狐火の夜
長かった夏の日がようやく暮れた。
この暑さで家に引きこもっていた人々も、夕風に誘われて姿を見せ始める。
今日は神社の縁日。
夜店が並ぶ境内を、浴衣姿で悠介と歩いた。
今夜誘ってきたのは悠介で、彼女と出かけるはずだったのがキャンセルになったらしい。
「せっかくだから浴衣で行こう」
亮太にそう提案したのも悠介だった。
「浴衣で?」
「俺も着るから、亮太も着てこいよ」
正直、ちょっと面倒だったが、「まあ、いいけど」と了承した。
縁日の人波は途切れることがなく、広くはない参道を川のように流れていた。
木々の枝には提灯が吊るされている。
提灯はぼんやりと杏色の灯をともし、本殿へと続いていた。
参道を歩いていると、出店の熱気や人いきれで、首すじがじわりと汗ばんできた。
涼しそうに見える浴衣だけれど、暑いときは暑いんだなと、悠介の隣で亮太は思った。
手に持ったうちわも、人混みの中では思うように扇げない。
悠介を見ると、手ぶらの悠介は腕組みをして前を向いている。
ゆったりと着付けた襟から、肌が少しのぞいていた。
碧みがかった薄いグレーの生地が、悠介によく似合っていた。
「けど、悠介もパッとしないね。浴衣デートの相手が俺なんて」
わざと笑いながら言うと、悠介も軽く笑い返した。
「悪かったな、パッとしないやつが相手で」
「彼女、来られればよかったのにね」
悠介は腕組みをしたまま、曖昧に「うん」と返事とした。
「せっかくのお祭りなのに、断られて残念だったね」
すると今度は、なにやら言葉を濁したあと、「断られたんじゃなくて、はじめから誘わなかった」と悠介は言った。
「え、誘ってないの?」
亮太がたずねると、悠介は「うん、まあ」と頷いた。
「なんで誘わなかったの。誘うでしょ、普通。それで、なんで俺なの」
「向こうも忙しいんだよ、色々」
「俺だって暇なわけじゃないんだけど」
「もう、いーじゃん。友達だろ。たこ焼き奢るから付き合え」
「いいけどね、べつに……でも俺と行くのにわざわざ浴衣まで着るって、確実に力の入れ方間違えてるよ」
――友達だから。
浴衣で行こうと誘われて、亮太にとって断る理由もない代わりに、意味もない気がした。
かき氷の屋台では、日焼けした若者が威勢よく氷をかいている。
色とりどりの原色のシロップが目にも鮮やかだった。
「実際あんまりよくないよ、悠介。彼女かわいそうじゃん」
「大きなお世話です。おまえに心配されなくても、ここぞってときは決めるよ」
「どうだろな。その『ここぞってとき』が来ずじまいで終わらないように気をつけなよ」
「うるさいなあ、もう……あ、亮太、お面だ!」
話題を変えるように、悠介がお面の屋台を指差した。
悠介が亮太の背に手を添え、二人で人の流れを横切って屋台へと向かった。
「亮太、ドキンちゃんあるよ。似てるじゃん、買えば?」
「いらないし、似てないよ」
「あ、メロンパンナちゃんもある!」
ずらりと並んだお面にいちいち反応して、悠介は楽しそうに笑った。
これ買えば? なんて、彼女のことも、そうやってからかったりするのだろうか。
「ねえ亮太、俺はどれが似合うと思う?」
お面を眺めながら悠介が言った。
悠介の好きなキャラクターなども売られていたけれど、最上段にあった白い狐が亮太の目にとまった。
提灯や夜店の電灯に照らされて、狐の面は濃紺の空を背に、亮太を見下ろしていた。
「あれは?」
亮太が指で示すと、悠介は亮太と目線を合わせようと顔を近づけた。
「どれ?」
悠介の髪からシャンプーの匂いが香った。
「あの狐とかいいんじゃない?」
店番の男性に言って、狐のお面を取ってもらった。
値段を言われた悠介は、一瞬「たかっ」と呟いて怯んでいた。
それでも結局、うれしそうにお金を払った。
悠介はお面を顔には被らずに、頭に斜め掛けにしてゴムを留めた。
お面の屋台を離れ、再び人の流れにのった。
「高かったね」
歩きながら悠介にそう言っても、悠介は満足そうに答えた。
「けど気分盛り上がんじゃん。いかにもお祭りって感じで」
「まあ、それはそうかも」
「だろ?」
「明日になって後悔しない?」
「しないね」
狐の面を粋につけ、祭りの夜を歩く悠介は、悔しいけれど絵になっていた。
けれど、どれだけ惹かれても見とれても、決して自分のものになるわけではない。
「亮太もドキンちゃん買えばよかったのに」
「なんでドキンちゃんなんだよ」
「うーん……かわいいから」
参道脇の木に目をやると、梢の向こうに細い三日月が懸かっていた。
暗幕を裂いたような月は鋭利に尖り、触ると痛そうで、今にも折れそうで心配だった。
参道もまた右に折れ、左に折れ、やがて神社の本殿が目の前にひらけた。
「亮太、うちわ。拝むのに邪魔だろ。帯に差しとけ」
悠介が言って、亮太のうちわを帯のうしろに差し込んでくれた。
悠介の手の動きが浴衣越しに伝わる。
この手が彼女のことも触るんだとしたら、そんな手は切り落としてしまおうか――などという物騒なことは、もちろん思っていない。
「はい、できた」
「ありがとう」と振り向くと、悠介もこちらを見ていた。
拝殿の前に悠介と立ち、賽銭を投じ、かしわ手を打って拝礼をする。
健康や仕事のことなどを祈って目をあけると、ちょうど悠介も顔を上げたところだった。
悠介は何を願ったのかなと少し思ったけれど、たずねるわけでもなく、そのまま拝殿をあとにした。
歩いてきた参道とは別の道が、拝殿の左に伸びていた。
手水舎の前を過ぎ、なんとなくそちらのほうに行ってみる。
足元は舗装もされておらず、百年の昔から踏み固められた地道のままだ。
道の入り口に清涼飲料の自動販売機が数台、蛍光灯を光らせて売店の横に立っている。
売店は、祭りの夜だというのに、あっさり閉店していた。
店の前に置かれた縁台で、地元の老人らしき二人が腰掛け、たばこを吹かして談笑していた。
こちらの方には夜店もないようで、灯りも少なく、人通りもなかった。
どこに続いているのかわからない道を、しばらくのあいだ歩いた。
「悠介、こっちはもう夜店ないよ」
「そうだな」
「約束のたこ焼きは?」
「じゃあ戻るか」
そう言って二人で向きを変えようとしたとき、道の先に、小さな赤い火の群れが見えた気がした。
「待って、悠介」
悠介の袂を握り、立ち止まった。
暗がりの中、それらは狐火のように点々と、夏の宵に浮かんでいた。
「ほおずきだ」
久しぶりに見るその植物が懐かしく、亮太が早足で近づいてゆくと、石粒を踏んで下駄が鳴った。
火のような実をいくつもならせ、道端にほおずきが自生していた。
子どもの頃、家の近くの畑や墓地でも、夏になるとこうしてほおずきを目にしたのを思い出す。
ほおずきに手を触れて眺めていたら、あとから悠介も追いついた。
悠介は亮太の隣に立つと、自分もまた手を伸ばし、果実を内包する赤い袋をそっと触った。
浴衣の袖から出ている悠介の腕。
優しくほおずきに触れる手。
それを見ていたら、悠介がこちらを向いて微笑んだ。
悠介は、袋の感触を楽しむように、順に手のひらにのせてみていた。
赤い袋はそのたび、魔法のように悠介の手から生まれるように見えた。
狐の面をつけた悠介に、亮太は思った。
――まるで、本物の狐火だ。
心許ない三日月の晩、白い狐は一体なぜ、こんなにいくつも火を焚くのだろうか。
誰かを惑わすように、いくつも。
「行こうか、悠介。たこ焼き食べたい」
来た道を引き返そうと、一歩踏み出す。
そして悠介のうしろを過ぎようとしたとき、不意に悠介から腕を掴まれた。
浴衣越しに、悠介の手の形が肌に伝わる。
「どしたの?」
急になんだと思ってたずねると、悠介の顔が近づいてきた。
唇が触れたとき、奇妙なくらい、冷静だった。
折れそうな月は空に懸かり、ほおずきの実は薄ぼんやりと暗がりで宙に浮いていた。
ほおずきは鬼の灯とも書く。
これは鬼が見せてる悪夢なのかな。
それともやはり、狐が化かしているのかな。
そんなことを思ったりした。
――どっちにしたって幻なら、いっそ抱きしめてでもくれたらいいのに。
悠介の舌が入ってきた。
狐火に目がくらみ、足元が揺れた気がした。