、自分の将来を考えた。しかし、その描く将来は、ぼんやりとしていて、はっきりとせず、まるで雲を掴むようなものだった。その雲の形は手を伸ばせば、どうにでも変化するし、掴もうとすると、指の隙間から抜け出していく風のようなものだった。信平は月を見ていて、幼馴染の川端晴美のことを想った。彼女は今、どうしているのだろうか。東日本大震災で、故郷に戻っているのだろうか。まだ東京の大学に通っているのだろうか。信平に望郷の気持ちが湧き上がった時、アパートの廊下を遠くから近づいて来る靴音を耳にした。何処の部屋の人かと耳を澄ますと、その靴音は自分の部屋の前で止まり、部屋のチャイムが鳴った。

「坂口です」

「あっ、坂口さん。今、開けます」

 信平は慌てた。部屋の中をちょっと片付け、ドアを開けた。

「どうぞ」

「部屋の灯りがついていたから、その後、どうしているかと思って」

「うん。元気だよ」

「体調はどうなの?」

「ああ、そうだったね。あの時、高熱で死ぬかと思ったよ。もし坂口さんに看病してもらわなかったら、あの世行きだったかも」

「ちょっと大袈裟じゃあない」

「そんな事ないよ。心から感謝しているよ。入って、入って」

 そう言って、信平が美咲を部屋に招き入れると、美咲は戸惑うことも無く、折り畳みテーブルの前に座った。

「リンゴ、買って来たの。食べましょう」

 買って来たリンゴをテーブルの上に並べてから、彼女は再び立ち上がり、食器棚から小皿とナイフを取り出し、再び座って、リンゴの皮を手際よく剝き始めた。信平は話すことも無く、彼女がリンゴの皮を剥くのを眺めた。リンゴの皮を剥きながら美咲が言った。

「先月、香澄ちゃんと会ったのですってね」

「うん」

「楽しかった?」

「うん。まあね」

「どんなこと話したの?」

 そう質問され、信平は逡巡した。どう答えたら良いのか迷った。目の前の美咲と一緒に暮らしたらと勧められたことなど言えなかった。

「うん。君に看病して貰ったこととか、いろんなこと」

「いろんなことって」

「まあ、いろんなこと」

「そう。リンゴ、剥けたわよ。さあ食べて」

「いただきます」

 信平は美咲が皮を剥いてくれた津軽リンゴを口にした。甘かった。信平が美味しそうに食べるのを見て、美咲が微笑んだ。信平も微笑み返した。

「懐かしいな。故郷で食べたリンゴを想い出すよ。ありがとう」

「良かった。喜んでもらえて。一人暮らししていると、こういうことってないから」

 確かに一人暮らしの生活では、他人と喜びを共有するという事は余り無かった。『メゾン羽根木』での生活は、まさに孤独そのものだった。だからといって信平には、孤独感など無かった。『演劇広場』の人たちとの交流は、都会の憂鬱を忘れさせてくれるのに充分だった。そんなことを考え、リンゴを賞味している信平に向かって、美咲が更に話した。

「香澄ちゃんが、話したかどうか分からないけど、彼女、彼氏と一緒に暮らしているの。お料理を喜んでもらったりして、仕合せいっぱいですって」

「それは良かったね。香澄ちゃんと一緒の彼氏が羨ましいな」

「私たちはどうかしら?」

「現状で満足しているよ」

 信平が、そう答えると美咲は、それ以上の事を言わず、後片付けして、帰って行った。時計は午後の10時を回っていた。

 東日本大震災、原発事故から月日が経つにつれて、世の中の景気が、ヨーロッパの金融危機と重なって、悪化の道を辿り始めた。世間には暗い憂愁の影が漂い、明るいニュースなど聞かれることが無かった。そんな時代の中で信平は、演劇の稽古のかたわら小説の創作に取り組んだ。中学生や高校生だった頃、作文を書いたことはあるが、物語のようなものを書いたことが無い。でも高校を卒業した後、何度か書いてみたいと思って挑戦したことがある。その時のテーマをもとに、執筆してみる事にした。人生経験の浅い自分に書ける事といったら、高校生時代の思い出や農協勤めの体験だけだった。その思い出を筆にしようとすると、浮かんで来るのは、高校時代の級友、阿部輝夫や永井健太や幼馴染の川端晴美、佐々木町子、それに美術教師、浅野珠江、農協の中島課長や有坂国男たちであった。信平はその青春群像を、あの石坂洋二郎の『青い山脈』風に描いてみたいと考えた。その物語は夢と希望と甘く切ない初恋と熱い友情が混交する青春小説だった。女教師への恋。それは今、振り返ると、ほろ苦い青春の匂い、片思いで、全く一方的なものであった。その日々を順序だてて文章にしていくと、何故か高校時代が再び戻って来るようで、小説の創作が楽しかった。

 小説『青春の森』を書き始めてから半月ほど経って、同人誌『アモーレ』の会合が、中野の公民館であるというので、信平は初めて、その会合に顔出しした。土曜日の午後のことで、丸茂隆史、奥津昭男、細村慶子、白石優子、高木桃香といった『演劇広場』の劇団員が、同人だったこともあり、それ程、緊張することも無く、席に着くことが出来た。また丸山伸之先生や松坂秀明主幹たちとも、『演劇広場』のリハーサル後の劇評会で、顔を合わせていたので、スムースに仲間として加わることが出来た。松坂主幹に新人紹介を受けて、新加入の挨拶をする時も、緊張せずに喋れた。

「只今、紹介いただきました北上信平です。本名は早坂信平です。小説を書いたことの無い私は、目下、小説の創作に挑戦中です。小説を執筆するにあたって、遵守しなければならないルールなど、全く分かっていないヒヨッコです。ご迷惑をおかけしますが、経験豊富な皆様に御指導いただきたく、よろしくお願い申し上げます」

 信平が会議室の片隅の席に立って挨拶すると、松坂主幹が明るく笑って言った。

「小説を書くのに、ルールなんて気にしなくて良いですよ。冒頭から結末迄、ストレートに書いても良いし、結末から遡って、リバースターン的な書き方でも構わない。Aという作品とBという作品を繋ぎ合わせても構わない。主人公が、どんな人生を歩んで行くのか、筋書きを定めずに書いていっても構わない。書き進んで行くうちに、全体がはっきりして来ることもある。どんな書き方をしようが、それは書き手の自由だ。ただ、どんな形であれ、読者に拍手をいただけるような結末を考えるのが大切であり、それが作者の最高の快感となる。我々は、その快感を求めて、文学活動に夢中になっている仲間です。皆、同じです。遠慮せずに、文学活動を楽しんで下さい」

「はい。有難う御座います。少し安心しました。よろしくお願い致します」

「同人の中に同じ劇団員の人たちがいるので、気軽に参加してくれれば良いです。では皆さん、北上君に拍手!」

 松坂主幹の言葉に、同人一同が、歓迎の拍手をしてくれた。信平の紹介が終わると、松坂主幹は冬季号の原稿の締め切りが迫っていることを伝えた。もし手持ち原稿があるなら、信平にも投稿して欲しいと言われた。だが信平は今回の投稿は難しいと答えた。その後、合評会が始まって、批評や文学論が飛び交い、信平は、その様子を、目をパチクリさせて眺めた。その合評時間が終了したところで、信平は会計係の中村久美に入会金と同人費を支払った。そして公民館での会合が終わると、一同、居酒屋『喜多酒場』にて、懇親会を行うのが慣例という事で、信平もそれに参加した。というより、信平の歓迎会も兼ねていたので、参加しない訳にはいかなかった。その席で信平は、白石優子と細村慶子に訊いた。

「演劇の稽古に行かなくて良いのですか?」

「ああ、稽古ね。今日の稽古、休むこと遠藤団長、知っているから大丈夫よ」

「北上君のことも伝えてあるから、気にしなくて良いわよ」

 そう言われて、信平はホッとした。二足の草鞋を履くのは難しい事だが、白石優子や細村慶子の手助けを得て、『アモーレ』に入会出来たことが、嬉しくてワクワクした。信平は、その酒席で、白石優子と細村慶子に、同人会『アモーレ』への入会を勧めてくれたことに対する感謝の礼を述べた。

 そして、また『曙橋慕情』の稽古が始まった。その稽古は以前と同じキャストでの練習なのに、この前、『父帰る』の舞台を経験した為か、また新しい気持ちで取り組むことが出来た。浜田監督の指導も、以前と異なり、冗談が少なく、もっと気分を沸騰させろと、演技の追及に厳しかった。信平は自分の演技を今までのように演じていて良いのか悩んだ。以前に使用した『曙橋慕情』の台本に風のように振舞えと教えられたメモを見詰め、自分の演技内容を、再確認した。また自分が発しているセリフの声がどのような声であるかを知る為に、テープレコーダーで、ストーリィ中の全キャストのセリフを吹き込み、作品の全体像を掴み、その中で、自分のセリフの発声がどうであるか確認し、不自然な所を他人のセリフと連動させて、復唱し、修正した。その復唱に疲れると、執筆し始めた私小説『青春の森』に取り組んだ。その為、部屋掃除の時間や睡眠時間が少なくなり、不健全な状態に陥るのではないかと懸念された。ところが信平の事を心配して、時々、坂口美咲が来るようになり、部屋掃除をしたり、料理を作ってくれるようになり、助かった。信平には分かっていた。坂口美咲が野原香澄に感化され、自分と一緒に暮らしたいと考えていることを。だが寂しさを解消する為、経済的に楽になるからという理由で、簡単に一緒に暮らす気持ちにはなれなかった。都会に憧れ、故郷の家族とのしがらみから脱出して、折角、手に入れた孤独を大切にしたい。『メゾン羽根木』の部屋に閉じこもり、私小説『青春の森』の執筆を始めてから、あっという間に過ぎ去った高校時代を回想し、思い浮かんで来た忘れ難い事を執筆する一人っきりの沈黙の時間は、とても貴重だった。そのような貴重な時空に、他者に割り込まれることは好ましくなかった。アルバイトと稽古の時間外に、誰とも喋らず、書物を読み、空想し、小説を書いていると、孤独で寂しい生活をしているにもかかわらず、何故か楽しくて仕方なかった。どうして孤独の生活が、こんなに楽しいのだろう。自分はやっぱり、孤独を求めていたのか。出来ればあの寺山修司のような物書きになりたいという願望が、そうさせているのか。脳裏に浮かんで来るのは、あの浅野珠江先生や幼馴染の川端晴美のことばかりだった。そんな信平に、美咲は不満を感じているみたいだった。

「私がここにやって来て、こういう風に動き回るの迷惑かしら?」

 信平は、その問いかけに彼女が怒っているのだと感じ、小さく肩をすぼめて答えた。

「そんなことないよ」

「だって、余り喋ってくれないし、嬉しそうでないから・・」

 ふくれっ面して、そう言う美咲に信平は、どう返答したら良いのか悩んだ。執筆中の『青春の森』のペンを机の上に置いて、彼女を思いやる言葉を発してやらなければならないと思った。

「君は俺が故郷を失い、友を失い、復興ボランテァにも行かず、後ろめたい暗い気持ちで、毎日を過ごしているのを知っている筈だ。未だに大震災からの復興が遅れている故郷を憂う俺が、何時もニコニコ、嬉しそうな顔をしていたら可笑しいだろう」

「でも私の事を少しくらいは考えてくれたって」

「考えているよ。病気の時、助けてもらった君には感謝しているよ。時々、俺の事を心配してやって来てくれて、優しくしてくれる君の笑顔を見ると、疲れや悩みが吹っ飛んで、癒されるよ。とても有難いと思っている」

「本当かしら?」

「本当に、そう思っている」

「本当。本当なのね」

 美咲は信平の言葉を聞いて、小躍りした。それから信平の傍らに座り、笑みを見せ、密かに抱き寄せられようと期待した。だが机に向かって執筆中の信平には、そんな関心は全く無く、少し笑って言った。

「お茶、お願いしていいですか」

 美咲は期待が外れ、一瞬、ぽかんとしたが、直ぐにお茶を淹れて、信平の机の上に置いた。文学を志す男とは、こんなものかと思った。

 そうこうしているうちに秋も深まり、冬支度を始める季節がやって来た。稽古の休みの日、信平は新宿に出かけ、冬物の衣服を買うことにした。久しぶりに歩く新宿の街は、相変わらず大勢の人たちが、右往左往していて賑やかだった。まずはデパートに行ってセーターやブレザーを見たが、どれも値段がびっくりするほど高くて、手が出なかった。だが田舎から出て来た時の衣服以外に、冬物の衣類を幾つか準備したかった。下北沢にも沢山のアパレル店があるが、下田次郎から新宿に行ったら安い店があるよと言われたので、新宿の東口方面に移動してみた。東口の新宿通りに行くと、手ごろな店があった。その店で吊るしのブレザーとズボン、それにポロシャツを選んで買うことにした。ブレザーは既製品で、身体に合う物があったが、ズボンだけは寸法合わせが必要だった。裾上げに一時間ほどかかるという。そこで信平は裾上げしてもらっている間、近くの『紀伊国屋書店』へ行って、時間をつぶすことにした。その書店は信平が今まで入ったことのある書店とは全く異なるスケールの大きさだった。9階まであり、4階に400名程収容出来る劇場もあって、沢山の人たちが来店していた。信平は各階を見てから、二階に行き、文庫本を眺めた。どれにしようか迷っているうちに、一時間経過してしまったことに気づき、先程の洋服店に、慌てて引き返した。店に戻ると、ズボンの裾上げは完了していた。その決済を済ませ、大きなポリ袋に入れてもらった荷物を受け取り、店を出ようとした時だった。若い男女が手をつないで店に入って来た。

「あらっ、北上さん」

 声をかけて来た相手を見て、信平はびっくりした。

「あっ、野原さん」

 何と野原香澄ではないか。男と一緒の香澄を見て信平は、ちょっと顔を赤らめ、照れながら言葉を続けた。

「買い物ですか?」

「ええ。彼のカラーシャツを選んであげようかと思って」

「そうですか」

「紹介するわ。こちら沢村直哉君」

 香澄が、そう紹介すると、カラーシャツに目を向けていた沢村直哉が、上半身を回転させ振り返り、お辞儀をした。それに合わせ信平も頭を軽く下げた。

「北上信平です」

「ああ、美咲ちゃんの」

「そうよ。演劇俳優の」

「沢村です。よろしく」

「こちらこそ」

「では、北上さん、またね」

 香澄は明るく笑うと軽く右手を振った。さよならの合図だ。信平は二人の買い物の邪魔をしては悪いと思い、急いで店を出た。店を出てから、あれが香澄と一緒に暮らしている彼氏なのかと推測した。また日頃、香澄が信平の事を彼に喋っていると知った。そして沢村直哉とは、どんな男なのか興味を持った。大学生だろうか。それともフリーターか。ハンサムだが、何故か一癖ありそうだ。もしかして幼馴染の川端晴美も、沢村直哉のような男と同棲しているのではないだろうかと、心配になった。そう思うと信平は居ても立っても居られなくなった。急いで『メゾン羽根木』に帰り、小説『青春の森』の執筆にとりかかった。川端晴美たちと過ごした高校生時代が、あの女教師、浅田珠江と共に浮かんで来た。小説を書きながら川端晴美という存在がとても大きく自分の中に生き続け、自分を引っ張っていると気づいた。そして東京にいるであろう晴美の心の中で、自分も同じように生存出来ていたらと願った。また、一方で、あの女教師が何故か、『青春の森』の中で、自由奔放に、縦横に駆け巡り、筆者に絡みついて来た。超絶技巧の彼女に操られ、柔軟で妖しい、めくるめく愛の交歓。師弟を越えた愛の応酬は、小説の中で、激しく揺れ動いた。信平は抑えきれない思いを小説に託した。

 そんな二股、三股の生活の中で、十条にある劇場『オリオン座』での公演日まで、残すこと一週間となった。信平は何となく追い込まれている気分になった。その信平の顔を見て、五味克彦が言った。

「もう二回目なんだから、そんなに緊張しなくても良いずら」

 五味に笑われたが、信平には浜田監督の意気込みが尋常で無いことから、浜田監督の意図するところを必死になって読み解こうと考えた。そして至ったのが十条の劇場『オリオン座』での公演だからということだった。そこに来る観客は、新宿シアターに来場してくれた演劇愛好者や役者たちの知己ではない。演芸を楽しむ一般大衆や下町観光客、プロのスカウトなど、種々雑多の人たちだ。そのことを考えると、舞台と観客の間にある距離や間合いを事細かに配慮した身体の動きと感情表現で、観客をどう舞台に引き込ませるかが、より重要であると気づいた。浜田監督は演劇愛好者でなく、娯楽を求める一般大衆を満足させるには、どのようにすべきか真剣に考え、真正面から対峙していこうとしているに違いなかった。その為、浜田監督自ら、気分をもっと沸騰させろと、演劇への情熱を燃え上がらせ、指導しているのだ。言葉ははっきり、動きは風のようにというのが、信平の役柄だった。『父帰る』で、向島の芸人、蝶太を演じたことにより、軽快な演技が出来るようになったが、果たして、それで良いのだろうか。信平にはまだまだ分からないことが、沢山あったので、桜井俊明に演劇に対する役者の在り方について、質問してみた。演劇の大先輩である桜井俊明は、最初、怪訝な顔をしたが、面倒くさがらず、信平に話してくれた。

「私はまず台本を頂くと、敬意をこめて机に向かい、その内容を読み、作者の意図を掴むことにしている。時代背景や配役の役割や意味を調べて、戯曲の裏側に隠されているものを洗い出し、理解する。その後、自分が頂いた役のセリフを、その場面に合わせ、気持ちを乗せて喋ってみる。何度も何度も喋ってみる。すると自分が割り与えられた役の人物と一体化したような気分になる。そうなったら、しめたもの。後は監督の指示に従うだけで良い」

 桜井先輩の話は極めて分かり易かった。信平が心掛けている事と、ほぼ同じだった。

「つまり与えられた役になりきることですね」

「まあ、そんなところだ。だが注意しなければならないのは、その与えられた役だ。自分が目立とうなんて、考えたら駄目だ。特に脇役の場合は、自ら輝く恒星であってはならない。他の星の光によって輝く惑星でなければならない。それが脇役の面白さだ」

「成程」

 幾つもの舞台を経験して来た桜井先輩の言葉は流石だった。自分が目立たず、主役が輝くことによって、脇役である自分が照らし出され、輝くというのだ。信平は、もう一つ気になっていることを質問した。

「浜田監督はほとんど再演はしないと聞いていますが、何故なのですか?」

「初演は作者が新しく書き上げた台本を基に数か月かけて劇団員が一丸となって創り上げる舞台だ。皆で夢中になって創り上げた作品は多少、荒があっても、それなりの良さがある。そして一度、お客様の目に触れさせたものは、それが完成品なのだ。だから、後からいじってはいけないというのが浜田監督の考えなのだ」

「なのに、何故、再演を決められたのでしょう?」

「十条の劇場主から何度も何度も、お願いされたらしい。新宿での一日きりの公演では勿体無さすぎると」

 信平は、その話を聞いて、『曙橋慕情』を高く評価してくれている劇場主とは、どんな人なのか、一度、会ってみたくなった。

 11月末の金曜日、北上信平は前回の新宿シアターでの公演と同じ段取りで、『ボヌール』の仕事を休ませてもらい、『藤田巧芸』へ行き、藤田研吾の指示に従い、『曙橋慕情』の舞台装置を杉山良介や下田次郎たちと一緒に、2台のトラックに積み込みを行った。そして7月の時と同様、藤田研吾が1号車を運転し、信平が2号車の運転をした。1号車の助手席には杉山良介、2号車の助手席に下田次郎が乗り、十条の劇場『オリオン座』に向かった。信平は十条という所が、何処にあるのか分からないので、1号車を見失わぬよう、1号車を追って運転した。助手席に下田がいるので心強かった。下北沢を出発して、新代田に向かい、環七通りに出てから、大原、方南町、高円寺、野方、新桜台と荷物満載のトラックを走らせた。板橋本町を過ぎて、少し進んだ所で右折し、上十条にある『オリオン座』に到着した。その劇場は十条銀座商店街の奥にあり、劇場通りの演芸場に対抗して、最近、オープンした劇場で、とても明るい雰囲気だった。劇場前には電車に乗って劇場にやって来た川口昌幸、五味克彦、石川芳夫、丸茂隆史たち男性陣や高木桃香、斉田美穂、平原由美たち女性陣が、既に到着していて、劇場主の寺本和弘社長と一緒に、トラックの到着を待っていた。

「お待たせ」

 藤田研吾が1号車から降りて仲間に声をかけた。信平も下田次郎と一緒に2号車から降りて仲間や、『オリオン座』の寺本社長や従業員に挨拶した。それから皆と一緒にトラックから舞台装置や小物を降ろし、劇場の裏口から、劇場内へ運び込んだ。劇場の広さは、それ程、大きくなく、舞台は新宿のシアターとほぼ同程度だったが、客席が200席ほどだった。舞台装置の運び込みが終わると、第1場から第6場までのセット確認を行った。あらかじめ藤田研吾が現場確認に来ていて、舞台装置を『オリオン座』用に修正していたので、手直しする箇所は無かった。その確認が終わると、寺本社長が準備してくれていた幕の内弁当を、皆でいただいた。観客席に座り、幕の内弁当を食べながら、目の前の舞台で演じる自分の姿を、それぞれが想像した。昼食後、寺本社長と集合時刻や更衣室などの打ち合わせをして、午後2時に解散となった。信平たちは『オリオン座』の寺本社長と従業員や電車に乗って帰る仲間と劇場の裏口で別れた。藤田研吾が運転する1号車の助手席には下田次郎が電車で帰ると言うので、入れ替わりに五味克彦が乗り、2台のトラックは朝来た道を『藤田巧芸』に向かってスタートした。

「意外に狭い劇場なので、臨場感を出せるかもな」

「うん。浜田監督の意図するところが分かったような気がする」

 明日からの公演状況について下田と喋りながら、1号車を追って行くと、朝より短時間で、『藤田巧芸』に到着した。車庫に2台のトラックを格納し、シャッターを下ろすと、藤田先輩が、前回と同様、飲みに行こうと、3人を誘った。信平たちは直ぐに了解した。3人とも、そのつもりでいたみたいなので、藤田は、それが嬉しかった。藤田にとって、若者たちに好かれていることが喜びであった。4人は『藤田巧芸』で一休みして夕方、『鈴なり横丁』の居酒屋へ出かけた。居酒屋の暖簾を潜ると、秋元マスターが何時ものように4人を迎えた。

「いらっしゃい。今日は早いですね」

「明日、明後日と十条で講演する準備をして来たんだ。それで今日は稽古が休みななり、軽くひっかけに来たって訳さ」

「そうですか」

「まずビールを」

 藤田先輩がビールを註文した。すると秋元マスターは付き出しやお箸をカウンター席に並べ、ビールの準備をしながら、心配そうに尋ねた。

「明日から公演だというのに、飲んだりして大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ。『曙橋慕情』の再演だから。耳にタコが出来るくらい、皆、稽古しているから。それに、客席もそんなに多くないから」

「そうですか。あの『曙橋慕情』の再演ですか。評判良かったですからね」

 秋元マスターと、そんなやり取りをしてから、皆でビールを飲み、続いて日本酒を飲んだ。早朝から運転したり、舞台装置をセットしたりして、疲れているのか、酔いの回りが早かった。明日の事もあるので4人は8時に解散した。

 翌11月26日の土曜日、午前8時に信平たちは十条駅に集合して、十条銀座商店街を通り抜け。『オリオン座』に行った。全員が集合したところで昨日会った寺本社長が従業員たちを紹介し、二日間の公演に期待していると挨拶した。その後、浜田監督が、午前中、本番前のリハーサルを一度、行うと話して、本番の舞台セットの前で、『オリオン座』の寺本社長や従業員に『曙橋慕情』の演技を観てもらった。その演技を観て、寺本社長はじめ、従業員たちは感激し、拍手喝采した。このことにより、緊張していた劇団員の気持ちがほぐれ、支給された幕の内弁当を美味しく頬ばった。そして午後1時から昼の部が始まった。開演の口上は『オリオン座』の司会者が行い、幕が上がった。1場から3場までの第一幕は、沢山の命が奪われた太平洋戦争が日本国の敗戦で終わり、人々が暗い影を落とし、観客が顔をしかめる程、日本の過去に大変な時代があったのだと想起させた。それから後半、平原由美が演じる妹、和子が『とんとんとんからりんと隣組』の歌を清らかに澄んだ声で明るく唄ったりして、風向きが一挙に変わり、父親が帰国し、物語が動き出し、面白さを湧き上がらせた。公演側はそこで第一幕を下ろし、観客に第二幕に期待を抱かせた。その幕間の休憩時間に入った時、信平は観客の表情を見て、自分たちが観客を物語世界に完全に没入させていると感じた。15分程の休憩であるが第二幕が上がる時には、観客全員が、席に付き、今か今かと目を輝かせ待っているのを目にした。十条のお客様との一期一会と浜田監督が言っていたのが分かった。これは原作者、丸山伸之先生と浜田監督によって仕組まれた演出そのものだ。自分たちは、この十条の劇場に集まった人たちと精神的一体感を得る為に、こうして公演に望んでいるのだ。午後2時45分、第二幕の幕が上がった。第一幕で暗い気持から明るい気持にされたというのに、開幕した4場の情景は観客の期待を全く裏切る暗くて寒い神社前だ。第一幕で、あんなに清らかに澄んだ歌声が流れた神社前なのに、雪が降っている。降る雪の中を裸足で、お百度参りをする主人公、節子が、戦地から早く恋人を戻して欲しいと神様にお願いして、雪の中で倒れてしまう悲劇からのスタートだった。更に5場では、遺骨を持った軍服姿の男が現れ、畳屋を尋ね、悲しみが増し、涙を誘った。その悲しみの最中、また乞食同様の軍服姿の男が現れドロボーだと警察官に追われてすってんころり。警察官に捕らえられた男は何と、節子の恋人、竜也であると判明。ドラマは、ここでまたもや逆転。最終6場となる。この場面は出征前に将来を約束した二人の結婚式及び披露宴。妹、和子の澄んだ歌声が舞台に流れると、観客も、彼女の誘いに乗って、『リンゴの歌』を合唱。十条のお客様と一体になって拍手の共演。信平は、その舞台と観客が一体になった様子を目の当たりにして、これが芝居だと思った。自分たちが演じる演技に刺激を受け、感動したてくれた人たちが一緒になって興奮し、劇場全体が『曙橋慕情』の舞台になってしまったことに、目を見張った。ここでの演劇は自分たち劇団員たちだけでやっているものでは無かった。それは劇団員たちと娯楽を求める一般大衆とが入り混じって踊り狂う、沸騰の祭だった。そんな舞台、昼の部は惜しまれつつ、時間通りに幕を下ろした。昼の部が終わると客席にいた人たちは興奮したまま立ち上がり、ガヤガヤと退場して行った。それから信平たちは控室に戻り、一休みした。夜の部は夕方5時半から始まった。夜の部なのに、子供たちが家族と一緒に来ているなどして、劇場は満員だった。十条の人たちは何と芝居好きなのであろう。夜遅くまで。『演劇広場』の公演を観てくれた。27日の日曜日も同じだった。全ての段取りがスムースに進行した。夜の9時半近くに最終公演が終わると、泣いたり笑ったりした観客は、それぞれ感想などをしゃべりながら退場して行った。

「いい芝居だったな」

 そんなことを言いながら、満足した顔で、家路につく人たちを見送る喜びは、信平たち劇団員に疲れを忘れさせてくれた。その最中、青木洋子の具合が悪くなり、彼女は病院に運ばれた。二日間の舞台の疲れが、ドッと出たのであろう。

 翌、月曜日、『演劇広場』のメンバーで、日常の勤務に支障のない人は舞台装置や舞台道具の片付けに十条の『オリオン座』に出かけた。信平は朝8時に『藤田巧芸』に行き、藤田研吾の指示するトラックに乗り、『オリオン座』に行った。藤田監督や遠藤団長も来ていて、寺本社長と興行結果などについて意見を交わしていた。信平は仲間や『オリオン座』の従業員たちが運んで来る道具を藤田先輩の指示に従い、下田次郎と一緒に、自分の運転する2号車に載せた。全ての積み込みが済むと藤田研吾と共に寺本社長や浜田監督、遠藤団長に挨拶し、『オリオン座』の裏口からトラックを出発させた。1号車の助手席に杉山良介、2号車の助手席に下田次郎を乗せて、2台のトラックは環七通りを走って『藤田巧芸』に向かった。トラックを運転する信平に下田が言った。

「あっという間に、二日間の公演が終わったけど、『オリオン座』のような大衆劇場での演劇も、お客一人一人と心が触れ合って、気分良かったな」

「うん。あの舞台に立つと、お客さんが他人じゃあないような感覚になるから不思議だ。客席が近くて、同じ空間いる気分だった」

「今回の公演によって『演劇広場』を応援してくれる客層が増えそうな気がするよな」

「そうだな」

 信平は話しかけて来る下田に返答しながら、藤田研吾の運転するトラックの後を追って、信号に注意して、トラックを走らせた。そして『藤田工芸』に辿り着くと、ほっとした。藤田先輩も同様だった。取り敢えずトラックを車庫に入れて、昼飯を食べる事にした。四人は五味克彦が働くラーメン屋『十勝ラーメン』に向かった。自動ドアの前に立ち、店に入ると五味がびっくりした顔をした。

「いらっしゃい。片付けじゃあなかったのですか?」

「うん。早く終わったんだ」

「片付け終えてから五味ちゃんの顔を見たくて、ラーメン食べに来たよ」

「お疲れ様でした」

 舞台の片付け作業に参加出来なかった五味は、済まなそうな顔をして頭を下げた。それを見ていた、『十勝ラーメン』の主人は、とっさに皆に註文を訊いた。

「何にしますか?」

「勿論、十勝ラーメン」

「あいよっ。こいつが手伝えなかった分、ギョーザと味付け玉子をサービスしますよ」

 ラーメン屋の主人は笑顔で四人の注文を確認すると、サービスとしてギョーザと味付け玉子を出してくれた。重労働をして来た所為か、四人とも夢中になって十勝ラーメンをいただいた。満腹になったところで、藤田先輩が主人に言った。

「ご馳走様。美味しかったよ」

「ありがとう御座います」

「忘れられない良い味だよ」

 それを聞いて、店の女将も喜んで、藤田先輩からラーメン代を受け取った。藤田先輩は、その後、五味に念押しした。

「ご馳走さん。夕方の打上げで、また会おう」

「はい」

「大将、ご馳走さんでした」

 信平たちは藤田先輩と一緒に、ラーメン屋の主人に礼を言って、店を出た。それから再び『藤田巧芸』に行き、トラックから舞台装置の重い物だけを降ろして、藤田先輩と別れた。夕方の打上げの飲み会まで、時間があったので、信平は下田次郎、杉山良介と喫茶店『邪宗門』に行って、コーヒーを飲みながら雑談した。下田が言った。

「帰りのトラックの中で、信ちゃんと話したんだけど、『オリオン座』の公演、大成功だったよな。お客が燃え上がっちゃって、良ちゃん、気持ち良かったんじゃあないの」

「7月の初演から時間が経っての再演が、どうなるのか心配だったけど、お客さんの弾けっぷりが、普通でなかったので、びっくりしたよ」

「そうだよな」

「演出も台本も変わっていないのに、お客さんの反応が、新宿シアターでの初演に比べて遥かに大きかったのは、多分、十条のお客さんの芝居への敬愛心が深いからでだよ。その分、僕も爽快な気分になり、役者って良いなと思ったよ。演劇と芝居の差って、こういうことかと知ったよ」

 それは、そうだろう。杉山良介の役は、乞食のように薄汚れた軍服姿の男が、突然、主人公の恋人として、キラ星に変わって輝くのだから、爽快な気分になるのは当然だろう。信平は、自分も何時かは杉山のような役を演じてみたいと思ったが、そんなチャンスが何時、来るか予想出来なかった。信平も意見を述べた。

「今回、十条で再演するにあたって、浜田監督が十条のお客さんとの一期一会の演技をするのだと意気込んでいたのが、公演を終えてから、何となく理解出来た気がする。同じ作品なのに、『オリオン座』の舞台は明らかに俺たちを沸騰させ、臨場感を溢れさせるのに、広さといい、客層と言い、設備と言い、三拍子そろっていて、演じていて作品に磨きがかかった印象を味わうことが出来たよ」

「うん。覗き、覗かれるストリップ劇場のお客さんとダンサーの息が、ぴったり合った雰囲気と似ているな」

「下ちゃんは、これだから困る。僕たちの演劇は、もっと高度で洗練されたものだよ」

 杉山に注意され、下田は頭をかいた。3人の話はとどまることが無かった。あっという間に夕方になっていた。

 『邪宗門』にいた信平たちが、慌てて『演劇広場』に行くと、白石優子、細村慶子、青木洋子たちが、打上げの飲み会の準備をして、浜田監督や遠藤団長が現れるのを待っていた。女性陣に指示され、信平たちは稽古場に準備された席に座り、雑談を始めた。しばらくすると、浜田監督と遠藤団長が現れ、総勢30名程での飲み会が始まった。司会は、この前と同じ、桜井俊明が務め、まず遠藤団長が挨拶した。

「皆さん。二日間、4回の公演、お疲れ様でした。7月の10周年記念公演で好評を博した『曙橋慕情』は、十条の『オリオン座』で再演され、『オリオン座』の寺本社長はじめ、十条のお客様に不安と絶望の中で生きる人たちの喜怒哀楽、人間模様を十分に味合わせ、感動の連続であったと称賛されました。舞台とお客様が共鳴し、拍手が鳴り止みませんでした。今回の公演を行い、改めて演劇の魅力を痛感しました。この成功は『オリオン座』での公演を、お引き受け下さった浜田監督と再演の為に演技を高めた皆さんの研鑽によるものと、心より感謝申し上げます。今年の『演劇広場』の活動は、これで終了となります。次回作は目下、丸山先生が創作中であり、更により良き公演が実現できるよう、来年も皆で頑張りましょう。二日間と今日の作業、本当にお疲れ様でした」

 それから浜田監督が乾杯の音頭の前に喋った。

「まずは十条『オリオン座』の公演、ご苦労様でした。私はもともと一度、終えた作品の再演はしないことにしていましたが、あの『オリオン座』の寺本社長に口説かれ、オッケーしました。初演の素晴らしさが再演により色褪せてしまうのではないかと、実のところ不安でした。ところが、あの十条のお客様は、舞台の幕が開くや、大本営からの放送に耳を傾け、皆さんの演技に夢中になり、物語が進むにつれて、テンションが高まり、実に熱狂的でした。それに反応して、皆さんの高揚感も想像以上に高まり、演じる側の呼吸とお客さんの呼吸が一緒になり、期待した以上に素晴らしい演劇を、十条のお客さんにお見せることが出来ました。寺本社長によれば、二日間、満席大入りの大人気だったとのことです。皆さんには私が期待した通りのお客様と一体化した演技を、うまく引き出していただき、感謝でいっぱいです。この成功の喜びを祝って、乾杯しましょう。では、乾杯!」

「乾杯!」

 7月の打上げの飲み会の時も、浜田監督が乾杯したが、浜田監督は、あの時、以上に嬉しそうだった。乾杯が済むと、酒やビールやジュースを飲みながら、女性陣が準備してくれた料理を食べ、『オリオン座』での公演が信じられない程、熱狂的に盛り上がったことを皆で喜び合った。信平は五味克彦や下田次郎と一緒に、浜田監督をはじめ遠藤団長、三宅英治たち先輩に、酒を注いで回った。先輩たちは、それぞれ、今回の公演が盛況だったことについてのウンチクを語り、自分の実力を誇示しようと多弁だった。その熱を帯びた喜び様は、信平との親密さを深めた。その打上げの飲み会は、8時過ぎに杉山良介の三本締めで終了した。そこでまた遠藤団長が、全員に伝えた。

「本年度の『演劇広場』の行事は、本日をもって終了し、新しい作品の稽古は、1月になってから始めます。稽古開始日は、後日、連絡します。また今まで行っていた忘年会は、東日本大震災の被災地の事を考え、自粛し、行いませんので、了解願います。では解散します」

 忘年会の中止の件は、あらかじめ知らされていた人たちもいて、別段、問題にならなかった。浜田監督や遠藤団長、桜井俊明たち古株は、これから新宿に行って飲むとのことであったが、信平たち若者は地元のスナック『千草』に行った。『千草』には『鈴なり横丁』で時々、出会う望月満男が飲んでいて、信平たち若者の出現に喜びの声を上げた。

「待ってました」

「いらっしゃいませ」

 それに合わせ、福島園子ママが、横山雪乃、中野真弓たちと一緒に、信平たちを迎えた。初めて出会った杉山良介や下田次郎、丸茂隆史にホステスたちが名刺を差し出した。若者の参加により、不景気な『千草』の中は、活気を帯び、明るくなり、抱腹する程の笑い声と歓喜に満ち溢れた。


      * ひまわりの道③に続く



 







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